時間が止まったように古(いにしえ)の風情を残すベンガラで赤く塗られた柱と梁。それに支えられた茅葺屋根の山門に掲げられた山号額には〝浮岳山〟の文字が見える。その山門をくぐり抜けると境内に出る。東京では浅草寺に次いで二番目の古刹ではあるが、大木が無造作に隣立するわけでもなく、その箱庭のような境内は、モダンな印象さえ受ける。
ある晩夏のとても暑い日、陸はずっと想い続けてきた相手に手紙を書いて、下駄箱に、そっと忍ばせた。
陸の意中の相手とは、テニス部の綾香だった。綾香は物静かでおっとりとしたタイプだが、成績は常に学年でトップクラスの秀才だった。同級生はもちろんのこと、後輩たちの中にも何人かは綾香に好意を寄せている者がいることは知っていた。所謂〝高嶺の花〟だった。
〝今日の放課後、深大寺の境内で待つ〟
野球部の仲間たちからは「やり方が古い」と笑われた。
甲子園を目指してすべてを賭けて打ち込んだ高校最後の夏は、都予選の二回戦ですでに終わっていた。果たせなかった夢を後輩たちに託して、引退した陸の髪は少し伸びて、頭は毬栗(いがぐり)のようになっていた。そこから玉のような汗が数珠のように連なって流れ、糊の効いた真っ白な開襟シャツをぐっしょりと濡らしていた。それは暑さのせいだけではないことは陸も分かっていた。
「当たって砕けろ」帰り道などない玉砕覚悟の離陸だった。
とは言え、緊張と興奮で心臓は早鐘を打っていた。汗は相変わらず滝のように流れて、拭っても、拭っても、まだ足りなかった。右手に握った映画のチケットは湿ってクシャクシャになっていた。「落ち着け!」心の中で何度も叫んだが、それまでに培ってきたマウンド度胸など、クソの役にも立たなかった。そこへなぜか里美が現れた。
幼稚園のころからずっと同じ学校に通う幼馴染の里美は男勝りな性格で、チアリーディング部ではキャプテンだった。持ち前のリーダーシップをいかんなく発揮して、弱小と言われたチアリーディング部を全日本選手権で準優勝するまでにしたほどだった。
陸はこの里美との関係を〝腐れ縁〟と呼び、ずっと同じ学校にいることは「文部科学省の陰謀」と仲間たちに言っていた。
「な......なんだよ」
「綾香なら来ないよ」さっきまで滝のように流れていた汗がピタリと止まった。
「なんでおまえがそんなこと知ってるんだよ」
「あんたさ、告白する相手に彼氏がいるかどうかぐらいは調べなさいよ。ドジ!」そして陸が手に持ったチケットを見て、「ふうん。映画に誘うつもりだったんだ」と続けた。
 陸は慌ててクシャクシャになったチケットをうしろのポケットに押し込んだ。
「おまえに関係ないだろ!」そう言ってその場にしゃがみこんで顔を両手で覆い「終わった......」とつぶやいた。
「あんたね、それで終わりなの? あんたの〝好き〟ってそんなものなの? 相手に彼氏がいたら終わりなの? そんなんだから甲子園にも行けないのよ!」
 里美の言う通りだった。結果が出せなくても努力さえすればそれが美しいなんていうイマドキの高校生の〝一所懸命にやっいてるつもり〟が、里美のようなタイプからすれば物足りないと思われても仕方がなかった。
「ど......どうすればいいんだよ。彼氏がいるなんて知らなかったし......」
「そんなことわたしにだってわからないわよ。でもこんなところでコソコソやろうとしないで、あんたらしくストレート勝負したらどうなの? 最後の試合の最後のボールみたいに......」
〝最後のボール〟とは都大会の二回戦での出来事だった。九回の裏、スコアは二対一で陸のチームがリードしていた。ランナーは一・三塁で、ボールカウントはツーストライクツーボールと、あと一球で試合終了という場面。陸はキャッチャーが出すサインに何度か首を振り、大きく息を吸い込み、渾身の一球を投じた。
――結果はサヨナラヒットだった。
 小細工なしのストレートだった。その瞬間、陸の夏は終わった。
「あんたのこと、ずっとスタンドから見てきたんだから。そのわたしが言っているんだから間違いない。あのときのあんたは格好良かった」里美は自信を持って言った。「そりゃね、あのとき三振を取っていたら、もっと格好良かったわよ。勝負なんだから勝つに越したことはない。でもね勝負は時の運でしょ? これからも勝ったり負けたりして生きて行くんでしょ? だからその負けから何を学ぶかが大事でしょ。あんたはいったい何を学んだの?」陸は黙って考え込んでしまった。そして毬栗頭を掻きむしり、突然走り出した。
翌日、教室に陸の姿はなかった。里美は窓際の一番後ろの席に座り、主(あるじ)のいない陸の机を見つめた。机の天板には〝直球勝負〟と小さな字で書かれていた。それから少し離れた席に座る綾香と目を合わせて「きっと昨日のことのせいよ」と目配せした。
「ちょっと言い過ぎちゃったかな......」里美がそう思いながら窓からグランドを見ると、ユニフォームに身を包んだ陸が立っていた。
「篠崎綾香さん!」白球を握り締めた右腕を真っ直ぐに前に突き出して、のどが千切れてしまいそうな大声で叫んでいる。
「三年二組の篠崎綾香さん!」
授業は始まったばかりだったが、里美は窓を開けて身を乗り出した。綾香も隣の窓から外を見ていた。ほかの生徒たちも窓際に集まってきた。
遠くの窓に綾香の姿を確認した陸は「三年二組の篠崎綾香さん!」また叫んだ。
ほかの教室の生徒たちもそれに気付いて窓を開けて騒ぎ出した。グランドの隅にある体育教官室からは数人の体育教師が飛び出してきて、何かを怒鳴りながら逃げまわる陸を追いかけている。生徒たちはそれを見て大笑いしながら騒いでいる。授業を受け持つ教師が席に座るように言っても誰も言うことを聞かない。そして俊足自慢の陸上部の顧問がついに陸を捕まえた。陸はそれを振り払おうとしながらまた叫んだ。
「篠崎綾香さん! 好きだ!」
陸は「好きだ! 好きだ! 好きだ!」と力の続く限り叫び続けた。
里美が綾香を見ると、顔を真っ赤にしてうつむいていた。
その日の放課後、校長や担任にたっぷりと絞られた陸は、さっきまで走りまわっていたグランドの真ん中を、肩を落としてとぼとぼと歩いていた。まわりを歩く名も知らない生徒たちがそれを見て、噂話をしながらクスクスと笑っていた。テニスコートからそれを見ていた綾香は陸のところへ走り寄り、申し訳なさそうに言った。
「陸くんごめん。でもありがとう」
 陸は見事にふられた。でも後悔はまったくなかった。自分にできる精一杯のことをやった。そこから陸は胸を張って歩いた。
 翌日の日曜日、陸は深大寺の境内にいた。
「よっ! ふられ男!」そう言って声を掛けてきたのは里美だった。
「またおまえかよ。どこにでも現れるな。だいたいなんでおれがここにいるって分かったんだよ」
「ふられ男をからかってやろうと思って、あんたの家に行ったら、お母さんが『深大寺へ行った』って教えてくれたんだよ」
「だからっていちいち来るなよな!」
里美は陸と話すときにしては珍しく真面目な顔で言った。「誰かを応援するのがチアリーダーでしょ。今までだってあんたの試合があるたびにずっと応援してきたじゃん。これからだって――」里美は意を決したように凛々しい表情で続けた。「――これからだってずっと応援してやるよ」
「それじゃあ恋人みたいじゃん」陸は笑いながら言った。
「バカ! 鈍感!」里美は口を尖らせて横を向いた。
二人のあいだに沈黙が流れた。それは決して気まずい沈黙ではなく、今までのこと、これからのことを思い、感情を噛みしめるような沈黙だった。
先に口を開いたのは陸だった。ポケットからクシャクシャになった映画のチケットを取り出して横を向いたままの里美の顔の前に突き出した。
「よかったら行くか?」
里美はその手を叩き落とし、「ほかの女の子を連れて行こうとしたチケットなんていらないわ。わたしを誘いたいなら新しいのを買ってきてよ」と言って、立ち上がった。そして足早に歩きだした。陸もすぐに立ち上がって里美のあとを追いかけた。
「新しいのを買ってきたら行くのかよ」
「ふざけないで! 誰があんたなんかと。頭を下げて頼むなら考えてやってもいいわ。でも変な勘違いしないでよ! サヨナラホームランでも打ったつもりでいるの? バカ!」
 里美は顔を真っ赤にして、そっぽを向いて歩き続けていた。
「いや、せいぜいサヨナラヒットでしょ」
陸はそう言って笑った。里美は陸の肩を力強く叩いた。そして二人は素直になれないまま歩き続けた。

この二人が付き合うようになるのは、もう少し先の話である。

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<著者紹介>
青木 太郎(東京都府中市/40歳/男性/自営業)

「これ、何て読むと思う?」
靖也が差し出したメモ用紙には、くせのある字で〈鬼灯〉と書かれてあった。
「あ、どっかで見たことある――」
 とりあえず口にしてから、考える。靖也はよくこうやってあたしに難しい漢字を出しては、読めるかどうか試すのだ。
「鬼にあかり、でしょ......うーん......」
必死で考えるあたしを、靖也は愉快そうに眺めている。きっと分からないと思ってるに違いない。ま、実際、大抵は分からないんだけど。でも、今日こそ絶対に当ててやる。
「あ、分かった」突然閃いた。「ちょうちん!」
「ブ―」口で音を出してから、靖也はワハハ、と笑った。「惜しいけどな。今、絶対当たってる、って思ったろ。鼻の穴膨らんでたぞ」
「うそ」あたしは慌てて鼻を抑えた。図星だったのが悔しい。「で、正解は何よ」
「正解はね、ホオズキ」
「ホオズキ?」素っ頓狂な声が出てしまう。「何で鬼の灯りがホオズキ? 嘘でしょ?」
 嘘と言われたことにムッとしたのか、靖也の表情が少し固くなる。「鬼に灯り、で、中国語で『小さな赤い提灯』を意味するんだ。英語でもホオズキはチャイニーズ・ランタン・プラントっていうんだって」
「ふーん、でも、何でホオズキって言うの?」
「昔の人が実を口に含んで音を鳴らしたことからきてるんだ。頬を膨らませて突きだすようにして鳴らすから、頬突き、ホオズキ」
「へぇー」
あたしがようやく感心した声を出すと、靖也は満足した表情になった。
「で、来週、深大寺でホオズキ市があるんだけど、一緒に行かないか?」
「えー、深大寺で? 行く行く!」
ホオズキ市はテレビのニュースで見たことがある。でも深大寺には子どもの頃から何度も行ってるのに、そんな催しがあるなんて知らなかった。
「始まったのは去年からだからね。まだ地元の人もあまり知らないんだ。今年はさらにいろいろ盛りだくさんで、食べられるホオズキも出るんだって」
「へー、ホオズキって食べれるんだ」
 さらに感心した声を出すと、靖也の鼻の穴が膨らんだ。

背後から厚い雲が追いかけてくる。自慢の赤いマウンテンバイクで最短距離を駆け、雨との競争に勝ってバイト先の居酒屋の裏に滑り込んだ。
ここでのバイトももう二年近くになる。高校を卒業していったんは事務の仕事に就いたんだけど、半年でやめた。今の仕事は性に合ってると思う。スタッフはみんないい人たちだし、接客も苦にならない。
靖也と出会ったのも、この店でだった。半年とちょっと前、彼は大学の二年生で、学校の仲間と飲みに来たのだ。お酒や料理を運ぶたびに声を掛けてくるので、最初は調子のいい奴ぐらいにしか思っていなかったのに、次の日に一人で飲みに来たから驚いた。常連さんばかりのカウンターで小さくなって、別人のように大人しく飲んでいたのがおかしかった。その日の帰りに携帯の番号を教えられ、付き合うようになったのだった。
「二番テーブル、生三丁に刺盛り、しんこ、唐揚げ、ほっけです!」
「あいよっ。早紀ちゃんはいつも元気だねー」
口開け客の注文を通すと、店長の大崎さんがニカっと笑う。あたしも笑みを返したけど、
本当はあまり元気じゃない。実は今、あたしには大きな悩みごとがあるのだ。
今月、まだ生理がきてない――。まだ十日ぐらいの遅れだけど、今までは三日と狂ったことがなかったから、正直焦る。まさか、とは思うけど、心当たりがないわけじゃない。お医者に行った方がいいのかな。何でも相談できる相手は一人いるけど、さすがにこんな話はできない。靖也には――おそらく、いや絶対に言えないだろう。

「へえ、深大寺で。そりゃあいいね」
ホオズキ市のことを話すと、「何でも相談できる人」は相好を崩した。
「昔はよくみんなで、誰が一番実を鳴らすのがうまいか競ったものよ」
「おばあちゃんも鳴らせたの?」
「もちろん。私は上手だったよ。あれはね、まず実の中身を全部出さなきゃダメなの。で、ホオズキの穴を下唇に当てて、前歯で軽く噛んでやるのがコツ。懐かしいねえ」
若い頃を思い出したのか、おばあちゃん――お母さんのお母さん――は遠くを見つめる目つきになった。
「今は、食べられるホオズキもあるんだって」
仕入れたばかりの豆知識を披露すると、「食べられる?」と眉間にしわが寄った。
「私たちの頃は、ホオズキは口に含んでも食べちゃいけない、って言われたもんだけどね」
「え、そうなの?」
「うん、毒だからって。特に妊婦は流産する恐れがあるから絶対食べちゃいけないってね」
どきん、とした。毒? 妊婦は流産する恐れ? 本当なの? 靖也はそれを知っていて、私に食べさそうとしているのだろうか......。

まさか、とは思ったけど、どうしても不安が消せなくて、携帯で「ホオズキ」を検索してみた。
〈一説に、果実を鳴らして遊ぶ子どもたちの頬の様子から「頬突き」と呼ばれるようになったという。漢字の「鬼灯」という字は中国語で小さな赤い提灯を意味し〉
何だ、と拍子抜けする。靖也が言ったことはみんなこれの受け入りじゃないか。「何でも知ってる」と思っていた自慢の彼氏が急激に色褪せてくる。解説はさらに続いていた。
〈妊娠中の女性が服用した場合、流産の恐れがある。江戸時代には堕胎剤として利用され〉
だたい。読めなくていい字に限って読めてしまう。おばあちゃんの言っていたことは本当だったんだ......。もう止めよう、と思うのにスクロールする指が止まらない。
〈ホオズキの花言葉 偽り、ごまかし 種と皮だけで「実がない」ことから〉
知らなくてもいいことを、また一つ知ってしまった。

 ホオズキ市のその日――。約束の時間はとうに過ぎているというのに、あたしは家のトイレで携帯をいじっていた。行こうかどうか決心のつかないまま、携帯は朝から電源を切ったままだ。きっと靖也からの着信がいっぱいあるに違いない。いや、もしかしたら何もないのかもしれない。とりあえず確かめてみようと電源を入れた拍子に手が滑った。
あ、と思う間もなく携帯はトイレにドボン。慌てて拾おうとした瞬間、ふいにその感覚がやってきた――。
 二週間遅れで、生理はきた。その安堵と、携帯をオシャカにしてしまった落胆とが入り混じった思いでトイレから出た時、外から帰ってきたおばあちゃんと出くわした。
ホオズキの小さな鉢をぶら下げている。
「おばあちゃん、ホオズキ市行ったの!」
「うん。あんたまだなの? 彼氏と一緒に行ったんじゃないの?」
「え、なんで?」おばあちゃんには靖也に誘われたことは言ってないのに。
「だって、ほら。ここに書いてあるよ」鉢に刺さった小さな札をこちらに見せた。「ホオズキの花言葉。『私を誘って』だって」

 赤いマウンテンバイクで、調布の町を駆け抜ける。なんて馬鹿だったんだ。花言葉なんていろいろある。物の見方も、人の言動だって、捉え方一つで全然違ってしまう。生理がこない不安でいつの間にか疑心暗鬼になって、靖也のことを信じられなくなっていたんだ。
 深大寺に着いて時計を見ると、もう市は終わっている時間だった。参道のそば屋も店仕舞いをして、参道には人影もまばらだ。いなくてもいい。いや、ゼッタイにいないだろう。でも、もしまだ待っていてくれたら――。
ホオズキ市のメイン会場である深沙堂の前のベンチに、ぽつんと座る彼の姿があった。その手には、小さなホオズキの鉢が一つぶら下がっている。安堵と嬉しさで腰が抜けそうになったあたしに、靖也は一言、「遅い」と言った。

深沙大王社に、二人で手を合わせた。
「あーあ、せっかくホオズキのプリンを食べさせてやろうと思ったのにな」
「でも、ホオズキは食べちゃいけないんじゃないの?」
「食用ホオズキっていうのが別にあるんだよ」靖也はいつもの得意顔で言う。「別名フルーツトマトっていって、フランスじゃあケーキ屋のお菓子なんかに使われるポピュラーな食材なんだぜ」
「ふーん」
クスッと笑ったあたしを靖也が怪訝な顔で見る。どうせそれもネットの受け入りなんでしょ。でも、いいよ。そうやっていろんなことを調べて教えてくれるのは、好きな相手にいいところを見せたいからだよね。
それに、靖也が知らないことであたしが知っていることもある。
深大寺が縁結びのお寺で、その中でも特に深沙大王さまは、恋愛成就の神様だってこと。
 靖也がホオズキの実を一つ取って、口に当てている。「あれ、鳴らないな」なんて首をひねっている。
「ホオズキを鳴らすにはコツがあるんだよ」
 靖也から奪った赤い灯りが、手の中で小さく灯った。

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<著者紹介>
佐山 透(東京都杉並区/48歳/男性/フリーランスライター)

 今でも自然の残る武蔵野の古刹の辺りには、昔から狸がよく出たそうです。
 深大寺は縁結びの神様として、古くから親しまれ良縁を願う人々が訪れておりました。
 その門前で蕎麦屋を営む仙吉の娘、お福も仕事の前には必ず深大寺の元三大師様に手を合わせて良縁を願っていたのでございます。
 気立てもよく器量も十人並みのお福を、嫁に欲しいという者もおりましたが、面食いのお福はなかなか首を縦に振りません。
 お福も十八になり、いつまでも嫁に行こうとしない娘に気を揉んだ母親は、舞い込んできた縁談をお福に薦めるのですが、なかなか「うん」とは言いません。
「家を追い出そうって訳じゃないけどさ、健造さんは腕のいい職人になるって親方も太鼓判を押してくれてる、しっかり者だよ」。
 母親に薦められても背の低い健造の嫁になるのは、どうにも気が進まないお福です。
「何も迷うことなんかないじゃないか、亭主にするなら真面目が一番だよ。あんたの父親だって、話しかけても『あー』と『うー』としか言わない面白くない男だけど、真面目だからこそ、あたしは我慢しているだから。
 大酒のみで博打好きなんて男と所帯をもった日にゃ大変だよ、そういう男に限って子供は犬っころみたいに、たくさん産ませてさあ」
 父の仙吉が無口なのは母があまりに喋り過ぎるので、喋る暇がないのではないかとお福は日ごろから思っておりました。
 いっぽう、晩酌をしている親方に呼ばれた健造は、お福との縁談を進めていると言われ小さな体をいっそう小さくして「そんな」と、これまた小さな声で呟くばかりです。
「なんだ、お福ちゃんじゃ気に入らねえとでも言うのか? 手前みていな半人前でも先様は『健造さんなら真面目で心配ねえ』って言って下さっているだ。
 半人前のお前には勿体ない話じゃねえか。それとも何か、お前は血の通った娘より石で出来たお釈迦様と添い寝がしてえとでも言うのか、ええ、どうなんだ」
 畳み込むように啖呵を切られた健造は、背も小さく甲斐性もない自分をお福が好いてくれる訳などないと思い、そのことを親方に言おうと思うのですが、酒を飲んで赤鬼みたいになってる親方に、意見なんぞ言ったもんなら、どれほど叱られるだろう考えると、また、体を小さくして下を向くばかりです。
 部屋に戻った健造は布団の中で目をつぶりますが、(ああ、本当にお福ちゃんと所帯を持てたら、どんなにか嬉しいだろう。贅沢はさせられないが、鰻だってたまには食べさせてやれるさ。俺は飯なんぞ二日にいっぺんも食べりゃいいだ。)などと、お天道様が昇るまで、ああでもない、こうでもない、と考えて眠れません。
 眠れないのはお福も同じで、健造との縁談をなんて断ろうか、断って他に良い縁談が来るだろうと昼間の仕事にも身が入りません。
 新月になると、健造の部屋の窓をトントンと叩く者がおりました。
「おい、健造、おい、ここを開けろ」
 聞いたことがあるような無いような声に健造は驚き、「どなたでしょうか」と恐る恐る聞きました。
「俺だよ、俺、深大寺の狸だよ。ほら、なんどもお前に餌を貰った地蔵さんだ」
 声を潜めるように言われた健造は、「深大寺の狸さんで」と狸よりも小さな声で聞き返しました。
「そうだよ、分かったら開けろよ」
 狸にせっつかれた健造が、「はいはい」と慌てて窓を開けると、丸々と太った狸が部屋の中にのっそりと入って来たのです。
「まあ、夜分だし、急なことだからお茶はいらねえよ」
 部屋の真ん中で胡坐をかいた狸は、健造の枕元に置いてあった煙管に手を伸ばすと、美味そうに一服つけたのです。
「こんな夜分に、なんの御用で」
 狸の貫禄に押された健造は、一枚しかない座布団を狸に勧めると、自分は居住まいを正して狸の前に座りました。
「今夜は新月だから化けることも出来ずに、こんな格好で来ちまって悪かったな。何せ月が出ない夜は俺たち狸にとっちゃ休業日だから勘弁してくれ。
 二日と空けずに深大寺にお参りに来ちゃ、時折おいらに美味い菓子をくれたのに、最近は全然来ないから心配したんだ」
 健造は、深大寺にお参りに行くと、帰りに菓子をお地蔵さんに供えて帰っておりました。ずんぐりとした愛嬌のあるお地蔵さんを、健造は自分の容姿に重ねて愛着を感じていたのでございます。
 しかし、そのお地蔵さんは狸が化けていたとは建造もびっくりです。
「化かしといてなんだが、お前は本当に人がいい。そんなお前が病にでもなっているなら薬でも化かし取ってきてやろうかと思ったって次第だ」
 狸は健造のおでこに手を乗せて熱を測ろうとしましたが、健造は、その手を掴んで「これはお医者様でも治せない病で御座います」と狸に縋りました。
「なんだ、そんな大病か」
 オロオロと縋る健造に慌てた狸は、健造に掴まれた手を振り解こうとしますが、健造はもっと強く狸の手を掴むのです。
「分かった、分かった、俺がなんとかしてやるから」
 健造からことの次第を聞いた狸は、「分かったよ、要するにお福の気持ちを知りたいってんだな」。
 安請け合いした狸は、十三夜の月が深大寺の上に浮かぶ日に歌舞伎役者のような色男に化けて、お福に声をかけたのです。
「このお寺さんは良縁結びにご利益があると聞きました。出来ましたら、一緒に山門を潜っては頂けないでしょうか」
 色男の申し出に、お福は二つ返事で山門の石段を登り始めたのです。
「お福さんは、どんな男が好みです」
 狸はそれとなくお福の好みをリサーチします。
「あら、嫌だ。好みなんてありはしませんよ」
 好みがないといった割には、切れ長の目が良いとか、鼻筋が通って唇が薄いのが好きとか、いくつも並べ立てたのです。
 流石の狸も、その贅沢さに腹が立ち、ついつい説教をしてしまいました。
「お福さん、そんな男はこの世にいませんよ。そんなことを言っていたら、狸に化かされますよ」
 狸は勢いよく説教をしたものだから、頭に乗せてあった葉っぱがポロリと落ちて元の姿に戻ってしまいました。
「きゃあー、狸、あたしを化かしたのね」
 姿を見られた狸は、捕まって狸汁にでもされたら大変と本堂の横にある草むらに逃げ込みました。
「こら、狸、出てらっしゃい」
 お福は草むらに向かって足元の石を投げつけました。
 石をぶつけられた狸は、今度は不遜には毘沙門天に化けて本堂の賽銭箱の前に出てきたのです。
「こら、お福、私は歌舞伎役者のような男前に化けた狸に化けた毘沙門天だ。
 欲張りなお前に説法を説くために、歌舞伎役者のような男前に化けた狸になった」
 随分と回りくどい化け方をしたものだと、お福は疑いながらも本堂を背に隆々と立つ毘沙門天に、つい頭を垂れてしまったのです。
「良いか、欲をかいては碌なことがない。腹も八分目が宜しい。亭主にするのも腹八分目。二分ほど欠けていた方が良いのだぞ。
 今宵の月を見よ。まん丸でない十三夜、なんと美しいことか。
 良いかお福、私は歌舞伎役者に化けた狸に化けた毘沙門天である。決して狸汁になんぞしても美味しくない。だから、私がいなくなっても探さないでね」
 狸は冷や汗をかきながらも、ゆったりと本堂から裏に回り、ねぐらに戻ったのです。
 しかし、お福の男前好きを知った狸は、そのことを健造になんと伝えようかと思案しました。
(ああ、これじゃ健造には脈はなさそうだ) 狸は雲ひとつ無い空を見上げて腹太鼓をポンポンと叩きながら、困ったもんだと思ったのです。
 健造に会いに行く気にもなれず、二日ほど本堂の裏で狸が悩んでいますと、そこに健造とお福が仲睦まじく現れました。
「お福さん、本当においらで良いですか」
 健造は心配そうにお福に尋ねます。
「ええ、毘沙門天様に言われたんです。欲をかいちゃいけないってね。
 あたしだって牡丹のように綺麗わけでも、お釈迦様のように慈悲深い女でもありません。
 そんな女に惚れて、夜も眠れないなんて言われたら女冥利につきますよ。
 でもね無理はしなくていいの。鰻なんて食べなくたっていいし、歌舞伎なんて見に行かなくてもいいの。
 私はね、満月なんて望んでないの、ちょっと足りない十三夜で十分。
 だから、お嫁に貰ってもらうのに、一つだけお願いがあるの。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて私より長生きして頂戴ね」
 本堂の前でお福に頼まれた健造は、思わずお福の頭の上に葉っぱが乗ってるんじゃないかと、お福の頭の上を手で払ってしまったのです。

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<著者紹介>
晴田 安義(東京都杉並区/47歳/男性/会社員)

『縁結びの神様、深大寺デートの実力』
 自動ドアが開くたびに冷たい風が攻めこんでくる二月のコンビニで、内容も冊子も薄っぺらな地方情報誌を握り締めながら、ぼく斉藤和也は目から鱗が落ちていた。この町から電車でわずか十五分の地にそんな場所があるなんて。僕は生まれてこれまで十九年、彼女がいない。「今年こそ」と決意を新たに、大学入学と同時にやったこともないテニスのサークルに入り、テニスより合コン活動に勤しんだのだが、その努力空しく彼女いない歴がさらに一年増えようとしていた。しかし、そんな残念な僕ともこれでお別れ、二十歳の僕には彼女と仲良く構内を歩くという幸せなキャンパスライフが待っているんだ。その幸せを運んでくれるのはこの深大寺!と、雑誌を握る手に自然と力が入っていた。
 結ばれたい相手はもちろん同じサークルの桜坂ありすだ。年末の忘年会でやっとメアドをゲットし、それ以来何度かやり取りをしている。天真爛漫な彼女の笑顔はそれは眩しく、その笑顔を見るだけで僕の心には光が差し込む。僕にとって彼女は太陽そのものだ。
 その日から僕は深大寺でのデートプランを練りに練った。何度か下見にも行き、完璧なプランが出来上がる頃には、あと2週間で大学での一年が終わろうとしていた。最大の難関はありすちゃんと二人きりで会うことだった。そのために、軽いノリと時間のルーズさでおなじみの林と、噂話が大好きでミススキャンダルの異名を持つユキちゃんに頼み込み、4人でお花見に行くという設定を作り上げた。もちろん二人には当日ドタキャンをしてもらうという、ごく自然な流れとなる。計画を成功させるために二人にご飯をオゴる羽目になったのだが、ありすちゃんの笑顔を一人占めに出来るのであれば、バイト六時間分の投資も安いものだろう。
 そうこうしているうちにデート当日がやってきた。僕は集合場所である調布駅前で、少し緊張しながら完璧に練り上げたデートプランを頭の中で見直していた。お昼前に集合し、まずは二人きりになってしまった状況を説明する。心優しいありすちゃんは間違いなく「せっかくだから二人で桜を見に行こうか」と言うはずだ。深大寺に着いたらすぐに目的である縁結びのお参り、と行きたい所だがここで慌てちゃいけない。お花見に来たのにいきなりお参りでは怪しまれるかもしれない。それはまずい。何としてもさりげなく任務を遂行しなければならない。そこでまずは本堂の周りをゆっくりと散策し、少しずつお互いの距離を縮めるのだ。山門前まで来たら「ちょっと周りを歩いてみようか」と促し、角のそば屋のお団子を回れ右。その先にある信楽焼のたぬきの前に剣玉が置かれていることは下見でチェック済みだ。実はこの一ケ月、プランを立てながら毎日剣玉を練習して、ようやく三回に一回は大皿に玉が乗るようになったのだ。華麗に剣玉を操る僕を見て「かず君凄い!」と絶賛するに違いない。さらに進むと目の前には桜が満開の坂道が飛び込んでくる。ありすちゃんの名前と同じ『桜坂』!感動と羨望の眼差しで僕を見つめる姿が今から目に浮かぶ。そのまま静かな小路をぐるりと周る頃には、すっかり打ち解けた二人の間に笑い声が絶えないだろう。ゆっくり歩いて小腹が空いたらあげそば串の出番だ。そばの香りとほんのりとした甘味が歩き疲れた体に優しく、思わずこぼれる笑顔のままお互い見つめ合ったりなんかして。そして再び山門前まで戻ってきたらいよいよお参りだ。このタイミングなら自然に目的が果たせるはず。ついに僕の幸せなキャンパスライフが約束されるのだ。だがここで油断してはダメだ。デートはまだ終わっていない。その後は境内に祀られているそば守り観音を参拝し、日本中のそばを一人で守るその功績を労いながら、そろそろお腹が空いたね、とバス停までの道の途中にある、界隈でもコシの強さで有名なそば屋に入り、深大寺そばをいただく。そうしてそばのコシに負けず劣らず強く結ばれた二人は、神代植物公園のお花見へと向かう...
 あまりにも完璧なデートプランに自分でも気付かない内ににやけていると、突然後ろから声をかけられた。
「おはよっ、かず君」
緩んだ頬を引き締めながら振り向くと、そこには世界で二つ目の太陽が輝いていた。そのあまりの眩しさに危なくプランを忘れてしまうところだった。
「あれ?ユキちゃんと林君はまだなの?」
辺りを見回すありすちゃんに(計画通り)二人がドタキャンしたことを告げると、「そうなんだぁ...」と一瞬困惑した表情を見せたが、太陽はすぐに輝きを取り戻し、「せっかくだし、二人で行こうか」と微笑んでくれた。あまりにも想定通りの答えにまたにやけそうになるのを堪えながら、僕らはバスに乗り込んだ。こうして僕の縁結び大作戦は幸先の良いスタートを切った。そのはずだった...

 深大寺に着いて門前通りに入ると、彼女は鬼太郎の看板を見つけてお土産物屋に向かって行った。―えっ、お土産は最後じゃないの...。呆気に取られる僕を後目にお店に入って行ってしまった。あわてて追いかけると、ありすちゃんは店内を見渡しながら目を輝かせていた。「かず君、どっちがいいかなぁ」と言って一反木綿とぬりかべのストラップを両手にぶら下げている。「い、一反木綿...かな」と答えると「私も一反木綿大好きなの!」と言いながら、大きな目玉を新たに手にしていた。そうこうしてレジに並ぶ頃には既にお店に入って三十分が過ぎていた。結局彼女は妖怪メモ帳と鬼太郎ボールペンを買って嬉しそうに店を出て、見るとまたもや目を輝かせていた。
「見て見て、ピンク三姉妹がいる」
指差す先を見ると、三人組のおばあちゃんが、偶然なのか揃えたのか、みんなピンク色の服を着てそば屋の前でメニューを見ながら何か言い合っていた。派手な服の割には妙に景色に馴染む三人組だった。「知っている人?」と尋ねてみるが、返ってきた返事は「ううん、きっと仲良しなんだね」次の言葉を探す僕に気付くことなく、彼女は歩き始めた。
 いきなり予定が狂ったがこの程度は問題ないだろう。僕は頭の中でプランをおさらいした。山門前での回れ右に成功したら、まずは剣玉だ。しかし、待ちわびていた信楽焼のたぬきが見えてきた時、またもや予想外の出来事が。彼女が突然、「ジョン!」と叫びながらたぬきを通り越して駆け出したのだ。たぬきに一瞥をくれながら僕も後に続くと、彼女はお茶屋の前で白い大きな犬と戯れていた。一応「知っている犬?」と尋ねてみるが「ううん知らないよ。でもジョンっぽいよね」と言って嬉しそうに首元を撫でていた。僕とジョン(仮)の飼い主と思われるおじさんは、お互い明らかな作り笑顔で会釈をするしかなかった。背後で信楽焼のたぬきが僕を心配する視線を送っている、何故かそんな気がした。
 彼女はジョンをひとしきり撫でると、さらに歩みを進めた。この先にはありすちゃんの名前と同じ満開の桜坂が待ち構えているはず。そのはずだった、どうやら先週までは...。「昨日の雨でだいぶ散っちゃったね」周りの桜を眺めても薄々そんな気はしていたのだが、僅かな期待も見事に散ってしまっていた。
全てが裏目だ。本堂裏の静かな緑の道を、僕は落ち込みながら歩いていた。正直ありすちゃんの予想以上の天真爛漫ぶりに、ちょっと消化不良気味でもあった。陰りを見せた太陽は、うつむく僕を覗き込みながら言った。
「かず君なんだか元気ないね」
―あぁ、(君のせいなのだが)落ち込む僕を気遣うありすちゃんは、やっぱり可愛い...
本堂裏をぐるりと周っていると、忘れ去られたような小さなお墓が道端に現れた。特に気に留めることもなくその前を通り過ぎようとした時、意外な光景を目にした。
「それ、知らない人のお墓だよね。何で手を合わせているの?」
その問いかけに、彼女はしゃがみこんだまま僕の方を向き、優しく微笑みながら答えた。
「何かさ、死んじゃってからも色んな人が自分のことを想ってくれたら何だか嬉しくない?誰かが死んじゃった私を想ってくれたら、その度に私って生きてたんだなー、って思えるじゃない。だからね、沢山の人にそう思ってもらいたいから私も手を合わせるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、目の前の太陽が輝きを取り戻した。いや、今まで以上の眩しさに目の前が真っ白になった。
―ありすちゃん、やっぱり君は...素敵だよ。
よし、この想いを胸にお参りだ!ちょうど一周りして山門も見えてきた。さあ、お参りを提案しよう、と息を吸い込んだその時...
「あっ、さっきの人たちだぁ」
僕らの前に現れたのはまたしてもピンク三姉妹だった。彼女はその姿を追って本堂と逆方向へ駆けて行ってしまった。そしてピンク三姉妹があげそば串を食べながら仲良く歩く様子を満足気に眺めながら、更に信じられない言葉を口にした。
「いけないっ、今日は私がおじいちゃんの病院に行く日だった。もう帰らなくちゃ!」
あぁ、そば守観音よ、日本中のそばは守っても、僕は守ってくれないのかい。何の非もないその後ろ姿に別れを告げながら、僕はありすちゃんを駅まで送ることにした。
結局目的を果たせないまま。

別れ際、やっぱり今年も、と落ち込む僕に向かって、ありすちゃんは振り返って言った。
「今日はごめんね、でもとても楽しかった。桜は間に合わなかったけど、神代植物公園はバラも綺麗らしいよ。また一緒に行きたいね」

―よし、次はバラで縁結び大作戦だ!

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<著者紹介>
山澤 紀啓(東京都八王子市/27歳/男性/会社員)

その日も霧のような雨が降っていた。
連日の雨に加えて、平日の神代植物園は予想通り客足が少なかった。
一眼レフを小脇に抱え、男は白い傘をさして木道を歩いていた。深大寺に隣接する水生植物園には、この時期になると綺麗な花が咲く。
カキツバタ。ハナショウブ。アヤメ。
それらが一番美しいのは、水の滴に打たれしっとりと滑らかな花弁を広げている時だと、男はそう思っている。
水気を含んで滑りやすくなった木道を、丁寧な足取りで歩む。男は紫色の花の傍に腰を下ろした。白い傘をレフ板代わりに、肩に柄を固定してカメラを構えた。
早生(わせ)の花菖蒲がアヤメと共演する、ギリギリのこの時期を狙ってやってきたのだ。
ファインダー越しに映る碧く深く艶やかな花弁。その一枚一枚が、まるで宝石を散りばめたビロードの布のように揺れる。
男はそこを捉えるように、ピントを合わせる瞬間が好きだった。
蜃気楼のような曖昧な幻想の世界から、現実に引き寄せられるかのように、鮮明な色彩がそこに現れるのだ。
男は夢中でシャッターを切った。シャッターを切りながら、視界の片隅に異物を感じた。「あの、すいません」
 ちょうど花盛りの株の中に、青色のくすんだ雨具の背中が見えたのだ。
「ほんの少しだけ、写真を撮らせて貰えませんか」
 あと少しそこから避けて貰えばいい。
 ほんの数歩避けて貰えば、素晴らしい画が撮れる。
 上下していた雨具の動きが止まった。
「お仕事中申し訳ありません、すぐ終わるので」
 申し訳なさそうに男が声をかけた途端、雨具はすっと立ち上がり、男を振り返った。
「何用で?」
 木道に立っている男と同じ目の高さで、雨具を着た人物は男をじっと見た。
「あ、すいません、本当にすいません」
 反射的に男は謝罪した。
「ですから、何の用で撮影されるんですか」
 見れば随分若そうな女性だった。そして背が高い。
「あの、園内を撮影してはいけないという何かありましたか?」
 男は慌てて傘を持ち直した。咄嗟の事で気を取られている間に、カメラが雨に濡れそうになったのに気がついたのだ。
 その様子を不審な目つきで眺めたあと、女はキリッとした口調で答えた。
「園内の撮影はご自由にどうぞ」
「では、そうさせて貰いたくて、あの、お仕事中だというので申し訳ないとは思いましたが」
(少しそこをどけて貰えますか)
 その一言が出ない。その代わり否応なしに悶々とした腹立たしさが男の内部に込みあげてきた。
(確かに作業中に、花の撮影をしたいのでそこをどいてくれとは失礼だったかもしれない)
心の中で反省と苛立ちが交差する。
(いや、だからといって、そういう態度はよくないのではないか。こっちは一応客だ)
 そう言ってやろうと、男が顔をあげた時だった。
 雨具の帽子を取った女の白い手が動く。その手が、フォーカスの掛った映像のように、緩やかに男の目に残像を残した。
 筋のように束なった前髪が顔に掛り、そこから無数の水滴が滴り落ちた。水滴が伝った顔は白く澄んだ肌をしている。目の下のまだらな薄いそばかすが、どこか野生に咲く花びらの紋のようにも思えた。
 男はぞっとした。
 ぞっとしながらも、彼女の顔から視線をそらす事は出来なかった。思わずカメラを持つ手が、彼女を撮らえるべき上がりそうになる。
「そういうご趣味ですか」
 ぶっきらぼうに女は男とカメラを交互に目で追った。
「花菖蒲が好きなんです」
 雨足がいくらか強まってきたような気がして、男は思わず傘を深めに被った。それでも霧のようだった雨は、俄かに水滴に変わっただけで依然として優しく辺りを湿らせているだけだ。
「はなしょうぶ......」
 女が言葉の意味を探るように声を絞った瞬間、その白い肌が紅く彩られた。
 男はまたもその様子に硬直した。
一体何があったのか男は理解していない。
 ただ、白く美しい野生の花のようだと思ったそれが、一瞬にして春先のハナミズキのような紅色に変化したのを、魔法でもかけられたかのように魅入っていたのだ。
「花菖蒲を撮影したかったんですね」
 さっきとは打って変わった、女の柔らかな口調に男はようやく我に返った。
「どうぞ、撮影してください」
「え、ああ、はいありがとうございます」
 言われるまま男はカメラを持ち直した。そして傘を肩にかけ、ファインダーを覗く。
 異物がなくなった花畑は絶好の美しさで男の視野に広がった。
深い色を誇り気に開くアヤメと、揺らめく色とりどりの花菖蒲
まだ早い蕾を空に向けて開花をじっと待つ姿も、全てに美がある。だが、男にはその美しさより気になるものがあった。
心ここにあらずの状態で数枚シャッターを切った後、男は女を向き直った。
「あの、もしや」
 そう言いかけた途端、女の顔がまた紅くなった。
「すみません、最近よく写真を撮らせてくれと言われる機会が多くて。あの、私写真に撮られるのが嫌いで......」
 首に回したタオルをむしりとるなり、女はそれをぎゅっと握りしめて俯いた。
(なるほど、勘違いしたのか)
 思えばおかしな対応だったなと、一部始終を振返りながら男は傘を持ち直した。
 野生の強かな花に見えた女が、今度は野に咲く可憐な小花のように見える。
「いや、私の言葉足らずです」
 頭を掻いて男は笑いをこらえた。
「まだお若く綺麗ですから、随分声をかけられているのですね」
 女はその言葉に少し俯いて「いいえ、そんな」と呟いた。
 帽子を脱いだ彼女の髪から、雨の滴が滴る。その数を目で追って、男は傘を持ち直した。
「雨、強くなってきましたね。お仕事今日はまだ続けるんですか?」
「はい、ヨトウムシの被害を探していたんですが、あと少しですから」
 もっと会話をしたい衝動にかられながら、男はじっと彼女の顔を見た。
「お仕事柄、花菖蒲について詳しいですよね」
 男の言葉に、女は黙って首を振って、それから少し遠慮気味にはっきり応えた。
「ここは色々草木がありますので、特別に詳しいという程ではないんですが」
 なるほど、園内全般の管理をしているからといって、必ずしも花菖蒲に詳しいとは限らないのだ。それを知って男は溜息をついた。それでよかったのだと安堵の溜息だ。
 これ以上、彼女と話しが合うとなると、自分の感情に歯止めがかからなくなりそうだったからだ。
 それほど衝撃的な美だった。姿ではない、その雰囲気に男は惹かれた。
「では、私はこれで。お仕事がんばってください」
 そう言って男が立ち去ろうとしたその背中に、女の声が届いた。
「あの、来月の初めに綺麗な品種が咲きます」
「綺麗な品種?」
 驚いて男は振り返った。
「綺麗な水色の背の高い品種です。ほんの数株ですが。ここではなく、あちら」
 湿地帯のやや奥まった場所に、雨の靄に紛れた緑の葉が見える。早くに咲き始めた早生(わせ)に遮られ、誰もその存在は気がつかないだろう場所だ。
「へえ、水色ですか」
「水の光という品種です」
 彼女の言葉の糸をたぐって、男の脳裏でようやく名前と画像が一致した。
水色掛った中輪の三枚花弁だ。そして遅生。雨でなくとも晴天も似合いそうに透き通った水色に近い紫だった。
(そうだな、まるでこの人みたいだ)
 どこか惹かれる人だった。
野生のような強かさと、誰にも愛されるような可憐な花の表情を持っている。
 もっと色々話をしてみたい。素直すぎる純粋な感情が男の中に湧いてきた。
(だけど、こんなオジサンじゃあな)
 などと自嘲して男は目を伏せた。
「教えてくれてありがとうございます」
 男は丁寧に頭を下げた。視線が自分の靴元に行くまでに、心臓が何度高鳴りしたのだろう。顔をあげたらどんな顔をしようか、そんなことばかり男は考えていた。
「いいえ、先ほどの無礼のお詫びにもなりまんが......あの」
 どうにか顔をあげて笑った男を見て、女はバツの悪そうに少し媚びた笑顔を見せた。
「ハナショウブを花菖蒲と言う方はなかなか居ないんです」
「おや」
 意外な発言に男は目を大きくした。
確かに平たく言えばハナショウブもアヤメもカキツバタも似たような時期に咲く花として、ひっくるめてアヤメ呼ばりしている人は多い。
厳密には開花時期や、生育地、葉などで区別されるが、誰もそこまではあまり気にしない。
女も仕事だ。
ハナショウブとの違いを聞いてくる来園者には、丁寧にその違いについて教えていたが、最初からハナショウブをハナショウブと割り切って来る人とは滅多な会話はした事がなかった。
一度話をしてみたいと女は思っていた。花菖蒲を語る人はどんな人なのだろうと。
意外な質問に男の表情がどう揺れたのか、女が安堵した様子で表情を緩めた。
「お好きなんですね、花菖蒲」
 女の柔らかい声。つい先ほどまで聞いた彼女の声でないような穏やかな声色だった。
(もしや、この女性も花菖蒲が好きなのだろうか)
 同類の気配をその可憐な声に感じて、男は頭を掻いた。そしてゆっくりとした口調で応じる。
彼女の声に負けずと、花菖蒲を愛していますと伝わるように。 
「ええ、好きですよ」
 雨の中、二人は微笑みあった。

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<著者紹介>
蔦川 岬(秋田県仙北郡/31歳/女性/無職)

― お寺や神社でおみくじを引く人はたくさんいるけれど、書いてある運勢どおりに願い事が叶った人はいるのだろうか? ―
 里美がそう思ったのは、「花おみくじ」と書かれた看板を見つけ運試しにやってみようとお賽銭箱に百円玉を二枚入れた時だった。念を込めて一枚引き、ゆっくりと中を開いた。
運勢 『大吉』
願望 『万事好都合にいきます』 
「やったじゃない!大学の授業をサボってまで来た甲斐があったわ」
 小さくガッツポーズを取ったものの、すぐ我に返り、ふぅっと小さく溜息をついた。
「願望が万事好都合にいくのなら、今日ここにはいないはずよ...」
 里美は一週間前に一年ほど付き合っていた彼氏に振られた。傷心の日々を送る彼女がたまたま目にしたのが「縁結びで有名なお寺」とテレビで取り上げられていた深大寺だった。
鮮やかな緑に覆われた境内が映った時に里美はピンと何かを感じた。
「きっと、ここに行けば素敵な事が起こる!」
そう思い、翌日には深大寺に足が向かっていた。何かを信じた時の乙女の行動は素早い。
京王線で八王子の大学まで通っているのでお寺の名前は知っていたが、実際に訪れるのは初めてだった。境内はテレビの画面越しで見るよりずっと明るくどこか懐かしい匂いもした。
「どれどれ、他の項目は何と書いてあるのかしら?」
 里美は花おみくじをもう一度読み直した。
就職 『引立てありて叶う』 

「俺たち、少し距離を置かないか?」
 工藤さんが里美の目をずっと見つめながら言ったあの言葉は今でも忘れる事が出来ない。   
工藤さんは同じ大学のゼミの先輩で里美より学年が一つ上だった。後輩の里美が一目惚れ、果敢にアタックし続けた結果、ついに三年の春からお付き合いが始まった間柄だ。
その日は里美の就職祝いを兼ねたレストランでのデートだった。就職難のこの時代、里美も例に漏れず就職活動で悪戦苦闘の毎日、その間電話で愚痴を聞き続け、励まし続けてくれたのは工藤さんだった。卒業後、就職せず大学院に進んだ工藤さんを今度は私が支えてみせる!と思っていた矢先の一言、里美は目の前が真っ暗になり「なんで?」とも言えなかった...。

「確かに就職は工藤さんの引き立てもあって叶ったけど...。全然ラッキーじゃないわよ」
 あの日以来、工藤さんからメールも来ない。里美がおみくじを読みながら呟いていると、ぽとり、何かが落ちた。
気づいた里美が拾い上げるとそれは綺麗なピンク色の押し花が施してある一枚のしおりだった。
「そうか、花おみくじだから、しおりも付いているんだ!」
 しおりの裏面には「良縁招福」と書かれている。里美は少し嬉しくなった。
「縁起良いから、このしおりは持って帰ろう」
 里美がしおりを鞄の中に仕舞おうとした時、ピロロン、携帯電話の音が鳴った。メールが着信した時のメロディ音だ。工藤さんからかもしれない、里美は急いでメールの中身を確認する。
『就職おめでとう!里美ちゃん頑張っていたから、志望の会社に決まって本当に良かった!今度お祝いするよ!焼肉屋さんで!』
 里美はガッカリしたようなホッとしたような感覚になった。送信相手は工藤さんではなく、同じゼミの同級生である「ダルマ」君からだった。本名は田沼なのだが、高校時代に柔道部に所属するほど体が大きく、しかもぽっちゃり型、何故か日ごろから赤い服ばかり着るので「ダルマ」そっくりに見える所から「ダルマ君」と呼ばれているのだ。
『ありがとう!ダルマ君は今、何しているの?』
 里美はメールを送信した。ダルマ君とは同級生の中で一番仲が良い。就職活動中、里美があまりに愚痴ばかり言うので工藤さんが辟易してしまい、電話に出てくれなくなると、決まってダルマ君に聞いてもらっていたのを里美は思い出した。
ピロロン、すぐにメールの返信が来た。
『今は大学院試験のための勉強中だよ~!』
 ダルマ君は卒業後の進路として就職ではなく大学院を目指していた。試験は確か三週間後、試験の追い込みで一番大変な時期に里美の愚痴を一晩中聞かせ続けてしまっていた事にも気がついた。
「私も就職活動中、ダルマ君に励ましてもらったのだし、気の利いたメールを送らなきゃ!」
 里美は先ほどのおみくじを読み直す。
「あっ!入試という項目があるわ!」
入試 『努力は報いられる』 
おみくじに書かれていた内容をすぐにダルマ君へメールで送ってあげた。
『ダルマ君へ 必ず努力は報われる!あきらめずにガンバレ!』
 このおみくじ、中々良い事も書いてあるじゃない。里美は気分が良くなり、せっかくだからと売店で合格祈願のお守りを買ってみた。
『今、深大寺に来てるよ~!合格祈願お守りを買ったから今度ダルマ君にあげるね~!』
 もう一通メールを送る。おみくじはきっと自分の運勢だけが書いてある訳じゃないはずだ。むしろ、周りの人の願いを叶えてあげてくれた方が嬉しい。
ピロロン、メールの着信音、ダルマ君からだ。格好に似合わず彼はすごくマメだ。
『ありがとう!試験勉強頑張ります!僕の家は調布だから深大寺は近いよ!』
 里美はメールを読んで何故かドキッとした。少し考えた後、ダルマ君へ送る文面を作ってみる。
『よかったら、深大寺でお蕎麦でも一緒に食べない?』
 里美は送信ボタンを押すのを躊躇っていた。やはり、これは自分勝手なメールだろうか?彼氏に振られて寂しい気持ちを紛らわせたいだけなのではないか?
深大寺のおみくじで大吉が出たからと言って、都合よく新しい恋が見つかるのだろうか?
自分の心の声が聞こえてくるが、それでも里美は首を振り、メールの送信ボタンを押した。
「今日くらい、おみくじを信じてもいいじゃない!」
 ピロロン、すぐに返信が来た。
『もちろん!今から深大寺に迎えにいくよ。バス停で待っててね!』
 メールを読み返し、空を見上げるとそこには深大寺の深い緑とは対称的である真っ赤な夕焼けがあった。しかし、赤い空の奥には黒い雲の陰も見える。空模様が自分の気持ちを表しているようで、心苦しくなった。ダルマ君は本当に来てくれるのだろうか?こんな身勝手な私の誘いに応じてくれるのだろうか?
握りしめたおみくじを読み返した。
待ち人 『必ず来ます。信じて待ちなさい』
バス停で待つこと二十分、まっすぐ伸びる石畳の奥からダルマ君が自転車を漕ぎながらやってきた。体が大きいのか自転車が小さいのか分からないが非常にアンバランスなその姿がどこか微笑ましかった。
「遅くなってゴメンね」 
四月に入ったばかりでまだ夕暮れ時になると肌寒いというのにダルマ君の真っ赤なTシャツは汗ばんでいた。里美は首を振り、
「ううん、こちらこそ急に呼び出してゴメン」
 すぐに重い沈黙が流れる...。自分が呼び出したはずなのに二人の会話はそこで止まってしまった。何か話さなきゃと悩む里見を見透かしたかのようにダルマ君が先に口を開いた。
「里美ちゃんに渡したい物があるんだ!」
 窮屈そうなズボンのポケットから小さい布袋を取り出し里美に手渡した。それはお守りだった。「就職祈願・深大寺」と書かれてある。
「本当は、大学で渡したかったのだけど、里美ちゃんは忙しそうだったし、それに...」
 ダルマ君が言いたい事が里美にも分かった。大学ではいつも工藤さんと一緒にいたので、お守りといえど直接渡しづらかったのであろう。モジモジしながら話すダルマ君の顔はいつもより赤くなっているようにも見えた。
「ありがとう。実は私もダルマ君にプレゼントがあるの!ハイ!」
 そう言って先ほど買った「合格祈願・深大寺」と書かれているお守りを渡した。
「二人とも同じ事を考えていたみたいね」
 里美とダルマ君は同時に笑った。心の底から笑ったのはいつ以来だろうか?
「もしかしたら、ダルマ君と私、付き合ったら上手くいくかもよ?」
 肘で小突きながら言うと、ダルマ君の顔から一段と汗が吹き出てきた。
「ねぇ、ダルマ君の自転車の後ろに乗ってもいい?深大寺をグルっと一周してみたいな!」
「えっ?お蕎麦はどうするの?」
「お蕎麦屋さんはまた今度来よう!」
 里美はダルマ君の背中に手を回した。おみくじの項目で一番先に目が行った「恋愛」の項目にはこう書かれていたのを思い出す。
恋愛 『容姿で判断しないこと』
その通りだと思う。工藤さんとはダメだったけれど、私の周りには他にも素敵な人がたくさんいる。深大寺のおみくじはそれを教えたかったのではないだろうか。ダルマ君が運命の人かは分からないが、前向きにさせてくれたのは確かだ。
― おみくじから始まる恋もある ―
大きな背中に寄りかかりながら里美はもう一度、おみくじを読んでみた。
 縁談 『良縁、この人に決めなさい』

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<著者紹介>
加藤 はるき(東京都府中市/29歳/男性/会社員)

 真夏のコンクリートの中、田端春子は風を切って自転車を走らせた。
平凡な住宅地の間を走る、整備された都道121号線。その道路沿いにある深大寺小学校を曲がると、急に旅先のような風景が広がる。薄石が敷かれた歩道のわきには小川が流れ、提灯をぶら下げた昔ながらの造りの蕎麦屋やだんご屋が並ぶ。そしてその奥には深大寺が控えている。
春子は歩道に自転車を止めると、駆け足で本堂へ向かった。休日は参拝客や蕎麦を食べる客で賑わっているが、平日の夕方で人は少ない。
春子は財布を取り出すと、ありったけの小銭を賽銭箱に投げた。大きな音をたてて二度手を叩く。
「彼氏ほしい彼氏ほしい彼氏ほしい!」
 春子はぎゅっと瞑っていた目を開き、本堂を睨んだ。
「頼むよ神様」
 険しい顔をしたまま、お堂を出てすぐの蕎麦屋中村屋に入る。そして真っすぐ奥の席に向かう。
「天ざる大盛りと蕎麦豆腐!」
 厨房の奥から、はーいと威勢のいい声が響いた。

 深大寺からそれほど遠くない大通り沿いに、調布病院はある。古くからある大きい総合病院だが、改装したばかりで施設は美しい。春子が21歳でこの病院に看護士として勤め始めてから、もう7年が立っている。
「また天ざる食べたでしょ」
 春子がナースステーションに入るなり、同僚の美香が話しかけてきた。
「なんで」
「油浮いてるよ」
 美香は春子の唇を指さす。
「ちょっと太ったんじゃない?」
「ほっといてよ、太ってないし」
 春子は唇を拭いながら言った。
「そーお?彼氏がいるからって油断しすぎ」
 春子は美香を睨んだ。美香はその視線を無視して、カルテを春子に渡す。
「病棟は落ち着いてる。詳しいことは先生から聞いて。じゃ、おつかれ」
 説明もそこそこに、美香は病棟を出て行った。春子はその後姿を見つめた。いつもよりも髪型のセットが念入りだ。心なしか化粧も濃かった気がする。デートの予定でもあるのかもしれない。
「とっくに別れたし」
 つぶやいて、春子はカルテを捲った

 その夜の病棟は平和だった。いつもなら嬉しいことだが、今夜は違った。静けさは春子に余計なことを思い出させる。元彼の康太のことだ。
康太は4年付き合った春子をあっさり振って、春子より2歳年下の女と結婚した。共通の知人からの情報だった。まだ別れて3カ月もたっていない。
二人がうまくいかなかったのは、ただのすれ違いだと思っていた。不規則な勤務時間、会える時間が少ない、その中ですれ違っていっただけだと。だけど違った。春子は負けたのだ、顔も知らない他の女に。選ばれなかったのだ。何がいけなかったんだろう。片付けが苦手な所、めんどくさがりなところ、康太より食べっぷりがいいところだったかもしれない。今となっては思い当たることが多すぎる。
これから先、誰かに選ばれることなんて、あるのだろうか。
春子の視界がふいに滲んだ。頭を振り、春子は懐中電灯を手に取る。
「巡回してきます」
 じっとしていると、悪い考えばかりが頭を支配する。

 薄暗い病院の廊下を春子はゆっくりと歩いて行く。いつからか、深夜の病院を巡回するのも平気になっていた。就職したての頃は恐ろしかったのに。曲がり角の先に懐中電灯の光を向ける時、何者かがいないかと怯えたものだ。これは成長だろうか。ふと春子は考えた。鈍感になっただけかもしれない。
ナースステーションに戻ると、主任の後藤博美が緑茶を入れた所だった。
「お疲れ様。飲んだら」
「頂きます」
 春子は席につき、カップに口をつける。温かいお茶がじんわりと体に広がる。停滞した思考回路が、少しほぐれた気がした。
「なんか最近注意力散漫だね。今日はたまたま平和だけど、忙しい時にそれじゃ困るな」
 春子はカップを机に置いた。
「す、すいません...」
 博美は少し微笑んだ。
「病院で何かあった?」
「いえ、あの、その何もないんです!」
 春子にとって博美は憧れている先輩だ。激務の内科病棟でも、いつも物腰が柔らかで品がある。バタバタした自分とは大違いだ。
「本当に?」
 博美が春子を覗き込む。春子は少し怯んだ。いつも涼しい顔をしている博美には、なんだか全て見透かされている気がする。
「あ、いや...。まあちょっとつらいことはあったんですけど」
「ふうん?」
続きは?という風に博美は頷く。
「それからその事思い出してつらくなったり、先のこと考えて不安になったり、そんなことばっかり考えて、自信とかどんどんなくなってきちゃって...」
 すみません、と春子は頭を下げた。
「あ~。あるよね、そういうこと」
 博美は深く相槌を打つ。春子は驚いて顔を上げた。
「主任でもですか!?」
 信じられないという風な調子だ。博美は当然よ、と笑う。
「そういう時は考えすぎないことかな。過去も未来もどうにもできないからね」
 そのうちいいことあるよと博美は笑った。
 春子は緑茶に沈んだお茶の葉をじっと見つめて、ぼんやりと思った。
 この病院に来て経過した7年のうちに、得たものと失ったものはどちらが多いのだろう。
康太に必要とされなかった自分はこのままでいいのだろうか。

 春子が目を覚ますと時計は午後3時を過ぎたところだった。夜勤明けでそのまま倒れるように眠っていたのだ。今日は非番で、何の予定もない。
春子はとりあえず出かけることにした。家にいるとまた余計なことを考えてしまう。
自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ始めた。アスファルトの先が歪んで見える。まだ日は高く、ジリジリとアスファルトを焦がしていた。
 121号線を、深大寺を背に下っていくとほどなく調布駅に出る。深大寺界隈の風情とは違って、駅前は賑やかだ。都心部と比べると都会とは言えないが、不便はないし、街路樹も美しい。春子はこの駅を気に行っていた。  
調布駅に来るのは久しぶりだった。康太と別れてから、あまり近寄らないようにしていた。康太の職場があるからだ。電車に乗る時は、わざわざひとつ先の布田まで出ていた。
「馬鹿らし」
 春子はつぶやいた。
 その時、急に悲鳴があたりに響いた。春子がそちらに注目すると老人が倒れていて、周りに人だかりができている。春子は人をかき分け、老人の側に近寄った。
「大丈夫ですか?!」
 春子は老人の頬を叩く。
「聞こえますか?名前は?」
 老人はぐったりとして返事がない。春子は慌てて脈と呼吸を確かめた。皮膚は熱く、脈はかなり速い。
「動かさない方がいいんじゃないか?」
 不安そうに人ごみの誰かが言った。 
「私、看護士ですから。救急車呼んでください」
 側の男が慌てて携帯を取り出す。
「誰か日陰に運ぶの手伝ってください」
 春子は叫んだ。奥から青年が駆け寄った。
「どこに運びます?」
「あそこ。日陰のベンチに」
 ベンチに老人を寝かせると、春子は着衣を緩めた。そして持っていたタオルにペットボトルの水をかけ、手早く老人の首に当てる。
「救急車、すぐ来るから」
 電話をかけた男が叫ぶ。
「大丈夫ですかね」
 春子は再び老人に呼びかけた。
「おじいさん、大丈夫ですか、聞こえますか?」
 頬を一定のリズムで叩く。青年は隣でタオルを煽いでいる。老人はかすかにうめき声をあげ、うっすらと目を開けた。張り詰めていた周りの空気が少しだけ緩む。
「大丈夫ですか?名前、言えますか?」
 春子は質問を続ける。
その時、サイレンとともに救急車が到着した。救急隊員の手によって老人は手早く担架に乗せられる。周囲が見守る中、老人は救急車で運ばれて行った。
「大丈夫でしょうか」
 青年が不安そうな顔で春子に聞く。
「多分、熱中症だと思います。まあ意識が戻ったので......」
「一安心ですかね」
 春子が頷くと青年は安心したように笑った。
「看護士さんて格好いいですね。あんな風にできるなんて......尊敬します」
 青年は言う。整った顔立ちをしている。格好も派手ではないが、清潔感があった。大きな目で見つめられたので、春子は照れ臭くなった。
「仕事なので」
 春子は思わず目をそらした。そのまま頭を下げて、立ち去ろうする。その時ふいに青年が春子を引き留めた。
「あの、待って下さい」
 春子が振り向くと、青年は笑顔を浮かべた。その笑顔を、春子はどこかで見たことがある気がした。
「僕のこと分かりますか?」
 急な質問に春子は戸惑った。
「分からないですよね、突然すいません、でもまたすぐ会えると思いますから」
 では、といって青年は立ち去った。
春子はあっけにとられてしまい、何も聞くことはできなかった。
また会える?一体どこで。病院関係者かな。変なことを言う人だけど、格好良かった。
 帰り道、春子はペダルがいつもより軽い気がした。

 その後一週間たっても、青年は現われなかった。
「なんだか取り戻した?集中力」
 春子が日誌を書いていると、博美が話しかけてきた。
「考えてても仕方ないですしね」
「彼氏でもできた?」
「そんなんじゃないですけど......」
 あの事件の後、春子は康太のことを考える時間が減った。変わりに気がつけば、あの不思議な青年のことを考えている。悪い考えばかりが浮かんで、寝付けない日もいつのまにかなくなった。
 出勤してきた美香が開口一番春子に言う。
「なんか化粧、気合入ってない?」
 気のせいだよ、と春子は言う。しかしあの日、春子は調布駅で新しいグロスを買っていた。我ながら単純だな、と春子は思う。
「じゃ、お先に」
 春子は美香にカルテを渡すと、ナースステーションを後にした。

帰り道、春子は中村屋に立ち寄った。いつもの指定席へ向かう。
「こんにちは」
 後ろから声をかけられ、春子は振り向いた。そこにはあの青年が立っていた。中村屋とプリントされたエプロンを巻いている。春子はあっと息をのんだ。
「またお会いできて嬉しいです」
 青年は無邪気な顔で笑っている。
春子がいつも座る席からは、厨房がよく見える。この青年を見かけた場所は、中村屋の厨房だったのだ。
「天ざる大盛りと蕎麦豆腐でいいですか?」
 春子は顔を赤くして俯いた。
「よく食べる人って素敵ですよね」と言いながら青年が出した天ざるはいつもより2倍にもられていた。
「恋愛対象ってわけじゃないのか」
 春子は溜息をついて、出された蕎麦を綺麗に平らげた。
 春子がお会計をしていると、厨房の奥から青年が出てきた。
「これおまけです」
 青年が差し出したのは神代植物公園のチケットだった。
「なかなかいいですよ、僕よく行くんです」
 春子はチケットを受け取り、出口に向かった。
「よければ、今度ご案内します」
 春子は立ち止まる。
隣の池で何かがポチャンとはねた。木々がざわざわと揺れている。深大寺の鐘があたりを包み込むように響いた。

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<著者紹介>
加藤 ひなこ(東京都杉並区 /26歳/女性/会社員)

雨の日の深大寺。そこの本堂に私はいた。
なんてことはない。只の付き添いだ。ここへ来ることを熱望していたのは、私ではなく私の友人。お供の私はこうして友人のお参りが終わるまで待っている。丁寧な参拝をする彼女の背中。ふと思いつき、両手で長方形を作りカメラのレンズを覗くように見てみる。なかなか良い絵だ。映画のヒロインのようだが今の我が友人の姿を見て誰がそんなことを思うだろうか。
今朝、集合場所に来た友人はいつもと違った。泣き疲れてやつれた顔。涙の跡を消す為か化粧は濃い。その姿は覇気は無いが気迫はあった。よっぽど酷い失恋をしたのだろうか。
境内は静かだった。雨で濡れた砂利を足で玩び、横目で様子を窺う。目の端に映る彼女はどんな気持ちで願を掛けているんだろう。
友人はよく恋をする。よく恋をするから、よくふられる。一昨日も電話の向こうで子供みたいに泣き叫び、いつものように失恋を癒す為の散歩に私を誘った。毎度お馴染みのイベント。場所はいつも彼女が決めていたが、どこででも楽しむ自信はあった。しかし今回選ばれたのは縁結びスポット。私が一番苦手とする場所であった。良縁を求める行為を否定しているわけでは無い。だが縁結びの願掛けに熱心な人たちの中にいるときの居心地の悪さがどうも苦手だった。今日こそ克服すると勇んで来たが見事に玉砕し、落ち着かない状態はずっと続いている。私だけ疎外されているような、と言ったら被害妄想だろうか。
「どうしたの。変な顔して」
気が付くと、友人が隣にいた。どうやら私はしかめっ面をしていたらしい。
「何でもない。それより、気は済んだの」
 慌てて聞くと友人は黙って頷いた。元気が無い。今日は気が済むまでとことん付き合ったほうが良いかもしれない。
「まだお寺の中見て回ろうか。それとも」
 そこで、来る時に見た蕎麦屋を思い出した。
お蕎麦食べたいな。今日は寒いし温かいのがいい。今なら蕎麦とチークダンスが踊れる。
「あのね、ちょっと行きたい所があるんだけど。いいかな」
付き合うと決めたんだから仕方が無い。雨の中、深沙大王堂へ向かい歩き出しながら私は心の恋人お蕎麦にしばしの別れをつげた。

 移動中、友人は何も喋らなかった。話題を振ってみたものの反応は薄く結局私も黙り込んでしまった。傘に隠れた友人の顔はよく見えない。私は普段と違う彼女に戸惑っていた。
 どう声を掛ければいいんだろう。恋愛経験が乏しい私はいい言葉を持っていない。理由を縁が無かった以外に挙げれば、恋愛に対し嫌な思い出があるからだろう。
中学生時代には告白しふられた女友達と、その相手に板挟みにされたことがある。二人と仲が良かったのが仇になった。あの気まずさはもう二度と経験したくない。二回目はつい最近。仲のいい男友達の彼女に在らぬ疑いを掛けられたことだ。直接会い疑いを晴らしたあと、怒りが込み上げてきた。恋愛のいざこざに巻き込まれ私の中で恋愛イコール非常に面倒臭いこととなっていた。そんな私が何故、恋多き女性と友人になり彼女の傷心を慰める立場にいるんだろう。縁は異なものというやつだろうか。
「はぁ、くだらないなあ」
 隣を歩いていた友人が驚いたように顔を上げる。しまった、声に出してしまった。慌てて謝ると彼女は少し笑った。些細な恥ですが、笑ってくれるんだったらいいですよおだ。
「ね、一つ聞いていい?」
 友人が久しぶりに口を開いた。黙って頷く。
「初恋がいつだったか憶えてる?」
 それを私に聞きますか、友人よ。正直答えに詰まる質問だった。返答を期待するまなざしが痛い。
「ええと。たしか、幼稚園、かな?」
 友人はまだこちらを見ている。もう何も言え無いのに。恥ずかしくなってきた。
「でも後から考えれば只の特別な友達ってわけで。そんなませた子供じゃなかったしっ」
 照れ隠しに訳の分からないことを捲くし立てる。嫌な汗をかいてしまった。私の馬鹿。
「ごめん、困らせちゃって」
 友人は笑っていた。からかわれた、のか。
「そっか、でも好きになったことってあるんだ。なんか安心した」
 歩き出す友人の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、私はその意味を計りかねていた。恋する人間の気持ちはさっぱり分からない。貸してもらった恋愛小説、諦めずに頑張ってちゃんと読めばよかった。

 数分後、目的地である深沙大王堂が見えてきた。今は御開帳の時期ではないので、その扉は固く閉ざされている。離れ離れになった男女を結びつけるために霊亀を送った仏教の神様か。友人にも送ってくれればいいのに。
 雨粒がビニール傘に当たった時の音が朝よりも大きい。雨足が大分強くなっているようだ。生憎の天気だが、雨に濡れる境内の木を眺めるのも悪くない。
 いつの間にか友人は目を閉じていた。物思いにでも耽っているのだろうか。彼女の様子を窺いながら無意識に傘をゆっくりと回していたことに気が付いた。いつの間にかついた癖。そう言えば、こんな風に傘を回すのが好きだった子がいたはず。そうだ。ずっと忘れていた顔が頭の中で蘇る。大事な思い出だったはずなのに忘れていた自分が情けない。
「ね、ねえ。今回の人ってどれくらい好きだったの」
 瞑想を続けていた友人の顔を見ないように背を向ける。思い切って聞いてみよう。
「なんか気になっちゃって。いつもと様子違うし。何かあったのかなぁって」
 きっと友人は驚いた顔で私を見ているに違いない。気まずいのは承知だったが、いざその空気になると慌てる。
「えと、嫌だったら無理に言ってもらわなくてもいいし。どうしても聞きたいって下世話な気持ちは無いから」
 過剰に気を使う私に、ありがとうと声が掛けられた。怒ってはいない。寂しそうな声だった。
「いいよ。教えてあげる。今回好きになった人は、恥ずかしい言い方なんだけど。きっと、本当の意味での初恋だったんだと思える人だったの」
 本当の、初恋。何だろう。
「その人と一緒にいると、凄く楽しくて、何だか一緒にいるのが当たり前って思うくらい。初めて会ったときか、いつだったのか分からなかったけど、凄く好きになってた」
 穏やかに話す友人が何だか居た堪れなかった。
「それで告白したの。あんなに緊張したのは久しぶりだった。一世一代の告白って言えるくらい。でも、ふられちゃった。今は誰かとお付き合いしたいって思わないって。それなのに同情で付き合いたくないって。今時律儀な人よねえ」
 友人はあくまで明るく喋り続けている。本人は辛いだろうになあ。
「だけど、やっぱり自分の思いが通らなかったのが悔しくて、昨日まではちょっと泣いちゃってた。今日もまだ引きずってるし、全部吹っ切れたわけじゃないんだけど。でも今までの失恋とは何か違う気がするんだ」
 何だろうなあ、と呟く姿は今朝のものとはまるで違い、爽やかだった。ここに来て、憑き物が落ちたのかもしれない。
「多分、この気持ちは一生忘れないと思う」
 一生忘れない思い。彼女の言葉を噛み締めながら、友人に顔を向ける。微笑んでいた。化粧の濃さを抜きにすれば、その表情は紛れも無くいつもの友人のものだ。
「なんかすっきりしたら、お腹空いちゃった。何か食べに行こうか」
 ようやく友人がいつものペースに戻った。よかった。ようやくお蕎麦にありつける。行こう、と歩き出す友人の後ろで私は悩んでいた。先程思い出したことを言うべきか。うん、もう一つ恥をかいておこう。
「あのさ、私も一つ言っていい?」
 振り返った顔から視線を逸らす。
「私、小学校の時。凄く仲がいい男の子がいたんだ。お互いが同等の存在の、ちょっと変わった友達だった」
 友人はひどく驚いていた。普段から恋愛は無理ですと言っている人間が、異性の話をしているのだから、当たり前か。
「私も楽しかった。その子と一緒にいると気が楽で。だから、そんな感じの人とだったら」
そこまで言って口篭る。言えない。お付き合いしてもいいなんて、絶対に。気恥ずかしくなり、困っていると突然、友人は私の手をしっかり掴み、元来た道を戻り始めた。
「何。ちょっと、どうしたのよ。お蕎麦は?」
 友人が振り返る。何故か目が、輝いていた。
「何って、あんたの良縁をお願いしに戻るに決まってるじゃない。あんたの恋愛アレルギーも緩和されてるみたいだし、今のうちよ」
 昔懐かし見合い好きのお節介おばさんと化した友人は止められなかった。長年の付き合いというのは恐ろしい。彼女は私の心の声をしっかり聞き取っていたのだ。
しかし何故、私はこんなことを言ったんだろう。友人が羨ましかったのだろうか。はたまた深大寺の霊験だろうか。なんだかいい気分だ。私の恋愛に対する苦手意識が和らぐ日が来たら、どんな人を好きになるんだろうか。楽しみだな。不安でもあるけれど。
「そうだ、忘れないうちに言っておくね」
 楽しそうな友人が私に話し掛ける。
「彼氏が出来たら、のろけ話とか聞かせてね」
 謹んでお断りします。

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<著者紹介>
藤倉 美音(埼玉県所沢市/21歳/女性/学生)

 真由は会社を出るなり、達也へ電話した。真由と達也は大学からの付き合いで、真由は会社で嫌なことがあると、達也にグチを聞いてもらっている。お互いに就職してから三年。達也は大手の銀行で外回りを経験中、真由は証券会社で事務をしている。
 たった三年。されど三年。新入社員でもなく、だからといってベテラン社員と呼べるほどの立場でもない。どことなく、宙ぶらりんの立場。
 今日、真由は仕事でミスを連発してしまった。
「もう、三年もやっているのに、これぐらいの仕事もまともに出来ないのか」
 延々と上司から説教されてしまった。自分が自分で情けない。
真由はうなだれて席に戻ると「この仕事、私には向いていないのかもしれないな」と呟いた。それほど大きな声で呟いたわけではないのだけれど、隣の席の先輩にはしっかりと聞こえていたらしい。
「たったの三年やったからといって、一体、あなたにこの仕事の何が分かるというのよ」  
パソコン画面に向かいながら、先輩は吐き捨てるように言った。真由に言っているのだろうけれど、その先輩は、自分にも言い聞かせているようだった。
 
「ねぇ、聞いてよ、達也。今日、仕事でミスしちゃってさ、確かに私が悪いんだけど、上司にずっと嫌味を言われ続けたんだよ」
真由は、いつも会社や人間関係のグチをとめどなく話す。達也はそんな真由の話を「そうだよね、分かるよ、その気持ち」「うんうん、そうだよね、真由の言うとおりだよ」「真由が正しい」と、上手に相槌を打ってくれる。この上手な相槌が心地よくて、真由はついつい達也を呑みに誘ってしまう。
真由はたまに、本当のところ達也は自分と呑みに行くのが嫌なのではないだろうかと思うことがある。誰だって、他人のグチを一方的に聞かされるのは嫌だろう。  
以前、そのことをさりげなく達也に聞いてみたことがあるのだけれど「俺、真由と呑むの、嫌じゃないよ」と即答してくれた。それが真意かどうかは分からないが、たまには達也から呑みに行こうと誘ってくることもあるので、とりあえず、自分は嫌われてはいないのだろうと思っている。
達也とは、大学の友達同士で開かれた呑み会で知り合った。たまたま隣同士に座って意気投合。同じゼミだったということもあり、いつしか呑み友達となった。それから、ずっと良い友達の関係が続いている。
正直、達也と恋人同士になったらどのような毎日が待っているのだろうと想像したことがある。
 だけど、達也と恋愛して別れたら、今の良好な関係が崩れてしまう。もう二度と、達也とバカを言い合ってじゃれあうことができなくなってしまうかもしれない。そっちのほうが、真由にとって恐怖だった。
達也のほうはどうかというと、真由に対して「付き合おう」とか「デートしよう」とか決定打を言ってくるわけではなかった。気が向くと「呑みに行こうぜ」と誘ってくる程度。だから、仲の良い女友達として認識されているのだろうと思う。
「そうそう、なんじゃもんじゃの木って知ってる?」
「なんじゃもんじゃの木?」
達也がピーナッツを噛み砕きながら話すから、上手く聞き取れない。
「面白い名前の木だろう?今、確か花を咲かせているんじゃないかな。今度、一緒に見に行こうよ」
「ああ、うん」
 なんじゃもんじゃの木。なんか、変な名前の木。口の中でその木の名前を何回も唱えていると、舌がこんがらがりそうだ。しかも、そんな変な名前の木の花なのだから、めしべとおしべもこんがらがっていて、もじゃもじゃとしているのではないだろうか。
「花を見てみたいけれど、面白い形をしているの?」
「見てみれば分かるって。そうそう、場所は深大寺だから待ち合わせは調布駅な」
 深大寺。確か、ソバで有名なところではなかっただろうか。スーパーの乾燥蕎麦を売っている棚で「深大寺そば」という名前を見たことがある。
「深大寺って、確か、蕎麦が美味しいところだよね」
「なんだよ、花見よりも食い気かよ。まあ、それでもいいか。蕎麦ご馳走してあげるから、一緒になんじゃもんじゃの木を見に行こう」
「うん。蕎麦をご馳走してくれるなら行く」
 ううん、本当は、蕎麦をご馳走してくれなくても、達也から誘われれば、深大寺だろうが北海道だろうが、それこそシベリアだろうが、自分は付いて行くかもしれない。
「じゃあ、決まりな。そうそう、仕事のミスは気にするな。その先輩が言っていた通り、きっと、長年かけなければ分からない何かというものが、仕事にはあるんだよ」
「うん」
 店を出るころには、仕事のミスについて心の切り替えが上手く出来ていた。そして、今度の休日のことで頭がいっぱいになった。昼間の明るい時間に、達也と二人で深大寺へ出掛ける。恐らく、昼間の明るい時間に二人きりで出掛けるのは、これが初めてのことだと思う。それが、嬉しかった。
 
「ほら、これがなんじゃもんじゃの木だよ」
 真由の目の前にあったのは、花がもじゃもじゃとした木ではなかった。
緑の濃い葉をたくさん茂らせ、純白の細長い花びらが氷の結晶のように見える幻想的な大木だった。とてつもなく歴史を感じさせる木で、真由は圧倒されてしまった。
「なんじゃもんじゃって、なんだこれという意味があるみたいだよ」
 達也が解説してくれた。
 なんだこれという名前の付いた大木。この木は、ここまで大きく成長するまで、ずっと「なんだこの木」と思われていたのだろうか。
けれど、きっと近所の人たちに愛され続けた木なのだろう。そうでなければ、得体の知れない木なのだから、とっくに切り倒されていたに違いない。
なんじゃもんじゃの木は、真由に「お前は何者だ」と問いかけている気がした。
自分は何者だろう。三年会社で仕事をしてもミスを連発し、達也とは腐れ縁を続けているというだらしなくてずるい人間。  
だけど、生まれてからたったの二十数年だ。なんじゃもんじゃの木は、みんなに受け入られるまで、何年かかったのだろう。何年、白い花を咲かせ続けているのだろう。今でこそ愛されているのかもしれないけれど、何十年もここに佇んでいれば、その間、切り倒される危機だってあったかもしれない。その間、雷に直撃しそうになったり、台風で倒れそうになったこともあったかもしれない。それらの危機を乗り越えて、今こうして、自分の前に立って美しい花を咲かせている。そして、この木の下に人が集うほどに、愛される存在になっている。
 自分も、叱られても、そして嫌なことがあっても、踏ん張って、頑張って、長年生きていれば、何かを掴むことができて花を咲かせることができるのだろうか。
「私もこの木みたいに、長年頑張らないといけないんだよね」
「長年生きてれば、何かしら見えてくるものがあるだろうしね」
 真由は約束どおり、達也に蕎麦をご馳走してもらった。その蕎麦は、スーパーの袋入りの「深大寺そば」とは程遠い味で、とても美味しくて、思わず笑みがこぼれてしまった。
「真由は、食べているときが一番可愛い」
「それって、食べていないときは可愛くないみたいに聞こえる」
 真由は嫌味を言いながら、それでも達也が「可愛い」と言ってくれたことがとても嬉しかった。その嬉しい気持ちが顔から悟られないように、務めて冷静に蕎麦をすすった。
「そろそろさ、俺たち、恋人同士にならない?」
 真由はびっくりしてむせってしまった。
「深大寺ってさ、縁結びの寺でもあるんだ。こうでもしないと、俺、勇気が出なくてさ。居酒屋で告白しても良かったのだけれど、酔っていない昼間にきちんと告白したかったんだ」
 達也は頭をかきながら、伏し目がちに真由を見た。真由は待ち望んでいた言葉に何度も首を上下させて頷きたいところだけれど、そうすると自分の立場が安っぽく見えそうで、嬉しさをこらえながら外を見た。
 店を出ると、達也は真由に手を差し出した。 真由は達也の手を握ると、今までとは違う空気が二人の周囲を纏っていると感じた。その空気は深大寺の自然が生み出しているとも感じるし、縁結びの神様が与えてくれているとも感じるし、二人で作り出しているとも感じることができた。
「もう一度、なんじゃもんじゃの花が見たい」
「ああ、そうだね」
 なんじゃもんじゃの木に、自分と達也の成長を見守ってねとお願いしいたい。今は何者にもなっていない二人かもしれないけれど、これからどのような花をつけるのか、なんじゃもんじゃの木に見届けて欲しいと思うのだ。

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<著者紹介>
佐藤 祐子(東京都大田区/43歳/女性/専業主婦)

赤、青、黄、透明。
 頭上の緑にかざしてみると、向こう側の景色が見えそうで見えなくなる。初めはひんやりと冷たいのに、手のひらの中でだんだんと温かみを増す、小さな固体。でも、芯は冷たいまま。まるで、人の心みたい。
 
 「やあ」
 しゃがんでいる私の頭上から、はっきりとした、でも爽やかな声が聞こえてきた。振り返ると、人の姿。逆光で顔は見えない。けれど、その人が和装であることは分かった。
 「とんぼ玉、好きなの?」と、その人は言う。でも私は答えない。
 「知ってる?江戸時代には、模様に応じて呼び名が違ったんだよ。今みたいに、一律してとんぼ玉とは呼んでいなかったんだ」
 そう言って、彼は私の隣に並んでしゃがみこんだ。私は手持ち無沙汰となり、目の前に並ぶとんぼ玉を何となく指先で弄っている。
 「君、名前は?」
 その問いかけに、私は彼の方を見た。脱色しているわけではないのに色素の薄い髪と、涼やかな瞳がそこにあった。今この木陰から出て、太陽の下に彼が立ったなら、その髪の色はどんな風に変わるんだろう、と私は思った。
 「しょうこ」
 「漢字は?」
 「『しょう』が平仮名で、『こ』は子供の子。本当は『ガラス』という字になる筈だったのに、親の気が変わったみたい」
 「そう、綺麗な名前だね」
 臆することもなくそんなことを口にする彼に、思わず何も言えなくなってしまう。
 数秒、私たちの間に沈黙が流れた。
 
 「また、同じ会話を繰り返すんですね」
 話し始めた時と同じ姿勢のまま、私は彼に言った。初対面ではない私達の、初対面を繰り返す会話。
 初めて彼に会ったのは、今と同じ場所。生い茂る緑が、まるで地を歩く人を守るかのようにその枝を伸ばし、近くを流れる川の水音と、蕎麦屋の水車がたてる古木の軋んだ音がひと時の間だけ暑さを忘れさせるような、そんな場所。大都市である東京の一角にありながら、ここではアスファルトの熱気にむせかえることも、ない。
 あの時。彼に初めてあったあの時も、私はここでこうして、とんぼ玉を見ていた。そして、彼はたった今とまったく同じことを言った。
 「やっぱり今日も和装なんですね」
 『素敵です』と付け加えて言いたいのに、その一言が私には言えなかった。
 「君だって」と彼が応える。
 ずっとしゃがんでいて足が痺れてきたため立ち上がった私に倣うように、彼もまた立った。彼の言ったように、私も和装。浴衣ではなく、襦袢も足袋も纏っている。襦袢という鎧をなしにふわりと羽織る浴衣が、私はどうしても好きになれなかった。 
 「白地に朝顔か、素敵だね」
 着物の裾部分に咲き誇る大輪の朝顔を見て、彼が呟いた。私の言いたかった言葉をさらりと言えてしまう彼が、少し憎かった。

 初めて彼に会った時、私は近くの大学の国文科に通う一年生であった。東京で生まれて育ったものの、全てのものの移り変わりが速いことに、私は昔からあまり馴染めずにいた。大学に入ってからもそれは同じで、周りの子たちはサークルだコンパだと騒いでいて、一応は私も試してみたものの、やはりしっくりとはこなかった。それよりも、静かな場所で、好きな時間を過ごしている方が、私の気質には合っていた。服装も、今時の華やかで露出の多い服装よりも、『私』をしっかりと包んでくれる着物が好きだった。さすがに大学に和装では行かなかったが、うすうすそんな雰囲気は感じ取られてしまったのか、同級生たちは私を奇異な目で見ていたようだ。
 その日も、私はここ、深大寺に来ていた。特に何が目的というわけでもなく、ふらりとここを訪れ、水の音に耳を澄ませていた。そんな中、軒を連ねる蕎麦屋の中に、とんぼ玉を売っている店を見つけた。色とりどりの、小さなガラスの群れに見入っていた時、彼に声をかけられたのだ。「やあ」という彼の挨拶から、全ては始まった。その時、彼は深大寺の近くにある理系の大学に通う四年生だった。
 あの時どうして私に声をかけたんですか、と過去に聞いたことがあった。そうしたら彼は、「深大寺で、和装の女性がしゃがみこんで一心不乱にとんぼ玉を見ている、お盆も近かったから、まさか昼間の幽霊かと思って気になった」と、およそ理系らしからぬことを言っていた。

 「行こうか、とんぼ」
 彼は私を『とんぼ』と呼ぶ。硝子が転じて、とんぼ玉好きの『とんぼ』。もちろん、私をそう呼ぶのは彼だけだ。
 
 そろそろと歩き始めた私たちを、すれ違う人々が振り返る。それもそうだ、男女揃って和装で歩いているなんて、人の目をひくに決まっている。しかし彼は、一向に意に介していない。
 何軒かの蕎麦屋を通りすぎ、橋を渡って、彼と共に深大寺の山門をくぐり抜ける。お参りをしている間、私の左腕はわずかに彼に触れていた。そこから伝わる熱で、閉じた視界に火花が散った。

 お参りを終え、その足で境内向かって右にある寺務所へ向かう。懐から朱印帳を出し、しばし待っている間、「今日は何をお願いしたんですか」と聞いてみても、彼はふふっと笑いながら、「言わないよ」とだけしか応えなかった。
 「良いお参りでした」という言葉と共に手元に返ってきた私の朱印帳には、『厄除 元三大師』の雄大な墨跡と共に、今日の日付が入れられている。前の頁をめくると、一年前の同じ日、その前の頁は二年前の同じ日の物。彼の朱印帳にも、同じ日付が刻まれている。

 「とんぼ、今年のとんぼはどれにする?」
 山門をくぐり出た所で、彼は言った。それは、私達の恒例行事のようなもの。初めて出会った日と同じ日、同じ場所で再び会い、同じ言葉を交わし、とんぼ玉を一つずつ買って交換する。馬鹿みたい、と人は言うかもしれないが、一つずつ増えていくとんぼ玉を見ていると、胸を締め付けられるような気持ちになる。私の携帯電話には、紐を通されたそれらの軌跡が揺れている。今二つ、今日で三つ。
私達は、一体いくつまでこれを増やせるんだろう。
 
 先程のとんぼ玉の店で、彼は赤色で透き通るような流水模様の入ったものを、私は濃い緑色で、細い細いうす緑の線が表面を滑るものをそれぞれ選び、お互いに交わした。
 「またとんぼが一つ増えた」
 私が、赤色のとんぼ玉に紐を通している時、彼は言った。とんぼ、とんぼ、とんぼ。その言葉が彼の口から発せられる度、私の心は痛いくらいに跳ね上がる。まるで、上り坂を全力疾走した時のように。と同時に、『もっと聞きたい』という貪欲な気持ちが顔を覗かせる。そして、バス停の方角へ向かって歩み始めた彼の背中に、私は思わず声をかけていた。
 ゆっくりと、彼が振り返る。
 木々のアーチをくぐり抜け、必死に地面までその存在を示すことに成功した太陽の光が、彼の姿を光に包んだ。
 「朝顔の花言葉、知っていますか」
 私の声は震えていた。声の震えに共鳴するかのように、三つに増えたとんぼ玉がお互いにぶつかり合い、コツン、と啼いたような気がした。
 突然の私の言葉にも彼は動じることなく、微笑んで、言った。
 「とんぼ」
 その声は、今まで聞いた中で一番やわらかく、私の中にするりと滑り込んでいった。

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<著者紹介>
櫻 杏子(神奈川県鎌倉市/28歳/女性/学生)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

8月1日13時を持ちまして、公募を締め切りました。多数のご応募、有り難うございました。

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ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
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