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<第4回応募作品>「チキンと恋を嗅ぐ犬」 著者:矢須田 青吾

ヨーコを預かることになってしまった。
それは数少ない完全にオフとして扱える休日で、わたしは昼間からワインを飲み、優雅なひとときを過ごしていた。
そこへ一本の電話が水を差した。
〈お姉ちゃん、久しぶり〉
 妹の美夏だった。四つ下で、思いついたら即行動のアクティブなやつだ。いつも忘れかけたころにひょっこり連絡を寄越す。
「いまね、今日は最高だなって思ってたの」
〈思ってた、ってことはなにが言いたいの?〉
「あら、べつに他意はないけど」
〈けど、なに? ……まあ、いいや。ねえ、お姉ちゃん、お願いがあるんだけど〉
それはもうわかっていた。美夏が連絡をしてくるときはそういうときだけだ。しかし心に余裕のある、こんな日にかけてくるなんてどうやら鼻が利くらしい。
「聞くだけ聞いてあげる」
〈お姉ちゃん、ワンちゃん好きだったよね?〉
「ワンちゃんよりミスターのほうが好き」
 返答がお気に召さなかったと見える。耳元に大きなため息が届いた。
〈またワインでも飲んでるんでしょ?〉
「わるい? せっかくの休みでなにも縛るものがないんだもん。そりゃ飲むわよ」
〈寂しい。でもお酒で寂しさは消せないんだよ? だって寂しさって人恋しさだから〉
 急にまじめなことを言うから言葉が内側に響いて重さを帯びたように感じた。
〈お姉ちゃん、この世にあるほとんどは待ってるだけじゃなにも変わらないんだよ〉
 たしかに一理ある、と思ったけれどわたしはこう答えた。
「Let it beって考え方もあるよ」
〈……ま、そうだけどさ。話戻すけど、ここでいう『ワンちゃん』は犬のこと。わかる?〉
「わかってるよ、そんなこと」
 酔ってるけど勘が鈍るほどではない。はぐらかそうとしたのにムダだったようだ。お願いの一端が見えてしまった時点でわたしの負けだった。こちらから折れることにした。
「ヨーコをどうすればいいの?」
〈やっぱりできる女は話が早いね。葉子お姉様、だから好きだわ〉
 それから美夏は預ける理由やヨーコの好きなもの、好きなこと、やって欲しいこと、やらないで欲しいことをつらつらと並べ立てた。
 わたしはときおり相づちを入れる優秀な聞き手になり、ひとしきり話を聞き終わってから重要な質問をした。
「で、いつまで?」
〈……三ヶ月くらい?〉
 この言葉を最後に美夏はツーツーとしか喋らなくなった。かけ直しても「ルスバンデンワサービスセンター」などと極めて機械じみた声しかださなくなった。あんにゃろう。
 どうしたってヨーコを連れてくるときに顔を合わせるんだから、そのときにはっきりさせてやる、と息巻いたが、甘かった。
 電話から数日後の朝、玄関先に手提げのケージが置かれていた。リボンの付いたシャトーなんとかって高そうなワインが添えられて。

ヨーコを預かって欲しい理由はイギリスに滞在するかららしい。いま付き合ってるイギリス人の彼が一時帰国するから付いていくのだそうだ。
わたしの知る限り、妹は過去にこっぴどくフラれることが何回かあって、それでも気が付けば次の恋ってやつにちゃんと落ちていた。
痛い目はとくに遭ってないが、落ちることにいちいちためらう、この姉とはちがう人種のようにさえ思えてくる。
「あんたもさ、イギリスに連れて行ってもらえたらジョンに逢える確率が増えたのにね」
 足元にいたオノ・ヨーコが名前の由来という小さな居候に語りかけた。
「ま、恋に生きるばかりが女じゃないよ。名前が同じ者同士、仲良くいこうじゃないの」
 ヨーコはツンと鼻を上げ澄ましたような顔つきをした。「いっしょにしないでもらえる?」なんていうみたいに。
 さらにテーブルに体当たりした。危うくもらったシャトーなんとかが倒れるところだった。こんにゃろう。

 ヨーコがリードをぐいぐい引っ張りながら進む。時おり空気を嗅ぐようにして、まるで行き先をわかってるみたいだ。
ヨーコは水が好きなんだ、と美夏が言っていたのを思い出して、湧水で有名なお寺に向かって散歩していた。
「水の匂いでもするわけ?」
 するとヨーコはさっきからやってるように鼻先を上に向け、そこにある空間を嗅いだ。「この匂いがわからないの?」とでも言わんばかりに。
「わかんないわよ、そんなの」
 うりうりとからだを撫で回してやると身をよじって離れた。うちに来てひと月経つが、まだわたしたちの距離は遠いらしい。
 小学校の角を折れて参道の坂を下ってしばらく行くと道の脇に水路が見え始め、夏の手前の陽光を反射させていた。
ヨーコはそのキラキラが気になってしょうがないらしく引っ張ってないと落ちそうなくらい身を乗り出して眺めていた。
いつまでもそうしていそうなヨーコを抱き上げ、山門の石段脇にあるベンチに座った。
土曜で天気もよいとあって人が多い。おそば屋さんや甘味処に吸い込まれてく人たちやお土産を手に取る家族連れなどが目に付いた。
お寺に入ってくカップルもいた。
眺めてると石段で彼女がつまずいて彼氏が腕を取って助けた。彼氏はホッと肩を撫で下ろし、彼女は舌を出した。でもふたりともどこか楽しそうだった。
そういえばこのお寺は縁結びのご利益があるんじゃなかったかな。
縁という言葉が浮かぶと昨日のことが急に思い出されて思わず言葉がついて出た。
「返事、どうしよう」
 ヨーコを降ろすと首を軽く傾げた。「なんのこと?」って感じに。
 昨日の帰り、退社がいっしょになった会社の後輩に「休みの日に僕とごはんでも行きませんか?」と誘われた。返事が決められず、まごついてると「じゃあ返事がどちらでも決まったら連絡ください」とケータイ番号の書かれたメモをもらった。
 背はそれほど高くなく、清潔感があって、控えめだけど暗くはない。わるくない。だからこそ、適当に付き合ったりしたらわるい。
「きらいとかじゃないんだ。でもね」
急にリードがぐいっと引っ張られ話の腰が折られた。見るとヨーコが犬のくせにネコのポーズを決めて、やってきたオス犬に近づき、ブンブンとシッポを振っていた。
「こら! ダメだったら」
「元気なワンちゃんね。かわいいわ」
 目を線にして微笑む、柔らかな空気を醸すご婦人だった。水色の帽子が似合っていた。
その色は、彼のネクタイを思い出させた。
「ワンちゃんのお名前、なんていうの?」
「ヨーコっていうんです」
「うちのは、ジョンっていうのよ」
「ジョンって、もしかしてジョン・レノンから取ったんですか?」
「ジョン万次郎ってご存知? 主人はその人から取ったって言ってたんだけど」
「知りません」とわたしは笑った。
「あたしもなの」とご婦人も笑った。
 ベンチの端に寄るとご婦人が腰を下ろした。
「あなたのお名前は?」
 ちょっと迷ってから「わたしも葉子なんです」と告げた。
「あら、おんなじ名前なのね」とご婦人は驚いてからやっぱり笑顔になった。
 じゃれ合う二匹に目を落とすと、わたしたちの間には沈黙が落ちた。ご婦人はヨーコを撫で、ヨーコはその手を舐めた。
その薬指には銀色のリングが光っていた。わたしはすこし速度を速めた鼓動を感じ、そっと視線を外した。
 水分を吸い込んだような瑞々しい風がふたりと二匹を撫でていった。
 冷たさが心地よくて目をつむった。どうやらわたしの身体はあるものを意識して熱を帯びてるらしい。
 電子音が聞こえた。ご婦人はケータイを取り出し、二言三言通話して切った。
「主人を迎えに来たんだけど先に家に着いちゃったみたいだわ」
 参道の先でご婦人と別れた。ヨーコがシッポを振って、わたしは手を振った。応えてくれたシッポと手のひらが小さくなっていった。水色の帽子が角に消えた。
 ヨーコは腰を下ろして、いつまでもご婦人とジョンが歩いていったほうを眺めていた。一途な背中はなんだか切なかった。
 縁は一期一会なこともある。それを本能で知ってるのかもしれない。
ヨーコが吠えた。呼びかけるようなその声は「別れ、なんて始める前に考えること?」と叱られたように感じた。
しゃがんでヨーコと目を合わす。ヨーコの瞳にわたしが映っている。撫でてやると手の匂いを嗅いでふわりとシッポを振った。
 恋するメス犬は、仲間の匂いをわたしに見付けたのだろうか。
待ってるだけじゃなにも変わらないのよね。もしかしたら臆病で踏み出すことのできない姉に「こいつを見習え」とお手本を置いていってくれたのかも。
「きっと大丈夫」
ヨーコはようやく重い腰を上げ、わたしたちも帰路についた。
途中、わたしはポケットからケータイを取り出し、コールボタンを押した。

矢須田 青吾(神奈川県大和市/29歳/男性/会社員)

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