奈良時代(ならじだい)、ある美(うつく)しい娘(むすめ)が恋(こい)に落(お)ち、生(うま)れたのが満功上人(まんくうしょうにん)です。
 この満功上人(まんくうしょうにん)が深大寺(じんだいじ)を開山(かいざん)しました。
 深大寺(じんだいじ)は今(いま)、縁結(えんむす)びの神様(かみさま)として親(した)しまれています。

「地球まであと一循環(サークル)。すべて順調です」
 経過観察調査員のサルス・F・ベリは目を覚ました。

 量子計算機のジーチ(JCN)が、予定通りの時間に冷凍睡眠から俺を起してくれたようだ。

 一循環とは、地球の時間にして約七十五時間をあらわす単位。彼らの星は連星になっており、その星がお互い一回りするのにかかる時間である。
 彼らはこの時間を三つに分けて、一循環に三回寝起きをする。地球でいう三日を一循環にまとめて生活している。
 太陽が不規則に顔を出すこの星では、光でなく連星の影を感じて二十五時間の体内時計が働いている。

 一万循環に一回、我々は地球に経過観察調査員を送っている。
 地球時間でいえば約八十五年に一回の割合だ。今回が、百九十回目の経過観察調査(190調査)となる。
 188調査では「惑星全域交流レベル」までしか進んでいなかった地球文明が、前回の189調査で「飛行可能レベル」まで文明が進んだと報告された。現在は「大気圏突破レベル」まで文明が進んでいる可能性が高い。
 不安定な核融合エネルギーを使い、自らの力で自らを滅ぼす危険がある、文明進化の最も危険な時期にさしかかっているというわけだ。
 光子変換エネルギーを実用化して、「星系突破レベル」まで文明が進み、我々が正式なコンタクトを申し込むのは、次の191調査の後という事になりそうだ。その頃には、地球の知的生命体も我々と同じように、今の十倍くらい寿命が延びているであろうか。
 無論、それまで地球の知的生命体が自滅しなければ、であるが。

 地球は175調査の時に起こったある事件によって、誰も行きたがらない調査対象惑星となったいわくつきの星だ。
 その星に、文明レベルの中で最も危険な「大気圏突破レベル」の文明期に行きたい調査員などいない。
 だから、通常三人で行われる調査が、今回は特例として俺一人になった。

 俺が地球調査に名乗りを上げたとき、同僚たちはみな驚きの声を上げた。
 特別ボーナスがそんなに欲しいのかと嫌味を言われ、あるやつには物好きだなと笑われもした。
 お前の勇気は尊敬するが、頼むから無事帰ってこいよ、と本気で心配してくれるやつもいた。

 しかし、そんな忠告には意味がない。俺が今回この星に行く理由。それは、一人でこの星を調査できるからだ。

 俺は、175調査の時に起こった事件の真相を、ずっと追い求めてきた。フークマという上級調査員の失踪事件がなぜ起きたのか。
 通常の三人チームで行けば、勝手にこの「フークマの謎」を調べる事などできない。一人で行けるからこそ、この星へ行く意味があるのだ。
 だから、八十五年前の189調査にも応募せずに、その調査結果を精査するに留めた。今まで行われた調査結果は、すべて頭に入っている。特に、問題の175調査の結果は、暗記するほど検証している。


「ライラ、フークマは見つかったか?」
 175調査隊長カイマはライラ調査員に声をかけた。
「だめ、何の手掛かりもないわ」
「そうか、あいつはこの座標4282―182周辺にはもういないのか。どこに消えちまったのだ、まったく」
 カイマは一瞬考え、ライラに言った。
「とりあえず船に戻ろう」
 二人は、雑木林が広がる丘の上に浮遊している船に戻り、船の中を再び調べる事にした。船には、フークマの探査スーツや通信装置などが残されていた。
「あいつは何で、探査スーツを置いて外に出たのだ」
 隊長のカイマは、ライラに苛立ちをぶつけるように聞いた。
「この星の高知能生命体は我々とDNA的に非常に近いから、探査スーツを着て姿を消さなくても、不審に思われる事はないと思うけど」
 ライラは、カイマを見ずにそう答えた。
「だからって、現地知的生命体に姿を見せるのは観察規則違反だぞ。そのうえ武器カプセルも持たず、持って出たカプセルは言語補助と医療補助、後は浮遊装置の三つが入った箱だけだ」
 カイマには理解できない事だらけだ。
 ライラとカイマが船外調査を行い船に戻ってくると、船内待機しているはずのフークマは姿を消していた。
「ジーチ、フークマは外に出る前、ただその湧水のあたりを映しているモニターを見ていただけなのだな。」
 船の量子計算機に向かい、カイマは問いかけた。
「間違いありません」
 量子計算機の答えは、常に簡潔である。


 銀河系の端にある、地球という辺鄙な星を有名にしたのは、175調査のとき、調査員が一人行方不明になったからだ。
 その上級調査員だった男の名から、その失踪事件は、「フークマの謎」と言われている。

 地球時間の千三百年前に行方不明になった、俺の「じいさん」にあたるフークマ失踪の理由を知ることが、190経過観察調査の本当の目的だ。
 俺がフークマの孫だって事はずっと秘密にしてきた。
 俺の母親が生まれる前に消えた男フークマ。
 「ばあさん」は、自分の生んだ子がフークマの子供だとは誰にも言わずに娘を育てた。父親のフークマ自身も、その事を知ることなく姿を消した。
 「ばあさん」は俺にだけ、その秘密を教えてくれたのだ。
 
 事故でもなく、最優秀の調査員が煙のように姿を消した。調査員の間では伝説となっている謎だ。
 「地球人と話をする、ケガを治す、空を飛ぶ」この三つの事ができるカプセルを持ってフークマは姿を消した。
 この謎は俺が解いてみせる。
 「ばあさん」は「じいさん」の謎を解けるのは俺しかいないと信じて、教えてくれたんだからな。
 いなくなった「じいさん」に、お前が一番似ていると言って笑っていた「ばあさん」の願い、俺が叶えてみせるぜ。

 今から約六百年前の183調査の報告によると、その時フークマ達の船が停船した丘は深大寺城という城になっている。
 とりあえず、その城の近くに船を隠して調査をする事にしよう。
「ジーチ、地球座標4282―182へ向かってくれ」
 サルス・F・ベリは量子計算機に指示を出すと,「フークマの謎」に思いをめぐらせた。

 福満(ふくまん)とある豪族(ごうぞく)の美(うつく)しい娘(むすめ)が恋(こい)に落(お)ちました。
 娘(むすめ)が、湧水(わきみず)を汲(く)むとき足(あし)を滑(すべ)らせ大(おお)ケガをしたところを助(たす)けてくれたのが、医者(いしゃ)の福満(ふくまん)でした。
 娘(むすめ)の両親(りょうしん)は、どこの馬(うま)の骨(ほね)ともわからない渡来人(とらいじん)の福満(ふくまん)には娘(むすめ)をやれないと、二人(ふたり)の仲(なか)はさかれました。
 娘(むすめ)は湖(みずうみ)の小島(こじま)に連(つ)れて行(い)かれ、二人(ふたり)は会(あ)う事(こと)ができなくなってしまいました。 しかし、福満(ふくまん)は霊亀(れいき)の背(せ)に乗(の)り、島(しま)へ渡(わた)りました。 
その事(こと)を知(し)った娘(むすめ)の両親(りょうしん)は、福(ふく)満(まん)の不思議(ふしぎ)な力(ちから)に驚(おどろ)き、これはきっと深沙大王(じんじゃだいおう)さまのご加護(かご)だと、二人(ふたり)の結婚(けっこん)を認(みと)めました。
 深大寺(じんだいじ)を開山(かいざん)した満功上人(まんくうしょうにん)は、この二人(ふたり)の息子(むすこ)です。

 

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<著者紹介>
大澤 信明(東京都世田谷区)

「もりそば二丁!」
「かけ大盛り、ざる一杯、入ります」
僕はひたすら、蕎麦を湯に入れる。、蕎麦のストックもなくなってきた。隣の作業場で親方が打った蕎麦を調理場に移す。只今、木曜日の午後十二時十五分。深大寺の参拝客が昼食にやってくる佳境の時間。息つく暇もなく、蕎麦を湯に入れ、茹で上がったものを次々と食器に盛っていく。
「もりそば、お願いします!」
店にいるおかみさんに僕が声をかけると、もりそばを両手に抱えながら、
「ごめん。テラス席の食器、片付けに行ってくれる?私、ちょっと手が回らないのよ。」
おかみさんもてんてこ舞いだ。僕は調理場から出て、テラス席のテーブルを片付けていた。
「あの、すみません。ここいいですか?」
後ろから声が聞こえた。
「どうぞ。今、片付けます。」
そう言って僕が振り返ると、若い女性が立っていた。長い黒髪をきちっと束ね、色白で小顔な細身の女性。僕はその女性の凜とした美しさにしばし我を忘れたが、次の瞬間、何もなかったかのように、彼女が座るテーブルを片付けた。
「今、お水とメニュー、お持ちします。」
「メニューは結構です。もりそば、いただけますか?」
「承知しました。冷たいお水、今、持ってきます。」
僕は店に戻り、彼女の水をコップに入れる。普段の接客と同じことをしているはずなのに、なぜかどきどきする。僕はグラスの水を彼女のテーブルに運び、調理場に戻った。次々入ってくる注文のことは上の空。気がつくと、僕はデッキ席の彼女を眺めていた。
 只今午後二時三十分。蕎麦屋の嵐のようなランチタイムが終わり、休憩に入るのはいつもこの時間。僕は、深大寺の境内のベンチに座り、缶コーヒーを一口飲むと、広く多い茂った緑を眺め、大きく息を吸った。ここにくると、心が穏やかになり、自然と活力が蘇る。僕のいつもの休憩タイム。そのとき、少し離れた隣のベンチに、誰かが座る気配を感じた。さっき、蕎麦屋のデッキ席でもりそばを食べていた女性、凜とした美しさに僕が一瞬心を奪われたあの女性が、隣のベンチに座っていた。僕は勇気を振り絞って声をかけた。
「先ほどは、どうも」
彼女は一瞬、ぽかんとして僕を見ていたが、
「あ、さっきのお蕎麦屋さん?こちらこそ、ごちそうさまでした。もりそば、美味しかったです。」
彼女は笑顔で答えてくれた。
「今まで拝観ですか?」
「いえ、写経教室です」
シャキョウ?僕は意外なワードに一瞬、面食らった。
「写経だなんて、渋いですよね。でも、はじめてみたら、すごくはまっちゃって。お経の文字をただ書いていくだけなんですけど、癒されるというか、落ち着くというか。」
彼女は笑って言った。
「じゃあ、僕が毎日ここでこうやってぼーっとしているのと、同じようなものですね。」
僕は笑い返した。
「僕はここに来ると落ち着くんです。田舎を思い出します」
「田舎?」
「長野です。戸隠っていう蕎麦の産地で、僕の実家、蕎麦の実を作ってるんです」
僕は聞かれてもいないのに、無意識のうちに自分のことを話していた。
「長野は、空気も水もきれいです。だから、美味しいそばが獲れるんです。実家の蕎麦もうまいんですよ。あの蕎麦屋に実家の蕎麦を入れさせてもらっていて、そのツテで、僕は三年前からあの店で蕎麦の修行を。」
「素敵ですね。きっと立派な蕎麦職人になられますよ。」
そう話す彼女の横顔は、凜として、優しくて、美しい。
「そろそろ行かなくちゃ。」
彼女の声でふと我に返る。彼女とは、こんな風に偶然に会うことなど、もうないかもしれない。
「写経教室にはしょっちゅう来られているんですか?」
僕は冷静を装いながら、次、彼女と会う機会を探る。
「ええ。写経教室は毎週木曜、やっているんです。私もしばらく通ってみようかなって。」
「だったら、また、うちの蕎麦、食べにきてください。」
僕は必死だ。
「もちろん。あのお蕎麦、本当に美味しかったですもの。また伺います。」
彼女は微笑んで、去っていった。
 僕は、その後ずっと、あのときの彼女の横顔が忘れられなかった。正確に言うと、どんな顔立ちだったのかはぼんやりとしか覚えていない。ただ、あの凜とした美しさは僕に強烈なインパクトを残しており、気がつくと、そんな彼女の面影を自分の心に刻もうとしているのだ。
「最近、なんだかぼーっとしているね。好きな女の子でもできたのかい?」
蕎麦屋のおかみさんにも冷やかされっぱなしだ。僕は、写経教室があるという次の木曜日が待ちきれなかった。彼女にもう一度会いたい。名前も、歳も、どこに住んでいるのか、何をやっているのかも知らない彼女に。しかし、次の木曜日も、その次の木曜日も、彼女は僕の前に現れなかった。
 彼女と初めて会ったあの日以来、もう1ヶ月近くが過ぎようとしている。最近の僕は、すっかりあきらめモードだ。そんなある日の正午すぎ、蕎麦屋はいつものとおり、お客さんでごったがえしていた。
「ごめん。デッキのテーブル、片付けてきておくれ」
おかみさんに言われ、彼女が初めて店に来たときと同じように、僕はテーブルを拭いていた。
「すみません。ここ、いいですか?」
僕の背中越しに、かすかに覚えのある声が聞こえる。振り返ると、そこには、凜とした美しい彼女がいた。
「あの、ここ、いいですか?」
呆然として何も返事をしない僕に、彼女はもう一度、そう言った。
「あ、どうぞ。」
やっと我に返った僕に、彼女は少し笑かけながら、こう言った。
「もりそば、お願いします。」
僕は調理場に戻ってからも、興奮気味だった。
これは現実なのか?あの女性が彼女だとして、僕のことを覚えているだろうか?彼女とまた会えた興奮と同時に、たくさんの不安が僕の頭をよぎる。しばらくしてデッキに目をやると、彼女は、自分がオーダーしたもりそばを美味しそうに食べている。僕はそんな彼女をしばらく見つめ、やっと意を決した。今だ、今しかない。
 もりそばを食べている彼女のもとへ、僕はつかつかと歩いていった。
「あの・・!!」
僕の唐突過ぎる声は、店中に聞こえるくらい大きかった。彼女の箸は蕎麦を口に運ぶ手前で止まっており、面食らった顔で僕を見上げている。
「あ、すみません、お食事中なのに。」
僕は、恥ずかしさで、頭は真っ白、顔は真っ赤だ。すると、彼女は、
「また、もりそば、食べにきちゃいました」
茶目っ気たっぷりに笑った。僕のことを覚えていてくれたのだ。うれしさと安堵で、僕のひざは崩れそうだ。一息ついて、少し落ち着こう。僕は大きく息を吸って、こう言った。
「僕、2時半に、境内のベンチで待ってます。前、お会いした、あの場所で。」
緊張でパニック気味の僕を見る彼女は笑顔だった。
「はい。写経教室が終わったら、立ち寄りますね」
 只今、午後二時二十五分。境内のベンチで、いつもの缶コーヒーを片手に、僕はかなり舞い上がっている。
「お待たせしました。」
僕の背中からあの声がした。彼女だ。僕は、平静を装って、こういった。
「しばらくお会いしていませんでしたよね。」
「写経教室、さぼっちゃってましたから。仕事でニューヨークとロンドンに。個展をやっていたもので。私、これでも一応、書家の卵なんです。」
ニューヨーク?ロンドン?ショカ?
僕と彼女は別世界だ。蕎麦屋の修行小僧とショカでは、格が違いすぎる。
「なんか、すごいですね。すごすぎて、僕にはよくわからない世界です。」
ショックさめやらない僕は、やっとその一言を発する。すると、
「私にもぜんぜんわからない世界です。」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「写経のほうがずっと楽しいです。何も考えずにただ文字と向き合えるのが。だから、日本に帰ったら、真っ先にお蕎麦を食べて、写経に行こうって。それだけを楽しみに、仕事してたんですよ。」
彼女の笑顔が、僕にはまぶしくて、うれしくて、愛おしくてたまらない。もっと彼女のことを知りたい。僕のことも知ってほしい。そんな感情がどんどん湧いてくる。
 そのとき、僕は、はっきりわかった。僕は、彼女に恋をした。

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<著者紹介>
松岡 由希子(東京都世田谷区/35歳/女性/自由業)

成海(なるみ)の長い黒髪が風に揺れている。裾に花の刺繍(ししゅう)をあしらった白いワンピースは人目を引き、白いハイヒールは楽器のようにコツコツと深大寺通りをこだまする。その音は水生植物園の前でピタリと止まった。成海はその大きな黒い瞳で、フェンス越しに園内の様子を懐かしく覗き込んだ。 
四月の日曜日、空は青く澄み切り日差しは暖かく、多くの家族連れやカップルで賑わっている。成海は静かに瞼を閉じた。そしてテープを巻き戻し再生するようにあの日のことを思い返した。
一面真っ白で雪が舞っている。白銀の反射光が眩しい。そこにいるのは成海と広人(ひろと)だけ。
携帯が鳴り現実に戻される。母からだ。きっと受話器の向こうで気を揉んでいるに違いない。
「成海、今何処なの?」
「今更逃げたりしないよ。始まるまでには戻るから」
実は、今日は成海のお見合いなのだ。

「大学を卒業して就職もせず、さりとて何かに打ち込むわけでもなく、これからどうやって生きてくつもりだ?」
辛辣な父の言葉がパンチのように効いた。厳格さは五十を越えて益々磨きがかかる。相手は父の上司の御子息で丸山大吉さん。名前はおめでたいけど十歳以上も年上。成海の写真選考では失格。丸顔に丸い黒縁眼鏡、眉毛の上で毛先を揃えた坊ちゃんカットは、笑み一つなく色白で神経質そうで・・・。
「見合という堅苦しいものではないのよ」
母が白々しく言い、父が頷く。母は成海の今の年で成海を産んでいる。晩婚化が珍しくない昨今だが母には通じない。気品のある柔らかな面持ちだが押しは強い人だ。この両親が外堀、内堀と埋めて追い詰めてくる。成海に逃げ道などなかった。

先方が渋滞に巻き込まれ遅れるという連絡が入ると、成海は散歩と言って座敷を抜け出した。見合いの会場は深大寺通りに面した水車館近くの会席料理の店だった。正面玄関から出て広い敷地を真っすぐに歩きだすと左手に御堂が見えてくる。大黒天と恵比須尊がこっちを向いてにっこりと笑っている。成海は見守られているようで、溜まった空気がふっと抜けるように落ち着いた気分になった。木漏れ日が差す深大寺通りに出ると無意識に足はあの場所へと向かった。

三年前の二月、当時大学三年生だった成海は、八王子駅から北へ少し歩いたコンビニでバイトを始めた。家の近所でするのは少々憚(はばか)られたので学校の近くにしたのだ。接客業は未経験で不慣れだった成海に優しい笑顔と透る声で助け舟を出してくれたのが広人だった。広人の包容力は成海をいつも安心させた。同じ大学だと分かると二人の距離は急速に縮まった。昼間は閑散としている店内のカウンターに二人並び、手が空いている時はたわいのない会話を楽しんだ。
「就職は地元だっけ?」
広人は一つ上なので卒業なのだ。彼は山梨県から中央本線で八王子まで通っていた。
「ああ、彼女が甲府で働いているから俺も甲府で就職する」
広人に高校の時から交際している彼女がいることは前に聞かされていた。だから彼への想いにも蓋(ふた)をして、いい友達関係を苦しみながらも演じていた。成海が急に黙り込むと広人は薄々感じていた成海の気持ちから逃げるように本棚に向かった
 本棚は入口そばのコピー機隣りにある。雑誌が主だが文庫本と地図もある。本棚の後ろはガラス張りになっていてサンルームのように太陽が差し込むので、昼間は大抵ブラインドを下ろしている。
「広人、仕事中に立ち読みしていいの?」
広人が真剣な眼差しで読んでいたのは『日本の城めぐり』という月刊誌だった。
「広人、お城好きなの?」
成海はカウンターから身を乗り出して広人の本を覗き込んだ。
「ああ。結構行ったよ」
「私の住んでいる調布にも城あるよ」
「え?マジで?」
広人は振り返り大きな声を出した。
「行きたい。案内して」
渇望し瞳を光らす広人に少し驚いた。成海は気後れするように呟(つぶや)いた。
「いいけど・・・」

 三月中旬だというのに、その日は朝からあいにくの雪模様であった。中止にしようかと聞くと広人は童のように今日がいいと駄々をこねた。成海には夢中になれるものが何もない。いつも流されて何となく生きている。だから熱中できるものがある広人が羨ましく思えた。
調布の深大寺には戦国時代に城があった。場所は水生植物園内の小高い丘の上にある。上杉朝定(ともさだ)が北条氏に対抗するために古き郭(くるわ)を再興したらしい。現在、建築物は残っていないが空堀や土塁はまだある。
二人は深大寺でバスを降りると雪が舞う深大寺通りを傘も差さずに歩きだした。首をすぼめている成海を見て、広人は自分の白いマフラーを成海の首にぎゅっと巻きつけた。
「ありがとう。いいの?」
「山梨県人は寒さには慣れているからさ」
そう言って広人は雪で湿った顔を手で拭いながら屈託のない笑みを浮かべた。
水生植物園内は流石にこの天気で人影もなく、おかげで二人だけの貸し切り状態になった。木道の手摺には薄っすらと雪が積もり、寒さを凌ぐため二人とも猫背になっていた。遠くに聞こえる烏の鳴き声が悲鳴に聞こえる。少し前を行く広人が左手で成海の右手を握り締めてきた。
「滑ったら危ないからな。手離すなよ」
広人は前を向いたまま成海を見ようとはしなかった。成海は体中に電気が走り心の中でダンスビートが鳴り響き、返事すらできなかった。右折して泥がぬかる山道に入る。その分広人の握る力が強くなる。
「ここか・・・」
広人は深大寺城の石碑を見て案内板を見て感慨にふけった。そしてありがとうと振り向き様に成海を抱きしめた。息がとまる。冷静になろう。これは愛情の抱擁なんかではない。単なる歓喜の一表現だと成海は心を静めた。しかし第二の波が打ち寄せた。今度は成海の唇を塞いだのだ。甘く切ない感触が唇に残った。成海は俯き広人は黙っている。僅かな時間なのに永遠のように思えた。二人はそのまま無言で今来た道を戻った。

 あれから三年ここには来ていない。白銀は新緑に変わっていた。
「すいません。深大寺城どっちですか?」
突然声をかけられ振り向くと一人の青年が立っていた。年は三十ぐらいで上下紺のスーツ姿、右手にビジネス鞄を持っている。額の汗をハンカチで拭いながら爽やかな笑顔を見せていた。
「ああ、この園内にあります」
成海は視線をそっちへ投げた。
「そうですか。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をして青年は園内に入った。
「あ、案内しましょうか?」
成海は青年の後を追いかけ声を弾ませた。何かいい感じな人だと思った。
子供達が大声で騒いで走り回るので木道は上下に揺れ軋(きし)んだ。あの日は雪で分からなかったが、園内には様々な草花が木道下の湿地を彩っている。観光地の湿原のようだ。
「お仕事ですか?」
「ええ。でもお客さんの都合でキャンセルになりました」
「どちらからいらしたんですか?」
「横浜です」
「横浜なのにここに城があるなんて、よく分かりましたね?」
「ネットなら何でも分かる世の中ですよ」
「そうですね」
お互いに苦笑してしまった。
水をさすように携帯が鳴った。また母からだ。
「成海、丸山さんお見えになったからすぐに戻ってきなさい」
「やっぱ・・・今日キャンセルする」
「何だって?許しませんよ」
「・・・」
「成海?もしもし?」
成海は電話を切り電源も切った。表情が険しくなり視線が鋭くなった。青年は心配そうに成海を見ている。
「どうかしました?」
「自分の人生なんだから自分で決めなきゃいけないですよね?」
そう言って成海は納得したように大きく頷いた。ためらいはなかった。青年は意味不明なことを言われ言葉に詰まった。
右折して山道に入ると、斜面には薄紫色のシャガの花が一面に咲き乱れ二人を向かえてくれた。石碑付近は林になっている。青年は写真を何枚か撮り、二人は木陰のベンチに座った。青年が鞄から取り出した一冊の雑誌、それは広人も読んでいた『日本の城めぐり』だった。
「あ!それ・・・」
成海はハッとした。青年はその声に驚きながらもページをめくり成海に見せた。
「今度はここに行くつもりなんです」
「あ、私、ついて行ってもいいですか?」
成海は得意そうに城の話を始めた青年をじっと見つめた。

 

<著者紹介>
正村 純(東京都調布市/40歳/男性/ファイナンシャルプランナー)

僕は二十五歳にして初めて精神的疲労というものを痛感する。
チームを組んで仕事をしていた契約社員が辞めて仕事が急激に忙しくなった。仕事に忙殺されて数少ない友人との付き合いも悪くなった。彼女が僕との関係には先が見えないと言って僕を棄てていった。要するに僕は疲弊し、孤独になったのだ。
僕は休日出勤してオフィスに独りのときにはだいたいベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタを聴いている。他のどんなときよりもそのときがよく音楽を理解できる気がするからだ。あるいは休日のオフィスに独りで働いている人間と晩年のベートーヴェンには何かしら共通点があるのかもしれない。
 そんなわけで今日も僕はベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴いている。

 僕は休日にはよく深大寺にいる。僕にとって精神的疲労を解きほぐしてくれる数少ない場所だ。普段は人気の無い早朝に来るけれど、今日のように仕事帰りのときはどうしても夕方になってしまう。でも夕方の深大寺も悪くない。黄昏時の寺にはどこか特殊な雰囲気がある。しかし今日はいつもより幾分早く深大寺に到着したのでまだ黄昏は訪れていない。特殊性を欠いた純粋に澄んだ青空と四月の豊かな緑が深大寺を壮麗に飾っている。そんな情景を石段の上に座りながら僕はぼーっと眺めている。空というのは不思議だ。様々な啓示に満ちている。印象派の画家、アルフレッド・シスレーはキャンバスに空を大きく描いた。彼にとって対象の中心は鮮やかな花や瑞々しい緑や光をきらびやかに写す水面ではなく、日々刻々と移りゆく空だった。そこには無限と無常を感じさせる何かがある。また、『戦争と平和』のアンドレイ公爵はフランス軍との戦闘において仰向けに倒れたとき、頭上に確固として存在する青空を見上げてその存在の絶対性と普遍性に激しく心打たれた。でも僕は空を見ていてそんなに強く心揺らいだことはない。たぶん、啓示というのは示される側にも何かを求めるのだろう。
 ふと子どもの遊び声が聞こえてくる。無邪気で、快活で、楽しそうな声。それはモーツァルトのディベルティメントのように聞こえる。そして僕に彼女と行ったクラシック・コンサートのことを思い出させる。メインはモーツァルトの交響曲三十六番『リンツ』で、彼女はその音楽に最大級の賛辞を送っていた。リンツ交響曲。優れた曲だ。モーツァルトはこの傑作を僅か四日間で完成させたらしい。彼の四日間に比べれば、と僕は思う、僕の二十五年間なんて折れたタクトよりも無価値だ。

「そこ、どいてくれる?」という女性の声が聞こえる。
 振り向くと、携帯用の折り畳み椅子に座ってキャンバスを持った女性が僕の二メートルほど後ろにいる。
「何故?」と僕は訊ねる。
 彼女はため息をつく。「この格好見てわからないの? 絵を描くときにあなたが邪魔になるからよ」
「なるほど」と言って僕は頷く。「いいよ。でも条件がある」
 彼女は露骨に訝しげな表情をする。「何?」
 僕は彼女の持つキャンバスを指差す。「その絵を見せて」
 彼女はひとしきり品定めをするように僕を眺める。神経質なしわが眉間に寄る。口元が頑固そうに固く結ばれている。似ている、と僕は思う。それは僕の胸をほんの少し震わせる。やがて彼女は諦めたように首を振ると、仕方ないか、と言って僕が提示した条件を受け入れる。僕は立ち上がって彼女の後ろに回り、その絵を見る。
まず目に付いたのは明るく鮮やかな色使いとかなり激しい筆致。下からやや上を見上げるような視点で、キャンバスの中央に空が広がり、その両脇を様々なタッチとトーンで描かれた新緑の木々が囲む。また画面下には鮮やかでカラフルに描かれた石段があり、その中央には麦藁帽子を被った子どもが二人並んで座っている。
「印象派が好きなんだ」と僕は言う。
 彼女は頷く。
「まだ空が未完成なのかな?」
 彼女は頷く。「もっと太陽の光を輝かしく表現したいんだけど、なかなかね」
 うーむ、と僕は唸りながらその絵を眺める。
「感想は?」と彼女は訊ねる。
「温かくて、優しい絵だ。僕がもっと若かった頃のことを思い出させる」
 彼女は僕の言ったことについて考える。また眉間にしわが寄るけれど、それはさっきよりも幾分神経質さが和らいでいる。やがて彼女は絵筆を握り空に色を塗り始める。僕は彼女の後からその姿をじっと見ている。彼女は特に何も言わなかったので、僕はそのまましばらく画家の創作を見続ける。
「ところで」と彼女は絵筆を動かしながら言う。「あなたが振り向くまでに二、三回呼びかけたんだけど、あなたは全く聞こえてないようだった。何か考え事?」
 僕は頷く。「シスレーとアンドレイ公爵とモーツァルトと別れた彼女について考えてた」
 ふぅん、と彼女はつぶやく。「どちらかというと混乱しているのかしら?」
「どちらかというとね」と僕は答える。
「それは彼女と別れたから?」
「さあ、どうかな? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。よくわからないよ」
「どうして彼女と別れたの?」
「特におもしろい話じゃないよ。芸術的霊感も与えられないと思う」
「構わないよ。芸術的霊感も啓蒙的教訓もいらない」
僕はどう言おうかと考える。どう言えばそこにある内面的な問題を正確に伝えられるだろうか? でも結局僕は客観的事実を簡潔に言うことにする。自分に正確に説明できないことを他人に説明できるわけがないのだ。「一言で言ってしまうと、彼女が僕を棄てていったんだ」
「そう。何か言ってた?」
「僕との関係には先が見えないって言ってた」
「それで、あなたはそれについてどう思うの?」
「いったい先の見える人間がどこにいる? と思う」
 彼女は筆を止めて考える。そして僕の方を振り向く。「ねぇ、私は思うんだけど、あなたは少し変わってるんじゃないかしら?」
「そうかな? 自分じゃよくわからない」と僕は正直に言う。
「そうよ。少なくとも私は深大寺の石段に座ってアンドレイ公爵について考えてる人間を見たことがない」
「改めた方がいいのかな?」
「必要無いんじゃない、別に。その意味をだいぶ拡張すれば、パーソナリティと呼べるかもしれない」
「逆の立場だったらどうする?」
「決まってるじゃない」と彼女は断言する。「即刻改めるわ」
 僕はちょっとショックを受ける。すぐに言葉が出てこない。
「冗談よ」と言って彼女は笑う。
 つられて僕も微笑む。実に久しぶりの感覚だ。そういえば、と僕は思う、心から笑ったのなんていつ以来だろう?

「さてと、そろそろ帰らなきゃ」と彼女は言って帰り支度をする。
 気が付くとあたりには黄昏の予感が満ちている。僕は彼女のてきぱきとした作業をぼんやりと見ている。慣れた手つきだ。
「深大寺にはよく来る?」と僕は訊ねる。
 彼女は頷く。「休日はだいたいいるよ」
「奇遇だね。僕もそうなんだ。でも僕は今日初めて君を見た。どうしてだろう?」
「見ることと認識することは違うよ」
「要するに、お互い視界に捉えていたとしても特に気に留めていなかった、ということかな」
 彼女は首を振る。「私は覚えてたよ」
 僕は彼女の言っている意味がわからない。でもすぐに理解する。「まさか」
「あなたくらい特徴的な外見と雰囲気を持った人は、深大寺に限らずそうはいないよ」
 僕は適当な言葉を探す。でも何も思いつかない。その間に彼女の準備は整う。
「さようなら」と彼女は言う。
「また会えるかな?」とほとんど反射的に僕は訊ねる。
 彼女は微笑む。でも何も言わない。そして振り返って石段を下りていく。僕は石段に座ってずっと彼女を目で追う。ふと僕は彼女の名前を訊いていなかったことを思い出す。もちろん僕の名前も伝えていない。
まあいいさ、きっとまた会える。
やがて彼女が見えなくなってからも僕はその場所にいる。深大寺境内はピークを過ぎたとはいえまだ賑やかだ。しかしそこには寺特有の静謐さが粒子のように散りばめられている。僕は目を閉じる。肌に風を感じる。瞼に夕陽を感じる。ここには彼女の微笑みの余韻がある。やがて僕はゆっくりと目を開く。そして空を見上げる。空は金色に輝いている。僕はそこに何かの啓示が見えたような気がしたけれど、それが何なのかはもう少し先になってから知る。

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<著者紹介>
吉岡 雄二 (東京都調布市/26歳/男性/公務員)

 絶対に、来る。
 あたしは毎週土曜と日曜、仕事が休みの日は必ずこの辺、つまり深大寺周辺にいる。調布に来て二ヶ月、もう習慣になっている。今日は、バス乗り場から山門へと続く路にあるお茶屋さんで白玉ぜんざいを食べながら、行き交う人たちに目を凝らしていた。
今日も深大寺はほどよくなごやかに混みあっている。年配の夫婦、家族連れ、あたしと同世代のカップル。なんでここに来る人たちは皆一様に楽しそうだったり嬉しそうだったりするんだろう。沈鬱な面持ちで山門をくぐる人を見たことがない。やっぱり縁結びの神様だからか。梅雨晴れ間の陽射しに照らされているせいか、人々の笑顔がいつも以上にまぶしい。あたしはどんな顔をしているだろう、と思ったそのときだった。
視界を見慣れた人物が横切った。
 思わず立ち上がった拍子に椅子が派手な音をたて、他の客がこちらを見る。
 ついに、見つけた。

 「また会いたいね」と言ったあたしに、「会いたいね、じゃなくて。会おうよ」と言った男は、また会うことなくいなくなった。
 本当に、文字通り、いなくなった。失踪したのだ。
 あたしは「キシダケンジの母」と名乗る初老の女性からの電話でそれを知らされた。彼はいつも通り仕事に行くと言って家を出たきり、行方がわからなくなった。携帯は「探さないでください」と書かれたメモと一緒に家に残されていた。「ケンジの行方、ご存知ありませんか」と言う切羽詰った声を聞きながらあたしは、そういえばキシケンさんの本名ひさびさに聞いたな、なんて思っていた。

 キシケンさんとは沖縄のゲストハウスで知り合った。
高校を卒業したあと、興味本位で街のキャバクラでバイトしていたらそれが親にバレて、たちまち近所でも噂になり、家を追い出された。あたしの地元はそんな保守的で閉鎖的な田舎だった。
 それからは住み込みのリゾートバイトを転々としたのち、沖縄のゲストハウスに住みついた。一泊千円の素泊まりの宿。お金のない旅人がホテル代わりに宿泊することもあれば、あたしのように長期滞在する家なしのフリーターもいる。あたしはそのゲストハウスからバイト先のキャバクラに通っていた。
あたしがそこに住み始めて半年ほど経った頃、キシケンさんはやってきた。
東京でサラリーマンをしていたが、離婚して子供とも二度と会わないという取り決めになり、もう何もかもがどうでもよくなった。それで会社を辞めてマンションも引き払って沖縄にやってきたと言う。
キシケンさんは浪人生みたいに見えるけれどあたしより十四歳も年上で、優しくて気が弱く、いかにも東京もんといった感じだった。あたし達は一緒に近くの海で泳いだり、ゲストハウスで酒を飲んだりするうちに仲良くなった。
キシケンさんが別れた奥さんと子供の思い出を語ったのは一度だけだ。
彼は東京の「チョーフ」という街で奥さんと子供と暮らしていた。チョーフにはジンダイジというお寺があり、よく家族で散歩に行った。ジンダイジの近くには「ジンダイジそば」の店がたくさんあり、キシケンさん一家は休みのたびにそば屋めぐりをした。そば屋めぐりをするとき、子供はいつもジンダイジで買ったセロファン製の風車を持ち歩いていた。
そんなキシケンさんの話を聞きながら、「チョーフ」ってなんだかマヌケな響きだな、とあたしは思った。

 ある夜、いつものように浜辺でオリオンビールを飲んでいると、キシケンさんが言った。
「カヤちゃんはこれからどうするの?」
「どうするってなんばよ?」
「この先。ずっとここに住むわけにもいかないでしょ」
 その通りだった。実家を出て四年。職も住居も転々としていたが、いつまでもこんな生活を続けていられないのはわかっていた。だからといってアパートを借りて定住するようなお金もない。住所がゲストハウスじゃ就職もできない。先のことを考えるとどんどん不安になるだけなので、考えることから逃げていた。目標も特に見つけられないでいた。
「俺はそろそろ東京に戻るよ」
「ほんまに?」
「うん。とりあえず実家戻って仕事探して、落ち着いたらまたどっかに部屋借りるよ」
「チョーフに住むの?」
「調布には二度と行きたくない」
 しまった。キシケンさんはきっとまだ奥さんと子供のことを忘れられずにいるのだ。
紺色の波を眺めるキシケンさんは淋しそうだった。あたしも淋しかった。キシケンさんがいなくなったら、淋しい。
「うちも東京行く!」
 キシケンさんが驚いた顔をした。あたし自身も驚いていた。でもあたしの中でそれはもう決定事項になっていた。

 あたしはそれからがむしゃらに働いた。キャバクラの他に昼間はコンビニで働き、お金を貯めた。敷金、礼金、家具、家電、新しい仕事が決まるまでの生活費。沖縄の安い賃金でそれらを稼ぎ出すのは思った以上に大変で、あたしはそれまでの人生で一番働いた。
 もちろん疲れたし、へこたれそうになった。
 そんなあたしを支えてくれたのは、東京へ戻ったキシケンさんの電話だった。ムカつく客にイライラした日、失敗して店長に叱られた日、あたしはキシケンさんに電話した。キシケンさんはいつもふにゃりと笑って励ましてくれた。「また会おうよ」と言ってくれた。それであたしは、よし、また頑張ろう、という気持ちになれた。
 そして貯金が目標金額に達しいざ東京に行こうとした矢先、キシケンさんは失踪した。
 あたしは予定通り東京に行き、シャクだったので調布でアパートを借りてやった。

 ついに、見つけた。
 胸の中でドラマーが力いっぱい心臓を打ち鳴らす。ずっと探していたのに、いざ見つけると即座に行動できない。はっと我にかえって、慌ててお会計を済ませ、外に出た。
 その人は山門へ向かって歩いていた。ピンクと水色の七夕飾りがしゃらしゃらと風に揺れるその下を、あたしはあの狭い肩幅めがけて全速力で走った。そして、その腕を掴んだ。
「! カヤちゃん......」
 ぎょっとして振り向いたキシケンさんは、最後に会った半年前よりも色が白くなっていた。
「すごい偶然......」
「偶然やなか! あんたに会うために毎週こん辺張ってたのよ!」
 大声を出したあたしに、まわりの人たちの視線が集まる。
「なんで......」
「絶対にまたここに来るって思ってたとよ」
 沖縄でも奥さんと子供のことを忘れられなかった男だ。思い出を求めて、彼は必ず深大寺に来る。あたしはそれを待ちかまえていた。
「あんたは未練がましい男やけん、きっとここに来るって思ってたとよ。うちはあんたみたいに未練がましくなかけど、でもあんたに言いたいことがあったから待ってたとよ。だって、また会おうよって言ったのはあんたやなかの!」
 キシケンさんがうつむく。山門の階段の横では紫のあやめが同じように力なくうつむいていた。あたしはあやめの前に置かれた木のベンチに腰かける。キシケンさんが隣に座る。となりのおやき屋さんからいい匂いの湯気が流れてきた。
「......好いとぉばい。今でんあんたのこと好いとぉ」
 キシケンさんが次に言う言葉はわかっていた。ごめん、だ。キシケンさんが口を「ご」の形に開くのを遮って、続ける。
「だけん、つきあって、とは言わなか。またうちのそばにいてほしいとは言わなか。あんたはいなくなりよった人やけん」
 今どこに住んでいるのか、何の仕事をしているのか、あたしは聞かない。なぜ失踪したのかも聞かない。逃げたいなら逃げればいい。あたしは追わない。
 でも、どうしても一言だけ伝えたい。
「ありがとう」
 伝えると、キシケンさんが怪訝そうに顔を上げる。
「これだけ、伝えたかったとよ」
 あたしがアパートを借りて定住しようと思えたのはキシケンさんがきっかけだった。そしてお金を貯めている間、何度もめげそうになったあたしを励ましてくれたのもキシケンさんだった。彼がいなければ、あたしは今の部屋に住むことはなかった。初めてのあたしだけの居場所。手に入れることができたのは、キシケンさんのおかげだ。あたしはこの二ヶ月で、アパートの部屋も調布の街も、大好きになっていた。だから、お礼が言いたかった。
 キシケンさんは何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
「うちもう帰るから」
あたしはキシケンさんに背を向けてバス乗り場の方へ歩き出した。帰るのだ。言いたいことも言ったし、なんか勢いで告白もしちゃったし。「まったくとんだ縁結びの神様やけん」思わずひとりごち、それから笑った。
さぁ、帰ろう。あたしの部屋へ。

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<著者紹介>
三浦 舞(東京都調布市/24歳/女性/アルバイト)

 「どうかチャンスを下さい」
 たまたま耳に入ってしまった祈り声の主は、僕の知った顔だった。時折、日曜に境内をふらついていると、スケッチブックを広げて熱心に写生をしている女の子を見かけることがある。その日は、学校帰りで高校の制服を纏っていたせいか、いつもより幾分か大人びているように見えた。夕暮れ時、深沙大王堂前には、人通りがないにも関わらず、彼女は手を合わせたまま深々と下げた顔をあげると、少しだけ辺りを気にしながら、照れ臭そうに石段を駆け降りていった。僕はそっと物陰で彼女の姿を見ていた。
深大寺の深沙大王堂は縁結びの神として知られている。多くの参拝者と同じように、きっと彼女も誰かに恋をしているからやってきたのだろう。高校生にもなれば、好きな人ぐらいいたとしても、おかしいことではない。僕は誰もいなくなった御堂の前に立つと、彼女がさっき置いていった五円玉を手に取った。
賽銭箱がないのにも関わらず、参拝者は御金を置いていく。御縁がありますようにという意味で、九割が五円玉だ。僕はそれを指で弾いて、手の甲で受け止めた。もし、表が出たら恋は叶う。自己流の占い。的中率の高さを自負しているが、お遊びで判じるのは所詮他人の恋路。だから結果がどうであれ、僕自身には関係がない。できれば表であってほしいぐらいの気持ちで挑む。素早く硬貨を覆っていた右手を外した。目に入ったのは年号。裏だ。彼女の恋は叶いそうもない。彼女が知った顔であるせいだろうか。占いの結果に、ほんの少しだけ残念にと思った。
 翌日もその翌日もそのまた翌日も、彼女は参拝にやってきた。その度に彼女が置いていく五円玉を、僕は弾き続けた。やっぱり裏だった。四回連続の裏。僕がこんなことをしても何も意味がないということはわかっている。もしかしたら、違う結果がでるかもしれないという淡い期待があった。
 「随分、熱心だね」
 五日目、石段から降りてきた彼女に遭遇した時、僕は思わず声をかけてしまった。彼女は僕に今まで気付いていなかったようで、はっと立ち止まった。その表情に、気まずさを一瞬だけ浮かべたかと思うと、僕を無視して足早に走り去ってしまった。
彼女は六日間、欠かすことなく連続で参拝にやってきた。御百度参りといって、願い事が叶うように百回参拝するというのがあるが、それでもやるつもりなのか。そう考えると、少し滑稽だった。
 七日目は日曜だった。休日の深大寺は大勢の人で賑わう。少し外れたところにある深沙大王堂も例外ではない。恋人同士で幸せそうに石段を昇っていく姿を横目に、僕は少しだけ温かい気分になりながら、深大寺を散策する。春の麗らかな日差しの中、今日も彼女は来るだろうかと考えながら。弁財天池の前に差し掛かった時、僕は彼女を見つけた。今日は制服ではなく、気取らない私服だった。彼女は弁財天池の畔に並べられた椅子に腰掛け、スケッチをしていた。その表情は真剣そのものだったが、時折手を止めてふっと笑っていた。何かを思い出しているのか、満ち足りた表情だった。
 「今日は拝まないの?」
 僕は彼女の隣にあった椅子に腰掛けながら、尋ねた。彼女はびくりと鉛筆を走らせていた手を止めたが、顔を下に向けたままで、何も返答がなかった。再び鉛筆が紙の上を滑り始めた。後ろから絵を除き込むと、池で泳いでいる鯉を描いている最中だった。水中で自由にかつ優雅に泳ぎまわる鉛筆書きの鯉が、白い紙の上で生き生きとしていた。感心して何も言わずに見ていると、彼女はふと顔をあげて口を開いた。
 「あの・・・」
 「それ、見せてよ」
 僕は彼女が抱えているスケッチブックを指差した。突然のことで、彼女は驚いたような顔をしていたが、スケッチブックを差し出してくれた。その中には、今まで書き溜めたのであろう深大寺の様々な切り取られた景色が、鉛筆書きで収められていた。地味だが、どれも生命力に溢れる絵だった。だが、素人感覚だけれども、何か非常に惜しい気がした。
「良いとか悪いとか基準はわからないけど、僕は好きな絵だ。でも」僕の目には彼女の背後に広がる深大寺の景色が飛び込んできた。「色のついた深大寺の絵も見てみたい」
彼女は照れたように、はにかんでみせた。
「同じような台詞を言われたことがある」
「え、誰に?」と僕はすかさず言った。
彼女は気恥ずかしいのをごまかすように、空を見上げて呟いた。
「好きな人に。でも、色をつけたらつまらなくなってしまうかもしれない」
それから、彼女は好きな人のことを話し始めた。顔見知り程度の同級生だということ、いつの間か視線で追い掛けて気になる存在になっていたこと、 ひょんなことから自分の絵を褒めてもらえたこと、でもまだ勇気がなくて気軽に話し掛けられないこと。好きな人のことを語る彼女は、絵を描いている時と同じで生き生きとしていた。
「まだ友達にもなれてないのに、祈っているなんて馬鹿みたいだよね」
 でも、彼女は開き直ったように無理に渇いて笑ってみせた。だが、僕は彼女に同意できなかった。毎日祈るよりもっと簡単なことがある。馬鹿みたいだと思うならどうして祈るのだろうか。
「あと何回祈ったら気が済む?神様が助けてくれるまで?」
 僕は神様が何もできないことを知っている。彼女は言葉を詰まらせながら「わからない」と呟いた。
 「祈るより、簡単なことあるはずだよ」
試しに色をつけてみればいい。試しに話しかけてみればいい。僕の口調は正論を突きつけるようだった。
 「うん、わかっている...けどね」
 「けど?」
 「やっぱいい...ありがとう」
 彼女はそう言って立ち上がった。そろそろ日が沈み切る頃で、西の空が赤く焼けていた。
僕は、彼女が帰った後も、弁財天池の畔に佇んでいた。気付いた頃には、すっかり日は沈み、闇が辺りを包んでいた。彼女は何を言いたかったのだろうか。ただ伝えればいい、ただ話せばいい、人はそんな簡単なことで躊躇するのだろうか。
ふと、遠い昔に知り合った男のことを思い出した。高嶺の花に恋をした彼は、千通もの恋文を送り続け、恋人と引き離されても諦め切れず長いこと苦悩し、神様に祈っていた。僕は彼が不器用に見えて仕方なかった。会いに行けばいい、ただそれだけのことを、どうして簡単に踏み出せなかったのか。
 翌週、彼女は姿を見せなかった。日曜のスケッチも来なかった。もう来ないのかもしれない。そう思いながら、参拝者が置いていった五円玉で遊んでいると、彼女がやってきた。十日ぶりだった。頬を紅潮させながら息を切らせていた。
「作品展に誘ったの」彼女は興奮冷めやらぬ調子で一息に喋った。
「へ?」
「やっぱ神様っていると思う」
 彼女は満面の笑みで僕の手を取ってはしゃいでいる。心の底から嬉しそうだった。話を整理すると、彼女が所属する美術部の作品展に、勇気を出して好きな人を誘ったところ、見に来てくれたというのだ。
「それだけ?」
僕が拍子抜けしたような声を出すと、
「私にとっては大きな一歩なの」とふくれて、「一枚だけ深大寺の絵に色をつけたんだ」と言った。
「でも、それは君の勇気でしょう?神様のおかげじゃないよ」
僕が冷静に訂正をすると、彼女はわかってないなあという顔をした。
「神様から勇気を貰ったから、頑張れたの。人間って臆病なんだよ」
 そう言うと、彼女は悪戯っぽく笑ってみせた。
彼女は御礼参りに僕を誘った。深沙大王堂の前に立ち、隣で深々と頭を下げている彼女の横で、僕は、神様は何もしてないのにと思っていた。そう、何もできない。僕にそんな力はない。
「色のついた絵、見に来てね」
帰っていく彼女の後姿を見送りながら、器用な男のことを再び思い出した。彼もそうだった。自分で粘ってどうにかしただけなのに、何もしていない僕のおかげだと言った。あの時の言葉の意味がやっとわかった気がした。
先程、彼女が置いていった五円玉を僕は手に取り弾いた。ぴしゃりと手の甲に硬貨の冷たさを感じる。僕は何もしていない。何の力もない。ただひたすら、人の恋路の結果を見守ることしかできない。それなのに、僕は人から感謝され必要とされている。やめた。僕は硬貨の結果を見ずに覆った手で握り締めた。そのまま、弁財天池まで走って投げ入れた。ぽちゃりと音をたてて沈んでいく。彼女の恋の結果は神様も知らない。でも、今はきっと表だと思う。これからも、硬貨は裏になったり、表になったりするだろう。僕ができるのは、それをただ見守ることだけ。ならば、その立場に甘んじよう。僕の存在が彼女の勇気となれ。恋の行方は彼女のみぞ知る。

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<著者紹介>
真平 龍(東京都調布市/24歳/女性/会社員)

小百合が深大寺の森を訪れたのは、門前に軒を連ねる店々がのれんを下ろし、さんざめく紅葉が夕日に粧われ始めたころだった。
この季節だけの、胸を焦がすようなきらめきが、深大寺の森にはある。そのひと時は儚く、だからこそ今の自分にふさわしいと思う。
縁談がまとまり、この街を去ることになって、恋は目の前にあったと気がついた。
もし今が暮れなずむ季節で、わが身から未練の影が長く伸びたなら、きっと気持ちが揺らぐに違いない。後ろ髪を引かれて別れるのはたくさんだ。
参道から消えゆく賑わいを背中で聴きながら、石畳を踏みしめて森を抜け、小百合がバー「ろしやなうまかぼう」に着いたころには、澄んだ帳が下りようとしていた。
「ただいま~、マスター」
 ネオンボードが灯るドアを開けると、マスターが独り仕込みにいそしんでいる。
「おう、お帰りぃ。今夜は早いね」
「閑古鳥が鳴くだろうから、早く来てあげたの。だって世間はボーナスに浮かれてるから」
「そうか、そうだったかぁ。なら仕方ない、のんびりやるかな」
「薄情な常連ばっかりよね、ボーナスや給料日になると値の張る店で飲むんだから」
 ろしやなうまかぼうは、観光客や参拝者が訪れる店ではない。地元の常連客に奉仕する、カウンターだけのささやかなバーだ。
「まあ、五日もすれば戻ってくれるさ。小百合ちゃん、そういう高級な店には?」
 ビールサーバー越しの窓に広がる、深大寺の森を眺めながらマスターが聞く。
「誘われてないよ......、ていうか、ここで夜景を楽しめるのも、あとわずか......」
マスターの視線を追いながら小百合がつぶやくと、ビールグラスをカウンターに置こうとしたマスターの手が一瞬止まる。
「何かあったの? まさか......」
 小百合の左手首にある、ためらい傷に目をやりながら聞く。
「あのね、実は......、結婚するの、私」
「えっ! それは、おめでとう......、だな」
「お見合いしたのが一月ほど前でね。彼の海外赴任が決まって、向こうで式を挙げることになったのが、昨日なの」
 小百合はマスターに視線を貼り付けたままグラスを傾けた。
「そんな、また急に......、まだ三十前だろ、小百合ちゃん美人だし、あせらなくても......」
「恋愛で相手を見つけられなかったっていう引け目はないのよ。それより、マスターを出し抜いたみたいに幸せになって、ごめん」
「お、俺のことなら大丈夫さ。深大寺に通って願かけしてるから」
「そうか、そうよね。他人の私が心配することじゃないよね」
 さらりと言ってはみたものの、後悔の苦汁が咽を流れ落ちる。ほのかだったものがはっきり見えたというのに、遅すぎる。
他人事のような言い様でもしないと、熱いものが逆流しかねない小百合だった。

 当夜のろしやのうまかぼうは、小百合の予言どおり常連客が三々五々来て帰った。マスターは早めに店じまいして、「Moon Shine」というラベルが貼られたボトルを手にとる。
とうもろこしを醸したその酒、ムーンシャインは、月明かりの下でひっそり造られるので、サンシャインの「日向」に対して「月影」と、しゃれて呼ばれる。アメリカ禁酒法時代の産物だが、今も堂々と密造され、好事家に買い取られて熟成の時を重ねた逸品だ。
小百合......、たおやかで謎めいて、まるでこの酒のような女。初めて店に来たとき、左の手首に包帯が巻かれていたな......。
その彼女が常連と呼ばれるようになったある夜、一見客が小百合に声をかけた。
「なあ彼女、となりで飲んでもいいやろ」
 好色そうな物言いだ。
「他のお客さんに、ちょっかい出さないでいただけますか」
席を移ろうとする男を制した。
「となりで飲むだけや」
「それがちょっかいなんです。さあ、もう店を閉めますから、お引取り下さい」
 男を店から出してネオンボードを仕舞う。
「金で寝る女を口説いて、どこが悪い!」
男の吐いた捨て台詞が彼女の耳に届いたかどうか分からないが、何も聞かなかったことにしろ、とバーテンダー魂がささやいた。
不惑の歳を越して独身のマスターは、小百合に想いを寄せつつも、彼女の若さに尻込みしてきたといえる。だが深い関係に発展しなかったのは、むしろ彼女の方に負い目みたいなものがあるからではないか。
思い過ごしかもしれないが、「好きな人の過去なんて気にしないよ」という言葉を、彼女は俺の口から聞きたかったのではないか、そんな目を向けられてきたような気がする。
「大人の諦観は、欲望や執着よりはスマートかもしれないけど、損するよ」
 常連客の一人が言ったように、傷付くのを恐れないで小百合にアプローチすべきだったかと、今は悔やまれてならない。

 マスターに縁談の話した数日後の夜、彼とその母親の三人でウェディングの打ち合わせをしながら、小百合は暗雲を見上げるような動悸を感じていた。
何かが引っかかる。母親に忠実過ぎる彼への違和感か、それとも二人の将来に口をはさんでくる母親へのとまどいか。
「お産はハワイがいいわね、アメリカの国籍を......。聞いてるの? 小百合さん」
 レストランのテーブルを挟んで目の前にいながら、襖を隔てているかのように母親の声が響き、息子はその横でうなずいている。
「先の話はさておいて、指輪のサイズを測るから手を出してくださる」
 母親は小百合の左手をとり、リングゲージに指を通した。
 これが、契約? 婚姻の象徴としてのリングが、略奪した女に足かせをはめた名残だったとしてもかまわない。だがどうして彼でなく、母親が私の指を測っているのか。
小百合の胸の底に冷たい風が吹き、波立つようにわだかまりがせり上がってくる。
「あら、この手首の傷、これはいったい......」
 違う! この人たちじゃない。私が幸せにしてあげたい、幸せにしてもらいたいと思う人は、他にいる。
「あなた、私たちに隠し事があるんじゃないの、正直におっしゃって!」
 母親の声のトーンが上がるのに反比例して、その姿はフェードアウトしていき、小百合の中で沸騰しかかっていたものが噴き出した。
「このお話は......、埋め戻しといてください、失礼します!」
小百合は席を立ち、クリンチのように絡みつく母親の声を振り切って駆け出した。
まだ間に合うはず。帰ろう、私がいるべき場所に、待ってくれているだろう人のもとに。

 小百合がろしやなうまかぼうに着いたとき、ネオンボードの灯は落ちていたが、ドアは開いていた。
「間に合った! マスター、ただいま~」
照明を落とし、広い窓から差し込む月明かりの下、マスターが独りで飲んでいる。
「おいおい、飲みに来る場合じゃないだろう」
「戻って来たの、ホームグランドに」
「え? それって、もしかして......」
「そ、私の過去が気になるようだったから、お互いが傷付く前にリセットしてあげたの」
「俺なら、きみの過去なんか問わないのに」
「マスターなら、そう慰めてくれると思った」
「慰めじゃなくて、そうプロポーズするのさ」
「今はどんな言葉より、おいしいお酒。それ何? 私も同じの、飲みたい」
「ムーンシャインっていってね、月明かりの下でひっそりと育まれたバーボンなんだ」
「私への恋、ひっそりと育んでくれてる人いないかしら」
「いるさ、すぐそばに」
「前から聞こうと思ってたんだけど、ろしやなうまかぼうって、どんな棒?」
「あえて言えば房だけど、光明真言の一部さ」
「それって、縁結びの願かけするとき、マスターが唱えるっていう呪文よね」
「そうだよ。おん、あぼきゃべい、ろしゃなぅまかぼ......」
「それのことだったの、アッハハハハ~」
 小百合は、さも面白いものでも発見したかのように笑い転げる。
「あ~、おっかしい。でも、やっと落ち着いてきたわ」
「じゃあ、生まれ変わったきみに、乾杯!」
ムーンシャインのグラスを鳴らしたとき、月明かりに映える深大寺の森を見て小百合が声を上げた。
「あ、雪! 月夜に舞う雪ってきれい。晴れた昼間に降る雨のことを狐の嫁入りっていうんなら、これは、狸の嫁入り?」
「俺ひょっとして、狸に化かされてる? それならそれで、化かし続けてほしいな」
「思いついたんだけど、ろしやなうまか望っていうの、どうかしら」
「希望の望か、いいね」
「このバーボン、美味しいわ」
「密造酒だからね、秘密めいた味わいが素敵なのさ」
「秘密を持ってる女にも、素敵な味わいがあるかしら」
「あるさ、極上のがね」
「ムーンシャイン・ワルツ......、私と踊ってくださる?」
「もちろん、喜んで」

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<著者紹介>
桜木 らんか(愛媛県今治市/50歳/男性/漁師)

大きな白い犬が立ち止まり、顔を上げると笑顔が迎えてくれた。犬とあまり変わらない小柄な娘がリードの先を握っている。
「こんにちは」
笑顔といっしょに言葉を交わす。
「空が青いね」
若者は空を見上げて絵筆を走らせる。
「ええ、そして青くて高いわ」
娘は大きな白い犬の背中を回り込むようにしてベンチの端に腰掛けた。
「品のいい犬だね」
「ボルゾイというの、ロシアの犬」
「賢そうだ。それに高そうだ」
「きっとね、高いと思う。でも私の犬ではないの」
かおりは犬の散歩を仕事にしている。週に一度、そのボルゾイを神代植物公園のドッグランに連れて行き、走り回らせている。
これまでも絵を描く若者の姿はしばしば捉えていた。寺や深大寺の城跡、大けやきのの前でよく見かけていた。まるでかおりの散歩の先回りをしているようにその姿がある。あるいは自分が彼の後を追いかけている。どんなに遠くからでも彼の鋭い視線は感じた。それがたとえかおりに向けられたものではなくとも彼女はそれを感じ、それが彼のものであるという自信があった。
「毎日描いているの?」
 「毎日描いている」
 「何を描いているの?」
 「花や木、野川に足を伸ばしたときには野鳥。花も木も、野鳥も、季節が変わるたびに色も種類も変わるから飽きないで描ける」
 「先週、あなたはドッグランにいたわね。走る犬も描くの?」
毎日のように犬を散歩する若い女の後姿を追っていた。そうしたらドッグランに辿り着いた。普通に散歩している犬を画きたいと思ったことはない。走り回り、激しく動く犬は魅力的だ。彼の目がレンズになり彼の瞼がシャッターになる。犬の瞬間を捉えては絵筆を滑らせた。
これまで、花や木を描くときも鳥を描くときも、彼の視界の中に、その娘の姿があった。それは等身大ほどのこともあれば米粒ほどのこともある。いつしか彼のドローイングの中で、犬のリードを引く娘は大事な存在になっていった。
 「犬は初めてだ。いつもは神代水生植物園。入園料かからないから。」
 お互いに相手のことは知らない振りをして話している。この距離でいいはずだった。にもかかわらず会話はぎくしゃくとしている。
深大寺を真ん中にしたこの武蔵野の一角で、遠かったふたりの距離がベンチの右と左になった。ボルゾイがかおりを引っ張り、彼が男の目の前で立ち止まった。首をかしげて不思議そうに見つめるボルゾイを、すばやく写し描く。その手元をかおりが覗き見ていた。
「まるでモディリアーニの女ね。長い首をかしげている」
「アメディオ・モディリアーニ。そう言われるとうれしいな」
「ジャンヌと出会ってからが絶頂期ね」
「横たわる裸婦、お下げ髪の少女」
そのときかおりはジャンヌに、彼はアメディオに自分を重ねた。同時に顔を見合わせて、笑う。
「学生なの?」
「なりそこない。今は学生ではない」
芸大を目指している。目指していたというほうが正しい。芸大以外の美大には興味がない。卒業生の実績をみれば一目瞭然だ。芸大に行っても意味はないかもしれないが、芸大を目指すしかない。芸大の予備校に通っているのではなく、もし受かったとしても入学金さえ今はない。だからひとり、ドローイングを重ねている。テーマを絞らずにあらゆるものを描く。この街に移り住んできたのも画材に不自由しないからだ。花も木も空もある。鳥もやってくるし雲も流れている。ここは都心にもっとも近いオアシスだ。晴れた日は歩き回って描き、雨の日は色を重ねる。週末だけのアルバイトでも何とかやっていける街だ。
「人物は画かないの?」
「モデルを頼む余裕がない」
「わたしがなってあげましょうか?」
かおりは自分でも驚くほど大胆な言葉を発した。
「脱いでくれるの?」
「どうしようかしら」
笑いながら惚けて際どいやりとりを交わす。どちらも冗談めかしているが、実は本気だ。ふたりにはそれがよくわかっていた。この深大寺でそれぞれの存在を意識はしていたが交差することはなかった。近づいては遠ざかる。そしてまた近づく。その繰り返しだったが、ボルゾイのおかげであっという間に交わった。ランチを一緒にする約束をしてその午後は別れた。
ふたりの会話はとても楽しいものだった。彼が笑顔を投げるとかおりも笑顔を返してくる。長い時間笑いながらしゃべり続けていた。外に出て歩きながら彼は言ってみた。
「モデルになってくれる?」
「ええ」
間髪を容れずに応えが返ってきた。ふたりはアトリエにもなっているアパートメントへと向かう。歩く道すがら、言葉も笑顔も絶えない。扉の脇の植え込みには羽衣ジャスミンが咲き誇っていて、妖しい甘い香りが漂っている。部屋の中もその移り香で溢れていた。彼はさっそく真っ白なノートを開いた。彼はかおりを夢中で描く。白いページは次から次へとかおりでいっぱいになっていく。笑顔、横顔、赤い唇、ちょっと上を向いた鼻、頬にかかる髪。
「ひと休みしよう」
彼はそう言い残してキッチンに立った。かおりはベッドに座って自分を描いたドローイングをめくっている。
「何だか不思議、絵の中の自分を見るの」
彼は暖めたミルクに珈琲を注ぎ、アカシアの蜂蜜をたっぷり入れた。
「美味しい、このカフェオレ。この甘味は何?」
「アカシアの蜂蜜」
ふたりでひとつのカップを飲みまわした。ふと部屋の隅の大きなビニール袋にかおりの目が止まる。
「あれは?」
「パンの耳」
「あんなにたくさん、どうするの?」
「消しゴム、そして主食。パンの耳をかじりながら絵を描く、パンの耳でいらないところを消すの」
かおりはパンの耳から彼の目に視線を動かした。しばらく彼の目を真っ直ぐ見つめた。見つめられた彼の目は釘漬けになる。
そのまま視線を動かさず、かおりは身に纏ったものを脱ぎ始めた。彼はうろたえる。かおりはすべてのものを床に落とすと、かたわらに脱ぎ捨ててあった彼の白いシャツを羽織った。彼はようやく震える手で絵筆を動かし始めた。
その日からかおりはアトリエに住むことにした。彼は流れに身を任せるばかりだ。
週末の三日間、彼は午後から深夜にかけてトラットリアで皿を洗う。残りの四日は花や木や鳥に、かおりを描く。彼のバイト代は絵の具代に消え、かおりの散歩の仕事の見返りで暮らしていた。けっして豊かではないが幸せな日々が続き、出会ってから季節がひとつ通り過ぎた。
「聞いてくれ、料理しないかと言われた」
「お皿を洗うほかに?料理?」
彼の仕事は皿洗いだ。彼が皿洗いであることに、かおりは何の引け目も感じてない。彼の仕事が何であれ、彼はかおりにとって唯一の画家だ。
「賄いを作ってみろって言われて作ったらほめられて・・・」
店のシェフは彼の動きを見逃してはいなかった。ソースを舐める彼の仕草をプロは見ていた。彼の目はいつも執拗にシェフの指先を追いかる。シェフは彼を試してみた。そのことに彼は見事に応えてしまった。
「あなたは料理人になりたいの?」
いつになく強い語調には閉口した。さまざまな素材を駆使してできあがっていく料理に興味があったが料理人になるつもりはない。シェフの手さばきを見つめているうちにたくさんのことを覚えてしまった。覚えるほどに自分の腕を試したくなるのは当然だ。
「いつ首になるのかわからないアルバイトよりはましだ。いもの皮をむいて、そのうち牛蒡や人参もむいて、いずれは料理を作る。毎日来いって言われた、料理人になれるかもしれない」
「絵はいつ描くの?」
「絵はいつでも描く。時間が少し削られるだけだ。君にばかり頼ってはいられない」
「わたしはすきであなたの傍にいるのよ。絵を描くあなたの傍に」
「これからも絵は描くよ。そしてこれは君のためでもあり、ふたりのためだ」
その日から彼は一日のほとんどをトラットリアで過ごすようになった。かおりは毎日犬の散歩に出かける。ボルゾイはドッグランで走り回る。そのボルゾイの走る姿の向こうに彼はもういなくなった。
アパートメントに戻ったかおりは彼の白いシャツを着た。だぶだぶの袖をひじのあたりまでまくり上げ、彼女を描いた彼の画集を小脇に抱えて扉を出た。空はあの日と同じように青くて高い。羽衣ジャスミンの香りとアカシアの蜂蜜の味を思い出しながらかおりは歩き始める。どちらもたしかに甘かった。

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<著者紹介>
宇高 薫(東京都渋谷区/53歳/男性/無職)

十年ぶりの深大寺だるま市。ぼくは、境内に続く山門に立ち、深く息を吸った。梅の花が香ってくる。右手にだるま、左手は恋人のアイの手とつないでいる。ぼくたちはこの秋、結婚する予定だ。
今日はだるまの右目に、梵字で「吽(うん)」を入れてもらうために来た。ほんとうの恋の成就。その願いが叶ったから。左目には、十年前に書き入れてもらった「阿(あ)」の字が入っている。本堂奥の元三大師堂に足を向けながら、十年前を思い出していた。アイと出会う前の、ぼくが二十歳だったときのこと。今でも時々思う。あれは、現実だったのだろうか。

彼女はそこにいた。
新宿の雑踏に立ち続ける彼女を初めて見たのは、東京に出てきてほどなくだった。
彼女のまわりだけ、時間も季節も止まっていた。いつの時代のものなのかわからない、枯れ草もようの薄緑と茶色のストールを細身の体にきっちりとまきつけ、自分を抱きしめるようにきつく両ひじをつかんで、うつむいて、でも毅然と立っていた。
年齢もわからなかった。肩までのまっすぐな髪に、よく見ると老婆にも、少女のようにも見える、時代錯誤な眉山のきりりとした化粧をして、はかなげな目が孤独を湛えていた。
 ストールのせいでなのか、いつでも彼女のまわりにだけ晩秋の空気が漂っていて、見ているとたまらない淋しさがこみ上げた。
東京に出てきて二年、大学生活にも慣れてきた三月だった。
「あっ、またいた」
合コンに急ぐ駅の地下道で、テニスサークル仲間のシュウがささやいた。彼女だ。
「ああ、あの人、いつもあそこにいるよな」
「知らねえのか?有名な話。あれ、売春婦らしいってウワサだぜ」
シュウはニヤリとして言った。
「あそこで立って、客待ちしてるらしい。なんか怖ええよな」
「ふーん」
 なごり雪が降ったばかりだったけど、さらに冷え込んできた気がして、ぼくは足を早めた。
 東京に出て下宿生活を始めれば、たちまちカノジョができて、とバラ色の学生生活を想像していたのに、恋愛しても一ヶ月も続かない。仲間には、ドライで冷たい男だといわれてるらしい。最近はもう、合コンに行ってもひたすら飲んでばっかりだ。
「...ねえ、飲みすぎたの」
肩をゆすられて気づいた。地下道で寝転がっていたらしい。心地よいアルトの声の主をさがす。「彼女」だ。やっぱり、間近で見てもトシがよく分からないな。
「大都市は冥界よ」
酔っ払ってるのに、その奇妙なフレーズはぼくの頭にハッキリと焼きついた。それで、なんとなく聞いてしまった。
「あの、なんでいつもここにいるんすか」
「人を、待ってるの」
「誰を?」
「婚約者よ。約束したの。待ち合わせ」
「待ち合わせ?」
「深大寺に行くの。調布の」
彼女は夢みるように言った。
「なかなか来てくれなくて、待ちくたびれたわ。ねえ、明日、一緒に深大寺に行ってくれない?だるま市があるの」
「ああ、いいっすよ」
なぜそう答えてしまったのかよく分からないままに、翌朝地下道に行ってみると、彼女はきりっと立っていて、こっちを見た。
「行きましょう」
あ、やっぱホントだったか。シュウの言葉が頭をよぎったけど、ぼくは彼女について歩きだした。売春婦だろうと何だろうと構わない。彼女には何かがある。そう感じたのだ。
「ずっと、待ってた」
電車の窓から外を見ながら、彼女はつぶやく。
「深大寺は、婚約者の故郷なの」
複雑な事情でもあるんだろうか。いろいろ突っ込んでみたくなったけど、彼女の目が潤んでいるような気がして黙った。
 だるまを並べた屋台と人だかりでにぎわう深大寺の境内を、彼女は、ゆっくりと歩いた。ひとつ、ひとつの木を見上げ、雪どけの空気を、ていねいに呼吸しているようだった。
「ずっとここに来たかったの。ここから歩いてすぐの小さい家で、新婚生活を送るはずだった。新宿駅で待ち合わせしてたの」
「ふーん」
来なかったってことは、ダマされてたんじゃねえの?内心そう思いながら、相槌を打つ。
「彼は、帝都東京の空を守ってた」
吹き出しそうになった。なんだよ、「帝都」って。「空を守る」、って。戦闘アニメか?
「調布の飛行場に配備されていた。B29から故郷や家族、そして私を守るんだって、張り切ってた。休暇で帰ってくるはずだったのに、もう六十年近くも過ぎてしまった」
「ハ?」
ぎょっとして立ち止まった。B29、って戦争中の話じゃないか。だいたい「六十年」て、待ち合わせに遅れたとかいうレベルの話じゃないだろ。彼女のアタマは確かなのか?
「ここはね、恋がかなうところ。時代を超える、本物の恋よ。...ね、思い出して」
彼女は正気じゃない、と考えるのが普通だろう。なのに...、今日ここに来たのは、酒のせいだけじゃない。どこかでわかっていた。  
―最初からぼくは、彼女がなつかしかった。とても。
「私は昭和二十年の三月三日、あなたが来るのをずっと待っていた。待ち続けたまんま、新宿駅は三月十日の東京大空襲で焼け落ちた。でも、いつか必ず来てくれると思ってた」
 ぼくは小さいときから飛行機が恐怖だ。おそらく一生、乗ることはないだろう。そう言うと、彼女はうなずいた。
「あなたが乗った『飛燕』は、墜落してたのね。だから待ち合わせに来られなかった。生まれ変わったあなたを新宿の地下道で見つけたとき、分かったの」
「飛燕」とは、第二次世界大戦中に調布飛行場に配備されていた、日本陸軍航空部隊の戦闘機だ。東京上空に来襲したB29に体当たりして撃墜することもあったという。彼女はそう説明してくれた。
「うん、そうだ。行けなくてごめん」
半ば呆然としながらも、冷静なぼく。
歩き疲れたので、山門を出てすぐの門前そばの店に入った。彼女はぼくを見て笑った。
「ねえ、私のこと、不気味だと思う?」
「あ、いや」
彼女に足はあるな。体も透けてないな。なんてことを考えていたので、ドキっとする。おいしそうにそばをすする彼女は、どうみても生身の人間だ。あいかわらず、不思議な空気をまとっているものの。
「『人間が存在すること』なんて、不確かなものよ。私はずうっと、あなたを待ってた。ほんとは、途中から生きてなかったのかもしれないけど。でもね、雑踏の中の人たちの、誰が現実に存在していて、誰が存在していないのかなんて、証明できる?」
 迎え酒の地ビールを飲み干して店を出、ぼくは店の目の前の、湧き水の淵にしゃがんだ。不意に涙がにじんだ。ここに来るために。ここに来るために、長い旅をしてきた。そんな気がしたからだ。
「焼け野原だったことも、今の東京のネオンも、一瞬の幻。私にとって確かで変わらないのは、このお寺だけ」
雪どけの清涼な空気は、キラキラと澄んでいる。彼女の目は、穏やかだった。
「私はあなたと、戦前のだるま市で出会ったの。お互い両親に連れられて。私はお化粧して、下駄はいて。出会ったときから、あなたに恋をしてた。あの頃はそんなふうにして、ここでたくさんの夫婦が生まれたのよ」
彼女は、屋台のだるまを検分しはじめた。
「左目に『阿(あ)』の字を入れておくから、いつか願いが叶ったら、必ず右目に『吽(うん)』の字を入れに来て」
ぼくに手渡した。
「ねえ、ここにまつられている深沙大王という神様はね、姿はとっても怖いんだけど」
彼女は童女のようにほほ笑んだ。
「引き裂かれた恋人たちを再び引き合わせる手助けをする、やさしい恋の神様なのよ」
「確かに、そうかもしれないな」
ぼくはうなずいた。彼女は近づいてきて、ふわりとぼくを抱きしめた。深いやすらぎが、ぼくを包んだ。
「もう、行くわ。これからあなたは、ちゃんと恋ができる。多分、飛行機も怖くなくなる」
「あの」
行かないでほしい。声が震えた。
「あなたは、幸福でしたか?」
「そうね。ほんとは悔しい。とても、ことばでいい表すことはできない」
白目が青く見えるほど、透んだ瞳だった。
「それでもね、愛し続けた時間が、確かに私の人生だったのよ」

だるまの左目に「吽(うん)」を書き入れながら、僧侶はつかの間、ぼくを見つめた。いつもふざけてばかりのアイも、神妙に受け取る。
「いつかさ、ここの近くに、小さな家を建てよう」
「うん、私もこういう緑の多いところがいい」
アイは、微笑みながら続けた。
「大都市は、冥界だから」
思わず足を止めたぼくの手を、アイは強く握った。伝わってくる、あたたかな脈動。
「彼女」はあの日山門で、ぼくに笑顔で手を振った。そしてそれきり、今日まで一度も見たことはない。

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<著者紹介>
Saki(東京都板橋区/32歳/女性/会社員)

「おばあちゃん、あたし、超ヤバい。」孫娘のサナエがつぶやいた。
「えっ、何だって?何がヤバイって?」早苗は聞き返した。最近、いやずっと前からだが二十になったばかりの孫娘が何か言葉を発するたび、日本語ではなく外国語を話しているような気がするのだ。外国語どころか宇宙人語ではないかと思う時もある。
「やっぱマジ、ヤバイ。」うつ向いたままサナエが宇宙語を繰り返す。
「あんたの言っていることはさっぱりわからないね。一体何語を話しているんだい。ヤバイって何か世間様にご迷惑でもかけるようなことしたのかい。」早苗はせっかちに聞いた。
「あたし、幽霊に魅入られちゃったみたいなの。」やっと顔を上げたサナエは今度は宙を見据え、ため息混じりに答える。
「あんた達若者は私にとったら宇宙人みたいなもんだけど、宇宙人じゃなくて幽霊だって?」早苗自身にも自分が何を話しているのかよくわからなくなってきた。
「そうなのよ、幽霊君に恋しちゃったみたいなの。」
深大寺の境内を六十も離れた孫娘と肩を並べて歩きながら、またサナエがわけのわからないことを言う。だがさっきよりずいぶん話の核心に近づいてきたようだ。
「ふーん、あんた誰かに恋してるってわけだね。」大学の三回生になったばかりの孫娘のサナエの話によるとこうである。先週帰宅途中に深大寺の境内を通ると、生物学で同じクラスの男子学生が桜の木の前に一人佇んでいたという。だが教室で彼が他の学生と話しているのを見たこともなければ、笑ったところさえ見たことがない。背は結構高くて百七十八センチくらい。痩せてひょろっとした体に一度も日焼けしたことがなさそうな青白い顔。その姿でいつもふらっと教室に現れ、一番後ろの空いた席に座る。そして授業が終るとふらっといなくなる。ある日クラスの男子学生の一人がつぶやいた。「あいつってまるで幽霊みたいな奴だよな。」その時からサナエの周りでは彼の名前は「幽霊」になった。誰も彼の本名を知らないようだった。その「幽霊」くんが桜の木の前に一人佇み、蕾に向かってまるで話しかけるかのように微笑んでいたのだという。だがその笑顔を見た時、サナエは「キモい」と思わず、彼の笑った横顔が「美しい」と思った。そしてその日からサナエは生物学のクラスに彼が現れるのを密かに待つようになり、彼の存在が気になって授業に集中できなくなったのだという。「ふーん、なんだか不思議な子だね。そのミステリアスさに魅かれたのかな。」と早苗が言うと、サナエは頬を赤らめ「やっぱりお母さんじゃなくておばあちゃんに相談してよかったわ。」と言った。
「それであんた今日私をここへ連れてきたんだね。」早苗が聞くと、「ピンポーン!当たり!」サナエの目が輝いた。
「でも、その幽霊君とやらは今日もここへ来るかね。」早苗は尋ねた。
「絶対来る。なんかそんな気がするの。だって桜がこんなに綺麗なんだよ。蕾を見て微笑んでいたくらいだから、花が開いたとこを見に絶対ここへ来るってば。」サナエは自信ありげに言った。
 その日から早苗は二十の孫娘に手を引っ張られ、毎日深大寺の境内に通う羽目になった。自分の娘、つまりサナエの母に頼まれていたなら、こんなにも熱心に付き合わなかっただろう。だがこの六十も年の離れた孫娘とはいつもいろんな面で感性が合うのだ。深大寺に通わされているうち、早苗自身もだんだんその「幽霊」くんなるものを一目みたくなったのである。二人の深大寺通いが始まって一週間が過ぎた。
「サナエちゃん、あんたが見たのは実物じゃなくて幽霊だったんじゃないかい?」早苗は孫娘に聞いてみた。
「いや絶対そんなことない。だってちゃんと足があったもん。」サナエは口を尖らせた。
「おばあちゃんもね、若い頃よくここで初恋の人を待ったもんだよ。」早苗が言うと、「えっ、それって死んだおじいちゃんのこと?」サナエが好奇心に満ちた眼差しを向ける。
「違うよ。その人はね、おじいちゃんに会う前におばあちゃんがすごく好きだった人さ。英治さんと言ってね、終戦の年に南の島で戦死しちゃったんだよ。サナエと同じ二十の時さ。今はシンガポールと言うけど、その当時は昭南島と呼ばれていた島でね。」早苗は答えた。
「へえー、おばあちゃんにそんなロマンスがあったなんて、ちょっと意外。ねえ、その英治さんってハンサムだった?」サナエの目が輝く。「そりゃあ、男前だったよ。なにしろおばあちゃんの初恋の人だからね。英治さんが戦死したっていう知らせを聞いても信じられなくてね。この深大寺に毎日来て仏様に祈ったもんさ。英治さんが死んだなんて嘘。英治さんはきっとここに無事に帰って来ますよね、ってね。」早苗は話しているうちに急にこの満開の美しい桜を一目、初恋の人に見せたかったと思った。「昭南島は常夏の島だからね。桜なんか咲いてないんだよ。英治さんは日本男児だから、きっと死ぬ時はこの桜の下で死にたかったと思うよ。」早苗が言うと、孫娘はコックリとうなづき「そうだね。」と一言つぶやいた。夕闇が迫り、境内を歩く人の姿もまばらになってきた。
「ああー、幽霊くん、今日も来なかった。おばあちゃんの言う通り、やっぱり幽霊でも見たのかな。」サナエは肩を落とし大きなため息をついた。「今日はもう遅いし、近くでお蕎麦でも食べて帰ろうか。去年菜の花の天ぷらと一緒に食べた店がすごくおいしかったよ。」早苗が言うと孫娘は無言でうなづいた。
 二人は満開の桜に背を向け、寺の外にある蕎麦屋に向かった。「腹が減っては戦はできぬ、ってよく言うでしょ。恋にもエネルギーがいるんだよ。明日もう一回だけ一緒に来てあげるから元気出しておくれ。」早苗はまだため息をついている孫娘の肩を軽く叩いた。その時だった。桜の木の方を振り返ると、遠くの方から白い人影が近づいてくるのが見えた。「あっ、幽霊くん!」サナエがそう叫ぼうとしたと同時だった。「あらっ、英治さん!」隣にいる早苗が叫んだ。そして人影に向かって走り出した。「おばあちゃん、どうしたのかしら。」サナエは驚いてその場に立ちすくんだ。祖母の姿がどんどん桜の木に近づいて行く。祖母と幽霊くんが桜の木の下に辿り着いたのはほぼ同時だった。「英治さん、やっぱり帰って来たのね。」早苗はそう言うと、両手を広げ幽霊くんの体に抱きついた。
「やだ、おばあちゃんったら何してるの?」サナエは恥ずかしさのあまり、できることなら、この場から消えてしまいたいと思った。
サナエが山門の影に身を隠そうとした時だった。一陣の風が吹いて、桜の花びらが空中に舞い上がった。幽霊くんに抱きついた祖母の姿が桜吹雪にかき消され、二人の姿が一瞬見えなくなった。茜色の空をバックに薄紅色の花びらが散る、その幻想的な美しさにサナエは呆然とした。「これは夢かしら。」
 桜吹雪の中から二人の姿がおぼろげに夕闇に浮かび上がった時、サナエはやっと我に返り、二人がいる桜の木の下に向かって走った。「おばあちゃん、なんてことするの。その人、英治さんじゃないわよ。」サナエは叫んだ。
「えっ、英治さんじゃないの。じゃあ、この人だあれ?」早苗が聞く。
「私の幽霊くんよ!突然抱きつくなんて失礼じゃない。」サナエの甲高い声を聞いて、祖母はやっと我に返ったようだった。
「この人がサナエの幽霊くん?だって英治さんにそっくりじゃないか。」早苗が不信そうな顔で聞き返す。二人の女性のやり取りをしばらく見ていた青年はおかしくてたまらないというように「ぷっ」と吹き出した。そしてこれ以上笑いを堪え切れないというようにガハハと大声で笑い出した。
「あっ、幽霊くんが笑った!」「本当だ、笑っている。やっぱりこの人幽霊じゃないよ。ちゃんとした人間だよ」祖母と孫娘はまじまじとお互いの顔を見合わせた。
「そうです。僕は幽霊じゃありません。人間です。」暗闇の中で青年は声を発した。
青年は二人の女性に自己紹介を始めた。「僕は台湾から来た留学生で陳と申します。六ヶ月前に日本に来たばかりで、日本語はまだ上手く話せませんが、どうぞよろしくお願いします。」以外にも滑らかな日本語だった。
「なあーんだ、そういうわけか。だから教室でも誰とも口を聞かなかったのね。」サナエは納得したというように頷いた。
「陳くん、幽霊なんて呼んですまないね。それに暗闇の中で急に抱きついたりなんかして悪かったね。許しておくれ。初恋の人にあんまりそっくりだったもので。」早苗は言った。「サクラ、とても綺麗ですね。」陳と名乗る青年が言った。
「そうね。でももうこんなに散ったから明日から見られないかもね。」サナエがそう言うと、風が吹き花びらが三人の肩に積もった。肩についた桜の花びらを摘みあげて、陳青年は「ふっ」と笑った。二人の女は笑みを浮かべた、その横顔の美しさにしばし見とれた。そしていつまでもこうしていたいと思った。
「なんだかお腹が空いてきたね。陳くんもよかったら一緒にお蕎麦を食べに行かない?」早苗が誘うと青年は答えた。「僕、ソバ大好きです。」
「じゃあ、決まり!早く行こう。」
三人が深大寺の山門を通り抜け外に出ると急に雨が降り出した。
「走ろう。早くしないと皆濡れちゃうよ。」サナエが言うと、雨はいっそう激しく降り出した。
桜の花びらを敷き詰めたピンクの絨毯の上を三人は手をつないで走った。

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<著者紹介>
サナエ・チャン(アメリカ・ロサンゼルス/46歳/女性/料理研究家)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
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ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

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