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「赤駒に乗って」 著者:谷津 矢車

や、やべえ。
 吉祥寺の駅前で、僕は途方に暮れていた。きっと真っ青な顔を浮かべているだろう。なのに、行き交う人も前を走る車も、僕のことなんか気にも留めてくれない。交差点をせわしく歩いて行く人々はツンケンとしていたし、車はご陽気にクラクションを鳴らしていた。
 思わず僕は時計を見つめた。亜紀が買ってくれた時計は、十時十分前を指していた。
 ああ、これは間に合わないなー、ちくしょう。
 時計を見て絶望するなんて、高校の時の期末試験のとき、全然問題が解けていないのに残り時間が十分しかなかった時以来のことだ。けれど、そんな昔の話をぶり返している暇もない。
 今日、亜紀との約束があるのだ。
 付き合って五年になる亜紀が、この前こんな提案をしてきたのだった。「今度、深大寺に行かない?」
 亜紀の実家は東京・調布の深大寺にある。とはいっても、今まで一度も行ったことがなかった。現在彼女は仕事の都合で二十三区に住んでいるし、そもそも学生時代から一人暮らしをしている。それは学生時代からの付き合いのある僕も知っている。
 さて、付き合って五年にもなる彼女が、自分の故郷でデートなどと提案してくるということはどういうことか。そんなこと、僕がいくら抜けたヤローでも即座に分かる。きっと、自分の親に僕のことを紹介するつもりに違いない。きっと、付き合って五年にもなってプロポーズの一つもない僕にやきもきしているのだ。……言い訳をすれば、プロポーズしてもいいのだけれど、踏ん切りがつかないままにここまで来ているだけのことだ。
 ところが、壊滅的に頭のネジが抜け切っている僕は、大いなる失敗をやらかしてしまったのだった。目覚まし時計のかけ忘れ。目覚めたときにはもう手遅れの時間。慌てて寝癖を整えながら服を着て、取るものとりあえず電車に飛び乗ってもこの遅れは挽回できなかった。そして気づけば待ち合わせの時間の十分前。待ち合わせ場所の深大寺入口まで、バスで二十分はかかるらしい。けれど、約束の時間は十時きっかり。あと十分しかない。
 が、彼女は時間に厳しい。時間に遅れると烈火のごとく怒り、僕のことをタコ殴りにしてくる。いつもならタコ殴りになってしまえばそれで済むけれど、今日はそうもいかない。大事な日なのだ。
 ああもう、どうしたらいいんだぁ!
 吉祥寺の真ん中で叫びそうになった。
 と――。
「おやおや、お困りのご様子だね」
 突然、後ろから声がかけられた。藁にもすがる気持ちで振り返ると、後ろにはお婆さんが立っていた。七十歳くらいだろうか、腰がひどく曲がっていた。
 なんだ、この人。
 そんな僕の心の問いに答えるかのように、上目使いをしてくるお婆さんは口を開いた。
「ああ、私は仏様の使いさね」
 曰く、深紗大王の眷族にして目代なのだという。そんなバカげたことを、座った目で喋っている。
 あ、やべえ。
 思わず僕は一歩のけぞった。関わり合いになっちゃまずい人だ。
 けれど、お構いなくお婆さんは続けた。
「あんた、あと十分で深大寺に行きたいんだろう?」
「へ?」
 何で知ってるの、このお婆さん。
 ははは、とお婆さんは声を上げて笑った。
「私ァこれでも仏様の使いだよ? 人の心くらい軽く読めるってもんさね。……お困りだろう? なら、何とかしてやってもいいよ」
 え、なんとか、って?
「決まっておろう」お婆さんはニカリと笑った。「神通力でお前を運んでやろう」
 するとお婆さんは僕の後ろ袖をつかみ、裏路地まで引っ張った。大の大人であるはずの僕は、お婆さんに襟を掴まれて引っ張られる羽目に。
 誰もいない裏路地で、お婆さんは懐をまさぐり、それを僕の前にかざした。
 それは馬の人形だった。
 藁で体を作ってあって、稲穂の尻尾がふさふさとしていた。藁人形の馬版と表現すると当たる。雄叫びをあげるように、空に鼻先を向けている。シワシワのお婆さんの手の上に立つそれは、ひどく華奢だった。
 お婆さんは言った。
「これで、お前さんを運ぶ」
「ごめんなさい」
 逃げようとする僕の後ろ襟を取ってお婆さんは続ける。
「無論、この馬に人は乗れん。が、ワシが神通力を使えば。はっ!」
 気合い一閃と共にその馬からぼわっと煙が立ち上り、しばらくその馬の姿が見えなくなってしまった。その煙は一瞬にして辺り一帯に広がり、僕の視界を奪う。そうしてしばらくして煙が晴れると、目の前には僕の背とあまり変わらない馬……の藁人形が立っていた。
「騙されたと思ってまたがってみい」
 言われるがまままたがった。もしこれで何も起こらなかったら、裁判沙汰に出来るだろうかと薄ぼんやり考えながら。ちょっと馬の脚が短かったせいで、またがっている僕の足はしっかり地面についていた。
 けれど、お婆さんはそんな僕にはお構いなしのようだった。その馬の前で何度も印を組み換え、何か呪文を唱えていた。けれど。
「喝!」
 またもや気合い一閃。その瞬間、予想だにしないことが起こった。
 ふわり。
 足が地面から離れた。
「え? え? え?」
 とにかく戸惑う。けれど、そんな僕の戸惑いはさらに混迷の度を極める。
 どんどん地面との距離が広がってゆく。お婆さんもどんどん小さくなっていく。いや、それだけじゃない。吉祥寺を行く人々の姿も車たちも、そびえたつビル群もどんどん小さくなってゆく。そう、僕は今浮いているのだ。
 どんどん上昇を続ける藁の馬、そして僕。けれど不意にその上昇が止まった。
 と。
「ヒヒーン!」
 藁の馬がいなないた。そして、手足を空中でばたつかせ始めた。地面でもしこれをやっていたら、走る動作だったのだろう。けれど空の上でのこと、前に行くこともなく……。と高をくくっていた僕が馬鹿だった。僕を乗せた藁馬はぐいぐいと速度を上げてゆく。もう速すぎて息が出来ない。次々に景色が後ろに流れて行ってしまう。不思議と怖さはない。うっすらと目を開けて、僕は先を急いだ。

 深大寺入口に、亜紀は立っていた。
「おーい、亜紀!」
 手を振って駆け寄る。そして彼女の前に立った瞬間、僕に浴びせられたのは思いっきりのグーだった。へぶう! そのパンチをモロに食らう僕の耳に、罵声まで届く。
「遅い! 二分遅刻! 私は十分前から待ってたのに!」
 結局、仏様の眷族の神通力をもってしても、十分で吉祥寺―深大寺間の移動には無理があったらしい。僕は辺りを見渡す。
「あれ? お義父さんとお義母さんは?」
 すると、亜紀は怪訝な顔を浮かべた。
「はぁ? 何言ってんの。今日は父さんも母さんも来ないわよ。そもそも、来るなんて言ったっけ?」
 そうだ。言っていない。ただ彼女の実家のある深大寺でデートしようと話があったから、紹介されるものと勝手に思い込んでいたのだ。深紗大王の眷族の神通力も、とんだ骨折り損なのだった。
 けれど、彼女は何かに気づいたらしい、急に笑顔を浮かべた。
「ねえ! その手にあるやつ」
「へ?」
 僕は右手を彼女の前で広げた。
 それは、僕の乗ってきた藁の馬だった。深大寺につくや、役目を終えた藁馬は元の大きさに戻り地面に転がった。そのままにしておくわけにもいかず、拾い上げていたのだった。
「これ、赤駒じゃん」
「赤駒?」
「うん、深大寺名物の玩具。……もしかして、私にこれを?」
「え……あー、うん」
「うわあ、ありがとう!」
いい方に誤解してくれたらしい。彼女は僕の手から藁馬もとい赤駒をひったくると、ニコニコと微笑みながら指先でつついていた。亜紀は本当に眩しく笑う。
 亜紀を見つめながら、僕は心の中で呟いた。
 この笑顔をずっと見ていたいんだよなァ、僕は。
 その瞬間僕の口から、胸から溢れてしまった言葉が飛び出した。
「結婚してください」
 すると彼女、顔を真っ赤にしてまたグーを飛ばしてきた。
「遅い! 待たせ過ぎ!」
 彼女のグーが僕の鼻を粉砕した瞬間、僕の心の中でお婆さんの声が響いた。
“がんばりなさいな”
 その声に向かって、心の中で僕は返事をした。
“うん、がんばります”
 鼻血をダラダラ流しながらも、僕はなんとなく幸せを噛みしめていた。

谷津 矢車(東京都)

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