約1年ぶりに会った彼女はとても美しくなっていた。
 化粧は相変わらず薄く、体も細いまま。変わったといえば髪が長くなったことぐらいしか見た目からは分からない。それでも美しくなったと感じるのは、彼女の内面が更に磨かれたからなのだろう。それを伝えると「そんなことない」と彼女は反論した。
「白髪も発見したし、シワも増えたんだよ。仕事はまだミスするし、後輩からは先輩と思われてないみたいだし...」
 そんな風に否定しつつも、頬にえくぼができている。彼女が嬉しいときの証拠だ。
「かわいいなぁ」と呟くと「やめてよ」とまた言う。堂々巡りになるから彼女に従うが、間違いなく彼女はかわいかった。普通のカップルからしたら当たり前のようなやりとりが僕にとっては幸せすぎて、鼻の奥が少しつんとする。
「あ、バス来た!」
「急げ!」
再会を楽しんでいる暇もなく、深大寺行きのバスへ慌てて乗り込んだ。
 
彼女との出会いは大学だった。その当時、大学巡りが趣味だった彼女がたまたま僕の大学に来て、学食で彼女が落とした小銭をたまたま僕が拾った。
「ありがとう」
 その笑みに僕は一瞬で恋に落ちた。それまで女性とは縁がなく、女性より勉強という僕の人生に突如として現れた彼女にどうしたら近づけるのか。悩んだ挙げ句、帰る彼女の後ろ姿を真っ赤にした顔で追いかけ、連絡先を交換した。そして何通かのメールのやりとりの後、博物館に行く約束を取り付け、彼女が待ち合わせ場所に来た瞬間、告白した。彼女は笑い、望んでいた答えをくれた。
 段取りの悪さはあれから五年経った今でも恥ずかしい。
 
「久しぶりの日本はどう?」
「そりゃ最高だよ」
 君がいるからとは照れくさくて言えない。
「日本語ばっかりだし」
「まだ英語ダメなの?」
「専門用語は大体覚えたけど日常生活の言い回しは未だに分からないのが多いよ」
「それで次は中国語って、学者の卵は大変ね」
「せめて、ヒヨコと言ってくれ」
 アメリカに留学することにしたのは大学三年の秋、彼女と付き合って1年が経ったころだった。運よく研究の成果が出て、ボストンにある大学に留学してみないかという誘いを受けた。学者になり生涯研究をすることが幼い頃からの夢だった僕にとっては願ってもない話だったが、すぐに決断することはできなかった。彼女と一生人生を歩むことも同じくらい大事な夢になっていたからだ。うじうじと悩み体重が五キロ落ちたところで、彼女に相談した。
「行ってきなよ!待ってるから」
彼女は明るく言ってくれた。
「ただし、金髪美女と浮気しないでよ」
 僕は彼女を抱きしめ、「ありがとう」と言った。弱い僕は彼女が目尻を指でなぞっていることを気づかないふりをし、代わりに腕に力を込め、誓った。
数年後、僕は絶対学者になる。そして君を世界一幸せにするから―
 
 それから僕は、一刻も早く学者として成果が上がるよう、寝る間を惜しみ、アメリカで研究漬けの生活を送った。遊んだことといえば、休日を利用して彼女がアメリカへ来てくれた四回だけだ。日本への帰国でさえ、今回始めてだったが、これもついでだ。急遽、上海の大学に資料提供を依頼することになり、日本へ寄り道することにした。本来ならば直行すべきかもしれないが、僕は数日だけ自分を甘やかすことにした。

 バスを降りると雨が降り出していた。
「七夕っていつも曇りか雨だよね。織姫と彦星は会えてるのかな?」
「さぁ」
 折畳み傘を開く腕に彼女の腕が絡む。肩に落ちる雨の冷たさが彼女の温もりを際立たせた。町並みもすっかり変わり、並ぶ石畳、土産屋、蕎麦屋、景色から日本を感じ、ホッとした気持ちになる。心を呼んだように、彼女が「日本っぽいでしょ」と得意気に笑う。
「いい感じ」
僕は素直に答えた。
日本へ帰ることを彼女に告げると「じゃあ久しぶりに日本を体感させてあげよう」と彼女は言った。鎌倉辺りになるかなと思っていたところで、彼女の口から出た場所は深大寺だった。名前以外何も知らない場所だった。疑問に思ったのが、電波を通して日本に届いたのだろうか。
「深大寺の雰囲気ってなんだか落ち着くの。あなたも気に入るはず。それに移動時間より、デートに時間をかけたいしね」
 彼女の選択は正しかった。まだ深大寺の中に足を踏み入れていないにも関わらず僕は深大寺の雰囲気が好きになっていた。
「七夕の飾りが綺麗ね」
 華やかな色どりの飾りがぶら下がる。それに背伸びして触ろうとする彼女だが、決して足を止めなかった。いつもなら反応しそうな土産屋も裏道も全て無視だ。
「どこに向かってるんだっけ?」
「本堂よ。目的は一番に済まさないとね」
 目的なんかあったっけと考えながら、彼女についていく。僕自身が立ち止まって眺めたい建築物や植物があるが、仕方ない。
「ついたよ」
 本堂は質素だが威厳のあり、立派だった。手を清めて、階段を上がる。お互いカバンから財布を取り出し、小銭を投げ入れ手を合わせた。
 随分と久しぶりの行動だった。思い浮かんだ言葉をポンポンと祈っていく。
 彼女とずっと一緒にいれますように、いい研究結果が出ますように、みんな健康でいますように、悪いことがおきませんように、あとはー、みんな幸せでいられますように
 百円でこれだけ願うことは欲張りだなぁと思い、苦笑いしてしまった。
 そろそろいいかと思い、顔を上げて隣を見ると彼女はまだ手を合わせていた。固く目を閉じ、口を結び、真剣に。何をそんなに?と疑問に思わずにはいられない。
 やがて、顔を上げ一礼すると、彼女は階段を下り始めた。
「何お願いしてたの?」
 ダメもとで聞いてみる。秘密や教えないという返事が返ってくると思ったが彼女は立ち止まり「ここは縁結びの神様なのよ」と小さく言った。
「え?どういうこと?」
 別な人がいるのか?と心臓がヒヤリとなったところで「結ぶものならほどけることもある」と彼女が言った。
「それは二人の気持ちだけではどうしようもないことなのかもしれないから。それなら祈るしかないでしょ?」
「なにを?」
 勢いで聞いた僕を彼女は睨んだ。
「学者のヒヨコならそれくらい考えなさい!それに言って叶わなくなったら困るし」
 あぁ、なるほど。
少し赤くなる彼女を心から愛おしいと思った。
 僕はもう一度深大寺に向きあい、手を合わせ彼女と同であろう願いを祈った。今度は真面目に、真剣に。
 僕は絶対に彼女を幸せにする。だから、彼女との縁がほどけませんように―
 彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 
階段を降り、傘を開く。
「次はお蕎麦を食べに行こう。オススメがあるの」
 そのとき、ニッと笑いながら僕を見上げた彼女の顔の角度が、無意識に僕を動かした。
「人前で何すんの!」
 パシリと肩を叩かれ「ごめん」と謝る。
「つい、条件反射で」
 もーと言いながら両手で頬を押さえる彼女にもう一回と言わず、何度もキスしたくなる。
デートしながら人目を気にせず、キスして、抱きしめて、頭を撫でて、やりたいことは山ほどある。
そこで、僕は、なるほど、と悟った。
今頃、彦星と織姫は雲の向こうで人目にさらされることなく、二人の時間を楽しんでいるに違いない。
「七夕の日、天気が良くない理由が分かった」
僕の呟きに、彼女は首を傾げた。

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<著者紹介>

玖月(茨城県つくば市 /24歳/女性/会社員)

 「調布駅までお願いします」
タクシーに乗り込み、笠井修平は出張先の会社を後にした。後部座席に深く腰を下ろしたまま、流れる景色へ目を向ける。二十年ぶりの東京は、相変わらず忙しそうだ。
彼を乗せたタクシーが赤信号で止まったのは、涼しげな蕎麦屋の前だった。反対側の歩道では、下校途中の中学生たちが信号を気にしている。その様子をぼんやりと眺めていた修平の目に、一人の少女が映り込んだ。
彼女は、誰かに似ている気がした。
「すみません。ここでいいです」
 彼がタクシーを降りた時、信号が青に変わった。横断歩道の先へと散って行く人の中に、彼女の姿は見当たらなかった。
修平は何かを誤魔化すように、腕時計に目を落とした。帰りの飛行機の時間まで、まだかなりの余裕があった。彼の足は向きを変えると、大通りとは逆方向へと歩き出した。

転勤族だった修平の家族が、調布の街に越してきたのは、彼が十四歳の秋だった。
「笠井修平です。よろしくお願いします」
 新しい学校の新しい教室。教壇の前で決まり文句を棒読みすると、彼は慣れた様子で用意されていた席に着いた。彼がクラスに打ち解ける気がないと分かると、クラスメイトは徐々に、彼に対する好奇心を無くしていった。
 そして、あっと言う間に冬が来た。学校の廊下を歩きながら、彼は次に行く街を想像してみた。だが、どんな景色も思い浮かばない。代わりに、誰かの足音が聞こえてきた。それも、一人や二人じゃない。足音は次第に大きくなり、両側から修平を追い越した。見たことのある女子が五人、その先に伸びる階段へと向かって行く。その途中で、一人がこちらに振り返った。
「笠井くん、明日の放課後よろしくね」
 そう言うと、彼女は階段を二段抜かしで駆け上がって行った。
宮野皐月は、明るく社交的な性格だった。その彼女と、明日の放課後を過ごさなくてはいけなくなってしまった訳は、先々週のホームルームでのことだ。
「それじゃあ、男子は笠井くんで。次は女子。誰か、やってくれる人?」
 学級委員の進行で、来月行われるマラソン大会の実行委員を決めることになった。それが何なのかというと、実際に走るコースの下見をする。ただ、これだけのこと。だが、試験が終ったばかりの今の時期、進んで無駄な放課後を過ごす人間などいるはずがない。もちろん立候補のなかった男子は、ジャンケンで修平に決まってしまった。教室中の女子が下を向く。その中で、たった一人手を上げたのが宮野皐月だった。
その日の放課後、当たり障りのない会話をしながら彼女と歩いた。会話といっても正確には、彼女の話に修平が相槌を打っていただけだった。
「ここ、コースだっけ?」
 彼がそれに気付いたのは、野川を越えた辺りだった。彼女は、悪戯が見つかった子供のような顔をした。それから「ちょっと寄り道」と言って、修平の制服を引っ張った。
コースを外れた彼女が向かったのは、深大寺だった。彼女は、そこに着くなり引いた大吉のおみくじを真剣に見ている。修平も、彼女に引かされたそれを広げた。結果は、凶だった。
「もしかして、落ち込んだ?」
正直、多少は気になったが、覗きこむ彼女に悟られないよう振舞うと、それを括りつけるために高く手を伸ばした。その時だった。ゆっくりと、綿のようなものが落ちてくる。
「雪?」
 彼女が言った。空に粉雪が舞っていた。急に冷えた気がして、彼は思わず手の甲をさすった。隣を見ると、宮野皐月が初雪に目を輝かせている。
「どうして、手を上げたの?」
 修平は、彼女の横顔に尋ねた。なぜ急にそんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。彼女は修平以上に驚いていたが、そっと口を開いた。
「知りたかったの。笠井くんのこと」
 彼女は、普段の様子からは想像できない程、大人びた表情で言った。
「ねぇ、笠井くんって、どうしてみんなと関わろうとしないの?」
真っ直ぐに見つめる彼女の瞳を、彼は咄嗟に逸らしてしまった。
「雪と同じだよ」
 地面に落ちるそれを見ながら、彼は言った。
「意味のないことだから」
「どうして、雪が意味ないの?」
「雪って、最後は溶けて無くなるだろ?俺も同じ。例えクラスに馴染んだとしても、どうせ、またすぐに転校する。無くなるんだ」
 こんなことを、人に話したのは初めてだった。同時に、激しい寂しさが彼を襲った。
「大丈夫よ。無くなったりなんかしない」
 彼女の温かい声が、冷えた心を包み込んだ。
「ねぇ、知ってる?ここでは、五月に降る雪があるの。それは毎年必ず降る、溶けない雪なのよ」
「五月に?」
 修平が聞くと、彼女は大きな木に近づいた。
「そう。この木が降らせてくれるの」
「何の木なの?」
「なんじゃもんじゃの木」
彼女が指差した木の幹には、確かにそう書かれた木の札が掛けられていた。
「周りの木が緑でいっぱいになると、この木が花を咲かせるの。雪が積もったみたいに真っ白な花。そこに風が吹くとね、花がくるくる回りながら落ちてくの。雪みたいに」
 広げた彼女の掌に、雪がちょこんと飛び乗った。今まで何度も見ている雪が、今日はなぜだか綺麗に見えた。
「変わった結び方ね。どうなってるの?」
 彼女は首を傾げながら、彼が結びつけたおみくじを見て言った。結んだ時にできる余った部分を、器用に織り込んで作ったそれは、雪の結晶と同じ六角形の形をしていた。
「五月に、ここに来た時に教えるよ」
 舞う雪に触れながら、修平が言った。
「宮野さんの話を聞いたら、俺もその雪を見てみたくなったんだ」
 弾けたように笑った彼女を見た瞬間、修平の中にあった堅い氷のかたまりが、溶けていくのを感じた。同時に高鳴る胸の鼓動に、彼は何かが始まる気がした。
だが、その期待がそれ以上膨らむことは、もうなかった。校庭の桜が咲き始めた頃、次の転校先が決まった。
「急なのね」
 教室の窓から外を見たまま、宮野皐月が言った。下校のチャイムが鳴るまで、修平は、彼女の背中を見ているだけだった。
「あの約束、ごめんな」
 彼女の机に六角形の紙を置くと、それだけ言って修平は教室を出た。廊下に差し込む太陽の光は、まだ弱々しかった。彼は、その上を踏みしめるように歩き始めた。
その時だった、教室の扉が音を立てて開いた。振り向くと、宮野皐月が立っていた。
「私、あなたのこと忘れないから」
 彼女の右手には、広げられた六角形の紙が握られていた。そこには、修平が彼女に伝えたい一番の思いが書かれていた。
優しい笑顔で手を振る彼女に、修平は同じ気持ちで手を振り返した。

タクシーを降りた後、彼の足は迷うことなく、深大寺へと向かった。新緑の木々が揺れる。五月の木漏れ日に、彼は思わず目を細めた。そこは、東京とは思えない程、時間の流れが穏やかだった。階段を上がり、引き込まれるように山門の先へと進む。本堂の前まで来ると、彼は静かに手を合わせた。
そして、ゆっくり顔を上げる。彼の目に不思議な光景が飛び込んできた。晴天の空へと伸びる鮮やかな緑の葉に、雪が積もっている。よく見ると、それは白い花だった。
修平がその花に目を奪われていると、前を横切った小さな女の子が、彼の足元に何かを落とした。白い花の付いたヘアピンだった。彼がそれを拾うと、女の子は小さくお辞儀をし、少し離れた所にいた女性の方へ走って行った。
彼は再び時計を見た。針は思っていたよりも進んでいた。そろそろ時間だ。
さっきの女の子が、目一杯背伸びしておみくじを結んでいる。それを見て、修平はハッと息を呑んだ。堅く結ばれたそのおみくじは、六角形だった。
「この結び方、どこで覚えたの?」
 修平が聞くと、女の子は「ママ」と答え、隣の女性を見上げた。
「特に意味はないんです。ただ、昔こんな風に結んでいた人がいて」
澄んだ瞳で彼女は言うと、修平に軽く会釈し、女の子の手を握った。彼の頭の中で、様々な感情がぶつかり合った。全てを壊してしまいそうな大波が、全身に押し寄せる。
すると次の瞬間、女の子が小さな手を修平に向け、ヒラヒラと揺らした。彼はフーと息を吐いた。笑顔は、母親そっくりだ。その幸せそうな親子を、呼び止めてしまわないように、修平はそっと目を閉じた。
そして、目を開けた時にはもう、二人の姿は見えなくなっていた。代わりに彼の目の前を、美しい何かが通り過ぎる。その軌跡を辿るように、修平は視線を空へと向けた。青い空から、純白の花が、風に乗って舞い降りてくる。思わず笑みがこぼれた。本当だ。
「雪みたいだ」
 その雪は風に乗り、高く舞い上がると、深大寺の空から優しく降り注いでいた。

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<著者紹介>
水岡 れい(東京都三鷹市/25歳/女性)

6月のある晴れた日曜日。梅雨の時期には珍しく雲一つない青空が広がり、新緑が映える気持ちのよい天気に誘われた観光客で賑わう深大寺の境内に沙希はいた。
「縁結びとか、そういうの信じないタイプだと思ってた。」
同行していた俊文は、熱心に手を合わせる沙希が顔を上げたタイミングで呟いた。
「ちょっと。神様の前でそんな事言わないでよ。」
少し眉間にシワを寄せ、ふて腐れた表情で俊文を見上げ言い返した。
「ここはね、私にとって特別な場所なの。」 
不機嫌な顔を取り払う様に言いつつ、踵を返し授与所へ向かう。「ここでお願いしたから、俊文に会えたのかも知れないでしょ。」 
歩きながらそう付け加えて、お金を納め絵馬とお守りを受け取る。 
沙希と俊文は、月末の大安に結婚式を控えている。俊文はここを訪れるのは初めてだが沙希は2回目で、過去に別の男性と深大寺を訪れていた。

その時も、今日の様な五月晴れの気持ちの良い天気の中、沙希は彼と2人で参拝に訪れていた。 
『何をお願いしてるの?』
合わせた指先が額につくような格好でいつになく真剣な表情で祈願する彼に向かい、沙希は無邪気に尋ねる。祈願の途中で声を掛けられた彼はそのままの姿勢でちょっと苦笑いをしたあと、ゆっくり目を開き、どこか困った様に見える笑顔で答えた。
『沙希に、素敵な旦那さんが見つかって、幸せなお嫁さんになれますようにって。』 
その答えに沙希は不機嫌になり彼の手をぎゅっ、と握り 
『このままじゃいけないの?』
と再び尋ねた。すると彼は益々困ったような表情を浮かべ沙希の瞳を覗き込み
『そう言ってくれる気持ちだけで嬉しいよ』と、答えにならない返事をしたのだった。
沙希はこの日の事をよく覚えていた。初めて自分が好きになった男性、そして初めて自分を好きになってくれたこの男性と過ごした長い月日はどれも沙希にとって大事な思い出だが、この日初めて『ずっと一緒にはいられないのかもしれない』と感じた日だったからだ。

沙希は、絵馬を手に取り、備え付けの黒いマジックでその男性の名前と願い事を書きはじめた。
『藤田清さんに素敵なお嫁さんが見付かりますように』
真剣な表情で書き込む沙希の絵馬を後ろから覗きこみ
「普通、ここでフルネームを書くかな。」
「そっちの方が神様もわかりやすいでしょ。」
「いや、そうじゃなくてさぁ...。」
今度は俊文がムッと不機嫌な表情を浮かべ、自身も絵馬に願いを書き込む。
『沙希が清さんよりも俺の事を一番好きになってくれますように!』
半ば八つ当たりの様に絵馬へ書いた俊文を見て、沙希は思わず微笑みを浮かべる。
「なに言ってんの!ちゃんと一番好きだよ。でなきゃ俊文と結婚決める訳ないでしょ。」 
と、遂に堪え切れずフフフ、と笑い声が漏れてしまう。そんな沙希の様子を見て更に不服そうな表情を浮かべ、俊文は2つの絵馬を持って一人黙って奉納にいってしまった。そんな俊文の背中を見つめながら 『一番好き』と即座に言い切れた自分の気持ちを静かに振り返りながら先程買ったお守りをそっと握りしめた。

沙希は初恋の男性と居る時はいつでも、『私は【彼女】の次なんだ』と感じていた。彼の中では【彼女】が1番で、いつも2人の思い出話を聞かされていた。『優しくて』『明るい』『どんな人からも好かれる』『とても魅力に溢れた』女性だと。その話を聞く度に、沙希の胸の奥はモヤモヤと変な感情に捕われた。『私とは全然違うタイプの人なんだね。』と言うと 
『何言ってるんだ、とても良く似ているよ。』と嬉しそうに彼は答えたが、その笑顔を見る度に『その女性には敵わないのだ』と改めて思い知らされるようで憂鬱になった。が、それと同時に『2番目』のポジションは私のものだ、と強く感じるようになり、そのうちに、それが自然で1番幸せな形なのかも知れないと思うようになっていた 。
長い付き合いの中では、お互いの距離感が掴めず言い合う事が殆どの時期もあった。顔を合わせては些細な事から口喧嘩になる事も日常茶飯事となっていた頃、彼はある事を口にした。
『会社に結婚を考えたい人がいる。』 
その一言は沙希にとっては青天の霹靂で、今までの【彼女】が1番で私が2番目という不動の幸せな形から、何もかも変わってしまうのではないか、私は何番目になるのだろう。と、どうしようもない不安に駆られ、なによりも新しく女性に好意を寄せる彼に対し、酷く不誠実な人だと感じ、気が付いたら
『そんなの嫌。身勝手すぎるよ。』
と声を荒げて反論をしていた。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと俯いて
『そうだよな。ごめんな。』 
と、消え入りそうな小さな声で呟いた。初めて見る、その頼りなく寂しげな横顔を見て、思わず『ごめんね』と言いそうになったけれど、その一言は未だに飲み込んだまま、結局そのままその話はなくなり、再び話題にあがる事はなかった。

俊文との結婚式を翌日に控えた土曜日。沙希は彼を訪ねる準備をしていた。バックには先日深大寺で頂いたあのお守りが入っている。 
「俺も行っちゃダメなの?」
俊文は、浮き足立って身支度を整えている沙希に向かい声を掛ける。
「独身最後の日位、一人で自由にさせてよ」 
からかうように答えると、ハイハイ。と、呆れ果てたような答えが返ってくる。
「ちゃんと俺の所へ帰ってこいよ!」
今度は俊文がからかうように投げかける。ハイハーイ、とわざと軽い返事をして沙希は笑顔で結婚の為に構えた新居を出発した。
最寄駅から彼の住む家までの通い慣れた道を、いつもより少し遅い足取りで歩く。駅前の賑やかな大通にある商店街から一本外れると、それまでの喧騒と打って変わり閑静な住宅街が迷路の様に続く。何本目かの小道の突き当たり、庭木が茂るごくありふれた一軒家が彼の家だ。門の横で例年通り咲き誇る淡いピンク色の紫陽花が沙希を出迎えた。少しザワつく胸を手の平で軽く押さえ、平静を装いながら少し錆の付いた門を開けると、キィッと小さな高い音が辺りに拡がる。鍵は持っているが、インターフォンに指をかけた。その時ふと、玄関横に拡がる庭の奥に目をやると、庭木の手入れをする彼の姿が見えた。その背中は心なしか以前見た時よりも少し小さくなった感じがした。と同時に一瞬で胸がきゅうっ、と締め付けられ、明日の結婚式を辞めてしまおうか、という考えが頭をよぎる。インターフォンに掛けた指を降ろし、お守りの入ったハンドバックを握り直す。深呼吸をするように大きく息を吸い込み、先ほどの気持ちを振り切るように大きな声で、彼を呼んだ。 
「お父さん!」 
彼がゆっくりと振り返り、そしていつもの様に困った様にみえる笑顔で笑い掛ける。
「明日嫁入りの娘がこんな所来てどうした。」 
ハンドバックからお守りが入った白い小さな紙袋を取りだし、顔の横に掲げた。
「渡したいものがあったの。」
続けて父の好きな和菓子店の紙袋を差し出し 
「とりあえず、お茶にしよ。」 
 父をリビングの椅子に座らせ、沙希は勝手知ったる実家の台所でテキパキとお茶の準備を始めるが、沙希の荷物が無くなり、父1人が住むこの家は以前と比べガランとしていてどこか違う家の様な感じがする。これからも父がこのガランとした家で一人、暮らしていくのかと考えると、沙希が高校生の頃に父が話した『結婚を考えたい』との一言に『身勝手だ』と言ってしまった自分の方が身勝手だったんじゃないか、と思うようになっていた。 
「あの時はごめんね。」
当時、飲み込んでしまったその一言をやっと声に出して伝えた。
「...なんの事だ?」 父は訝しげな顔をして聞き返すが  
「...さあ。」 
沙希は茶葉を準備する振りをして、下を向きやり過ごす。 そんな沙希を見て父は腑に落ちない様子で、持ってきた白い小さな紙袋を開けた。中から出てきた「縁結び」と書かれた小さなお守りをみて、父は少し笑った。
「お許しが出たから、今からでも新しい恋を見つけられるように頑張るかな。」
と呟いた後、リビングの向かいにある和室の奥に飾られた写真へ目をやると
「でもやっぱり...母さん以上の良い女性が見つかるかな」
と写真に語りかけるように続けた。父は、沙希が物心つく前に病気で亡くなった母の話を、相変わらず照れ臭そうに話す。その姿に幼い沙希は嫉妬をしたものだった。
「見つけてよ。それでもっと幸せになって。深大寺でお願いしてきたから効果絶大だよ。」 
沙希はお茶を入れる手を休め、父の方へ向き直り胸を張って言った。
「お父さんが、前にお願いしてくれたから、今私は俊文と出会えて幸せな花嫁さんになれるんだよ。」
「...覚えてたのか。」 
沙希が小学生の頃の深大寺での出来事に、父は驚きで一瞬目を見開いた後、すぐに困ったように見える顔で微笑んだ。
??お父さんは気付いてるかな。その笑顔と似ていることがキッカケで俊文を好きになった事。??
ヤカンがシュンシュンと音を立てお湯が沸いた合図を告げる中、小さな声で呟いた沙希のささやかな告白は初恋のひとの耳に届いただろうか。

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<著者紹介>
上野 澄美(東京都杉並区 /27歳/女性)

6月の日曜日、空にはきれいな夕日が浮かんでいる。久しぶりにさえぎるものが何も無い太陽の光りを浴びることができた一日。ここ数日は、雲の上から深大寺水車館の水車で水を流し続けているかのような雨が降り続いていた。
深大寺の本堂の前に熱心に手を合わせている一人の高校生がいる。彼は、調布市内の都立高校に通う高校3年生の丸川隆。隆は、長いお参りを終え山門の方へと歩き出そうとしていた。山門の方からジャージ姿の見覚えのある女の子がやって来るのに気が付いた。女の子は、幼馴染みの松川奈々だった。
「あれ~、隆じゃん、何してるの?」
「いっ、いやお参りをちょっと」
隆はあわてた様子でこたえた。
「何?私変なこと聞いちゃった?」
「別に何でもないよ、ただお参りしてただけ」
「そう?そんな風に見えないけど、悪いことでもしてたんでしょ!まさかお賽銭を盗んだとか!えぇ~、隆ってそんな人だったの」
「はぁ~、勝手に犯罪者にするな、別に何でもないって、奈々こそ何しにここに?」
「お参りに来たにきまってるじゃん。ここはお寺なんだし」
たしかに...。
「ねえねえ、隆は、何をお願いしたの?」
「何で奈々に教えなきゃなんないの?」
「いいじゃん、幼馴染みなんだし、隠しごとなしってことで」
隆の家は蕎麦屋、奈々の家は隆の家から50mほど離れたところで土産物屋をしている。2人は、幼稚園から小学校、中学校、高校と同じ学校に通っていた。小学校の頃までは、お互いの家に遊びに行ったり、家族同士で一緒に出掛けたりといったこともあった。しかし中学生になるとお互い部活や塾などで忙しくなり、登下校の際にたまに顔をあわせる程度になっていた。
「来週の日曜日に部活の県大会があってそれが高校最後の大会になるかもしれないんだ。だから神頼みをしてた」
「へぇ、じゃあ私と一緒じゃん、私も来週負けたら最後の大会があって、ちょっとでもいい成績を残せますようにってお願いしにきたの。隆は、柔道部!昔から結構強かったよね。今回の目標は?」
「もちろん優勝、そして全国大会出場!!それを目標にずっとやってきたからね」
「全国大会!すごぉ~い!!そうだよね、小さい頃から道場に通ってたもんね。でどう?行けそうなの?」
「強いやつはたくさんいるからそう簡単にはいかないよ。それに柔道はちょっとした油断やミスで負けるときもあるし。まぁやるだけやってみるよ。奈々は、テニス部だよね。そっちはどんな感じなの?」
「私も全国大会!って言えればかっこいいんだけど、隆ほど気合いれてやってきたわけじゃないし、1回勝てればいいかな。この大会が終われば、いよいよ受験勉強!そろそろ本格的にやらなくちゃ。すでに頑張っている人たちからすれば、"遅すぎ!"って言われちゃいそうだけど。隆は、卒業後はどうするつもり?」
「俺は父親の知り合いの蕎麦屋で働かせてもらう予定。まあ、いわゆる"修行にでる"だな。だから真剣に柔道やるのも高校まで。その後は、しっかりと蕎麦屋の跡継ぎとして親に心配かけないよう腕を磨こうと思ってる」
「えらいっ!見直しちゃった。ちゃんと将来のこと考えてるんだね」
「まぁそうでもないけど。親が仕事している姿を子どもの頃から見ていて、なんか楽しそうだなって。それに自分の作った蕎麦を"美味しい"って言ってもらえたら嬉しいじゃん。だから俺も蕎麦屋で働きたいなぁって」
「奈々は受験するってことは、大学に行くんだ」
「私はまだ将来のこととかよくわからないというのが正直なところ。土産物屋は、お兄ちゃんが継ぐっぽいし。とりあえず大学に行って、いろいろ挑戦してみようと思ってるんだ。まずは、お化粧でしょ、そしてネイルもきれいに飾って、あっピアスもね...」
「それって単におしゃれしたいってだけじゃないの?」
「冗談、冗談、いろいろ本当はちゃんと考えてるの!"あ~あ"でも今年の夏もあっという間に終わって、すぐに卒業式が来ちゃうんだろうな。そしたら隆と今までずっと一緒の学校だったけど今度は違う進路に進むことになるんだね」
「そっか、そうだよね」
隆はしんみりと言った。しばらく2人の間に沈黙が流れた。
奈々が顔をあげて
「あのさ、来週の日曜日、試合終わったらここにもう一度来てお互いの結果報告会しようよ。どう?いい考えじゃない?」
「あぁ、いいよ」
隆は、思ってもいなかった奈々の言葉にとまどいながらもこたえた。
「6時なら来れそう?」
「うん、6時なら戻ってきてると思う。わかった、じゃあ来週6時にこの場所で。奈々、大会頑張れよな」
「隆も頑張ってね。大丈夫!このお寺のご利益は日本一だってうちのお父さんがいつも言ってるから」
隆は山門へ、奈々は本堂の方へと歩いていった。
大会当日の夕方 
隆は、先週奈々と話した場所に約束の10分前にやってきていた。まだ奈々は来ていない。隆は、早朝から気持ちを張りつめていたため、体は脱力感でいっぱいだった。しばらくは、大き目の石に腰をかけて、参拝に来た人たちが行き来するのをぼんやりと眺めていた。パック旅行の団体客やペット連れの家族、カップルといった人たちが、目の前をひっきりなしに通り過ぎていく。お寺の雰囲気が作り出すのだろうか、みんな穏やかな表情で歩いていた。30分ほど経ったが、奈々はまだ来ない。こんなことなら、奈々の携帯の番号かメールアドレス聞いとけばよかった。そんなことを思いながら、隆は寺の中をぶらぶらしていた。子供のころからすべてを知り尽くしていると言っていいほどの場所。でも季節ごとに異なる表情を見せてくれるこの場所は、隆にとっていつも新鮮だった。
アジサイの花の向こうから、奈々が走ってくるのが見えた。
「ごめ~ん、だいぶ待ったでしょ。先輩たちが応援に来てくれていて、大会が終わったら食事に行こうって、なんか抜けられる空気じゃなくなっちゃって」
「この時期の寺の雰囲気を満喫してたから大丈夫。寺の中のすべてのものが、夏を待ち構えてるって感じがするんだよね、で、大会はどうだった?」
「2回勝った!3回戦もかなり善戦したんだけど、まぁ部活に関しては、思い残すことはないかなって感じ。隆は?」
「決勝で負けちゃった。それまでは調子よかったんだけど。言い訳なしかな、完敗だった」
「そっか、でも一生懸命やったんでしょ。一生懸命やったって思えるなら、隆のこれからの人生にとって必ずプラスの経験になるよ。私がえらそうに言える立場じゃないけど」
「ありがとう」
そう言ってもらえると嬉しいよ。
「あ~、その表情は落ち込んでるな」
奈々がちょっといたずらっぽく言った。
「落ち込んでなんかいないって」
隆は少しむきになって言った。
「よしっ、じゃあこの奈々さんが隆君を励ましてあげよう!来週の日曜日に2人で出かけるっていうのはどう?それとも私じゃ役不足?」
「えっ、いや、ぜひ!」
「本当!どこかリクエストある?」
「別にどこでもいいかな」
隆は素直に喜びを表すのが照れくさかった。
「何それぇ、じゃあ"そば饅頭"食べながら考えよう!!さっきは、先輩と一緒だったからお腹いっぱい食べられなかったんだよね。行こう!隆」
「わかった、その前にちょっとここで待ってて」
そう言いながら隆は、本堂の方に駆けて行った。本堂の賽銭箱にポケットの中の小銭を入れて手を合わせた。
「ありがとうございます!柔道の方は願い通りに行かなかったけど、『高校生のうちに奈々と昔のように仲良くなりたい』ってお願いは聞いてくれたんですね」
ぶつぶつ言っていると、背後から奈々の声が聞こえた。
「まだお願いすることがあるのぉ~、早く行こうよぉ"そば饅頭"が待ってるよぉ」
「ごめ~ん、今いく」
隆は、奈々の方へと走っていく途中、もう一度本堂の方へと振り返って、
「また、お礼を言いにきます!」
そう心の中で手を合わせながらつぶやいた。
空には、先週と同じくきれいな夕日が浮かんでいる。あたたかな光に照らされた2つの影が山門の下を駆け抜けて行った。2人の高校生活最後の夏が、もう目の前にやって来ていた。

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<著者紹介>
奥松 亮二(千葉県柏市 /37歳/男性/自営業)

 深大寺に行こうと妻が言い出したのは、NHKの朝ドラの影響だった。
 私たちの住むさいたま市から深大寺までは、電車で調布まで出て、駅のロータリーからバスに乗るのが一番早い。早いと言っても、ドアツードアで、軽く一時間半はかかる。
ゆっくり家を出たせいもあって、深大寺に着いたのは十二時を少し回ったころだった。決して近くはない。
それでも深大寺に行きたいと思うほどあのドラマを気に入ったのは、もちろんストーリーも良かったのだろうが、向井なんとかという若い俳優の存在が大きかったに違いない。そう睨んでいる。妻は面食いなのだ。
「えーっ、そんなことないわよう。だってあなたと結婚してるのよ? 面食いなわけないでしょ」
 参道を歩きながら、妻はケタケタ笑った。日曜日だからか人出が多い。私たちと同じで、穏やかな秋の日ざしに誘われたのだろう。
「それより、山門前にあるおせんべい屋さんの濡れせん! すごく美味しいらしいわよ。お隣の奥さんが言ってたの。食べましょ」
 人ごみを軽やかに歩く妻はほっそりとしていて、髪は綺麗な栗色に染められている。小じわが少し増えたくらいで、昔とあまり変わらない。
変わったのは私だ。妻と出会ったころから体重は三十キロ近く増えて、白髪まじりの髪は、ほぼ半分に減っている。
管理職なんてなるもんじゃない。サービス残業は多いわ、上司にねちねち嫌味を言われるわ、生意気な部下に気を使わなければいけないわ、本当にロクなことがない。太ったのも抜けたのも、全部仕事のせいだ。
 そのうえ、たまの休みにリビングのソファで昼寝をしていれば、一人娘の明子に
「やだもう! パパったら、浜辺に打ち上げられたトドみたい」
 と失笑される。
職場でも家庭でも虐げられる私の安息の地は、どこにあるのだろうか。
「ほら、あなた。濡れせん。ほんとに美味しいわよ。これで一本百円なんてお得よねえ。お土産用の濡れせん、お隣にも買っていこうかしら」
 串に刺さった濡れせんを、妻は満面の笑みで差し出した。
お前は呑気でいいよな。

 深大寺の境内は、緑豊かで心和む空間だった。紅葉には少し早かったけれど、緑が目に優しく心地よい。
冷たい水で手を清めてからお参りをした。ポケットの小銭を賽銭箱に投げる。妻は財布から五百円玉を出して放り込んだ。私は目を疑った。
なぜなら、妻の財布の紐はとても固い。
毎日のようにスーパーマーケットのチラシを見比べて、ここが二十円安いとか、ここは意外に高いとか、チェックに余念がない。
一緒に買い物に行くと
「あーっ、しまった。昨日卵を百三十八円で買っちゃった。ここは九十八円だったのね!」
 とか
「どうしよう。トイレットペーパーがものすごく安い。お一人様一点までって、もう一度来たらばれちゃうかしら。どう思う、あなた?」
 とか、至ってみみっちいことで、真剣に苦悩している。
そういう妻なので、賽銭はいつも五円だ。「ご縁があるように、五円」と、毎回のように言い訳しながら入れている。今年の初詣もそうだった。
それなのに五百円だなんて。いったい妻に何があったのだろう?
妻は一分ほど手を合わせて、なにか祈っていた。それだけ願えば五百円払っても元が取れるだろうと思うほど熱心だった。
私がしびれを切らしそうになった頃、ようやく妻は顔を上げた。
「さ、行きましょ。お腹も空いたし」
 切り替えの早さに呆れながら、すたすたと歩く妻についていく。
「さて、どのお蕎麦屋さんに行きましょうか? これだけあると選び放題ねえ」
 調布駅でもらった深大寺地域観光マップを見ながら散々迷った挙句、山門と植物園の間にある、落ち着いた店構えの蕎麦屋に入った。
なかなか流行っているようで、もうじき一時になるのに、ほぼ満席だった。二人ともせいろを注文した。私はもちろん大盛りだ。
「深大寺、いいところね」
「そうだな」
「お隣の奥さんのご実家、この辺でしょ? 高校もこの付近の農業高校だったんですって。いいわね、こんなのどかな環境で青春時代を過ごせたのは」
お隣の奥さんを思い浮かべる。確かに農業高校卒って感じの、のどかな良い顔だ。私たちより十歳近く若いけれど、妻と気が合っているようで、ことあるごとに井戸端会議をしている。
「じゃあ、どこの蕎麦屋が旨いのか知ってたんじゃないのか? 地元なんだから」
「私もそう思って聞いたんだけど、地元の人って、意外と行かないんですって。もったいないわよねえ」
 本当にそうだ。こんなに旨いのに来ないなんてもったいない。手早く運ばれてきた蕎麦を食べながら、私もそう思った。
 だけど人間とは、元来そういうものなのかもしれない。
明子が子供のころ読んでやった絵本にも、そんな物語があった。
探し続けた青い鳥は、実はそばにいた。同じように、旨い蕎麦屋もそばにある。幸せは、意外と身近な所にあるものだ。
もっとも、今の明子にそんなこと言ったら、
「やだぁ。お父さんったら、蕎麦屋もそばって、そんな寒い親父ギャグ言っちゃって!」
 と、思いっきり冷笑されるだろうけど。深大寺をお参りしたとき、明子がもっと優しくなるようにお願いしておけばよかった。
 そこまで考えて、妻がさっき何をお願いしていたのか、ふいに気になった。
「なあ。さっき深大寺で、何をお願いしてたんだ?」
 満足げに蕎麦湯を飲んでいた妻は、小首を傾げた。
「なんで?」
「だってお前、五百円も賽銭して、かなり熱心に拝んでたし」
「よく見てるわねえ」
 感心したように、妻は目を丸くする。
「実は、向井理と結婚できますようにってお願いしてたの」
「はあ?」
 愕然とした私を見て、妻が吹き出した。
「嘘よ、嘘。そんなわけないじゃない。冗談に決まってるでしょ、もう」
 怪しい。妻なら本気でそのくらい願いかねない。私の疑いの眼差しに、妻はまた笑った。
「明子のことよ。あの子、今年で二十五歳なのに、ちっとも男っ気ないじゃない。深大寺には縁結びの神様がいるらしいし、あの子に良縁がありますようにってお願いしてたの」
 なるほど。それなら頷ける。
明子は妻に似て、社交的な明るい子だ。名は体を表すという好例だろう。
親の欲目かもしれないけど、顔だってなかなか可愛いし、性格だって悪くない(ちょっと口は悪いけど)。
 それなのに、仕事だの女子会だの趣味のバトミントンだので毎日忙しいそうで、決まった男はまだいない。親としてはやっぱり心配だ。私も五百円投じて願うべきだった。
「そうだな。明子が、お前のお気に入りの向井なんとかみたいな男を連れてくるといいな」
 私の言葉に、妻は微笑んだ。
「私は、明子が、あなたみたいな優しい人と出会えますようにってお願いしたのよ」
 思いがけない言葉に、私はまじまじと妻を見た。
「なに? 私なにか変なこと言った?」
 私の反応に、妻もまじまじと私を見た。
「変なことっていうか、だってお前......」
 なんと言っていいのかわからなくて、語尾はごにょごにょと消えていく。
「そりゃあさ、私だってハンサムな人は大好きよ。目の保養になるもの。だけどもし目の前に向井理が現れて『ご主人と別れて、僕と結婚してください』って言われても断固拒否するから。安心していいわよ、あなた」
 安心してって言われても。どう考えても、そんなシチュエーションはありえないだろう。
どうして今が旬の売れっ子俳優が、二十歳以上年上の既婚女性にプロポーズしなくちゃならんのだ。まったく、ひどい妄想だ。
だけどそんな妄想の中ででも、あんな色男に勝ったと思うと、まんざら悪い気はしない。複雑な心情の私を顧みず、妻は言葉を続ける。
「ソファでだらーっと寝てるあなたは明子の言うとおりでトドみたいだけど、優しいし、働き者だし、ずっと暮らしてきて、毎日幸せだもの。いつもありがとね、あなた」
 屈託のない妻の表情に、私は苦笑した。
これだから妻にはかなわない。いくつになっても夢見がちでお喋りで、私のことを愛してくれている。
私だって妻を愛している。体型や髪の量が変わってトドみたいになっても、この気持ちが変わることはない。
 私の安息の地は妻といるすべての場所だと今わかった。
 妻はゲゲゲの女房ならぬトドの女房で、私の青い鳥だったのだ。

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<著者紹介>
綾稲 ふじこ(埼玉県 /32歳/女性/会社員)

 幼い頃大好きだった、あの懐かしい香りが鼻をかすめた気がした。
 そう感じて、この深大寺を訪ねるようになったのは、ほんの一か月前であった。
 咲子はいつものように、深大寺内をぶらぶらと歩いていた。大学の講義がない土曜日の夕方は、こんな風に都会の自然の中で息抜きをするのが恒例となりつつある。
大学進学の為に上京してから一年ちょっと経ったというのに、いまだ東京に馴染めていない咲子にとって、なんだかこの場所は地元に通ずるものがある気がして、安らげるのだ。
 お賽銭を入れ、手を合わせる。此処は縁結びの神様で有名だという事なのだが、あいにく咲子には意中の相手はいない。すぐ傍を通り過ぎて行ったカップルを横目で見ながら、少しばかり、うらやましいなぁなんて思う。
さわさわと揺れる新緑に、仄かに暖かい風。日は落ちつつあるが、今日は良い散歩日和だ。

カシャ。耳に心地よいシャッター音が咲子に届いたのはその時だった。つい振り返ってしまうと、そこにはカメラを構えた青年が一人。
 咲子の視線にすぐに気づいたのか、青年は軽く会釈をし、申し訳なさそうに頭を掻きながらこう言った。
「すみません。シャッターの音、耳障りじゃないですか?」
 突然そう言われ、咲子は驚くが、すぐに言葉を返す。
「いえ、そんなことないですよ。さっきまでシャッター音に気づきませんでしたし」
 慌てる咲子を見て、青年はふふっと笑う。くしゃりとしたその笑顔は、夏空の下に咲く花を思わせた。
 これが洋一との出会いだった。

次の週も、また次の週も、土曜日の夕方に境内に足を運ぶと、洋一はカメラを構え、写真を撮っていた。
もしかしたら毎週近くに居たのかもしれないと思うと、今までがとてももどかしく感じた。
土曜日がやって来る度に少しずつ会話を重ねるようになり、洋一に会う事が咲子の楽しみとなっていた。こんな風に気さくに話せる男性は大学内にはいないものだから、新鮮だ。
「お寺とか、神社とか。趣があって自然が綺麗な場所でよく撮影しているんだ」
 ある日、何気ない会話の途中で洋一が言った。都内にある写真の専門学校に通っている洋一は、カメラマンを目指して日々写真を撮る練習をしている。
「どうして?」
 咲子が質問を投げかけると、洋一はゴホン、と咳払いをしてから、少し照れくさそうに小声で答えた。
「その場所の雰囲気、匂いとか、肌で感じるものを、ちょっとでも写真から伝えられるようなカメラマンになりたいから」
 橙に染まり始めている空に、千切れ雲が疎らに泳いでいる。洋一はそれに見入るように斜め上を向き、何も喋らなくなった。
素敵な目標だと思った。この人を心から応援したいと思った。夢を叶える洋一を近くで見ていたいと思った。
 咲子がこの日感じたのは、確かに洋一へと芽生えた「恋心」だった。

 五月も下旬に差し掛かり、天から注ぐ日差しも暖かい、というよりは少々暑いのではないかと思い始める。羽織ってきた薄紅色のカーディガンの袖を捲り上げながら、咲子はこの日も深大寺へと足を運んだ。
 待っていました、というように、洋一は左手を上げて咲子を呼んだ。
「今日は満開になったヒトツバタゴを撮りたい」
 唐突に洋一が言う。
「え?何それ」
 咲子の間抜けな返答にもかかわらず、洋一は「ナンジャモンジャの木だよ」と言い直してくれた。
 洋一はこの木が満開になるのを、何か月間も待ち望んでいたのだという。カメラを覗き込みながら、洋一は口を開いた。
「ヒトツバタゴは英語で『スノーフラワー』とも言われているんだ。ほら、雪が積もっているように見えるから」
 咲子は頷く。
「なるほど......。もう辺りはとっくに春なのに、この場所だけ冬で時間が止まっているみたい」
 咲子の地元は雪国だ。枝に雪がたくさん積もっているようなこの風景はなんだか見覚えがある気がして、心が弾んだ。
「このお寺って、なんだか懐かしい感じがするの。去年まで来たことなかったのに、なんだか可笑しいよね」
 口元に手を当て咲子が小さく笑い、そう言った。
「なんかそれ、分かる気がする。だからつい何度も来ちゃうんだよな」
 洋一も笑った。
 きっとこの場所にはそんな不思議な力があるのだろう、なんて二人で言ってみる。

 時を忘れ、すっかり話し込んでしまい、夕陽のオレンも消えかけていた。
 ずっとこんな風に話していられたらな、と咲子は心中で呟く。洋一はどう思っているのだろうか。一度も聞いたことはないけれど、今は無性に質問してみたくなった。
「あのさ、」
 口を開いたのは洋一だった。
「ずっと言わなきゃと思ってたんだけど......。実は、もうここには来れないんだ」
 咲子は目を丸くする。自身の虹彩が揺れたような気がした。
「それって、今日でもう会えないってこと?」
 スカートの裾をぎゅっと握りしめながら、問い返す。
「カメラマンの研修で海外に行くことになったから」
 それは洋一にとって、夢に大きく近づけるチャンスだった。ずっと応援したいと思っていたのに、咲子は素直に喜べない。風が耳のすぐ傍を横切っていく音だけが、やけに澄んで聞こえる。
「だから、」
 フリーズしていた咲子に、洋一の言葉が沁みこんでいく。洋一は続ける。
「次にここで会う時は、君の写真を撮れるように、一人前になってくる」

咲子は、はっとする。以前洋一が言っていた事を思い出したからだ。いつも自然ばかりを撮っている洋一に、何となしにした質問。『なんで人は撮影しないの?』
洋一はこう答えた。
『俺が人を被写体にするとしたら、恋人以外は絶対に無理だな。人を撮るのは苦手なんだよ』

 そう、それはとても不器用で分かりづらい、それでも最高の告白だった。
 ヒトツバタゴの花が一輪、ふうわりと舞う。
枝から零れ落ちたそれは、雪のように真っ白で綺麗だった。

     *

 そして季節は巡り、ある初夏の候、二人は再会を果たす。
髪が伸びても、香水を変えても、気持ちはあの頃のまま、洋一に恋をしている。
シャッター音はあの夏の香りを呼び戻させ、心のどこかで止まっていた針は、二人の時を再び刻み始める。
それを祝福するかのように、雪の欠片たちは優しい風に乗り、仄かな香りをふりまきながら、二人を包み込んだ。

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<著者紹介>
芹沢 理都(宮城県仙台市 /18歳/女性/学生)

自転車でこの道を走ると、私はどうもここが東京であるということを忘れてしまう。都民の私が言うのも変だが、東京と聞くともっとゴミゴミしたコンクリートジャングルを想像するし、無表情な人たちの無関心な波ばかり思い出す。しかしここはどうも違う。見渡す限りにそびえ立つ木々はいつでも青々と茂り、風を受けてはためく「お食事処」の旗は、素朴な風合でとても心地がよい。まるで鎌倉のおばあちゃんちに来たみたいな、そんな安らぎを味わえる。
そして今、私はそれら全てを全身で感じながら坂を下る。すっと息を呑んだ瞬間、夏の空は一層美しく輝いた。

テレビの影響やパワースポットなどで、どうも最近深大寺は有名になってきているけれど、生まれてからずっとここで育った私にはそれはあまり関係のない話だ。どんなに人気になったって、ここは私の高校への通学路な訳だし、私はほぼ毎日ここを自転車でとばす。考えてみれば贅沢な話かもしれない。私はバス通りの大きな坂を軽やかに下り、お土産屋の真横を風のように過ぎていく。こう暑いと、スピードをあげるぐらいしかヤル気が起きないのだから困りものだ。しかしそんな時だった。私は山門前を通りかかった瞬間、急にブレーキをかけていた。
―まただ。
アイツがいた。今日もまた、銀のエナメルバッグを肩にかけたアイツがいた。
ここ三週間、私の自転車はしょっちゅうこの地点で急停止している。折角加速してきたところだというのに、必ずそれは壊されてしまう。それもこれも全てアイツのせいだ。アイツの姿を捉えると、私は自分のコントロールが出来なくなる。私は仕方なく、仏頂面のまま自転車を自販機の隣に留めた。

杉野は山門をくぐろうとしていた。あの少し短くなってきたズボンや左肩が下がったような後姿、あれらは絶対杉野のものだ。私は目の上まで垂れてきた汗を拭い、意を決めて声をかけた。
「神頼み?」
しかし発せられた声は思った以上にぶっきらぼうで、自分でも怖い女だと失笑出来た。
「あんなに『人には頼りたくない』って言ってたのにね。」
一ヶ月振りに見つめあった杉野の目は、相変わらず鋭く黒々としていて、それでいてどこか不安げだった。またその目は、驚きによって少し丸くなったかと思うと、すぐさまふいと地面を向いてしまう。
「別に頼みに来てんじゃねえし...。」
1ヶ月も間があったというのに、お互いの性格は全く変わっていないようだ。仕方なく私も横を向いた。

バス停の屋根付きベンチはとても熱くなっていて、座るとお尻まですぐに温かくなった。
「バスで来てんの?」
「ここまでは歩き。帰りはバス。」
バスの時刻表を真剣に睨む杉野は、前と比べて少しだけよそよそしくなった気がする。まあ、もしかしたらそれは私の思い違いなのかもしれないし、或いは私自身が杉野に壁を作っているだけなのかもしれない。
「あと十六分。」
杉野の家は京王線沿線にある青い屋根の一軒家。私は地図がなくてもそこに辿り着ける。とはいえ、きっともう訪れることはないだろう。呼ばれることもないだろうし。
「杉野、毎日ここ来てんの?」
「来てねえよ。」
「毎日何お願いしてるの?」
「だから来てねえって。つかお願いもしてねえし。」
「ふーん...。」
そして私たちは黙った。本当はもっといっぱい喋ってもいいはずだし、喋るべきなのかもしれないけれど、私は何をどんな風に話していいのか分からなかった。もっというと、何から何までが「話題にあげていい話」なのかが分からなかった。
静かにしていると、本当に様々な音が聞こえる。夏の五時半は、いわば世界に許された空白の時間だ。就寝準備を始めた太陽だが、どうも近頃元気がありすぎて、ついつい夜更かししてしまう。またそれに照らされる木々や鳥たちは、穏やかな光に感謝して風の中で歌をうたう。同じ「生き物」なのに、どうしてこうも違うのだろう。私もこんな美しい歌を届けたいものだ。
「あのさ。」
そんな中、口を開いたのは杉野だった。
「何?」
「怒ってんの?」
杉野が喋りだすと、もう周りの音は聞こえなくなった。掠れた杉野の声が私の耳を占拠する。
「俺が離れるってことに。つか、俺があっち行っちゃうってことに。」
杉野の声は聞いたことがないくらい震えていた。怖いと有名なジェットコースターから降りた時だってこんな声ではなかった。そしてそんな震えた声は、なお一層消え入りそうなボリュームで言い放つ。
「じゃあ、どうして遠田は俺と別れたわけ?」

杉野は秋からイギリスに留学する。細かい地名は覚えてないけれど、ロンドンでないことだけは確かだ。また、その期間についても正確に私は覚えている。今年の七月二十二日から来年の八月六日まで。つまりざっと1年間だ。1年間もの月日を私たちは別々に過ごす。それなのに私は知らない。杉野がこれをどう思っているのだろうかということを。私に何も言わず決めてしまったこの留学を、アイツは一体どう考えているのだろうか。
「俺、遠田のこと嫌いじゃなかった。だから、もし何かに怒って別れたんだったら、少しぐらいは理由を知りたい。」
バスが来るまであと何分あるのだろうか。早く来てほしい気もするし、いつまでも来ないでもほしい。とはいえ、早く来てくれないと私はどんどん杉野を傷つけてしまう気がする。思ってもいない言葉がどんどん口から漏れて、加虐心と自虐心が混ざり合う。
「別にあたし、怒ってないから。他に好きな人できたから別れただけだし。」
小学校からずっと演技下手なくせして、こういう時に限ってアドリブもきくし表情もリアルだ。まったく、悲劇の主演女優賞なんて一度も欲しいと思ったことないのに。
「自惚れないでよ。別にイギリスでもアメリカでも好きなとこ行きゃあ良いじゃん。つか杉野の留学なんか、あたしの知ったことじゃないし。」
やめたいと思っているのに、どうしてこんなことばかり言ってしまうのだろう。そのくせ卑怯な私は心の中でお願いする。お願いだから強がりだって見破って。私の嘘を見抜いて。たしかに私は、杉野の留学の話聞いて「もう勝手にすればいい」と思った。でもそれは、ヤマちゃんやユウジですら知っていたことを、私が知らなかったということに気づいて、悔しくなったからだ。彼女のくせに、杉野の話を聞いてあげられてなかったんだと分かったら、凄く情けなくなったからなのだ。杉野のこと嫌いになったわけでも怒ってる訳でもなく、ただ悲しくなっただけなのだ。どう接していいのか分からなくなっただけなのだ。
しかしあたり前だが、杉野はそんな私の我侭に気づいてはくれない。
「そっか。あ、遠田って自転車だっけ?バスそろそろ来るから、帰っていいよ。なんか待っててくれたんだったらごめん。」
杉野の背中には汗でシャツがへばりついていて、こうやって見ていると向こうの世界が透けて見えてきそうだ。綺麗過ぎてムカつく。
「帰っていいよ、マジで」
「...うん」
私はベンチを立った。何も言えない雰囲気だったし、何も言いたくなかった。これでもう私は山門前で自転車のスピードを緩めることもないだろうし、京王線の車内で慌ててリップクリームを塗ることもないだろう。そう思うと私は悲しくなったし、空しくなったのに、どうしてか笑えてしまった。そして、初めて自分を「馬鹿」と罵りたくなっていた。
しかし、その時だった。
風が吹いた。目の中が一瞬で乾いてしまうような突風が、世界一杯に吹き付けた。私たちの頭上では、木々たちが想像も出来ないくらいの大音声で唸りをあげた。土の匂いと汗の匂いが混ざり、私たちの空間はざわめいた。

神様に何かをお願いする時、どうして人は合掌のポーズをとるのだろう。そもそもどうして人は神様に何かを願うのだろう。
帰り道でもないここまで毎日祈りに来ている杉野は、一体いつも何を願うのだろう。自分の両手を必死で結び合わせ、一体なんと唱えるのだろう。それは私にも分かる祈りだろうか。
「遠田?」
私は大切なことに気が付いた。
私たちを殴りつけるようにも、包み込むようにも思われたあの強風は、もしかしたら私たちの背中を押す追い風だったのかもしれない。なぜならあの風はたしかに私を一歩前に進ませた。私は確実に杉野に近づいた。
自分を罵るくらいなら、少しは素直になれ、私。物凄く恥ずかしいけど、私は来年だって再来年だって杉野と一緒にいたいのだ。だからちゃんと言え。しっかり言い放て。
「あのさ!」
あの風に負けないくらい、正直に。

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<著者紹介>
明楽 三芸(東京都三鷹市 /16歳/女性/学生)

――まぁ、居ないよな。
 誰もいない多聞院坂の石段を見上げ、俺はため息をついた。指定された時間は昼の一時。腕時計に目をやるとすでに三時を回っていた。待っていてくれている、そんな期待は最初からしていなかった。それなのに肩で息をするほど全力で走ってきた自分に少し笑ってしまう。「もしかしたら」そんな思いがすくなからずあったのだろう。
 ゆっくりと石段を一段ずつ上って行く。四十三段目の踊り場。ここが二人の約束の場所。だけど彼女の姿はどこにも見えなかった。
「さすがに遅刻し過ぎだよな......」
 手に持っていた彼女からの手紙。そこに書かれていた指定の時間は昨日の昼の一時。つまり二十六時間の遅刻。あまりに遅すぎる到着だった。石段の横で鬱蒼と生い茂る木々達に目をやる。一本だけ場違いとだと思わせる南国風の木が生えている。昨日の今頃、彼女もこの木を見ていたに違いない。どんな思いで見ていたのだろう。今の俺と同じだろうか。やり切れない思いを胸に俺は目の前の木を眺めていた。あの日彼女が教えてくれたシュロという名の一本の木を。

「ねぇ、噂ってどうやって始まるのかな」
 あれは高校二年の夏だった。
「お互いの名前を書いた南京錠をどこかの金網にかけると二人は別れないとか」
 俺は当時クラスメイトだった皆川沙織に、突然ここ多聞院坂の石段へ呼び出されていた。
「逆に、乗ったら必ず別れてしまうなんとか公園の池のボートとか」
 クラスメイトというだけで特に喋った事もない彼女の呼び出しに俺は少し戸惑っていた。
「そういうのってよく聞く話だけど、誰が最初に言うんだろうね」
 彼女は特別目立つ子ではなかったけれど、よく笑っている明るい印象の子だった。そんな彼女に好意を持っている男子が、同じクラスにだけでも数人いる事を俺は知っていた。かく言う俺もその内の一人だったのだが。
「ねぇ、与謝くん聞いてる?」
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、彼女は急に俺の顔を覗き込んできた。恥ずかしくて思わず目をそらす。
「ごめんね急に呼び出して。迷惑だった?」
 そんな俺の態度に彼女は表情を曇らす。
「いや、そんな事ないよ」
 好きな子と二人で話が出来るなんて迷惑な訳がない。ただこんなシチュエーションに慣れていないだけの事で、そんな一言を返すだけで精一杯だった。
「本当に?良かった」
 彼女に笑顔が戻り俺はほっとする。
「じゃ、さっきの話の続き。与謝くんはどう思う?」
「噂がどうやって始まるかって?」
「そう、噂のルーツ」
「ルーツねぇ、何だろうな。言ったもん勝ちって気がするけど」
「あはは、やっぱり与謝くんもそう思う?私も一緒」
 そう言って見せる彼女の笑顔はやっぱり可愛かった。思わず俺もにやけてしまう。
「私ね、与謝くんの事が好き」
 時間が止まった気がした。不意打ちもいい所だ。無防備すぎた俺は言葉が出ない。
「あとね、私、明日転校しちゃうんだ」
 続けざまの思いもよらない彼女の告白。
「え、遠いの?」
 何から聞いていいのか分からなくなった俺が口にした言葉はそれだった。
「飛行機だと三時間くらいだけど、やっぱり遠いかな」
「飛行機って......、もしかして海外?」
「うん、中国」
「そ、そうなんだ」
「いつ戻って来られるかも分からないんだけどね。でも私この町が好きだから、必ず戻ってくるつもり」
 彼女は悪戯っぽく指を指す。
「ねぇ、後ろを見て」
 振り向くと生い茂った沢山の木々達が目に映る。そしてその中に一本だけ場違いな南国風の木が伸びていた。
「シュロの木っていうんだって。何となく気になって調べたら中国が原産地らしいの。ちょっと親近感わいちゃった」
 正直、彼女の話なんて上の空だった。思いをよせる子から好きだと告白されたのに、明日にはその子は中国へと行ってしまう。その事で俺の頭は一杯だった。不意に彼女の両腕が俺の腰へと回る。すぐ近くにまで寄ってきた彼女の髪からシャンプーのいい匂いが香る。
「ここのシュロの木の前で告白して、抱き合った二人はいつか必ず結ばれる」
 俺の胸に顔をうずめて彼女はそう呟いた。俺はと言うと人形の様にピクリともせず、呆然と立ち尽くすだけだった。
「抱き合った!」
 語気を強めて彼女は俺を促す。反射的に俺は彼女の腰へと両腕を回した。「うん」と頷くと彼女は俺から離れ満足そうに笑顔をこぼす。
「なんて噂のルーツを残してみる。私が帰ってくる頃には広まってるかなぁ」
「そういうのはさ、前例があって伝わっていくものじゃないのか」
「もう、固い事言わないの。与謝くんもさっき言ったもん勝ちって言ってたじゃない」
「いや、まぁ、確かに言ったけどさぁ......」
「きっとまた、ここで会おうね」
 今ひとつ納得してない俺の事はお構い無しでそんな一言を言い残し、次の日彼女は家族とともに日本を後にした。
 それから六年の年月が流れた。

 俺は実家を出て一人暮らしをしていた。家から離れた大学へ進学した為だったが、卒業してからも今更戻る気もせず気楽なシングルライフを続けていた。ある日母親から電話をもらう。俺宛の郵便物が溜まっているから取りに来いという話だった。住民票を移しているのに、たまに実家へと送られてしまう郵便物が未だにあった。しかし殆どが急を要するものでは無いので、ついつい後日へと回してしまっていた。そして今日。ようやく重い腰を上げて実家に戻り溜まった郵便物を調べていると、一通のエアメールが紛れている事に気がついた。誰からだろうと裏を見ると懐かしい名前がそこに書かれていた。皆川沙織と。あの夏以来の初めての便りだった。その内容はとても六年ぶりとは思えない簡潔なものだった。
――お久しぶりです、与謝くん。お元気ですか?私の事は覚えてくれているでしょうか?突然ですが六年ぶりに日本に帰ります。もし予定が無ければ会ってもらえると嬉しいです。
七月三十一日午後一時。あの場所で待ってます。
「......三十一日って昨日じゃないか!」
 消印を見ると一週間前の日付になっていた。大失態だ。俺は彼女からの手紙を片手に家を飛び出した。今更急いでも間に合うはずがないのに何故か走っていた。

「ねぇ見た?あの人。ひとりで寂しそうな顔して」
「きっと彼女と別れたのよ。噂どおりね」
 ひとり、多聞院坂のシュロの木を眺めていると女子高生二人がすれ違い、そんな事を言っているのが聞こえてきた。誰が言い出したのかは知らないが「この石段を一緒に通った二人は別れる」そんな噂が随分前から広まっていた。彼女の残した噂のルーツは真反対のものへと変わってしまっていたのだった。
「まぁ、前例があっての噂だよな」
 自嘲気味に呟いて俺は大きくため息をついた。ふと坂下に目をやると先程の女子高生がまだいて、俺と目が合うと笑いながら走って逃げていった。受けたダメージは大きかった。すると今度は坂上から足音を立てて誰かが降りてくる。この場所でひとり佇んでいるとまた笑われる気がして居た堪れなくなり、俺は俯いたまま石段を下りて行った。背中に聞こえる足音と同じ速度で俺は一歩一歩下っていく。あと数段で坂を下り切る所で背中の足音が止まった。振り向くとあの踊り場で立ち止まり、シュロの木を見つめている女性が立っているのが見えた。俺がまさかなと思いながらもその女性を見つめていると、向こうもこちらの視線に気が付いた。そして目が合った途端お互い固まった。六年の年月ではっきりと確信は持てないが、皆川沙織の面影はその女性にあった。
「あのー、この場所にまつわる噂話って知っていますか?」
 俺は緊張して震えていたが、それがバレないように声を張り上げ話しかける。幸い二人の距離には必要な声量だった。彼女は最初軽く首をかしげたが、すぐに見覚えのある笑顔で応えてくれた。こうして二人は六年の時を経て再会を果たした。

「だって別れちゃうなんて噂になってるなんて悲しいじゃない。私達が噂のルーツなのに。そんなの嫌だもん。だから何となくまた来てみたの」
 何故今日もこの場所に来たのかと聞いたらそんな答えが返ってきた。彼女らしいと言えばらしい気がする。それと六年前、俺の返事を聞かなかっただろうと前から聞きたかった事を尋ねると、そんなの必要ないよと一蹴されてしまった。
「なんだ与謝くん知らないの?ここのシュロの木の前で告白して抱き合った二人はね、いつか必ず結ばれるんだよ」
 彼女はとびきりの笑顔でそう答えた。

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<著者紹介>
でん(東京都荒川区 /36歳/男性/派遣社員)

 「中学校2理科上」の裏表紙の内側では、「陸地と海底の地形のようす」と題されて、太平洋やインド洋の青とユーラシアやアメリカ大陸の緑が広がっている。小さな日本が、その地図では中央を陣取っている。それはみんな同じだろうけど、あたしの教科書が少し違うのは、地図の上一面に「ウザ川ウザ子」なんてマジックペンで書いてあったりすることだ。
 あたしは石段に座って、右肩上がりの黒い線を水で湿らせたハンドタオルで擦っていた。背後のお堂の中では五体の仏さまが、灯籠の明かりに照らされて微笑んでいる。深大寺の元三大師堂の脇からひっそりと伸びている石畳の階段を四十六段、口に出して数えながら上り、あたしはいつも開山堂の前で座る。平日の夕方、ここまで上がって来る人は多くない。小さな崖になっている茂みの向こうに、深大寺本堂や参道のざわめきが遠く聞こえる。
あたしはこの場所が好きだった。小さい頃、よく押入れに籠った感じと似ていた。こうして座っていれば、何かが流れ落ちてゆく気がする。あたしは夜を待ち、朝を待たなかった。
油断していたのだ。風もないのに茂みが音を立てて揺れて、一人の人間が転がり出てきたっていうのに。あたしは動けず、隠れ損なった。気がついたら制服を着た彼が、あたしの足元で蹲っていた。彼は首を上げ、あたしの目と目が合った。飴玉を待つみたいに口を開け、瞳が左右に揺れている。なんだか自分が彼にとって初めての、未知なる生き物になった気分がした時、彼が不意に、取り繕うように笑った。
彼は土埃にまみれ、袖口や背中、伸び掛けた黒い髪、あちらこちらに草をつけていた。あたしと同じ校章だけが襟元で汚れずに光っている。おでこにはニキビが溢れ、まだランドセルの匂いがする。前に児童館で見掛けた時彼は、かごめかごめの鬼のポジションで、背の高いブレザー数人を見上げ、笑っていた。
彼の視線が、あたしの膝元に落ちた。そこにあるのは、「ウザ川ウザ子」の黒い文字だ。慌てて鞄で隠したけれど、彼の目がしっかりと捕えるのをあたしは見た。顔が一気に熱くなって、
「消えろよ! 目ざわり、あっち行け」
言い放ってから、恵梨ちゃんの口調そっくりだと気付いた。彼は笑ったまま、あたしを見上げている。
「バカ? どっか行けって言ってんの!」
 彼は何度も頷くけれど、動く気配はない。しかも笑い続ける。あたしは、両足を地面に叩きつけた。
「あたしの場所っ。出てって!」
 立ち上がった拍子に、「中学校2理科上」が膝から滑って、石段を二段転げ落ちた。彼がスローモーションで首を動かし、目で追って、着地した。
「行くよ、行く、もちろん。あと五分だけ。
一分でもいい。すぐは、勘弁して」
 変声期前の声は甲高く、かすれていた。あたしは、彼の右足が靴を履いていないことに気付いた。白い靴下は足の裏が、足型が取れそうなほど真黒だ。彼の首筋と手の甲に、赤い血が滲んでいた。あたしは、権利もないのに主張をしたバツの悪さでそっぽを向いた。
 音だけの雷が空を叩いている。風が通り過ぎた時、彼は「中学校2理科上」を拾い上げた。あたしは横目で見ただけだった。彼がディパックを開き、取り出したのは除光液だ。
「100均」
照れ隠しか言葉を投げてから彼は除光液をティッシュに浸し、「中学校2理科上」の裏表紙を開いて内側を撫でた。「ウザ川」の「ザ」が、一瞬で消えた。それから「ウ」が、もうひとつの「ザ」が、「子」が。最初から何もなかったかのように、裏表紙の内側に青と緑の世界が蘇った。彼はゆっくりと教科書を閉じた。目を落とし背表紙をじっと見つめると、「中学校2理科上」を縦にしたり横にしたり、ページの端を指ではじいたり、落ち着きのない動きを繰り返した。あたしは彼から「中学校2理科上」を奪い取って胸に抱えた。「ありがとう」なんて言葉は出ないから彼を睨んだら、
「任せて、こういうこと。上履きについた匂いが親にばれない方法、とか、得意」
 親指を自分に向けておどける彼に、
「何言ってんの?。遊びよ、こんなの」
 彼は親指を持て余す。
「もう、一分、経った」
 区切るように言うと、彼は幾度も頷いて、また笑う。
「笑うなッ」
彼の顔が、形だけの笑みを残して固まった。あたしは畳みかける。
「ご機嫌取ってる気? 何言ったって笑って、キモイウザイムカつく、分かんない?」
 彼は唇の端に貼りついた笑みを噛みしめ、
「同じくせに、宇田川 由香子......」
"ウザ川ウザ子"よりも今、聞きたくない名前だった。あたしが睨めば、彼も返してくる。あたしの視線の先で彼の頬に、雫が一粒こぼれて流れた。まさか涙? 身構えると同時に手元に重さを感じて見ると、「中学校2理科上」に水玉が落ち始めていた。あっという間に増える。背表紙ではあたしの名前が叩かれ、煙ってゆく。彼方の境内や参道から、突然の雨に人々がさんざめく喧騒が上ってきた。
お堂の軒下に逃れ、あたしは驚いた。彼が雨を浴び、喉を鳴らして、鼻から突き抜ける笑い声を立てていたからだ。全身は濡れ落ちてゆくのに、雨のカーテンが彼だけを避けているようだった。嬉しそうだった。
「濡れてるだろな、アイツら。雨に降られて、ヒーヒー言ってるよ。ざまぁないぜ。ね? そうだよね?」
 ワイシャツが雨に濡れてひっつき、色を失くした白の向こうに、彼の体が透けて見えた。背中に脇腹に鳩尾に、痣が、浮かんでいた。あたしは彼に頷いた。何度も頷き、軒下から出ていた。途端に無数の雨があたしの体にぶつかる。制服の下で皮膚を滴り落ちてゆく。
「恵梨ちゃんたち、油性ペンで書いたの。小百合も可菜もみんな、大笑いしてた。分かる? "ウザ子、ウザ子"って手拍子叩くの。あたしも笑ったよ。どうしようもないもん。昔は仲良かったんだ。恵梨ちゃん、有り得ないくらいイヤな顔して、"もう死んで"って」
 雨に叩かれて揺れる瞼を耐え、彼が力を込めてあたしを見つめた。開山堂では五体の仏さまが雨の音に耳を澄ましている。
―雨、雨ふれふれ、母さんがっ。蛇の目でお迎えうれしいなっ。
静寂を破いて聞こえたのは、複数の、ばらばらな男たちの声だった。石畳の階段の向こうからだ。あたしは彼を振り向き、一瞬で凍りつく人の顔、というものを初めて見た。
 首を伸ばすと階段の下で、いくつもの傘が揺れていた。透明なビニールの向こうに、白い襟や紺色のネクタイ、笑う赤い唇や虹色のミサンガが見え隠れする。手に持っているのは、泥水の入ったペットボトルだ。楽しそうな笑い声が聞こえる。カチカチカチカチ音がするので見たら、彼の歯が震えて鳴っているのだった。
「なんで分かるんだ、ここにいるって」
「理由なんて、あったことある?」
―雨、雨ふれふれ、かけるくんっ、一緒に遊ぼう、うれしいなっ。ピッチピッチチャップチャップ、ランランラン。
声は近付いてくる。一人が顔を上げ、あたしと彼を見つけた。あたしは顔を動かさず、
「かける、って、どういう字?」
「"飛翔"の"翔"」
 あたしは、翔の手を取って駆け出した。背後で声が上がり、足音が勢いを増す。開山堂を抜け出たら、目の前に神代植物公園の入口があった。あたしは入場券も買わずに「深大寺口」と書かれたゲートを突っ切った。
 受付のおじさんが叫んでいる。振り返ると突破しようとした男子たちとおじさんが揉めている。あたしは翔の手を引っ張って、全速力で走った。
 背の高い木々が、雨からあたしと翔を守ってくれる。翔とつないだ手の平の中で、水がチャポチャポ音を立てている。汗なのか雨なのか、あたしには涙に思えた。哀しくても悔しくても泣けない人は、涙じゃなくて汗を掻いたり、雨が代わりに泣いてくれたりするんじゃないだろうか。
 森を通り小川を越えると、視界が一気に開けた。広大な芝生。雨なのに眩しい。空との間を遮る物はなく、斜め前から降ってくる。あたしと翔は芝生に溜まった水溜りを蹴って走った。翔の荒い息遣いがあたしの耳の中にこだまする。
「もしあたしたちが、二人で消えたら、みんな喜ぶかな」
 翔は力試しをする時のように、あたしの手をきつく握り締めた。公園に人の姿は見えない。斜めに降る雨と、花壇から伸びる花々と、あたしと翔。
―行ってらっしゃい。気をつけてね。
 なんでこんな時に、今朝の、玄関でのお母さんを思い出すんだろう。
 あたしたちはスピードを上げ、更に進もうとして、足が止まった。その先は、なかった。あるのは金網で、向こう側では自動車が慌しく行き交っている。あたしたちは立ち尽くした。
「おーい、君たちー」
 大きな声に振り向くと、広い芝生の向こうによたよたと、受付のおじさんが現れた。
翔がふっと、笑い声を漏らした。つられてあたしも吹き出した。それを見て翔が更に笑った。あたしも声を立てた。雨は上がろうとしている。あたしの右手の先で、翔の手の平は乾いている。その向こうから、翔の体温がドクドクとあたしの胸を打つ。

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<著者紹介>
水野 祐三(東京都三鷹市 /42歳/女性/主婦)

  やあハンス。元気?僕の方は日本に来て四日目だが、今の所快調だ。ホストファミリーは温厚な老夫婦で、二人とも英語ができるから不自由はない。今日からいよいよ高校での交流プログラムが始まった。学生達の内気なのには驚いたよ。英語に自信がないからかもしれないが、挨拶以外、内容のある会話ができたのは、世話好きで活発な相沢優という女の子たった一人だ。もちろん皆気は良くて、休み時間には男子と一緒にサッカーを楽しんだけどね。サッカーは僕より上手い奴が結構いる。もちろん君が来ればスターだろうけど。
 とにかく僕はこの国が気に入った。清潔で、静かで、エキゾチックだからね。ではまた。

 今日僕は老夫婦に連れられて近所にある深大寺という寺に行った。周りは昼でも暗い程の森で、古びた門や神秘的な仏像など、日本的な物が色々あったが、一番印象的だったのは昼食に食べた「そば」というパスタだ。冷たい灰色のパスタを甘辛い汁につけて食べる。珍しいだろう?
 昼食後、僕は不思議な光景に出くわした。店を出たら、白い服を着た長髪の少女が、小さな亀を散歩させながら目の前をゆっくり通り過ぎる所だったんだ。甲羅に巻いた紐の端を手に持って、亀に合わせて少しずつ進む様子に僕は思わずカメラを取り出して前に回り、
「シャシン、イイデスカ」
 と覚えたての日本語で話しかけた。女の子は驚いたらしく、何か小さな声で言いながら首を左右に振り、しゃがみ込んで亀を抱き上げてしまった。僕は少なからず失望しながら、
「ソーリー、ソーリー」
 と言ってその場を離れようとした。その時、寺の階段を女の子がもう一人駆け降りて来た。
「アーロイス!なんでここにいるの!その子になんかしたんじゃないでしょうね」
と英語で言いながら近付いて来た女の子を見て、僕は驚いた。それは学校で一番よく話しかけてくる例の女の子、相沢優だったのだ。
「あ、友達だったのか。僕はただ、亀を散歩させてるのが珍しくて、ちょっと写真をと」
「なーんだ、そうだったの」
 優は言って、亀を抱いた少女と日本語で話しだした。僕はその間、少女をさり気なく観察した。濡れたような黒髪、切れ長の目、透けるような白い肌、スカートの裾から出た細い素足。年齢は十三歳くらいに見えるが、優の友達ということは僕と同い歳なのだろうか。とにかく見れば見るほど美しい少女だった。
「写真は嫌だって。諦めた方がいいよ。でも暇なら一緒にかき氷でも食べない?」
 ブンダーヴァール!僕は少し離れた所にいた老夫婦に事情を説明し、先に帰ってくれるよう頼んだ。二人は笑って頷き、それから僕は女の子二人と一緒にかき氷を買って池の脇のベンチに座り、楽しい時間を過ごしたわけ。
 長くなったけれど、その子をひと目見れば、僕が舞い上がったのも理解して貰えると思う。優の通訳はかなり大雑把で、のぞみちゃん(というのが少女の名前だった)の歳とか、どういう友達かといった事は結局わからなかった。でもまあ優と連絡先を交換して、また三人で遊ぶ約束もしたから、とりあえずは上出来だ。

 やあハンス。メールをサボってごめん。ゲルハルトとモーリスの決闘の話は面白かった。その後どうなったかまた教えてくれ。
 こちらは一週間の交流プログラムが終わり、自由時間に入った。あの後のぞみちゃんと優には二回会った。駅前のゲームセンターに行ったり、喫茶店で駄弁ったり、まあそんな感じだ。優はどんな子かって?まあ僕らのクラスで言えばサラ・ヘーデンボルグに近いかな。あんなに髪は赤くないが、ちぢれ毛で、瞳が茶色で、世話好きなタイプだ。それより何よりのぞみちゃんだよ!実に神秘的でオリジナルな子だ。いつも亀を連れていて、その亀が彼女の指示で歩いたり停まったりするんだぜ。秘密主義で自分の事は話さないが、ドイツに興味があるらしくて、教会の事とか、優を通じて色々訊いて来る。好きな子が自分の国に興味を持ってくれるってのは嬉しいもんだね。

 今、夜の十一時だ。今夜ちょっと妙な事があってね。君の意見を聞きたいんだ。
今日僕はのぞみちゃんと優と三人で深大寺の盆踊り、という催しに出かけた。迎えに来てくれた二人はゆかた、という伝統的な衣装を着ていて、その美しさ、愛らしさはちょっとたとえようもないくらいだった。白地に小さな赤い花が咲き乱れた優のゆかたも綺麗だったが、濃紺に白い清楚な百合の模様が浮き上がり、目も眩むような赤い帯を締めたのぞみちゃんの立ち姿は、この世ならぬ神々しさを備えていて、僕は正直、ひと目見ただけで頭がくらくらして、何か胸騒ぎさえ覚えた。
 盆踊り、という催し自体も、ダンスフェスタという説明から想像していたのとは全く異なるエキゾチックなもので、森の中の広場に設けられた木製の舞台の周りを、ゆかたを着た女性達がゆったりと、伝統的な音楽に合わせて泳ぐような身振りをしながら回るものだった。太鼓を叩く子供達の愛らしい姿。紙でできた紅白の灯りの発する幻想的な光、周囲の森の神秘的な暗さ。これら全てに幻惑され、僕はただぼうっと二人の後をついて歩いた。
 踊らないの?と僕は訊いたけれど、二人は日本人の女の子らしく尻込みしたので、結局僕らは夜店でいくつか食べ物を買って、広場から少し離れた御堂の石段に腰を下ろした。
 ひとしきり食べたり飲んだりした後、僕はのぞみちゃんの亀に食べ物を与えようと試み、優に通訳してもらいながら亀の食べる物、食べない物をあれこれのぞみちゃんに訊いた。
 その話が一段落した時だった。「ちょっと」と言って優が立ち上がり、早足でそのままどこかへ消えたのだ。最初はトイレだろうと思い、二人で亀と遊んでいたが、優はなかなか戻って来ない。のぞみちゃんは一言も英語を喋らないので、段々気づまりになって来る。十分くらい経っただろうか。とうとう僕は立ち上がって、身振りを交えてのぞみちゃんにここにいるように言って、優を探しに出た。
 白いゆかたを着ていたから、森の中、杉の木にもたれている優はすぐに見つかった。僕はおそるおそる近付いて、
「取り込み中?二人だと間が持たないから戻って来てくれよー」
 と声をかけた。優は小さく頷き、素直に木から離れた。ただ二、三回ゆかたの袖で目を拭うようにしたので僕はドキッとし、迂闊な事は言えないような気がして黙ってしまった。
 御堂の前に戻ると、のぞみちゃんが消えていた。ただ亀だけは元いた石段の上に蹲っていたので、僕はその辺に居るんだろうと思い、大声で彼女を呼んだ。ところが優は急に動揺して僕の手を押さえ、
「あ、あの、のぞみちゃんは私が探すから、今日はとりあえず帰って」
 と言い出した。僕は理解できず、
「どういうわけ?ちゃんと説明してくれよ」
 と言ったのだけれど、優はとにかく帰っての一点張りだった。腑に落ちなかったけれど、段々腹立たしくもなってきて、僕は
「秘密ってわけか。じゃあ詮索しないよ」
と言ってそのまま渋々帰って来たのだった。
 奇妙な夜だった。一体何だっていうんだ?家に着いてからもいろいろ考えたけれどさっぱりわからない。ハンス。君はどう思う?

 今僕は飛行機の中だ。君に送るのは帰ってからになるが、あの神秘の国の印象が薄れないうちにと思ってこのメールを書き始めた。
 昨日の午後、僕はずっと連絡を取っていなかった優に電話をした。あの夜の真相、いや、そんな事よりもう一度だけのぞみちゃんに会いたかったのだ。彼女の指定で落ち合ったのは深大寺の池の前、三人で氷を食べたベンチだった。僕はそこで信じ難い告白を聞いた。
 優はまず、のぞみちゃんが実在の少女ではなく、深大寺に住む神の化身だと言って僕の度肝を抜いた。そして、学校に来たドイツ人の男の子ともっと近付きになりたいと願ったら彼女が現れた事、彼女について行ったらそば屋の前で本当に僕に会えたという事を一気に喋った。「でも」と優は続けた。「のぞみちゃんがあんまり綺麗で、あなたが彼女に会うためだけに私を呼び出すのが段々辛くなって来て、今考えれば私は近付きになりたいってお願いしただけだから、神様はその通りにしてくれたんだけど、私は何て頓珍漢な、邪魔ばかりする神様だろうって思うようになって、とうとうあの時森の中で、どうか消えて下さいって祈ってしまったの。そうしたらのぞみちゃんは本当にいなくなった。あの時あなたに説明できなかったのはそういう訳なの」
 まさかと思うだろう。もちろん僕も最初はそう思った。涙ながらに話す優の姿に心を打たれ、思い当たる節がある事にはっとしたのも事実だったけれど、こんな非科学的な話を信じる習慣は僕らにはないものね。でも......。
「信じられない」
 と呟いて立ち上がろうとした瞬間、僕は靴の先に妙な感触を覚えてふと足元を見た。
 亀だった。大きさも、色も、形も、まぎれもないあののぞみちゃんの亀がいつの間にか僕の足元に寄り添って、黒いつぶらな瞳でじっと僕の顔を見つめていたんだ............。
 ああハンス。日本っていうのは本当に素晴らしい国だよ。あの国には美しくて、不可思議で、おっちょこちょいな精霊が未だに生きていて、それを呼び出す事が出来る純粋な心を持った女の子が住んでいるんだ。
 僕と優はこれからも連絡し合うことを約束して別れた。長く続くだろう優との付き合い、日本との関わりが、僕の今後の人生にとって大切なものになるだろうという確信を君に伝えて、ひとまずこのメールを終える事にする。

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<著者紹介>
中田 朋樹(茨城県土浦市/31歳/男性/アルバイト)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

8月1日13時を持ちまして、公募を締め切りました。多数のご応募、有り難うございました。

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紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

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