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榎本しおり 様
 
 何回目だろうか。君へのE-mailを送るのは。その度に、このフリーメールはいつまで使えるのだろうとふと思う。読んでいるのか、この世にいるのかもわからない君宛に、10年間、メールを送り続けてきたのだから。

 昔を振り返りながら今の僕の心境を伝えたい。本音で。

 運転中、たまたま、東京都立神代植物公園を見つけた。僕は、思いつきで、駐車場に車を停めた。公園と書いてあったので、まさか有料とも知らず。植物にはまったく興味がなかった僕はお金を払うのも躊躇われ、仕方なく近くを散歩していた。桜並木を抜けて、深大寺というお寺の標識を見つけ、何気なく深大寺へ向かった。当時、僕は大学4年生で、2日前に晴れて就職先が決まったばかりだった。
あの日は(もう11年以上前になる)、息をするだけで暑い日だった。それでも深大寺に向かう歩道は、緑が豊かで心地良い散歩となった。たえず、セミの声のシャワーを浴びながらの。
君と会ったのは神代植物公園の深大寺門あたりだったよね。君は無表情でぼっとしながら歩いていた。たまに空を見上げながら。まるで、天国からも地獄からもオファーがなく、仕方なくこの地を彷徨っているかのように。僕は直感で君が自殺しないか心配になり声をかけた(後になって、君はいつもぼっとしていることがわかった)。
君は不思議そうな表情を浮かべたものの、僕の言葉を自然と取り込み、深大寺に初めて来たという僕を案内してくれた。そして、調布市内のお寺の境内に観光地のようにお店が並んでいるのにビックリして、キョロキョロしていた僕を、君は愉快そうに眺めていた。見知らぬ君と僕とを深大寺は悠然と迎えてくれたのを覚えている。セミの鳴き声とともに。

そう、これが始まり。

衝撃的な出会い。
たしかに、このくらいの出会いは、衝撃ではないと言う人がいるかもしれない。しかし、僕が何気なく立ち寄ろうと思った公園の前で君と出会った。見知らぬ人に声を掛けたことのないテレ屋の僕が自然と君に声を掛けた。会うことも、話すこともないはずの二人が出会ったのだから、これを衝撃的と言わないで他に適切な言葉はないだろう(劇的という表現はテレビで大げさに使われる表現だから好きではない)。
運命の出会いから、すぐ僕たちは付き合うようになった。自然と。男女が付き合うには、告白などのプロセスがいるとずっと思っていたが、いつの間にか僕たちは恋人同士になっていた。僕たちは自然と会話して、自然とデートした。君は時々、理解できないことを言う。不思議なところがあった。でも、それ以外、僕たちはいつも自然だった。僕は、君と結婚する運命だと思っていた。これが、よく言う運命の出逢いだと。

1年が経ち、また夏がやってきた。そして、あの日を迎える。ちょうど10年前の今日を。
深大寺に向かう途中、近くのファミリーレストランに入った。レストランが混んでいて、入口の近くで待っていた時、君はいなくなった。突然、外に出て、そのまま行方不明になるなんて。
白昼、レストランを出てすぐに、君が忽然と消えたことで、当初は、警察から痴話喧嘩と相手にされなかった。しかし、君がいつまでも帰ってこず、白昼に堂々と消えたことから、マスコミは、失踪事件として大きく取り上げた。だけど、警察もマスコミも僕を真犯人に仕立て上げようとしただけだった。僕が君を殺害したと。そうでなければ、君を自殺に追い込んだと。
 警察の聴取は厳しかった。任意同行ということだったが、辛く苦しい尋問だった。なぜ、苦しんでいる僕を、警察が苛めるのか、まったくわからなかった。
 もっと酷かったのはマスコミだった。マスコミは面白おかしく書くだけ。そして、昼夜を問わず、厚かましく取材へやってきた。雑誌が発行されるたび、私に話しかける人は減っていった。友達も、親戚も。結局は他人だった。友達が去り、新聞社や雑誌社が興味を失うようになった後も、フリーランスの記者が、時々僕のところにやってきた。誰もがスクープを狙って、僕が君を殺したと言わせようと必死だった。
 「被害者」を尊重するという風土は、日本には存在しないのかもしれない。僕は、愛する君という存在が目の前から消えた「被害者」だったはずなのに。
誰も信じられなくなった。それでも君を信じていた。信じようとしていた。すがることができるのは、君だけだった。

正直に話そう。君に対する愛情をいつも持っていたわけではない。君が憎しみの対象となっていったこともあった。けっして、短い間ではなく、比較的長期間にわたって。
なぜって。それは僕をこんなに悩ますからだ。もしかしたら、僕の近くにいつもいて僕の行動を君が笑って見ているのではと思ったこともある。目の前で死んでくれたならばどんなに楽だっただろうと常に感じていた。死は、ある意味一区切りを告げられる。しかし、行方不明は、辛い。辛すぎる。わからないという辛さ、これは経験した人でないと理解できないだろう。僕は、ドイツに出張に行った時にヘンケルス製の包丁を買った。君が現れた時に刺殺するために。どうせ、世間の人は僕が君を殺したとマスコミの報道を見て思っているのだから。それほど憎しみに満ち溢れていた。たぶん、愛情の裏返しかもしれない。君を愛する愛情を抱きながらその一方で、君が僕を愛していないから、突如消えたのではないかという疑念が巨大な憎悪に成長していったのだ。

君の呪縛から逃れようと、新しい女性と付き合ったこともあった。だけど、僕にとって君ほどの女性はいない。ほかの女性と付き合って、改めて君の素晴らしさを認識した。君と僕とは運命によって結び付けられたのだから。
君の魅力、それは、不思議な雰囲気だ。君の不思議さを暴きたい、君をもっと知りたい、それが、君から僕を離さない最大の理由のような気がする。僕は、君の呪縛から逃れようとさまざまなことに挑戦した。しかし、君のことは忘れられなかった。この10年、君に屈し続けた。考えることができる能力を身につけた動物である僕は、自分の思考回路を恨めしく思った。もし、僕が馬鹿で何も覚えていなければ、こんなに、悩まなくてよいのにと。
消えた君をひたすら待つ僕は、周りから見ると時間が止まった存在だった。僕は、しだいに、変人として見られるようになった。もちろん、表面上は誰もが同情してくれる。しかし、それは同情に過ぎない。誰も、結局僕の心を救うことはできなかった。人がいなくなった後に、残された恋人の苦しみを誰が理解できようか。
君はどこに行くのだろうか?天国にも地獄にも行けず、彷徨っていた君は、天国に行ってしまったのだろうか。僕を置いて。

今日、深大寺に行ってきた。10年前と驚くほど変わっていない。調布市街は随分変わったし、新しいマンションが沢山建っている。そんな中、深大寺は昔のまま悠然と僕を迎えてくれた。周りのそば屋やお店も、以前と変わった気がしない。
僕は、今日、深大寺そばを食べた。君に深大寺そばが有名と教えてもらいながら、そばアレルギーの君と一緒に食べることはなく、今日、初めて食べた。お寺の門前で食べるそばは最高だった。でも、そばを食べると無性に寂しくなった。僕は一人ぼっちだって。
この10年、君は僕を支配し続けてきた。僕は、何度も君を忘れようとした。酒も、女遊びも、仕事への熱中も、君には勝てなかった。結局、君に打ち勝つことはできず、君とのことは思い出になることはなかった。それだけ、君は僕にとって大きな存在だった。
今日、深大寺に行き痛感した。深大寺はほとんど変わっていなかったにもかかわらず、僕が変わってしまったと。君が僕の元を去ってから、連日、僕は苦難の日々を過ごした。君を殺したいと思うなんて、僕はあまりにも変わり過ぎてしまったようだ。もし、君が帰ってきても、今の僕なら嫌気がさすだろう。
10年前の僕に戻ろうと思う。君と付き合っていたころの僕に。楽しかったころの僕に。君を忘れることは一生かかっても無理なことはこの10年でよくわかった。僕は、君をずっと待ち続けるし、そのためにも深大寺のように昔のままの僕でいようと思う。そして、深大寺のように悠然と構えていたいと思う。僕が、愛した女性は君だけ。一生、君を愛し続けることにした。君との記憶は、思い出のアルバム1ページにしてしまうのではなく、現在も進行する恋愛の1ページなのだから。

しおり。これからの10年もよろしく。

勇治

(了)
 
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<著者紹介>
山里 理(神奈川県横浜市/33歳/男性)

百日紅が咲いている。奔放に伸びた枝の先の花々が、風に柔らかく揺れている。夏空に映えて、全体が大きな花束のようである。
妙子は百日紅が好きだ。まず、「さるすべり」という名前が面白い。猿がツルツルと際限なく滑る姿を想像すると、その滑稽な愛らしさに笑みがこぼれる。幹の感触もよい。滑らかな薄茶色の木肌に、いつまでも触っていたい。楕円形の葉が几帳面に並んだ華奢な枝は、手を伸ばし、誘いかけているようで嬉しい。フリルを束ねたような花の一つひとつは可憐だが、群れた花はどことなく淫らで、その二面性が魅力的だ。強い陽射しにも我関せずと咲き誇っている様子は、花の色も手伝い、夏に盛りを迎える生命の強かさを感じさせる。
妙子の生家にも、父が植えた小ぶりの百日紅があり、紅に近い濃いピンクの花が咲く。幼馴染みが住む斜向かいの家にも白い花をつける百日紅があり、幼いころ、白は男の花、桃色は女の花と決めた。生意気盛りには、濃いピンクの花を艶美、薄桃色を優美、白を清楚と名づけ、散った花びらを手に、自分はどのタイプの女だろうかと考えたりした。恋を知ると、親しくなった。妙子の恋は、たいてい夏に盛り上がり、花が散るころにあっけなく終わったり、意外に長く続いたりした。夏の闇に、灯りをともしたように咲く花に語りかけ、夜を明かすこともしばしばあった。
百日紅を見ると、調布に帰ってきたという実感が湧く。深く呼吸をして、街の空気を存分に味わう。もうすぐ津田に会えるのだと思うと、体中が勝手にざわついて、喧しいほどである。津田とは、深大寺で会う約束だ。
妙子はいつものように、調布駅でリムジンバスを降りると、そのまま深大寺へ向かった。まっすぐ家に帰り、兄夫婦と暮らす母に顔を見せなくてはと気がとがめるのだが、まず津田に会うことが、津田への愛を、津田にも自分にも証明することだと考えている。
二年ほど前、地方勤務の話を機に、妙子は東京を離れた。すでに父は他界しており、母を残していくのは後ろめたかったが、仕事も津田との関係も、何とか続けていくために決断した。歳の離れた父と見合いで結婚し、専業主婦として家庭を守ってきた母は、幸い、妙子の仕事に理解を示し、協力的だった。   
父の生前こそ、会うだけ会ってみたらと、縁談に熱心だった母は、調布を離れると、結婚について何も言わなくなった。ただ、時折、ほんの一瞬だが、じっと妙子の目をのぞきこむことがあり、そんな時はふと、母には全てわかっているのかもしれないと思った。津田とのことは話していなかった。知れば心配する関係だということもあるが、これまでの戯れのような恋とは別物で、だからこそ全てをこの身で引き受けようという気負いがあった。身を焼くような恋愛もせず嫁いだらしい母を、母娘とはいえ、自分とは違う種類の女だと決めつけて、密かに軽んじている所もあった。
妙子は、深大寺小学校の前でバスを降りた。深大寺へ行くには、坂を下らなくてはならない。石畳を丁寧に踏みながら、参道を下っていく。これは妙子なりの儀式で、旅で疲れていても欠かさない。歩むごとに、現実は遠く薄く、影を潜めていく。未知の世界の奥底を探りに出かけるような興奮が、心地よかった。
都内には、他にも気に入った場所はあるが、津田と会うのなら、深大寺界隈がよい。妙子の実家からさほど近くはないが、知人に遭遇することも予想できた。肌を合わせることは拒んでいたが、妙子の胸にはそれだけ一層、津田への狂おしいほどの濃密な感情と呆れるほどの純情が錯綜している。だが、良識を楯とする目撃者には、あくまで不純な関係と映るだろう。それでも、この界隈を望んだ。
 実際、この辺りは妙子の興味をひくものが多い。例えば、百日紅は本堂の左手など都合三本あった。どれも桃色の花をつけるが、それぞれの違いも楽しんだ。深沙大王堂では、境内の薄暗さに驚いたが、裏手の明るさと併せると、縁結びの神様が祀られている場所らしく、恋愛の真実を象徴していると思った。表の薄暗さが表す苦しみを経て、裏の光が表す歓びを得る、また逆も真なりと、このコントラストを神聖な気持ちで解釈していた。
だが、本当の理由は別にある。深大寺ほか植物園など、緑の豊かなこの界隈では、至る所で様々な生物が、各自の方法によって命を紡いでいる。その事実は、津田も自分も、自然界を構成する生命の一つにすぎないことを妙子に再認識させ、罪悪感から救い出した。ともに緑の海に溶けこみ、単純に恋する生命体になれきれる場所が、深大寺界隈だった。
開福不動堂を過ぎた妙子は、そば屋の並ぶ脇道から山門へ向かった。風鈴の音が爽やかに渡っていく。門前の見事な百日紅に目を奪われていると、年配者の団体が賑やかに近づいてきた。すれ違いざま、ひときわ背の高い男性と楽しげに話をしていた女性が、一瞬、母に見えた。思わず振り返ったが、母と同じく小柄な後ろ姿は、人の陰で見えなくなった。
土産屋をのぞき、かき氷を食べてひと休みした妙子は、本堂の左手の百日紅の下で、津田を待った。百日紅の脇の池には、三十匹ほどの錦鯉がいて、妙子たちは贔屓を決めていた。津田は、目立ちすぎていないのがいいと、小ぶりな金色の鯉を気に入っていた。
所在なさから金色の鯉や自分の贔屓を追ってみたが、津田がいないとどれも同じに見えた。平日の午後で、人影はまばらだった。約束の時間は過ぎていた。蝉が喧しい。三通送ったメールに返信はなく、思い切って電話をと思った矢先に、携帯電話が鳴った。
「ごめん。今日は会えない」
唐突な謝罪が起こす腹立たしさより、無事に津田の声を聞けた安堵が大きく、「打ち合わせがはいったの?」と明るい声で尋ねた。
自営業の津田は、時間の都合がつきやすいが、急な予定が入ることもしばしばあった。
「時間を変えましょうか? それとも、体調が悪いの?」
妙子は、自分より優先される理由を知らなければならないと思った。津田はしばらく黙っていたが、「前から言おうと思っていたんだけど」と苦悩の混じった声で切り出した。
「実は......子どもが......一歳なんだけど......熱を出して......女房は急用で......留守で...」
決して思い出すまいとしてきた津田の妻の淋しげな横顔が、脳裏をよぎった。かつて職場の先輩として、親切にしてくれた人だった。
妙子は、子どもの存在を聞かされていなかったことより、今日、会えないことの方が何倍もつらいのだと自分に言い聞かせた。その気持ちを、何とか津田にも伝えたいと思った。
「少しだけでも、会えない? 何なら、お手伝いに行ってもいいのよ」
「ごめん。これから病院に連れていくから」
「本当にごめん」と今度は小さく言って、電話が切れた。発作のような涙が襲ってきた。池の左手のなんじゃもんじゃの脇に、草田男の句碑がある。以前、津田が「萬緑の......」と読み上げて、「つくづく、いい句だな」と感慨深げに言ったのをぼんやり思い出した。
涙に濡れた顔で見上げると、百日紅の花が風の中で揺れていた。妙子の悲しみをぬぐうようにも、何かに別れを告げようと手を振っているようにも見えた。妙子はそれを拒むために、津田の金色の鯉を必死で探した。
「妙子」とふいにかけられた、懐かしい声に振り向くと、母が優しい眼差しで立っていた。
母は、「お茶でもしない? それとも、おそばがいい? お夕飯ではまだ早いかしらね」と言い、返事を待たずに妙子の鞄を取ると、先に立って歩き出した。慌てて追いかけて鞄を取り返すと、静かに「お帰り」と言った。
母の気に入りのそば屋で、妙子は次第に落ち着きを取り戻していった。先ほど解散したが、友達と植物園に睡蓮を見に来たのだと言った。薄化粧を施し、よそゆきを着ているので、いつもより若々しく華やいで見えた。
「知っていたの?」という妙子の曖昧な問いかけに母は事を察し、「偶然よ」と微笑んだ。
「いつだったかしら、近所の奥さんが、深大寺で大きな鞄を提げたあなたが、男の人といるのを見かけたって」とさりげなく言って残りのそばをすすると、「ああ、美味しかったわ。ごちそうさま」と満足そうに箸を置いた。
「私の運命の赤い糸は、からまっているみたいなの......わかっていたから......だけど、どうにもならなくて......でも......」と詰まり、箸を置いた妙子の目に再び涙が浮かんだのを見てとると、母は「ねえ、私の昔話を聴いてくれない?」と言い、「結婚したばかりのころ、お父さんとよく縁結びの神様にお参りにきたのよ」と静かに語り始めた。
父と母には、結婚前にそれぞれ身も世もなく愛した人がいたが、夫婦になれない事情があった。失恋の痛手を負った者同士の結婚生活は、殺伐としていた。二人の仲を心配した父方の祖父母は、縁結びの神様の深沙大王に夫婦円満の願をかけた。一方、同じ悲しみが同情と理解を生み、やがて愛情へと変わった。父と母は、改めて本当の夫婦になりたいと願い、手に手を取って深沙大王堂へ参拝に出かけるようになった。間もなく母は身ごもった。
「私は幸せね。お別れは少し早かったけれど、お父さんのような素敵な人に出会って、愛し、愛されたんですもの」と母は締めくくった。
店を出ると、妙子は、「お母さんとこういう話をちゃんとしたことがなかったから、嬉しいわ」と朗らかに言い、お参りを提案した。
 本堂と元三大師堂を参拝して、深沙大王堂へ向かった。お堂の裏手は、白昼のように明るかった。母と並んで手を合わせながら、これからも、あの光を求めていこうと決めた。
門前の百日紅の辺りで、津田のメールを受けた。「会いたい」とだけある画面を見つめながら、「今度は、私の話を聴いてもらおうかな」と母につぶやいた。家の百日紅があでやかに咲いて、妙子を待っているはずだった。

(了)
 
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<著者紹介>
鈴木 文子(東京都調布市/39歳/女性/主婦)

せわしなく車が行き来する通りの脇でバスを降りると、ほんの少し排気ガスの熱を感じただけで、そのあとは真夏の暑さを遮る木々を渡る風が頬をなでた。
(まったく近頃じゃどこへ行ってもアスファルトの照り返しがひどい、そこへいくとここいらはまだ...)
都内でも自然の多く残っているこの辺りは真夏でも都心よりは気温が数度は低く感じられた。
あの年の夏もこんなだった。暑かったけれど、こう、風が吹いていた。演習でかいた汗もすぐに吹き飛ばしてしまう緑の匂いのする清々しい風が...。
老人は帽子を脱いで薄くなった白髪の間から流れ出た汗をハンカチで拭った。
道を折れて石畳の参道へと入るとさらに澄んだ空気を感じた。木々の発する酸素が充満しているような空気だ。ただ人の多さと賑やかさに老人は驚かされた。なんだか自分の知っている記憶の中に残るあの参道とは随分違う。それは色彩のせいかもしれなかった。家族連れのカラフルな服、茶色の髪、土産物屋に並ぶ派手な色の商品。そんな多彩な色は昔は無かった。白か紺か軍服の色、あったとしてもせいぜい小さな子供の下駄の紅い鼻緒の色か。
老人は懐かしさとともに参道を歩いた。様変わりをしたようではあるがよく見れば知ったようなそば屋の屋号もある。終戦前後の食糧難はまだ先だった頃で、老人は仲間とよくそばをすすったことを思い出した。この界隈には調布の飛行場の兵隊連中が大勢下宿をしていた。演習が終わり渇いた喉を湧水の冷たい水で潤し、寄り道をしてから銘々の下宿に戻った。当時に比べると店構えは随分立派になったが確かにこんなような店があったようだった。
深大寺の山門の前まで来ると老人はN先輩の姿を思い出した。
(よお、遅いじゃあないか。来い、そばをおごってやる)
待ち合わせをしていた先輩は山門の脇で煙草をふかしながら、そう、言ったものだった。演習で失敗をしては上官に叱られてばかりいた不器用な後輩を明るく誘ってくれたのだった。
あの頃と同じひぐらしのうるさいほどの声が耳についた。
老人がゆっくりした足取りで道を折れて湧水の脇を通ってすすむと目当ての店が今でもあった。老人は少しホッとしてそこにたたずみ店先をながめた。店先には団子やら饅頭やら並べられ若い店員が忙しそうに客と応対している。あの頃の先輩の目的はそばのほかにこの店にあった。後輩にそばをおごるふりをして通いつめたのもこの店の娘に会いにくるのが目的だったのだ。
故郷を離れここへ着たばかりの頃、偶然通りかかり美味しい湧水があることを知って仲間数人と手ですくっては喉を潤していると(これをどうぞ、お使いください)とその娘が真新しい青竹の柄杓を差し出した。硬派の先輩は途端に頬を紅くして黙って竹の柄杓を受け取った。
その時から時間が出来さえすればそばをすすることを口実によくここへ立ち寄ったものだった。美人というのではないけれど笑うとえくぼの出来る色の白い小柄な可愛い娘だった。
「あっ...」
その時、老人は店の奥にその娘の姿を見た。いや、娘ではない、何処から見ても老婆に違いないが老人にはあの頃の娘そのものの姿がありありとそこに見えた。
(まさか...)
ここを再び尋ねてみようを思い立った時、老人はまず会えまいと考えた。存命でいるということがまず半信半疑であったし、どこかへ嫁いだか移り住んだか、会える可能性は無きに等しいと...。
(人違いか、いや間違いない、あの娘だ)
老人はほんの少し躊躇したあとで思いきって店へ入っていき小柄な老婆に声をかけた。老婆は唐突に挨拶をされて少々いぶかしんだが、N先輩の名を告げるとすぐに懐かしそうな表情で顔をほころばせた。皺の刻まれたその頬に昔と同様のえくぼが浮かんだような気がした。
窓を開け放した店内にもひぐらしの声がうるさいほど聞こえる。
「そうでしたか...」
あの頃と変わらない湧水でいれた味わいのある茶を勧めながら老婆は頭の禿げあがった弱々しい老人の長い話を一生懸命聞いた。
「あの夏以降ねえ、急にお姿を見なくなったものだから、ああいうご時勢でしたから身を案じておりましたが...。やはり...そうでしたか」
老婆は遠い目をして老人の語る先輩の最後の様子に聞き入った。
「急な出陣で...。この戦争が終わったら必ずや迎えに行きます、先輩はそう約束したことどうやらかなえられそうにない、その事を随分と気にしておられました」
「遠い昔の約束でしたわねえ、今になってそのことをこうしてお伺いしようとは思いもよらないことでした...」
老婆は少女のような顔で言った。
「長生きはするものですねえ...」
「申し訳ありません。もっと早くに私はここを尋ねてこのことをお伝えするべきでした」
「いいえ...、戦争が終わってからは皆生きていくだけで精一杯でした。私達のそんなささやかな恋の思い出に付き合っている暇はあなたにも無かったことは私にも理解できます。こうして何十年も経ったあとであなたのお話をお伺いできただけで私はうんと幸せ者ですよ。深大寺のご利益が私にもあったのでしょうねえ」
「え?」
「ここはね縁結びのご利益があると昔から言われているんです。だから若い方が沢山、訪れては恋の成就をお願いするんですよ」
「でも、それは...」
「そう...、私達は戦争というもののせいで現世で結ばれることは無かった、けれど私が思っていたと同じように相手にもきっと思われていた、そうわかっただけで十分にご利益がありましたよ。あなたには本当に感謝致します」
老婆はそう静かに言って微笑んだ。
長い話の後でぜひ召し上がれとそばをすすめられた。清らかな水でさらされたそばはさっぱりとして懐かしい味そのままだった。
「御替わりはいかがですか」
「いやあ...」
老人は頭を掻いた。
「年をとりました。あの頃は大盛りのそばを次々にたいらげたものですが、もう今はこれで十分ですよ」
ありがとうございます、そう言いながら店の前で深々と頭を下げる老婆に別れを告げ老人は来た道を戻る。戻りながら考える。自分がここを訪れることを長いこと躊躇していたのはやはり彼女のことを慕っていたからなのだ。恋とも知らずに恋慕っていた相手に恋敵のいなくなったことを伝えるなど、若く気の弱い自分に出来ようはずも無かった。しかし人生の終幕が近づいた今頃になってようやく、若い日の心残りにケリをつけられたことは、これもまた縁結びのご利益とやらか。
(あなたのことも、よく覚えていますよ)そう彼女は言ってくれた。それだけで長い間の胸のつかえがすっとおりていったようだった。
夏の空に飛行機のエンジン音が響いたような気がした。
(おい、おまえ、やるじゃないか)
N先輩が操縦席から笑顔で手を振ってそう言ったような、老人にはそんな姿が思い浮かんだ。

(了)
 
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<著者紹介>
上野 佳子(東京都西東京市/40歳/女性/主婦)

「あのさ、頼みたいことがあるんだけど。手伝ってくれたら、深大寺のそばおごるから」
 坂崎さんから携帯にそんな電話がかかってきたのは、初めて会ってから1週間後、まだ暑さが残る時期のことだ。
私は、ミニコミ誌を発行している小さな編集プロダクションで、ライターとして仕事をしている。坂崎さんは地元の商店会の若手で作っている町おこしグループ「あきんど組」の一人だ。調布の「布」にちなんで、オリジナルの手ぬぐいを、市内の小学生と一緒に作った、という話題を取材した時に顔を合わせた。坂崎さんはリーダーの奥村さんの同級生で、バイクショップの2代目。子どもと一緒に一番騒がしかったのも彼だった。
 頼みとは、あきんど組有志で、調布の名所PRのビデオを作ることになったので、その撮影を手伝ってほしいとのことだった。曰く、「自分がバイクを運転するから、アサコさんは後ろに乗ってカメラを回して」。あきんど組の人でやれば、と辞退したら、「ムサい男を俺の後ろに乗せたくない」などと言う。
 バイク二人乗りの図は想像できる。密着度を考えると冗談じゃない、と思ったが、貸しを作っておけば今後の仕事につながるかも、という下心がくすぐられた。好奇心も手伝って、翌週の火曜日早朝に撮影をすることになった。

 当日、坂崎さんは時間になっても待ち合わせ場所のつつじヶ丘駅に現れない。自分が時間を間違えたのかと思って坂崎さんの携帯に電話してみると、「寝坊した...」という。自分から誘っておいてなんなんだ、と思ったが、仕方がないので近くのコーヒーショップで坂崎さんの到着を待つことにした。ガラス窓の向こうを、通勤や通学の人たちがせわしなく通り過ぎる。
 私は5年前に恋人を旅先の事故で亡くした。学生時代からの付き合いで、30歳になったら結婚しようと話をしていた。あまりに突然のことで、私は意味がわからないまま葬儀に参列した。今日みたいな暑い日だった。大事な人が突然消えてしまったという痛み。私は振り切るようにそれまで勤めていた事務職をやめ、今の編集プロダクションに転職した。余計なことを考えなくてすむように、忙しい職種を選んだのだ。
 あれから5年。私は30になった。仕事は楽しいけれど、時々ふと思う。これでいいんだろうか。私が毎日走り続けているのは、痛みから目を背けたいだけなのではないかと。
 「お待たせ」
 坂崎さんの声で我に返った。
 
 「行こうか」。シートにまたがった坂崎さんが、後ろを促す。慣れないヘルメットをかぶった私は、やや緊張気味に坂崎さんの腰のあたりのシャツをつかむ。「もうちょっとしっかりつかまって。危ないから」。観念しろ、アサコ。しっかりと坂崎さんの腰に腕を回した。身体を近づけると、意外に広くて安心感のある背中だった。微かにタバコの香りがする。嫌じゃない自分に驚いた。そして、さっきまで死んだ恋人のことを考えていたというのに、坂崎さんの背中にうっとりしている自分を、少し不謹慎だと思った。ベージュ色のバイクはなめらかに動き出した。

 「じゃあこれ。使い方は簡単だから。ここ押せば撮影スタート」。深大寺に着くと、坂崎さんはバッグから小ぶりのデジタルビデオカメラを出して、私の手に持たせた。モニターには、深大寺の参道と山門が映っている。「じゃ、まず練習。バイクで流し撮りする前にカメラに慣れて」。録画ボタンを押し、参道を山門へ向かってゆっくり歩く。「そこ右ね」。坂崎さんが私の肩に手を回した。あ、手。と思ったが、神経を手の中のビデオカメラに集中させた。

 深大寺と深沙大王堂を一回りして、元の駐車場に戻って来た。坂崎さんの手が肩から離れるのを感じて、私は少しほっとした。「じゃ、今度は植物公園の方に移動――あれ、鍵がない」。バッグの中を探りながら坂崎さんが言う。その手はジーンズのポケットに移り、シャツのポケットに移り、ついには身体全体をぱんぱん、とたたくまでになった。
 「落としたのかな」。坂崎さんはさっき撮影して歩いた場所を、もう一回りして戻ってきた。「だめだ。ない。たぶん、バイクにキーをつけっぱなしにしちゃったんだろう。誰かがキーだけ持っていったのかもしれない。ここ離れるの危険だな。今度戻ってきたらバイクごとなくなってそうだ」。
 お寺の門前で断りもなく人の肩を抱いたりするからバチがあたったんだよ、そう心の中で毒づいた。次の取材の時間が迫っている。「坂崎さん、ごめんなさい、もう時間がない」私は時計を見ながら言った。「ああ、そうだよね。送ってあげようと思ってたのに。申し訳ない」。坂崎さんは本当に残念そうに言う。ちょうど吉祥寺行きのバスが来たのが見えた。「あれに乗っていけば間に合うから。ごめんなさい、じゃあ、ここで解散ってことで」。
 逃げるように走って行こうとする私の手を坂崎さんがつかんだ。あっと思ったら抱きしめられていた。ほんの一瞬だったけれど。背中を押されて、バスの乗車口へ走ると、坂崎さんは何事もなかったかのように笑顔で手を振っていた。

 翌日、坂崎さんから電話があった。結局、バイクの鍵は見つからず、レッカー業者を呼んだという。「セクハラした罰が当たったのかな」なんてうそぶいていた。確信犯だったのか、なんて奴だ。でも、バイクの件でしょげている様子はかわいい。結局、「そばをおごる約束は果たす」という坂崎さんに押し切られ、今度は週末に深大寺に行くことになった。電話を切ったあと、また会えるんだな、と思っている自分に気がついて苦笑する私を、隣席の同僚が不思議そうに見ていた。

 同じ日の午後、商人組のリーダーである奥村さんにばったり調布駅前で会った。先日の取材の礼を言って軽く世間話をしているうちに、「野並さんは結婚してるの?」と聞かれた。よくあることだ。私も「まだです。誰かいい人いたら紹介してくださいよ〜」と返すのが定番になっている。奥村さんは屈託のない顔で笑う。「あきんどメンバーは全員結婚してるからなあ」。ということは、坂崎さんも?なるべく顔色を変えないように聞いてみた。「坂崎さんも?あの人全然結婚してるようには見えないですよ」
 「ああ、坂崎んとこは別居してるから」
 「別居?」。奥村さんは余計なこと言っちゃったなあ、という顔をした。わかりやすい人だ。
 「いやー、なんか、坂崎君とこ、2年前に奥さんが流産しちゃってから、あんま仲良くないみたいなんだよね。あきんど組の集まりに一度もつれてきたことないし。あとさ、坂崎君、バイクレースにも出てるんだよ。俺、一度見に行ったことあるけど、すごいよ。ありゃ命がけだね。死ぬために走ってるような感じだったよ。ちょうど奥さんのこともあったし、あんまりのめりこんでるとまずいんじゃないかと思って、それであきんど組に引っ張り込んだんだけどさあ」。
 
 約束の週末、待ち合わせの時間よりもずっと早く私は深大寺に到着した。まだ時間があったので、深沙大王堂の方へ行ってみることにした。小さな湧水池があり、清浄な空間が広がっている。ここは真夏の昼間でも静かで、涼しい。
湧水のほとりにしゃがんで、湧き出る水を眺めた。坂崎さん、奥さん、別居、流産、レース、死。坂崎さんも私も、形は違うけれど、結局痛みから目を背けようとしているだけじゃないのか。その事実だけが、水にさらされた布のような白さで光っているように思えた。
 足音がして振り返ると、坂崎さんが立っていた。「早いね」。私は立ち上がって、坂崎さんの方に向き直った。「奥村さんに聞きました。奥さんのこと」
 坂崎さんは少し驚いたようだった。そして、あのおしゃべりめ、と苦笑いをした。「さすが記者」。坂崎さんはシャツのポケットから煙草を取り出す。「いいんだよ、もう。『もう子どもはいらないよね』って言われちゃったし。俺、用ナシなんだよ。実家に帰った嫁さん連れ戻すような甲斐性もないし」
 「坂崎さん、楽しいことは奥さんと分け合う努力をしてください。今の坂崎さんは奥さんと向き合うのが怖くて、逃げてるだけです。痛々しくて見ていられません。少なくとも、私は、自分の好きな人が、向き合うべきものから逃げている姿なんて見たくない」
 坂崎さんはまだ笑顔を崩さない。私はこの人の笑顔の後ろにあるものを何も知らないけれど、とても自分に近いものだと思う。坂崎さんも多分同じように感じていたのだろう。だから、私は坂崎さんに言いながら、私は自分にも言い聞かせた。恋人を失った現実から逃げ続けている自分に。「大事なことはちゃんと先に言ってください。私、もう少しで坂崎さんのこと好きになるところでした」。

 参道の向こうにバスが来たのが見えた。「坂崎さん」。今度は私から坂崎さんを抱きしめた。一瞬だけ。暖かい背中だ。でも、この暖かさは私のものではない。少なくとも、今は。
 「じゃあ、さようなら」。発車しようとしていたバスに飛び乗った。ドアが閉まる。坂崎さんは困ったように笑って言った。「そばはまた今度な」。バスがゆっくりと動き出した。

(了)
 
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<著者紹介>
篠原 ユキ(東京都三鷹市/30歳/会社員)

 東京の郊外にある小さな児童養護施設に、ミズキお姉さんという左利きの保母がいた。食事のとき、唇の端に真っ赤なジャムをつけた六歳の私を見て、優しく笑ったのを憶えている。そして私を膝に乗せ、指でジャムを拭ってくれた。私が大人になりたいと思っていたころのことだった。
「なっちゃんは、金魚をとても可愛がってくれるので嬉しいわ」
 ミズキお姉さんはそう言って、私の頭をいつも左手で撫でてくれた。
 金魚は施設の食堂で飼われていた。木造りの棚に置かれた横幅四十センチほどの水槽の中に七匹泳いでいた。園長先生がそれを持ってきた日のことは今でも憶えている。水槽に移されたあと、ゆらゆらと透明な水の中を漂い始めたその赤い姿を見て、私は目を輝かせ、興奮した。目を閉じれば、自分も金魚になって、水槽の中を泳いだ。 
そういえば、ミズキお姉さんの真似をして左手でお箸を持ってみたことがあった。しかし全く上手く動かせず、カラン、と音を立ててテーブルの上に落としていた。何度も何度もカランカランと落として、施設の先生たちに「やめなさい」と言われ、右手に持ち変えさせられた。しかし、それでも私はまたカラン、と箸を落とした。右手でも無理だった。あの頃、食事の時間になると、私はどうしても食べ物を口に運ぶことができず、噛むことも困難だった。
「なっちゃん、お口開けて」
先生たちは、スプーンで私の口にお米やキャベツのスープを少しずつ運んだ。大抵はそれを一口ずつゆっくりと噛めば何とか食べることができたが、なぜかたまにそういうことが全くできなくなる日があった。そんなときは、必ずミズキお姉さんが、噛めない私の代わりにご飯を噛んで一端口から出し、それをスプーンですくい私の口に運んで水と一緒に飲み込ませてくれた。食事の時間が終わり、周りに誰もいなくなった食堂で、ずっとそうやっていた。
いつも食事の時間がみんなより長くなってしまう私を、他の子どもたちは笑った。しかし私も、ミズキお姉さん以外の先生が口で噛み砕いた食べ物は決して自分の口に入れようとしなかったから、同じようなものだったと思う。
結局、私が自分だけの力で食事を取ることができるようになったのは、十歳になってからだった。
ある日の夜、就寝の時間を大幅に過ぎても眠れなかった私は、もっそりと布団を抜け出し、ミズキお姉さんの部屋を訪れた。しかし、そこにお姉さんはいなかった。私は施設の暗い廊下をペタペタ歩いて、お姉さんを探し回った。パジャマの裾を握りながら玄関の方を覗くと、黄色い明かりがついている。そっと伺うと、ミズキお姉さんが玄関の棚に置かれたピンク色の電話で誰かと話をしていた。小さな声がぼそぼそと聞こえてきた。私はその電話が終わったら、ミズキお姉さんに眠れないことを伝え、一緒に談話室に行こうと思った。
しかし、会話を終え、カチャンとピンクの受話器を置いたミズキお姉さんは、そのまま下駄箱の中のサンダルをサッと取り、音もなく履いた。そして施設のドアを開けて、するりと表に出て行ってしまった。
私は電気をつけっぱなしの廊下にしばらく立っていたが、やがて裸足のまま玄関の扉を開け、ミズキお姉さんを追うように外に出た。
暗い中、リーリー、と虫の鳴き声が聞こえていた。湿った夜の匂いがムッと鼻に届いた。
顔を上げると、外門の向こうに黒い影が伸びているのが見えた。足の裏に張り付く冷たい地面の感触を憶えながら、私はその影に近付いていった。門の脇に停められているトラックの影に身を潜めそっと伺うと、大人が二人いることがわかった。まず、誰か知らない男の人がこちらに背を向けている。そしてその肩越しに、ミズキお姉さんの顔が見えた。
「自信なくしちゃうわ」
ミズキお姉さんが言った。
「ずっとやりたい仕事だったし、すごく充実しているけど、たまにすごく不安になるの。自分の弱さでどうにもならないのかもしれないけれど、何だか、本当に駄目になるのよ。なっちゃんのように、お母さんに放棄されて帰る家のない子だっているんだから、私が安心させなきゃいけないのに」
そう言うと、ミズキお姉さんは左手で目をぬぐった。
「全然上手くいかない。私、駄目なのかな」
「そんなことないよ」
こちらに向けた背中を揺らして男の人が言った。暖かく鼓膜に触れる声だった。
「君には、実際にお父さんとお母さんが待っている家があるじゃない。現実に帰れる時間はほとんど無いにしてもさ。それに、その、まあ頼りないかもしれないけど、俺だっているしさ」
男の人は、ミズキお姉さんの頬に手をあて、涙を拭った。ミズキお姉さんは潤んだ目で男の人の顔をじっと見たあと、崩れるようにその胸の中に顔をうずめた。男の人も、ミズキお姉さんの肩を抱いた。
「ミズキ、しんどくなったらまた呼んで。こうやっていつでも会いに来るから」
私の足の裏に張り付く地面は、とても冷たかった。
トラックの影でしゃがみ込みながら、私は両腕で自分の肩を抱いた。パジャマにぐちゃぐちゃの皺ができるまで、いつもミズキお姉さんにだけ抱きしめてもらえていた自分自身を、抱きしめていた。
リーリー、と相変わらず虫たちが鳴いていた。求愛の声だったのかもしれない。私は目を閉じた。早く大人になりたいと思った。

「そろそろ蕎麦、食べに行く?」
ウワンウワン、と蝉の声がしている。私は目を開いた。前に「浄財」と書かれた賽銭箱が置かれている。その向こうのお堂は木の戸がぴっちり閉められていて、中は見えない。雨上がりの雑木林に、黄色い陽が差し込んでいた。
「はい。食べたいです」
「じゃあ戻るか」
先を歩く立川シンジの後に着いて、私はお堂を後にし、濡れた参詣道の階段を下った。大師堂の裏手の窓に、何枚かの雑巾が干してあるのが見える。階段横の切り立った崖から突き出た木の葉の雫が、ミュールを履いた足の甲にポツリと垂れて、小さく濡れた。
盆を過ぎた寺の境内には細い雨が降っていて、人影もまばらだった。午後三時を回り、やっと陽の照り始めた本堂の前を抜けて、私たちは山門を出たすぐ下にある蕎麦屋に入った。
「最後に寄ったお堂が、この山を開いた人を祀っているところなんですね」
盛り蕎麦を二つ注文したあと、私は向かい合って座る立川シンジに言った。
「そうだよ。それにしても、お寺や神社巡りが趣味なんて、なっちゃん渋いね」
立川シンジはそう言うと、店内に設置された送風機の風に髪を揺らしながら、出された冷たいお茶を一気にクイッと飲み干した。その姿を、私はただじっと見ていた。
「ん? どした?」
「あ...、いえ、あのやっぱりお祭りとかもあるんですよね? よく行くんですか」
「うん。育ったところの行事だからね。欠かさず来てるよ。秋にはそば祭り、三月には、だるま市とか結構有名なんだ。興味があったら来てごらんよ。そういう日はもっと活気があるから。案内するよ」
「あの、金魚すくいありますか?」
「金魚すくい? うん、今年のだるま市ではあったよ。得意なの?」
「あ、いえ、あんまりやったことないんですけど、好きなんです、金魚」
「ああ、そういえば美術部の作品でも金魚の絵描いてたよね」
「あ、はい。よく憶えてますね。やっぱり子どもっぽい題材だったかな」
「そんなことないよ」
やがて蕎麦が運ばれてきた。私たちは箸を割り、薬味の大根おろしとネギをつゆに流し入れ、蕎麦を食べ始めた。そのときだった。
「あ」
カラン、と私は箸を床に落とした。先に蕎麦をすすっていた立川シンジは、口をもごもごさせながら「すいません」と店員を呼んでくれた。そして新しい箸と、お茶をもう一杯頼んだ。
「すいません、ありがとうございます」
私は顔を赤くしながら言った。箸を落とすのは久しぶりだった。
「いやいや、大丈夫?」
「はい、なんか昔から、緊張するとお箸落とすクセがあって」
「ははは。何それ。なっちゃん緊張してんの?」
ズズリ、と蕎麦をすすり、立川シンジは目を細めて笑った。
蕎麦を食べ終えると、立川シンジは最後にもう一つ、神様が祀ってあるお堂に案内すると言った。蕎麦屋を出、湿った地面を歩き出すと、水の流れる音が聞こえる。
「今日は、ありがとうございました。あの、実は、立川さんが描いた絵を見たときから来てみたいと思ってたんです、ここ」
「俺の絵?」
「ほら、部活の作品展で、『深大寺』っていう何のひねりもないタイトルで出してたじゃないですか。この辺界隈を描いた絵」
「ははは。なっちゃんこそよく憶えてるね。あれ良かった?」
「はい。立川さんの作品は全部凄いと思いますけど、あれが一番好きです」
「それは嬉しいな。自分の育った場所だからね。一度描いておきたくてさ」
やがて、甘味処の前を抜けた右前方の雑木林に、ほっこりと開く空間が見えた。三列の石が並んで、木々の中をしっとり濡れたお堂まで短い道を作っている。立て看板には「深沙堂」と書かれていた。「ここに祀られている深沙大王が、深大寺という名前の由来とも言われているんだよ」と立川シンジは言った。
「実はこれ、縁結びの神様なんだってさ」
「縁結び?」
「そう。好きな人と結ばれるらしいよ。俺、祈っとこ」
そう言うと、立川シンジは私の前に一歩踏み出し、お堂に向かって手を合わせた。その言葉を聞き、胸の奥が潰された果実のようにぐちゃりとして、私は問いかけてしまった。
「好きな人、いるんですか?」
すると、立川シンジは目を閉じたままニッ、と笑った。
よくわからないのとどことなく気まずいのとで困った。とりあえず祈ってみることにする。立川シンジの隣に一歩踏み出し、手を合わせる。そして目を閉じる前に、彼の顔を見上げた。初めて人に抱きしめられたかった。
そのとき、頭上の樹から雨の雫が一滴落ち、立川シンジの頬を濡らした。しかし彼は目を閉じたまま微動だにしない。私は目を閉じた。もっと大人になりたいと思った。

(了)
 
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<著者紹介>
岡田 みな子(神奈川県川崎市/22歳/女性/会社員)

元三大師堂で護摩供養が始まった。
私は般若心経を空で言えるようになっていた。二年前は神や仏を信じるような性格じゃなかったのにと、内心、おかしく思う。
あの時、彼は確かに私の目の前にいた。もしかすると、いやきっと、縁結びの神である深沙大王様の化身だったのだろう。
炊かれた護摩木が、火花を散らしている。

二年前の六月―
私は短大生の親友の麻紀から、彼女のアルバイト先の居酒屋の合コンに誘われた。男性従業員が連れてきた友人の一人が彼だった。
大騒ぎをしているメンバーの輪に入らず、
そうかといって仲間に入れなくて困っているような雰囲気でもないような、静かな笑みを浮かべていた。
「彼は東大生なんだって」
こっそり囁いてきた麻紀に、ふうんと私は興味なさそうに返事をした。
「城山君、瑞穂が気に入ったって言ってるよ」
麻紀がとんでもないことを抜かす。
「ありがとう」
彼が私に笑顔を向けた。
すごくかっこいいという類の顔ではないけれど、所謂爽やかなタイプというやつだ。
「今の嘘。そうじゃないから」
私にはその時、つき合っていると言えるのかどうかわからないような存在の男性が三人いた。彼とは明らかに違う陽気な遊び人タイプだ。
でも、東大か......なかなか出会えるタイプじゃないし、つき合ってみてもいいかも。それにこういうチャンスは二度とないだろうし......。はっきりと否定したにも関わらず、いろいろな考えが頭をよぎった。
「僕じゃ駄目なのかな?」
彼は先ほどと同じ笑顔だった。
楽しそうにはしゃぐ仲間を見ている時と、私に「ありがとう」と言った時と、まるで笑顔のお面をかぶっているかのような、寸分も違わぬ笑みだった。
これは油断ならないと思った。気持ちの変化が顔に出ないよう、作り笑いをしているのだ。しかも完璧に。心の中では相手をせせら笑っているに違いない。しかもエリートだし......。
「その笑顔よ」
思わず口をついて出ていた。
さすがに彼の顔から笑顔が消えた。
「嘘っぽいもの。さっきからコピーしたみたいにおんなじ顔して。なんか企んでいるんじゃないの?東大だし。頭良いみたいだし。ルックスだって悪くないじゃん。本当はそうやって、人のこと、ばかにしてるんでしょ?」
仲間が騒ぐのをやめてこちらを見ている。
「そんなことないよ」
彼はうつむき加減にまた微笑んだ。
「君の方が、僕よりずっと魅力的だよ」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
私はテーブルを叩いた。
「じゃあ、今週の土曜日会って」
仲間がおおーっと冷やかしの声を上げた。
「いいよ。どこにする?」
彼の冷静で柔らかい口調に、段々腹が立ってきた。
「わざわざ出て行くの面倒だから、うちの近所の深大寺に二時」
気を落ち着けようと、私はタバコに火をつけた。
「わかったよ」
彼が携帯をポケットから出した。
「連絡先なんか教えるわけないじゃん」
タバコを挟んでいる私の指が震えていた。
彼は何事もなかったかのような涼しい顔で、携帯をポケットに戻していた。
動揺を見せない彼が憎らしかった。

土曜日の深大寺は曇り空だった。
山門前の階段脇で彼が手を振っている。
「来ないから心配したよ。事故にでも遭ったんじゃないかって」
また私の嫌いなあの笑顔だ。
「わざと遅れてきたの」
待ち合わせの時間は一時間も過ぎていた。
「そう。じゃよかった」
また彼が笑顔を向けてきた。
「ねえ、ちょっと。わざと遅れてきたって言ったじゃん。人の話、ちゃんと聞いてる?」
「聞こえてもいないのに、いい加減に返事なんかしないさ」
彼がまた笑った。
絶対に今日はその笑顔の化けの皮を剥がしてやる。私はそう思っていた。
 土曜日ということもあって、座れそうなベンチを探したが、見当たらなかった。十五時を回っていたので、甘味処もほぼ満席状態だった。
 「歩く」
 彼は「歩く?」と尋ねたようだが、同時に私と全く同じ言葉を発していた。
 彼より先に、本堂への階段を上り始めた。
 「足、痛くない?」
 振り向くと、まぶしそうな表情をしている彼と目が合う。
 私はヒールの高いミュールを履き、彼とは不釣合いなくらい派手な格好をしていた。ミニスカートにキャミソールの私を、すれ違う男性達がじろじろと見ていた。
 そうか。やっぱり。好青年ぶっていても、さすがに彼も男という性には勝てないよね。
 あっさり勝負がついたような気がした。
「いいよ」
先に本堂の砂利道にたどり着いた私は斜めに彼を見上げた。
「いいよって、何?」
穏やかな口調で訊いてきた彼の手首を?んで、人気の少ない木陰の方へ歩いた。
「私を魅力的って言った意味わかった。素直にホテル行こうって言えばいいじゃん」
彼が私の手を振り払い、すごい力で私の腕を?んで引き寄せた。
「僕は女性を殴ったりもしないし、自分の主義に反することもしない」
強い眼差しだった。そして、この柔和なイメージの彼のどこからこんな力が出てくるんだろうと思うほどの力だった。
彼の目をしっかりと見ていた筈なのに、いつの間にか彼が見えなくなっていた。

茶屋通りのベンチに座ることができた私は過去のことを雪崩のように彼に話していた。
いじめで高校を中退したこと、自殺未遂をしたこと、援助交際をしていたこと、それらのせいで、家族に疎まれていること......。
彼は黙って聞いていた。そして最後にこう言った。
「そんな瑞穂ちゃんだから、僕の笑顔が偽物だって見抜けたんだね」
梅雨空の下で、彼だけが青空のように見えた。
「僕は素顔の自分と向き合うのが本当は怖いから」
何度聞いても、それ以上彼は自分のことを話さなかった。
私の派手な服装が心配で、彼は家まで送ると言って聞かず、タクシーを呼んだ。そのタクシーの中で、私は彼の連絡先を聞いたが、彼は私の連絡先を聞こうとしなかった。
「瑞穂ちゃんに任せるよ」
どきっとするほど優しい笑顔だった。
そして彼の最後の姿だった。

何度彼の携帯に連絡しても、全く返事が来ない。親友の麻紀は海外旅行へ行ってしまっていたので、消息を聞くこともできない。
私はイライラしていた。彼と会った後、つき合っていた男性達とは別れてしまっていた。洋服の趣味も変えた。 
まさか、私を更生させようというただのおせっかいだったんじゃないかとも思った。もしそうだとしたら、なんて汚いやり方なんだろうと悔しかった。
深大寺の本堂に祀られている阿弥陀如来様に何度も謝りに行った。神聖な場所で彼を誘ったことに対する仏罰が下ったのだ。でも、彼への想いは純粋なんです......。と念じた時、自分でも驚くほどはっとした。恋をしている......それを認めた時、深大寺は縁結びの神で有名だということを思い出した。

真相を知ったのはそれから一ヶ月後のことだった。
私と会ったあの日、彼は自宅の最寄駅から
自宅までバイクで帰る途中に事故を起こしていたのだった。
 飛び出してきた子供を避けようとして転倒し、反対車線のダンプに巻き込まれてしまったという。即死だった。
 彼の父親は家出をしたまま行方不明だということ、母親は過労から脳梗塞で倒れて、病院で植物人間状態だということ、彼は学校へ通いながらアルバイトで生計を支えていたことなどを聞いた。
 その時、あの笑顔の秘密がわかったのだった。逃げ出したくなるような現実を誰にも悟られないよう、隙間ない笑みで武装していたのだ。今までも、これからも、順風満帆で幸せ色の人生であるかのように。
 この弱い私のように、不機嫌で意地悪で、すねている自己中心的な人間だったら、もっと長生きできたんじゃないかとも思う反面、彼とはもう、この世では二度と会えないけど、彼にふさわしい素敵な女性に、人間に、なっていけるような生き方に変えていこうと誓った。
 幸せな恋にも、そして未来にも、縁がないと思っていた私と、どんなに辛くても、悲しくても、幸せになろうという、ひたむきで純粋な、前向きな気持ちとを、彼が強い縁で結んでくれたから。
 目の前でパチッパチッと飛び散る護摩木の火の粉が、彼の清らかな魂の笑顔に見えた。

(了)
 
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<著者紹介>
金子 奈築(調布市/36歳/女性)

「ワンちゃんもご一緒できますよ」
コーギー犬を連れている僕たちを見て、蕎麦屋の女性店員が声をかけて来た。神代植物公園脇の蕎麦屋には、外にも席が設けられていて犬を連れていても、ここでなら蕎麦にありつけそうだ。
「ここで、食べていきましょうよ」
サキが言って、僕たちは店員に案内されるままに席に着き、サキは愛犬シンシアを机の脚に括り付けた。シンシアはお座りの格好をして上目遣いに僕たちを見た。
 周囲には樹木が覆い茂り、東京の真夏の昼下がりであっても、どこか山奥の深い森の中にいるかのような居心地だった。僕は長く東京にいる間に、森がもっている薄っすらとした猥雑な匂いを忘れかけていた。ずいぶんと懐かしいような感じがした。
 品書きをちらりと見て、「天ざる      にする」と僕は言ったが、サキはとろろ蕎麦とおろし蕎麦とを迷った挙句、結局「おろし」にすると言った。先ほどの店員に注文を告げると、ひとつ隣の空席を挟んで座っていた年老いた夫婦と思しき男女二人が、僕たちの隣の空席までやってきた。男性は地味なチェックのシャツを着ていたが、女性はピンクのTシャツに白いパンツで、いかにも快活そうだった。二人はもう蕎麦を食べ終え、森の中でくつろいでいたようだ。
「可愛いワンちゃんですね。お名前は?」ご主人が言った。
「シンシアです」
「あら、難しいお名前ね」今度はご夫人が言って、シンシアの頭をなでた。ご主人は大きなレンズのついたカメラを肩から下げていた。それをシンシアのほうに向けて、舌を軽く鳴らすと、シンシアはご主人のほうを向いた。シャッターが連続して切られた。  
 今撮ったばかりのシンシアの写真をデジタルの画面で見せてくれたが、シンシアが、舌を少し出して正面を向いた様子がきれいに撮れていた。
「すごくかわいく撮れてる。おじさんはまるで魔法使いのようですね。なかなか正面を向かせて写真、撮れませんよ」サキが言った。
「二人とも犬が大好きでね、よくこうやって撮らせてもらっているんですよ」 
 そう言うと、ご主人はバッグから写真ホルダーを取り出して、「ほら、これ」と僕たちに差し出した。サキが机の上で開けてみると、ダルメシアンやレトリバー、シェトランド・シープ・ドッグがボールを追いかけたり、お座りしている写真が収められていた。
「犬は飼われていないんですか?」僕が訊ねた。
「二年ほど前に死んでしまってね。今から飼っても、私たちのほうが先に死んでしまうだろうからね」ご主人がそう言うと、ご夫人   も相槌を打つように頷いた。  
 僕はなんだか悪いことを言ってしまったような気がした。
 先ほどの店員が注文したものを運んでくると、二人は僕たちに礼を言って、勘定を済ませ植物公園に向かって歩いていった。

 サキは三ヶ月ほど前に離婚をしていた。結婚生活は三年続かなかったようだ。離婚に至るまで、別居生活を続けていたわけではなく、 離婚届を出すと同時に元の旦那が家を出た。サキはシンシアと3LDKのマンションを引き取った。まだマンションのローンも途方もなく残っているだろうし、そのあたりについてどう折り合いをつけているのか、僕はまったく知らない。離婚の原因についても、元の旦那が悪いのか、サキが悪いのか、それとも互いに悪いのか、そもそも誰も悪くないのか僕には見当もつかない。サキは元旦那のことを悪くも言わなければ、自分がどうだとかも一切口にしなかった。
 僕は大学を出てからは、一度だけサキと二人きりで会ったことがあった。サキが結婚する前のことだ。二人でわりと有名なある劇団の演劇を観に行ったのだが、サキは僕とは違う誰かと行く予定だったみたいで、その誰かに急用ができたため、その代わりに僕が行ったのだ。その誰かというのは元旦那だったのかもしれないし、ただの女友達だったのかもしれない。その時にそんなことはサキに訊かなかった。
 僕たちは演劇を観た後で、軽く食事をしてバーに入った。そのときに就職したばかりの会社のことを互いに話し合ったことは憶えているのだが、どの店に入って、何を頼んだのかまでは憶えていない。どうせ僕はいつものようにビールを飲んでいたのだと思う。
「小宮君、芝居とか好きでしょ。だから、誘ったの」
別れ際にサキはそう言った。僕はとりわけ演劇とか好きなわけでもなく、年に一回観に行くくらいだった。
「また、なにかあったら誘うね」サキが言った。サキと出かけるのは悪くはなかったし、僕も「こちらもね」と言った。
そう言ったきり僕たちが二人で会ったのは、六年ぶりだった。その間にサキは結婚して、犬を飼って、離婚をした。僕は結婚も離婚もしていなかったが、新卒で就職した会社を辞めて、別の会社で働いていた。サキはまだ会社を辞めずに続けていた。

 僕たちは蕎麦を食べ終えると、深大寺の方へ降りていった。僕がシンシアのリードを持った。深大寺でお参りを済ませ、僕たちは野川に出て、左岸を上流に向かって歩き始め、野川公園を目指した。
川原には草が茂り、アスファルトと違ってシンシアも歩きやすそうだった。野川にはカルガモの親子が浮かんでいたり、武蔵野の佇まいが残っていて、僕は飽きることがなかった。
 旦那が出て行った後、サキは一人でシンシアの面倒を見なくてはならなかった。シンシアも旦那が出て行くときに本棚や机が運び出され、ぽつりと空間ができると、それに敏感に反応したようで、しばらく下痢が続いたり、散歩に出てもすぐに帰りたがったらしい。犬は人間よりも神経質で、環境の変化には過敏のようだ。旦那と暮らしていたころは、朝夕の散歩もサキが行ったり、旦那が行ったりと交替でこなすこともできたが、今はサキが一人でこなしている。仕事を持ちながら一人で朝夕の散歩を欠かしてはならないというのは骨の折れることだろうと容易に想像がつく。ペットを育てるための休暇制度なんてあと何百年経ってもできそうにないし、犬を飼うにも綿密な人生設計がいるものだ。
 三日前にサキから突然の電話があった。サキが離婚したと僕は知っていたが、「いろいろ大変だったみたいだね」としか言えなかった。
「あまり遊んでやってないせいで、シンシアもストレスが溜まっているみたい。休みの日以外はずっと一人ぼっちにさせているし」その電話でサキが言った。そうして夏でも犬を歩かせやすいだろうということで、僕たちはこうして深大寺の森にやって来たのだ。

野川公園では、まっすぐ立った何本もの木々が芝生にくっきりと濃い影を落としていた。
「シート持ってきたから、ここに座りましょ」サキはトートバッグからレジャーシートを取り出し、二人で広げて腰を下ろした。売店で缶ビールを二本買って来た。サキと軽く缶をあわせて乾杯をした。木陰で飲むビールはなんとも旨いものだと思った。
「小宮君、犬好きでしょ」
 サキが言った。僕は自分が世間の平均から見てどの程度の犬好きなのか、考えたこともなかった。カメラマン氏やそのご夫人ほどではないにせよ、少なくとも嫌いではないと思った。
「たぶんね」僕は言った。
 四時を回ると、僕は車をとって来ると言って、タクシーを拾い、車を止めた場所に戻った。再び野川公園に戻ると、サキとシンシアを積み込み、サキの家まで送っていった。

 翌月曜日、僕はいつもの平日と同じ時刻の七時五発の中央線に乗った。新宿駅で降りて、通勤前に必ずコーヒー・ショップに寄って、新聞と文庫本を読むのが日課になっている。
 窓越しには同じ方向に向かって舗道を歩く人の流れがあった。その流れの中に確かに昨日のカメラマン氏の姿があった。ノーネクタイで、ジャケットを羽織っていた。追いかけようかと思ってふと立ち上がったが、目の前のアイスコーヒーの入ったグラスを見て、思いとどまった。カメラマン氏はそのまま流れに消えていった。朝から幻でも見たかのような不思議な気分に包まれて、僕はその日ずっと昨日のことを思い出していた。
 そして、その日の夜に僕はサキに電話をして、朝、新宿でカメラマン氏を見かけたことを話した。
「小宮君、明日も張り込んでみてね」サキにそう言われて次の日も同じ時刻にコーヒー・ショップに入り、窓側の席で、外をずっと眺めてみたが、カメラマン氏は現れなかった。そうしてその日のうちに電話でサキに報告をした。次の日もカメラマン氏は現れなかった。
 そうして同じように電話で報告をすると、「ねえ、また土曜か、日曜日に深大寺にまた行ってみようよ」サキが言った。
僕は木陰で飲んだビールが忘れられず、  気の利いた食べ物でもあれば最高だと思った。
「じゃあ、ローストビーフかなにかでサンドウィッチでも作ってきてよ」
「うん、わかった」サキは軽快に言った。
「ねぇ、小宮君。私のこと好きでしょ」
 小首を傾げて舌を出しているシンシアの姿が頭に浮かんだ。

(了)
 
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<著者紹介>
有森 玲(東京都葛飾区/39歳/男性/会社員)

 梅雨の合間の曇りの日、俊介と繭は調布駅前のファミリーレストランで向き合いながら座っていた。繭は半分まで飲んだアイスティーに浮かぶ氷を、ストローで何回も転がしながら会話を続けた。
「俊介、ごめんね。バイトとか忙しかったんじゃない?」
「全然。ちょうど、家庭教師先の生徒の具合が悪くて、バイトが休みだったんだ」
「そう、それなら良かった。俊介、いつもサークルが終わるとバイトに忙しそうだったから...みんなとお茶したり、ご飯食べたりしないでしょ。俊介とちゃんと話をしたいと思ったから...」
繭は動かすストローの手を止めて、俊介を見つめ微笑んだ。
俊介は今春、山梨県の自然豊かな山間の町から都内の私立大学に進学し、一人暮らしをしている。大学の学費やら、アパート代やら、親の仕送りだけでは厳しいので、アルバイトをしながら生活費を補っている。
繭も今春から大学生となり、調布にある自宅から俊介と同じ大学に通っていた。
2人が出会ったきっかけは、大学のテニスサークルだった。繭は長身で美しい黒髪の女性であった。凛とした雰囲気と、時折垣間見せる10代女性のあどけなさが入り交じる魅力的な女性だった。
俊介はサークルに入った当時から、繭の存在が気になっていた。魅力的な女性だけに、周囲の先輩や同級の男子学生が注目していることも知っていた。大学の講義が終わった後、キャンパスで繭から声をかけられた時は、正直、喜びよりも驚きの方が大きかった。

「仮病、使っちゃった」
「え!?仮病って...何?」
「今夜ね、サークルの男子の先輩達と1年生の女の子達で誕生会をやることになっているの。新宿のパークハイアットのスィートで」
 サークルには資産家の息子が何人かいて、彼らがグループで高級ホテルやレストランを借りてパーティーをやっていることは、俊介も知っていた。誘われた女の子達が非日常のお洒落な時間が過ごせると、意気揚々としているのを傍目で見ながら、自分とは関わりの無い世界だと感じていた。
 繭ほどの女性であれば、彼らから声をかけられてもおかしくはないと思った。ただ、毎日、毎日、バイトに明け暮れている自分と、親の金で自由気ままに遊んでいる彼らとの立場を比べて、俊介は少し嫉妬した。嫉妬を悟られぬよう、平静を装いながら俊介は尋ねた。
「で、誰の誕生会?」
「私の。今日が19歳の誕生日なの」
「えっ!繭の誕生日だったの!」
 あまりにもあっさりと繭が答えるので、俊介は戸惑った。高級ホテルのスィートで開かれる誕生会。俊介だって山梨の田舎から上京して、流行のドラマに出てきそうなホテル、新宿の夜景、美味しい料理、そんなシチュエーションに憧れを持っている。それを事もなげに断るなんて。
「私ね、誕生会の誘いがあった時に、断るつもりだったの。だって、学生の身分でパークハイアットのスィートっておかしくない?自分できちんと稼いでいる人が誘ってくれるならまだしも、親のすねでしょ。そういうの、すごいイヤ。でもね、一緒に1年の女の子達も誘われて、その子達が乗り気になっちゃって...私が断ると、誕生会自体がなくなっちゃうでしょ。女の子達の無言のプレッシャーに負けてね、断れなかった。でも、当日、病気ってことにしておけば、誕生会も私抜きでやるだろうって、思って」
「ホテルのスィート蹴って、俺とファミレスだぜ。本当に良かったのか?」
「言ったでしょ。親のすねかじりは嫌いだって。それよりも、頑張ってバイトしている俊介の話が聞きたいし...」
 俊介の心臓が少しキュッとした。男子学生の注目を一身に浴びている繭が高級ホテルを捨てて、自分の前に対峙している。
俊介は覚悟を決め、立ち上がり、会計の準備を進めた。事態が読めずにいる繭に対して、右手を差し出した。
「なんじゃもんじゃの光を観に行かないか」

 2人は調布駅から深大寺へ向かうバスに乗った。バスの最後尾の席に2人は並んで座る。バスはゆっくりと駅前のロータリーを出発する。
繭が怪訝そうに俊介に尋ねた。
「なんじゃもんじゃの光って、何?何をしに行くの?」
「あとでのお楽しみさ。誕生日の想い出になるよう、ささやかなプレゼント」
「へぇ〜、じゃ、楽しみにしているね」
 俊介はバスに揺られながら、饒舌なくらい自分のことを話した。バイトで家庭教師をやったり、そば屋で働いたりしていること。実家の両親が教師をしていること。すごい田舎で電車が一時間に1、2本しか走っていないこと。小さい頃は、近くの沢で沢蟹を捕って遊んだこと。
繭は俊介が話す言葉に耳を傾け、にこやかに頷いていた。
 深大寺入口のバス停で2人は降りた。木々が生い茂り、枝の合間から薄墨色の雲が広がっていることを辛うじて覗き見ることができた。
「まだ、7時ごろだっていうのに、全然人がいないのね。ちょっと怖いな」
「大丈夫だよ。ここは俺のテリトリーだから」
 俊介は繭の右手を握り、深大寺の参道に向かった。
 参道に辿り着くと視界が広がった。鬱蒼とした木々が開け、参道の両側にはそば屋や茶屋が軒を連ねていた。とっくに店じまいをしたそば屋、茶屋を通り過ぎると、茅葺屋根の山門が目に入る。山門の前には水路があり、静寂の夜に清水が流れる音が心地よかった。
「私、深大寺って、大学に行く時にいつも通っているけど、中に入るのは初めて。こんな、静かで綺麗な場所だったなんて知らなかった。昼間に来たら、もっと風情が楽しめたでしょうね」
「夜は夜で、趣があるよ。なんじゃもんじゃの光はこれからさ」
 山門をくぐりぬけ境内に足を踏み入れると、敷き詰められた砂利の音が響いた。本堂を正面にして左手に進み、1本の樹木の前に辿り着く。
「これがなんじゃもんじゃの木。ヒトツバタゴっていう木なんだよ。別名、雪の花とも言われる。まだ、少し花が咲いているかもしれないな」
「雪の花...綺麗な名前ね。光っていうことは、この花が光るの?」
「ちょっと違うな。少し待っていてごらん」
 無言のまま、境内にそびえるなんじゃもんじゃの木を見つめていると、右手から幾本かの黄色い光の筋がすうっと流れてきた。光の筋は2人の目の前で緩やかに舞い、なんじゃもんじゃの木に停まる。
「何!?この光!なんじゃもんじゃの光って...」
「蛍だよ」
「東京で蛍!嘘でしょ!すごい!」
 繭は興奮し、声が大きくなりかけたが、静寂な境内にふさわしくないと咄嗟に悟ったのか、小声で俊介にささやいた。
「私、蛍を生で観るの初めて!嬉しい!」
「誕生日プレゼント、喜んでくれたかな?」
「もちろん!!」

 繭は俊介の肩にもたれながら、幾本かの光の筋を見つめていた。俊介は、繭の体温と黒髪の匂いを感じながら話し出した。
「俺、東京に憧れて、大学に進学して一人暮らしを始めた。でも、どこかで田舎の風景を探していたのかもな。何気なく訪れた深大寺だったけど、山梨の実家に似てる雰囲気があってね、一発で気に入っちゃった。そば屋でバイトしているって言ったろ。実は、参道にあったそば屋でバイトしているんだ。」
「本当!?てっきり、駅前のそば屋かと思ってた。随分、本格的なお店でバイトしていたのね」
「バイト帰りに境内をお参りしていたら、さっきの蛍を発見したわけ。すごい感動したよ。だって俺の実家でも、今頃の季節になると、田んぼの脇の川にたくさんの蛍が舞うからね。深大寺が心の故郷に思えた。きっと、願い事が叶うだろうと思って、一生懸命お参りしちゃったよ」
「願い事って、何...?」
「繭、深大寺のご利益って何か知ってる?」
「知らない。学業の神様とか?」
「違うよ。縁結びの神様。繭と付き合えますようにって、ずっと祈ってた。俺、前から繭のことが好きだった」
 一瞬、沈黙が流れた。肩にかかる繭の重みに、俊介は自然と鼓動が高鳴るのを感じた。
「ありがとう」
 繭は俊介の左腕をぎゅっと抱きしめた。俊介は照れ隠しに、声を張り上げ気味に言った。
「誕生日プレゼントの後は、誕生日会だ!バイト先で貰ったそばがあるんだけど、俺の部屋で食べない?」
「そばでお祝い?しっぶーい!俊介、本当に十代なの?私、そば好きだからいいけど、普通のギャルだったらひいちゃうよー。それと、そばを食べるだけだからね。変なことは駄目!」
「大丈夫だよ。俺を信じろよ」
 2人は手をつないだまま山門を下り、足取り軽く参道の石畳を進む。なんじゃもんじゃの光を背にして。

(了)
 
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<著者紹介>
坂井 むさし(東京都西東京市/33歳/男性/会社員)

 苔むした水車が窓越しに濡れ輝く。深大寺のあたりにはいくつもあるなかでは、やっぱりここが一番。慎ましやかな佇まいの店でいつもの蕎麦を待つ週末の昼下がり。春香にとってはこのうえもないひとときである。
 蕎麦湯が出るころには、客は春香と老夫婦だけとなった。彼らが勘定を済ませて立ち去ると、若主人の仁一がテーブルの前に歩み寄ってきた。
 「いつもありがとうございます」
 「週末は皆勤賞ね」
 「毎週、春香さんの姿を楽しみに待っているんですよ」
 「ホメ殺しは勘弁。でも私、ここに来ると癒されるっていうのかな。仕事のこととか忘れられるの」
 「お仕事は何でしたっけ?」
 「会計屋さん、ってところ」
 「すごいな。僕、数字がいちばん苦手なんです。春香さんみたいな人に、週末だけでも帳簿をお願いできたらなあ」
 「そんなの朝飯前。それより私、こういうところで働いてみたい」
 「え?」
 「叔母が小料理屋をやっててね、割烹着で立ち働く姿に、憧れてた」
 「だったら来週、やってみませんか?バイトが休みをとるんですよ」
 「うん、決まり!」
 次の土曜日、いつになく早く目が覚めた。こんなに浮き浮きするのは何年ぶりだろう。またも笑みがこぼれた。一時間も前に着いてしまうと、「臨時休業」の貼り紙に出迎えられた。勝手口に回りチャイムを鳴らす。ちょっと間を置いて顔を出した仁一の目尻に疲れが滲み出ている。
 「どうしたの?」
 「困ったことになりました」
 ―いつもの蕎麦粉の出荷が止められてしまった。あれでないとウチの味が出ない。このままでは店を続けられなくなる。代わりを見つけるにも半年や一年はかかる―
 深沙大王堂までの道のりをゆったりと歩みながら、仁一はそう語った。蕎麦農家の名を聞いた春香は「力になれるかも」とつぶやき、山門の前を滔々と流れる水をしばらく見つめていた。

 翌々日、東京からは三時間ほどの山の中。ジージジーという蝉の声が、さすがに深大寺よりもずっと濃い。
 「片倉さん、おしさしぶりです」
 「あなたは!」
 「妙なご縁がありまして」
 「もう十年、になりますか」
 「お嬢さんはお元気ですか?あのときは中学生でしたね」
 「今はそれだけが悩みで。つきあっている相手がいるようですが、態度がはっきりしない。まったく...。あ、失礼。それで?」
 「頼みがあって来たの」
 「そう言われると、断りにくいな」
 「蕎麦粉を分けてほしいの」
 「あなたが?」
 「知り合いのお店」
 「そうですか。たいがいは断るんですけど。まあ、あなたがわざわざ訪ねてきてまでおっしゃるなら」
 「深大寺の...」
 「あっ!あそこだけは駄目です」
 まったく取り付く島がなかった。帰りのバス停までとぼとぼ歩いていると、後ろから激しいクラクションで追い立てられた。トラックが通り過ぎたあとには、鬼太郎茶屋の目玉餅が路面にべったりと貼り付いていた。渡しそびれた手土産の哀れな末路であった。
 「...というわけ。大きな口叩いておいて、私も頼りないね」
 「そんなことありません。春香さんにそこまでやっていただいて、感謝してます。それにしても、どうして...?」
 最近、仁一の店は蕎麦の味が落ちたという評判が入っている。採算ぎりぎりの線まで品質への執着を徹底する片倉にとっては、断じて許せない。要するにそんな話だった。
 「心当たり、ある?」
 「最近、考え事が多くて」
 「考え事?」
 「将来のこととか...」
 仁一の頬にわずかな赤味がさすと、春香のほうも首筋が熱くなった。五大尊池の水面をかすめながら、きらめく緑と青に彩られた蜻蛉が連れ舞っていた。

 参道から一歩入った路地にひっそりと佇むレンガ造りの珈琲屋。店内の飴色と窓越しの緑が、目にも身体にもすうっとしみいる。ここでぼおっと過ごすのも、これまた春香にとってはお気に入りの週末だった。木と土の匂いが漂う空間で丁寧に淹れられたコーヒー。十年前の記憶が甦ってきた。
 ある企業で経理の不祥事が発生。事件の悪役とされていたのが片倉だった。調査チームの一員であった春香が持ち前の性分で徹底的に洗いなおしたところ、小さな疑問が浮かんだ。調べを進めるにつれ矛盾はさらに膨れ上がり、最後には、片倉ははめられたとの確信に至った。無難にすませようとする上司を断固としてはねのけた春香に対する風当たりが強まると、彼女のほうから辞めたのであった。難を逃れた片倉も半年後に退社。好きであった蕎麦を自分でつくりたいと田舎にこもったのだった。
 店を出てからも思いは巡った。駅まで小一時間、歩くことにした。いつだって自分は筋を通してきた。世の中に対して、片倉に対して。こんどもそうするしかないじゃないか。なによりも、仁一に対して頼りになるところを見せたい。彼のあの言葉。あれはもしや...?だったらなおさら。そうして...。
 家に帰り着いてからも、コーヒーの仄かな甘味の余韻はいつまでも残っていた。

 神代植物園のバラ園を囲むベンチのひとつでは、見ず知らず同士の若者と老婦人が親しげに話している。そうさせる雰囲気がこの界隈には漂っている。ここなら本音で話せそうな気がして、片倉を呼んだのだった。
 ありったけの熱情で説得を試みる春香を、片倉は渋い顔で断り続けた。雷鳴が近づいてきた。
 「悩んでいたんです、彼は。ある女性と、将来をどうしようかと」
 「蕎麦とは関係ないでしょう。失礼」
 「蕎麦とは関係がなくっても、私に関係あるんです」
 「は?」
 大粒の雨が降り始めた。
 「だから、その女性って、あのぉ、」
 ひときわ大きな雷鳴が轟いた。続いた閃光が、走り去る片倉の背中を照らした。
 雨に打たれるままに立ち尽くし、春香の心は叫んでいた。もういい。自分が全国をまわって、あれ以上の蕎麦を仁一に見つけてあげる。大丈夫、見つけてみせる。

 タクシーの窓からは、さすがに涼しさを帯びた風が忍び込んでくる。時差ぼけを覚ますにはちょうどよい。
 あの雷雨の日の翌週に抜き差しならない海外出張に巻き込まれ、気がついたら三週間。やっと帰国がかない、荷物を放り投げて駆けつけたのだった。
 汗を浮かべながらそばを打つ仁一の姿を認めて、春香はほっとした。客席も上々の入り。店を出る間際になって、ようやく仁一が出てきた。
 「片倉さんが送ってくれたんです」
 割烹着姿の若い女性が、後ろからぺこりと頭を下げた。
 「妻です」
 意志の強そうな目もと、口もと。どこか見覚えがある。
 「片倉の娘でございます。以前は父が大変お世話になりました」
 仁一が、ひときわ太い声で続ける。
 「おかげさまで、二人でやっていく覚悟ができました。いろいろありがとうございました」
 春香は、とびっきりの笑みを返した。いや、返そうとした。
 「よかった。じゃ、また」
 きりっと後ろを向くと、振り返りもせず立ち去った。ほんとうは走り出したかった。どこまでも走っていきたかった。青ざめた顔を、震える足を、見られたくなかった。
 よりによって、片倉の娘と仁一とが...。出荷を止めたのも、仁一の曖昧な態度に業を煮やしてのこと。入籍を知り片倉も安堵というわけ、か。
 どこをどう回ったのだろう。ようやく落ち着きが戻ってきた。目の前では、弁財天池の亀が悠々と手足を伸ばして日向ぼっこに興じている。
 「なんてこった」
 まるで道化役じゃないか。そう思うと、たまらなく可笑しくなってきた。笑いが止まらなかった。やがて、亀の姿がぼやけてきた。
 夕の梵鐘が聞こえてきた。ふっと釈迦堂を見返ると、白鳳仏が微笑んだ気がした。緑を揺らして、風が駆け抜けた。

(了)
 
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<著者紹介>
大越 康弘(東京都港区/39歳/男性/会社員)

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