三鷹通りから深大寺通りに入ったすぐ左にあるそば屋、「多田」でアルバイトを始めてからもうすぐ三カ月になる。注文を取って、そばを運ぶ。それが美紀の主な仕事だ。毎朝八時に自転車でここまで来る。帰りは四時。
気楽な一人暮らしだから、遅番の手伝いをたのまれることもある。今年三十九になるまで、そば屋で働いた経験はないが、にぎやかな調布にあって趣あるこの一角で毎日を過ごせるのならと思ってこの仕事に決めた。店の人はみな親切で、そばもおいしい。
「美紀ちゃん、おつかれさま。」
送り出してくれるおかみさんに軽く会釈して店を出る。このまままっすぐ帰ってもいいのだが、今日は少し深大寺まで、ぐるりと回って帰ることにする。
昭和初期のような雰囲気の通りは緑が豊かでほっとする。美紀はゆっくりここを歩くのが好きだった。
一年前は自分がここで働くようになるなんて考えもしなかった。美紀は歩きながら別れた夫とのことを思い出す。生真面目な人だった。ブランド志向でプライドが高く、なんでもお金で解決できると思いこんでいる人。かわいいところもあったけど、計算高さがいつも鼻についた。夫の浮気は離婚のきっかけではあったが、美紀は自分の心がもうずっと前から違和感を感じていたことを知っていた。
「でも・・・自分もあの人と似てたんだよね・・・」
自分を戒め、それをふっきるように呟いてみる。もう、すべて終わったことだ。別れてから慰謝料として受け取った住まいや調度品はすべて売り払った。なにもかも処分して、新しい自分に生まれ変わりたかった。夫と結婚していた五年間は、今思うと変に背伸びした、空っぽなものだったような気がする。裕福で、たいがいのものは手に入る、高層マンションでの暮らし。満ちたりているはずなのに、いつも自分はなにかを間違えているような気がしていた。
 今の生活は美紀を生き生きさせてくれる。毎日の小さな積み重ねが、やがてなにかに結びつくような気持ちがしてくる。自分はこうだと主張する必要はない。ブログやツイッターで、話題のレストランでの食事や、新作のワンピースの写真をアップしなくても、自分はただ、ここに存在するのだと今の美紀は思えた。それはとても静かで、穏やかな感覚だった。池の水面はそんな美紀の気持ちを実際にしたようだといつも思った。

体を動かすのが心地いい。労働は心をシンプルに、健常にしてくれる。美紀は朝の掃除を楽しみにしている。自分を受け入れてくれたこの店が愛おしい。すみずみまで磨き上げてやりたくなる。
出しの甘い香りが漂う中、ふき掃除をしていると電話が鳴る。
二つ鳴ったところで美紀は受話器をとった。
「長野の宇津井です。」
何度か電話で話したことのある、取引業者だった。多田の人気メニュー、「野草のてんぷら」で使う野草を、週に二度、長野から送ってくる農家の男だ。発送してから内容を電話で伝えてくるのが常だった。
顔を見たことはないが、たぶん歳は美紀とあまり変わらないところだろう。たいがい後ろで重機の音がして、そのせいか少し大きめの声で、ゆっくりと話す男だ。不思議といつも笑顔で話しているように感じる。今回送った野草はとくに鮮度が落ちやすいから、扱いに注意してくれとのことだった。
今日はまだ時間も早い。美紀はいつも疑問に思っていたことを聞いてみることにした。
「野草というからには、養殖ではなく、山で取ってくるものなのかしら」
宇津井は一瞬おいて笑いだした。
「それは栽培っていうんだ。養殖じゃないよ。
野草は、そう、野草って言ってもタラの芽やふきのとうだから栽培してるものが多いかな。時期によっては自分のところの山で地物を取りに行ったりしますよ。」
美紀は少し恥ずかしさを隠すため「あら」と言った。ブランドバッグの製造工程なら大抵把握しているのに、一般的なことに無関心だった自分が情けない。
そして山で野草を取る男を想像する。なんだかとってもたくましいクマのような男。きっと手も大きくて、陽に焼けてチョコレートのような色をしているのかもしれない。
宇津井はじゃあ宜しくとまだ笑いを含んだ声で言って、電話を切った。

 美紀の他に、アルバイトはみな学生だった。大学生の男の子が二人と、女の子が一人。3人とも線が細くて、小さな声でさざ波のようにやさしく話す。それに美紀に「若いですね」とか「きれいですね」とか、御世辞まで言ったりする。自分の居場所を少しでも居心地良く、快適にしようという根回しのように感じるが、そういう考えは嫌いじゃない。きっと今の学生たちの世界は、一昔前よりもずっとシビアで精巧にできているんじゃないかと、彼らを見て思う。未熟さや、至らなさまでもが情報によってマニュアル化され、それを読み違えないように細心の注意を払っている。
 男の子は佐々木君と山野君といった。二人とも眼鏡をかけている。佐々木君はチェックのシャツが好きみたいだった。山野君はちょっと暑いとすぐ半袖になってしまう。女の子はケイちゃんといった。ケイちゃんはおそばが食べられない。

また一日が終わった。体を動かすと、無理しなくてもベッドに入るとすぐに眠れる。心地いい眠気だ。後は目が覚めるのを待つだけ。
その日、美紀は長野の男の夢を見た。男はやはりクマのように体格がよく、チョコレートのように陽に焼けていた。その手に触れてみると、熱があるときのように温かくて、大きいのだった。

だから次の日、また宇津井からの電話を取った時はどきっとした。宇津井は仕事の要件を述べたあと、珍しく一呼吸置き、
「深大寺というんですよね、多田さんのお店があるところのお寺は。」
と、尋ねた。
「いや、知り合いがね、そちらに行ったことがあるっていうもんで。聞いたんですよ。東京の喧騒から離れた、趣あるきれいなところだって、言ってましたよ。」
美紀は事情を聞くとほっと息をついた。そして、宇津井が深大寺に来たことがないのを残念に思った。
「深大寺界隈は、緑がたくさんあって、建物も昔ながらの作りで、お寺まで行くと池があって、散策していると時間を忘れてしまうくらい、静かでのどかなところで・・・なんていうか、昔からここに住む人たちが大切に大切にしてきた場所って感じがするんです。だからきっと、優しくて、癒される気がするんだと思う。そんなところなんです。」
宇津井にこの深大寺界隈を知ってもらいたい。
美紀の大好きなこの場所を、宇津井に見せてあげられたら、と思うと気がはやった。
「でも、よく考えたら、長野のほうが緑や自然は多いですよね。お寺や神社だって、長野には有名なところがたくさんあるし。」
落ち着いて考えて、美紀は言った。長野に住む宇津井にとっては珍しいものではないかもしれない。
「ええ、長野にももちろんパワースポットはたくさんありますけど、深大寺は特別なところでしょう。あの、縁結びの伝説がある。」
深大寺縁起に伝わる、豪族の娘と福満という男の恋物語だ。仲を裂かれた豪族の娘に会いたいという福満の願いを聞き入れ、深沙大王の化身の霊亀が彼を背にのせ、逢瀬を叶えたという伝説。
まさか、宇津井のようにクマのような男が(見たことはないのだが)あの伝説を知っているとは思わす、美紀は驚く。勝手な想像に似合わず、ロマンチストなのかもしれない。
「こうして多田さんとお取引があるのもなにかのご縁、ぜひ一度行ってみたいと思っていたんです。
あなたの話を聞いたら、ますます行ってみたくなりました。今は忙しくて抜けられないけれど、落ち着いたらご挨拶にうかがいます。」
そう言って、宇津井は電話を切った。
ゆっくりと受話器を置く美紀を、ケイちゃんがほほ笑んで見ている。美紀は慌てて微笑み返し、からかうような視線をとぼけたふりをして受け流した。

伝説に出てくる豪族の娘は、福満が訪れるのを信じていたのだろうか。深沙大王さえも動かす、福満の情熱とはどれほどのものだったのだろう。
ケイちゃんたち学生ばかりではない。自分だって同じだと美紀は考える。ネットやSNSが悪いわけではないけれど、その仲間内で優位に立つために、また、自分だけ浮いてしまわないように、何か大きくて得体のしれないものに作られた「幸せ」という形に自分をなんとかはめ込もうとしていた。そんな生活にどっぷりと浸かった結果、自分自身の情熱を、見失っていたような気がする。自分で選ぶこと、自分で欲することを。

仕事を終え、美紀は今日も深大寺を回って帰る。
池の前で遠い古に思いをはせ、励まされたように感じる。娘がここで福満を待ったように、自分は宇津井を待ってみよう。
ここに宇津井が訪れ、二人でこの深大寺界隈を歩けたら、また新しい情熱が生まれるかもしれないと、美紀は思う。

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<著者紹介>
中村 小鳥音(長野県上田市/39歳/女性/主婦)
 ぼんぼん、ぼんだら、ぼんだんだん。
じいちゃんが、昼食の途中でつぶやいた。
「あら、また歌ってくれるのね」
 食事の介助をしていた施設の職員が、手拍子を始める。
 ぼんぼん、ぼんだら、ぼんだんだん。
 青い小僧が寺の小道を走らんと。
 鐘を鳴らせばほおずき笑う、
 小僧とほおずき背比べ。
 ぼんぼん、ぼんだら、ぼんだんだん。
 じいちゃんの声が部屋いっぱいに響く。
他の入所者たちが、祖父に拍手を送った。
「じいちゃん、それはなんの歌だい」
 食事に同席していた僕は、老歌手に聞いた。
 返事はない。僕に目を合わせないし、僕が孫であることも、もうわからないのだろう。
「手まり歌みたいですよ。ご自分で作ったとか。娘さんが小さいときに歌ってあげたんですって」
 僕の母さんのことだ。
 昨日、母さんをひどく怒らせてしまった。
 大学の単位が足りず、四回生になるには後期の開講科目をすべて履修したとしても、必修科目が追いつかない。もうこのまま中退すると言ったら、母さんは無言で夜のパート勤めに出てしまった。
 結局僕は、居心地が悪いから男友達の家に泊めてもらい、今はじいちゃんの入所しているホームに来ている。
「沢村さん、お昼の後どうしますか? 栄(えい)八(はち)さんは、いつもサロンでのんびりしますけど」
 職員の声で、僕は頭の中の日記帳を閉じた。
「いや、もう帰りますんで」
「そうですか。じゃあ、またぜひ」
 僕が席を立つと、栄八じいちゃんが突然、
「オニノヒキエタラカエレナイ」
と、小さく叫んだ。
「なんだって? どういう意味?」
 聞き返しても、不機嫌な顔のまま口を結ぶ。
「歌の続きかしらね」
 職員はいたずらっぽく笑うが、僕にはさっぱりだ。腑に落ちぬまま、ホームを後にした。


「ぼんぼーん、ぼんだらー」
 ついじいちゃんの歌を口にしながら、僕はユリエの家の近くまで歩いた。今日は最初からユリエを迎えにいくはずだった。不意に、じいちゃんのことを思い出してしまい、足がそちらに向かってしまった。
 すでにユリエは、家の前で僕を待っていた。
「決心ついた?」
ユリエが僕の顔をうかがう。
「うるさいな」
「今日でしょ、留年予定者のガイダンス。意地でも連れていくから」
「カノジョでもないくせに、余計なお世話だよ」
 上がり続ける気温に、僕はいっそう苛立ちを覚えて嫌味を言った。暑い。ホームが快適な室温だったからなおさらだ。
「そうだね。だけど友達の立場でも連れていくよ。友達なんだから。ほら、歩く歩く」
 ユリエは僕の背中を押す。
 汗で透けているTシャツに触れられるのが恥ずかしくて、僕は思わずのけぞった。
「照れちゃって」
 その笑った顔に、ばっさり短くした髪がよく似合っていた。ユリエは恋人じゃない、ガイダンスなんて必要ない。そもそもなぜ、僕を連れていこうとするユリエを僕が迎えにいかなきゃならないんだ。言いたいことが、ユリエの顔の前で立ち消えする。
「......なあ、オニノヒってなんのことか知っているか?」
 仕方なく歩き出した僕は、呼吸する度に肺に溜まる熱気にうんざりしながら、ユリエに聞いた。
「オニノヒ? 記念日かな? オニノヒ、オニノヒ......。あっ、ほおずきのことじゃない?」
「なんでまた」
「ほおずきって、赤鬼のオニに街灯りのアカリっていう字を当てるのよ。他に難しい字でも書くけど」
「鬼の灯りってことか」
「ほおずきがどうしたの?」
「え、ああ、いやなんでもないよ」
栄八じいちゃんの歌は、小僧とほおずきのことを歌っていた。僕になにか伝えたかったのではなく、独り言だったのだろう。
「ねえ、ほおずき市にいかない? 急に思いついちゃった。あちこちのお寺で開かれているけど、私は深大寺がいいな。ね、決定」
 ユリエは勝手に決めて、スマートフォンで交通アクセスの検索を始めた。
「おい、ガイダンスはどうするんだよ」
「あらら、急にいく気になったの? 今日のガイダンスは夕方からだよ。あ、うん、そんなに時間はかからないみたい。じゃあ出発」
 ユリエの勢いに押されて、僕は流しそうめんみたいな気分になった。ユリエは涼しい顔で、僕と並んで歩く。
 僕は幼い頃は札幌に住んでいたが、ユリエは生まれてからずっと東京だ。別に東京のせいではないけれど、すごく東京の匂いのする人だと感じていた。僕がユリエの近くでぶらぶらと中途半端な態度をとるのは、ユリエがいつも僕の一歩先にいる感覚で、その距離を縮めるのが怖いからなのかも知れない。
 それから深大寺にたどり着くまで、僕たちはなぜか今後の進路以外の話ばかりした。
 熱に浮かされた街や人々をくぐり抜け、深大寺のほおずき市の会場入口までやってきたとき、さすがに息が切れた。
「『ほおずき祭り』なんだね、お祭りとか縁日って、本当に久しぶりよ」
 ユリエが頭上の大きな提灯を指差して笑う。
「ああ」
「まだ歩ける?」
 ユリエが冗談めいて言う。
「当たり前だろ。じいちゃんが施設で暮らしているんだけど、お土産にほおずきを買っていくよ」
「いい孫ね」
「良く思われたいだけさ」
「そうね、そんなものだわ」
 可笑しくないのに、互いに苦笑いをする。
 さっそくほおずき選びで出店を回ったが、ユリエはやたらはりきって即決しない。
「どれもきれいじゃないか」
 僕は最後の店のほおずきをお土産にしようとした。特に僕の目をひいたそれは、濃い朱色でぷっくりふくれた実が印象的だった。
「ねえ、見て。『鬼行燈』って書くのね。今、気づいたわ」
 ユリエが出店ののぼりを見て言った。
「本当だ」
「嫌だ、変なこと思い出しちゃった。おばあちゃんの話。ある夜、家に帰るはずが道に迷って、いつの間にか鬼がいる門の前に立っていた。鬼は『おまえの命の灯りだ』だと睨みながら行燈を目の前に置いて、鬼問答をするんだって。鬼に勝てば門が開いて行燈を渡される。負けたら......」
 ふと、じいちゃんの声がよみがえる。
 鬼の灯消えたら、帰れない。
 栄八じいちゃんは、僕にこう言ったのだ。
「どうしたの?」
 ユリエが僕の顔をのぞきこんだ。
「負けたら、行燈の灯が消されて、帰れなくなるんだろ」
「そう。なんで知っているの?」
「話の流れで、予想はつくよ」
「おばあちゃんは帰ってこられたそうよ」
「ええ? おばあちゃんの実話なの?」
「好きな人と婚約していたのに、家のために違う人と結婚を決めた、その夜の出来事だったって言ってた」
 ユリエは真面目な顔で記憶をたぐっている。
「どうして帰ってこられたんだ」
「どうしてだと思う?」
「わからない」
「鬼になにを聞かれたか忘れたけれど、『私は帰れなくていい、戻っても辛いだけから帰りたくない』って言ったそうよ」
 そのときだった。
ユリエも出店もすべてが消えて、僕と深大寺の広い景色だけが広がった。
 学生服姿の男がぼんやり現れ、僕を見た。古い写真の中から抜け出たような姿。
 すると、僕の横を女の子が通り抜けた。
 彼が見ていたのは僕ではなく、彼女だった。
「じいちゃん」
 僕が声を漏らすと、幻は一瞬揺れて消えた。
「またぼんやりして。ね、このほおずきに決めない? きっとおばあちゃんの作り話なんだから気にしないで」
 ユリエが僕の腕を突っついた。
 我に返った僕は、ユリエが選んだほおずきをじっと見つめた。
「君のおばあちゃんの他にも、鬼問答を受けて帰ってきた人間がいるよ。たぶんね」
 ユリエは僕の言葉に首をかしげる。
「大学辞めたら、僕は鬼に呼ばれて、帰ってこられないだろうな」
「だから、作り話だってば。変な人。学校中退しないって、素直に言えばいいのに」
 そうか、素直じゃないか。僕はユリエにも大学にも追いつけない自分自身を、本当に捨てるところだった。
「母さんにも贈ろうかな。昨日、悪いことしちゃったからな」
「じゃあ、仲直りできるようお参りしようよ。私は縁結びの願掛けする」
 僕はそんなヤツいるんだ、と思わずつぶやいてしまった。それを聞いたユリエが笑う。
「そう、鬼が怖くて大学辞めるのを中止した不思議な男とね、縁結びのお願いするのよ」
 鬼行燈が、僕の一歩先を照らした気がした。
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<著者紹介>
山田 夏蜜(北海道札幌市/34歳/女性/自営業)
 深大寺の境内になんじゃもんじゃの木がある。この名前を聞くたびに、僕にはよみがえってくる懐かしい思い出がある。
 中学校から中高一貫教育の学校に通い始めた僕は、京王線を使って通学していた。柊子に気づいたのは電車通学を始めてまだ間もないころで、明大前まで行く僕は車両の中ほどに、つつじヶ丘で降りる柊子はドアの近くに立っていた。
 六年間、同じ時間の同じ車両を使い続ける生徒はそう多くはないだろう。でも、僕は始業のきっちり二十分前に学校に着くこの電車に乗り続けた。僕は融通のきかない、目立たない生徒だった。毎日同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、律儀に学校に通っていた。
柊子にも、几帳面なところがあったのだろう。やはり六年間同じ電車を使い続けた。
 一言も交わさないまま同じ車両の同じ扉付近に乗り合わせる日々に変化が起きたのは、中学三年の初夏のことだ。野球部員の数が足りなくて都大会に出場できないからと助っ人に駆り出された僕は、朝練のため一か月以上もこの電車に乗ることができなかった。地味で目立たない僕だが、どういうわけか運動神経だけは良かったのだ。試合に負けた翌朝、電車に乗ってきた柊子は、僕を見つけておや?というような表情を見せ、近づいてきた。
 「どうしたの? 南の島にでも行ってた?」
 何の前触れもなく、柊子はそう聞いた。後から知ったことだが、僕がこの電車に乗らなくなったわけを柊子なりにいろいろ考えていたらしい。最初は病気にでもなったかと思ったそうだが、真っ黒に日焼けした僕を見て、考えを変えたのだろう。理由を説明すると、柊子は「らしくないことするのね」と白い歯を見せていつもの定位置に戻っていった。
 この日を境に僕の心の中での柊子の存在は大きく変わった。
 この時の会話を、その後、何度僕は思い返したことだろう。想像の中の僕は何十通りもの気の利いた言葉を吐き、柊子を笑わせた。だが現実には、僕はまだ自分の名前も告げず、柊子という名前も知らないままだった。それでも、柊子が僕のことを気に留めていてくれたと知ったことは僕の胸を熱くさせた。思い返す度に喜びと切なさが胸を締め付けた。 
 短い会話は大きな進展にはつながらなかったが、二人の関係をわずかに近づけた。東府中から乗りこんでくると、柊子は視線を僕に向け、かすかに顎を上げる。それが柊子の挨拶だ。僕は僕で見えるか見えないかくらいに頷き返す。ごくまれに柊子の気が向けば、近づいて話しかけてくることもあった。それは、自宅から駅に向かう道で獰猛なカラスに襲われかけたとか、行き合った小学生のランドセルが珍しい色だったとか、本当にたわいのない事だった。僕は、ぼそぼそと答え、そのあとで、状況を反芻しては気の利いた返事を幾つも思いついた。
 同級生の村岡大吾が同じ電車に乗ってきたのは、高校に入学してから間もなくのことだ。
 大吾とは中学でも二年間同じクラスだった。活動的なグループに属していた彼と僕との間には接点はなかったのに、僕を見つけると、親しげに声をかけてきた。そして、それ以来同じ電車を使うようになった。聖蹟桜ヶ丘から僕、府中から大吾、そして、東府中から柊子が乗る。柊子は、僕が僕らになっても、いつものように軽い挨拶を続けた。
 「あの東府中から乗ってくる子、お前とどういう関係?」
 一緒に通学するようになって間もなく大吾はそう尋ねた。関係という言葉に少したじろいで口を濁したが、大吾はしつこく訊いてきた。僕は仕方なく、これまでのことを話した。
 「お前ら、三年も同じ電車に乗り合わせていて、そんな関係? おかしいんじゃねえ?」
 大吾はそう言って目を丸くした。あんなにかわいい女の子に声をかけられて何もしないなんてと大吾は言った。言われてみれば、柊子はずいぶん美しくなっていた。毎日見ていると変化には気づきにくいが、子供っぽさが抜け、顔立ちがすっきりと整ってきていた。
翌日、大吾は僕を引きずるように入り口まで連れて行き、柊子に声をかけた。相手にされる筈がないと思っていたのに柊子は笑顔で答えた。こうして、三人での通学が始まった。
 大吾は軽いやつだが、バカではなかった。僕よりも世界が広く、話題が豊富だったので、僕たちは結構楽しく一緒の時間を過ごしていた。ほとんどの場合、会話は柊子と大吾の間で行われ、僕は頷くばかりだったけれど。
 深大寺に行こうという話になったのは、その年の秋のことだった。テレビで紹介番組があったのだが、柊子の学校からは近いのに行ったことがないという話になり、大吾がそれなら三人で行こうと言い出したのだ。
 十一月の日曜日、調布の駅で待ち合わせることになった。そこからバスが出ているのだ。
 当日になって、僕は急に怖気づいた。柊子は大吾と二人だけで行きたがっているのではないかと心配になってきたのだ。僕の顔を見たとたんにがっかりする柊子の顔が目に浮かんだ。楽しく語り合う二人の後ろをぽつんとついて行く自分の姿も容易に想像できた。僕は大吾に連絡をして、風邪を引いたから行けないと伝えた。
 翌朝の電車で二人は楽しそうに深大寺の話をした。参道の紅葉がことのほか美しく、思ったより人出が多かったこと、名物のそばを食べようとしたが、高校生には少し高かったので、早めに引き上げて調布のマクドナルドで遅い昼食にしたことなどを僕に報告した。深大寺そばは名物で絶対おいしいというから、今度は一緒に食べようねと柊子が言った。
 黙って聞いていたけれど、二人が話さないことを、実は僕は知っていた。家でうじうじと二人の姿を想像しているうちに、やっぱり我慢できなくなって、深大寺まで二人を追いかけていったのだ。薬を飲んだら調子が良くなったと言い訳をするつもりだった。
 遅れたのは一時間ほどだっただろうか。本堂の前で二人を見つけた。柊子は読み終わったおみくじを細長く折っていた。大吾がそれを取り上げると、怒ったふりをして大吾を追いかけ、横にある木の前でそれを取り合った。まるで恋人同士がじゃれあっているような様子に、僕は声をかける勇気が出なくて、そのままその場を去った。敗北感が胸を浸した。
 三人での通学はその後もしばらく続いたが、僕の中では何かが変わってしまった。しゃべらないのは相変わらずだったが、それまでの満足感に満ちた沈黙は僕の喉元で冷たい塊になり、素直に出せていた笑顔が欺瞞でしかなくなった。それでも、僕は暗い心を抱えたまま、同じ電車に乗り続けていた。
 ある日大吾がこの電車に乗ってこなかった。休みかと思ったが学校に行ったらすでに教室にいた。それ以来、理由も言わずに大吾はこの電車に乗るのをやめた。何故か僕は、柊子と大吾が本格的に付き合い始めたのだろうと思い込んだ。
 大吾が乗らなくなって暫くは一緒に入り口近くに立っていたが、やがて、いつの間にか元の二人の定位置に戻っていった。二人だけでは話が弾まず、沈黙を抱えて並んでいる時間は重く長いものだったから。僕たちの関係はまた中学時代に戻った。あるかないかの会釈を交わし、知らない者同士のように離れて立つ。中学時代と違うのは、柊子から話しかけてくることがなくなったということだった。
 「俺は、人の女には手を出さないの。そういう主義だから」
 大吾が、柊子がどうしているかと僕に尋ねてきたのはそれから一月ほどたったころだっただろうか。びっくりして聞き返すと、大吾はそう謎めいた言葉を残した。だが、大吾が何を言わんとしているのか、その時の僕にはわからなかった。僕は黙って電車に乗りつづけ、柊子への持っていきようのない思慕を心の中に閉じ込めていた。
 そのまま時は瞬く間に過ぎて、卒業の年を迎えた。高三の三学期は短い。二月に入ると、受験に備えて自宅学習になるからだ。僕の通学生活もそろそろ終わろうとしていた。
 「深大寺に行かない?」
 電車の中で柊子が声をかけてきたのは一月のよく晴れた朝だった。僕はそれまで六年間皆勤を続けていて、あと少しで卒業式の壇上で表彰されることになっていた。でも、どうして僕にその誘いを断ることができただろうか? 僕らは調布で電車を降り、バスに乗った。
 冬の深大寺は朝が早いこともあって静かだった。参道の木々は葉を落としている。秋の賑やかさとはまた違う、寺院らしい静けさと落ち着きを感じさせた。柊子は勝手知ったる様子で山門をくぐって歩いて行き、本堂の横にある裸木の前で足を止めた。大吾とおみくじを取り合っていた、あの木だ。
 「これね、なんじゃもんじゃの木っていうの。煮え切らない感じが誰かさんみたい。なんじゃもんじゃ、なんじゃもんじゃ...」
 うたうようにそう言って、柊子は僕を見た。
 「なんであの日来なかったの? ここは縁結びのお寺なんだよ。だから柊子も来たのに」
 柊子の言葉の意味を探りながら、僕は青空に腕を広げているその木を見上げた。
 「告白なんてできない人だってわかってる。だから、代わりにこの木に答えてもらう。誰かさんが柊子を好きなら、柊子が『なんじゃ』って言ったら『もんじゃ』って答えてくれるはず...」
 そう言って、柊子は僕に背を向けて木に近づいて行った。そして、幹に唇を近づけると小さな声でささやいた。
 「なんじゃ?」
破裂しそうなほど高鳴る胸の鼓動とともに、僕の喉元で答えが大きく膨らんだ。

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<著者紹介>
成田 信織(神奈川県川崎市/56歳/女性/講師)
調布の深大寺周辺はまだ緑が色濃く残っていて住みやすいところだ。そこの小さな林のかたわら、80坪ほどの畑が僕のお気に入りの場所。そこで農作業に没頭しているといろいろな雑事やストレスが汗とともに流れ出してしまう。しかし会社の友人には変人扱いされている。なぜ好き好んで休みの日に農作業なんだと。もっとほかにやることがあるだろう。パチンコ、マージャン、ゴルフとか。なんておまえは付合いが悪いんだ。
でもこれだけはやってみないとわからない。四季折々の変化のなかで太陽の光を浴びながら土に働きかけることのすばらしさ。今は逝ってしまったがこの畑を残してくれた親父とお袋には大いに感謝している。こんな週末農民状態だから彼女いない歴がずっと続いていて、数年前に30歳を越してしまい、内心ではすこし焦っているのも事実なのだ。
冬の農閑期は寒起こしの時季だ。凍てつく土をスコップで耕しておくと寒さで有害な虫や雑菌が全滅し、土が粉々に粉砕されるのだ。
ひとつきほど前から作業中、チ、チ、チという鳴き声が気になってはいた。
「いったい何の声なんだろう」
そのうちに声の主を発見した。それはまるで生きている宝石のようだった。僕の周りをチョロチョロと甲斐甲斐しく動き回って土を啄んでいる小鳥。大きくてチャーミングな瞳。
「なんて可愛くて愛くるしいんだ」
英語に「FO0L IN LOVE」(恋に落ちる)という言葉があるが、その姿を一目見て、僕のハートにはするどい矢が突き刺さってしまったのを実感した。
その美しさは、孔雀やインコやカワセミとは異質の、ある種の素朴さを秘めたものであった。それは小鳥の色と仕草にあった。
茶色のような、オレンジ色のような、ほんとうに暖かそうな色。背中付近にみられる左右の白い斑紋。いつも尻尾を振りながらの愛嬌のあるお辞儀。たまらなくキュートなのだ。 
最近では1mほどの至近距離から、私の掘り起こした土を、尻尾を振り振り、じっと観察するようになっていた。そして急に僕の足元に着地して虫を啄んでいったのだ。
「ははあ、虫をねらっているのか」
まとわりつく理由を理解した僕は、そのときから虫を小鳥に放ってやるようになった。カブトムシの幼虫やら、その他の虫などをせっせと放ってやった。根っから人見知りしない性格なのか、さかんに尻尾を振りながら感謝の気持ちをあらわすチッチ。
僕はいつのまにかその鳴き声から勝手にチッチと名づけてしまっていた。
時には幾度掘り起こしても虫が出てこない。焦れば焦るほど発見できなくてもチッチは健気にいつまでも待っている。素直で我慢強いのでなおさらいとおしい。待っている間も、チ、チ、チと小鳥語で歌を口ずさんでいる。
最近では畑に生ゴミを捨てに行ったときでさえ、その可憐な姿を現すようになった。
ある日のこと、今日は姿を見せないなと、幾分がっかりしていた。でも気になるな、たまに周りを見回してもいない。しばらくしてちょっと一息入れようとふと顔を上げると、チッチがじっと僕を見ていた。
「なんだ来てたのか。鳴き声がしないからわからなかったよ」
僕はうれしさのあまり思わずそう話しかけてしまった。それはまさにごく親しい人間にいつもの調子で自然と語りかけたように。
そんな自分の行為に苦笑していたら、するとどうしたことだろう。
「遅くなってごめんなさい。ちょっと神代植物園のほうに行っていたの。なかなか虫が見つからないの。あっ、そうそう、いつもたくさんの虫をありがとう。感謝しているわ」
なんとやさしくささやきかけるような声が聞こえてきたのだ。僕は自分の耳がどうにかなってしまったのかと驚いてしまった。
「どうして君の声が聞こえるんだろう、今まではチ、チ、チしか聞こえなかったのに」
「あら不思議に思わなくてもだいじょうぶよ。お母さんが前に話していたわ。心と心が通じ合えば自然と生き物同士は理解し合えると。私たち、きっと、心が通じ合った証拠よ、私うれしいわ。あなたはどうなの」
「あっ、そうなんだ。なぜか小鳥に教わってしまったな。でも考えてみると人間なんかより本当のところは小鳥などの小動物のほうが心がすごく豊かなのかもしれないね」
「私は親切な人に出会えてよかったわ。近くに住む友達、ああその娘とはいっしょに渡ってきたのよ。いつもおなかをすかしているそうよ、ほんとうにいつもありがとう」
「どうせ農作業のついでさ。もっとたくさんあげられるといいんだけれど」
「充分よ、おかげさまで太ってきちゃったわ。これ以上太るとうまく飛べなくなるわ」
「へえー、そうなんだ。ところで君はどこから来たの。遠いところ」
「そう、遠いわ、シベリアよ。ここから何千キロも離れているわ、バイカル湖で知ってる。シベリアの真珠と呼ばれているわ」
「シベリア・・・そこは寒いところなんだろう、話にしか聞いたことがないけれどね」
「そうよ、冬は雪と氷の世界よ、ここも今は冬なんでしょうけど、これはシベリアでは夏のような陽気よ」
「そう、ここはシベリアでは夏の陽気なの」
「そうよ。バイカル湖は完全に凍ってしまって車が通っているわ。輝く透明な氷よ」
「へえーそうなんだ。行ったことがないから知らなかったよ」
「そうよ。とてもきれいなところよ。私のふるさとよ。でもここもとても素敵な場所よ。私はここが気に入ってしまったわ。ずっとここにいたいけれどそれはかなわない夢だわ」
「どうして・・・これから暖かくなればいくらでも虫をあげられるよ」
「私もいたいけれど宿命なのよ、渡り鳥の」
ふたりはずっと昔からの知り合いのようにとりとめのない話を、時間を忘れて続けていた。そのあいだじゅう、ふたりの心は幸福感で満たされていくのを感じていた。
急にチッチがあわてながら話した。
「あっ、いけない。楽しくて時間を忘れていたわ。暗くなってきたわ。あぶない、夜行性の鳥にねらわれるわ、またね、さようなら」
チッチは急に飛び去っていってしまった。
なんて素敵な出会いなんだと僕は最高に胸がワクワクして幸せ一杯だった。
会話の中でチッチに教えられたことはたくさんあった。チッチはジョウビタキという種類であること。鳴き声が僕にはチ、チ、チと聞こえるが、一般的にはヒッ、ヒッ、ヒッ、と聞こえて、それが火打石の音に聞こえるから、火焚きすなわちジョウビタキという名前がついたという。
「よし来週が楽しみだな」
それから畑で何回も、チッチと僕の楽しくてしびれるような週末デートが繰り返されていった。僕は完全に夢中になってチッチのとりこになってしまっていた。チッチのことを考えると胸がキューンと痛んだ。
3月が近づいたポカポカ陽気の日曜日、僕たちはいつものようにデートを楽しんでいたが、心なしかチッチの元気がなかった。
「なんか元気がないね、どうしたの」
僕が心配そうにたずねると、チッチが悲しそうに、いつもより小さな声でささやいた。
「もうこれで会えなくなるわ。来週には飛び立たなければいけないわ、北へ・・・ふるさとに帰らなければいけないの。悲しいわ」
「あっそうだ、忘れていた、もうすぐ春だね。やっぱり行かなくちゃいけないんだね」
「そう、私たちは暑さがにがてなのよ」
「なんか残念だな。絶対にここに残ることは無理なんだね」
「そうよ無理なのよ、死んでしまうわ。渡り鳥のおきてなのよ。なんかの童話で読んだことがあるでしょう。ほらツバメさんの話よ」
「ああそうだね。貧しい人に純金や宝石を届けていたツバメが、冬が来ても頑張っていたら死んでしまったね、そんな話だよね」
「それよ、私たちはその逆だけれどね」
「もう何日かで行くのかい、今日で最後かい、まっすぐシベリアに向かうのかい」
「ううん違うの。ここでいう桜前線みたいに少しずつ北に向かうのよ。これから東北地方に向かうのよ、次は北海道」
「えっ、もし海で疲れたらどうするの」
「何か浮かんでいるもので休むのよ、でもあなたにたくさんごちそうしてもらったから体力は十分よ」
「そうか行ってしまうのか、もう会えないのかな、残念だな、さみしいな」
「ううん、そんなことないわ、十二月にはまた来るわよ、絶対よ、それまで待ってて」
「なんか僕も鳥になっていっしょにバイカル湖に行ってみたいよ。または君が人間の女の子に変身するということはできないのかな」
「あら、あたしもそれを考えたけれど無理だわ、見果てぬ夢ね・・・残念だけれど」
「僕たち、人間なら人間、小鳥なら小鳥と、同じ生き物に生まれていれば良かったのにね、神様は不公平だな、別れたくないよ」
「・・・ありがとう・・・あなたに会えてほんとうによかったわ、そして約束するわ、絶対に無事にここに戻ってくるわ、それまで、元気でね。さよならは言わないわ・・・」
僕も何か言おうとしたけれど、チッチの瞳には涙が光った気がしたので詰まってしまったら、さっと飛び去ってしまっていた。
僕はしばらく呆然と立ちつくしていたが考えてみれば9ヶ月なんてすぐだと思い直した。
夏の日の恋は必ず破れるというジンクスがあるが、僕は根っからの楽天家なので、逆に冬の日の恋は絶対に破れないと思った。今日は早く家に帰って、チッチが無事にバイカル湖畔にたどり着けるように祝杯をあげよう。
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<著者紹介>
佐怒賀 淳(埼玉県秩父市/56歳/男性/教職員)
 吉祥寺マルイ前のバス停でふたり並ぶと、一か月ぶりに会う彼女が一回り小さくなったような気がした。彼女が就職して、丸二か月。お節介な連中の「学生と社会人の組み合わせはねえ......」などという言い草に、へらへら笑えていた頃がずいぶん昔みたいだった。
「今日は誘ってくれて、ありがとね」
 僕は曖昧に頷き、見たくもない空を仰ぐ。ついで「痩せたんじゃない?」と投げると、脇よりただ口角を上げられるのだった。
「けっこう遠いんだっけ?」
「こっから三十分ぐらい」
「吉祥寺の大学に四年も通ったのに、深大寺はとうとう行かなかったもんなあ」
「俺はあと二年近くモラトリアムだけど」
 僕が語尾を伸ばしても、彼女はもう笑わない。耳にかかる黒髪で卵形の輪郭をぼかし、長い睫毛ばかり際立たせた。小田急バスの運行間隔が、思いのほか長かった。
          *
「あたし、きみたちの歌が好きみたい」
 そんなふうに声をかけられたのが去年の九月だった。僕が二年で、彼女は四年だった。
 僕はその日も大学の授業を抜け出し、井の頭公園で数少ない友人とラブソングを歌っていた。プロになりたいなんていう野望は露ほどもなく、ただ大声を張り上げていれば楽しい頃だった。
「曲がいっぱい書けるといいんですけど。あんまりないんですよ、オリジナル」
「今日はもうおしまい? もう一曲ぐらい聴いてみたいなあ」
 僕は相棒と顔を見合わせ、「じゃあ、なんかカバー?」なんて、アコースティックギターの側板を拳骨で小突いた。
「何かリクエスト、あります?」
 彼女は顎に右手を乗せ、傾きながら数秒考えるふりを装う、ふう。
「ま、言われても、できませんけどね」
 僕がそう継ぐと、彼女はおかしそうに頬を膨らませた。
 結局、僕と友人はビートルズの「レット・イット・ビー」に即興で日本語詞を乗せ、カバーならぬ替え歌にしてしまった。サビ部分のみ「なるようにー、なるさ」なんてまとめると、歌いながらまんざら悪くない気さえしてくるのだった。
 彼女は曲のリズムに合わせ、遠慮がちに撫で肩を揺らしていた。その背景の空色が、絵の具を薄めたような淡さで、ずいぶん向こうに貼りついていた。
          *
 辿り着いた終点が「深大寺」だった。僕は高地の空気をうやうやしく吸い込み、目線を背景から目下の恋人に戻した。
「ふうん」とおちょぼ口を尖らす彼女は、周囲に散る年配者になど目もくれない。右も左もわからぬくせに、僕に添わず歩いていた。
「おそばが有名なんだっけ?」
 僕は「らしいね」と返し、「らしい?」とまた返される。門前に連なるそば屋を物色するうち、彼女にすっかり先導されていた。
「ラーメン、好きだったよね?」
「今も好きだよ」
 言いながら、僕は甘えているのだとも思う。「そして、そばも嫌いじゃない」
「まあまあ、好きかもしれない?」
「好きかも的な?」
 僕がおどけると、彼女はあらぬ方角を見て吹き出す。
「コウのいいトコだね、そういうの」
「名前呼ばれたの、久々かも」
 彼女の右肩が上がってから緩むのを、僕は有り体に流してやった。
「あたし、まだお腹空かない」
「いいんじゃない」
「何が?」
「どっちが、どっちでも」
「コウの悪いトコだね、そういうの」
 薄手のカーディガンに象られる肩が、勢い僕に斜めを向いた。
 そのまま奥の本道へ進み、二人して砂利を踏んだ。賽銭箱の前に並び立ち、僕はひとまず手を合わせた後、左隣の長い祈りを見守った。
 後方へ下がるなり、二百円のおみくじを引き、「吉」ともらう。神曰く、「人を許し、自戒すること」。その紙を陽光にかざすと、目が壊滅的にやられそうだった。
「そっちはどう?」
「あたしのはけっこう悪くないっぽい」
 彼女は自分のおみくじを早々に木の枝に結びつけ、やおら右手で庇を作って上向くのだった。
「そうそう、深大寺は縁結びでも有名なんでしょ」
 僕は「らしいね」の代わりに、「知ってる」と返した。
「あたしたちの場合、どうなんだろう?」
「どうって?」
「〝縁結び〟って枠に、該当すんのかなあって」
 僕は「どっちでも」の代わりに、「そりゃあねえ」などと濁してみた。
「あたしたちってさあ――」
 鋭角になった彼女の両目が、広すぎる中空を泳いでいた。
          *
 彼女が就職するまでの半年間、僕らは毎日のように会っていた。彼女は彼女で卒業単位をほぼ取り終えていたので、僕らの足は揃って大学のキャンパスから遠のくこととなった。
 井の頭公園を挟んで互いのアパートを行き来し、気がつくとしょっちゅう日付を跨いでいた。
「コウは何がしたいとかってあるの?」
 何度「ない」と答えても、決まって寝起きの朝に彼女からそう聞かれた。
「そりゃあ、全くないことはないけどさあ」
「ないことも、なくもない?」
 僕は彼女の淹れてくれるコーヒーが好きだった。彼女の部屋のキッチン脇には、常にコーヒー豆が二袋ずつ五、六種類並んでいた。
「でも、俺、思うんだけどさ」
 寝覚めさえ良ければ、会話にしてやらなくもなかった。「ハタチそこらでさ、〝やりたいことはこれです〟なんて決めちゃってるほうが怖い気するんだけど」
 聞き手はたいてい笑わない。
「コウは評論家なの?」
 そうして僕は中腰で卓上を小突かれ、口ごと噤まされた。浄水機能付きのコーヒーメーカーから、ほろ苦い香りが漫然と漂っていた。
「偏屈な表現者のほうが全然カッコいいよ」
 彼女は耳にかかる黒髪を左手で掬い、白い頬とのコントラストを存分にきかせた。
 僕はマグカップに注がれる泥色の液体を眺めていた。新しい曲が作りたかった。
          *
「あたしたちってさあ――」
 彼女は僕の背中を柔な両手でしっかりためてから押した。僕は両足を踏ん張ることなく、そのまま二歩三歩と投げ出されてやった。
「ねえ、もうちょっと一緒に歩いてもらっていい?」
 そんなふうに零され、素直に喜ぶ自分が滑稽だったが、同時にそんな自分も嫌いじゃなかった。
 促されるまま本堂脇の坂道を上りきり、神代植物公園へと辿った。入園料の五百円を払うと、僕の二つ折り財布にはもう千円札が一枚しか残らなかった。
 雑木林に潜り、芝生広場へ抜け、簡易な売店で水を買う。空気が向こうの向こうまで澄んでいた。木のベンチに並んでかけると、そろそろ肝心なことを話さなければならない気がした。
「会社って楽しい?」
「楽しくはない」
「会社で働くのって大変?」
「やっぱりバイトとは違うよ」
 僕は空を見ながら質問した。彼女の顔など、見なくてもわかる気がしたし、見なければわからない気もした。どうでもいいことと肝心なことが、乖離しつつ密着していた。
「そっちから見ると、俺はまだガキかなあ」
 照れ隠しに上げた語尾を上げきらぬうち、隣から「そうね」ともらう。目線を一瞬下げると、スキニージーンズの膝小僧が今さらこちら向きになった。
「俺、回りくどいの、ヤだからさ。たぶん、もうダメなんだろうなっていうのもわかってんの。けど、フェードアウトみたいなのは、やっぱ寂しい気がしちゃうんだよね」
 僕は彼女の横顔を覗き込んだ。ただ、一拍。その鼻柱に陽光が絡む角度が潔かった。
「ねえ、新しい曲は書いてないの?」
 代わって彼女が上空を仰いだ。
「最近はけっこう書けてる。へこんでる時のほうが、創作の神が降りてくるっていうか――」
 僕は僕で、飛行機雲でも見つけたいと思いつつ。「ギター持ってくればよかったな」
「ここに?」
「うん、ここに」
 突然彼女に向き直られ、カーゴパンツの腿を「よし」などと叩かれた。僕はその乾いた音が水平な芝生に収斂するのを待っていた。
「あたしたち、っていうかさあ――」
 彼女はそんなふうに始める。「――まあ、あたしなんだけどね。けっこう諦め悪いんだよ。あっさりしてるふうに見られるんだけど」
 彼女はすでに腰を上げ、僕は「それって――」以降を継げぬまま固まる。恋人の小さなお尻が、僕から距離を取っていた。
「さあ、おそば、おそば」
 向こうむきの彼女の声が、それでもくっきりと通っていた。たぶん気のせいでなく、僕に伝えようとする響きがあった。 

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<著者紹介>
真弓 史郎(東京都練馬区/42歳/男性/会社員)

武蔵野の面影が残るこの植物公園に来たのは、これで二回目だ。初めて来たのは、たしか学生最後の秋だった。
シクラメンの花さえ知らなかった僕が、当時つき合っていた彼女にせがまれて、まだカーナビもついていなかった車で来た記憶がある。
「へえ、その彼女も花の名前だったんだ」
芝生の広場で、男の子の投げたフリスビーを目で追いながら、ユリが言った。
「そう、きっと花に縁があるんだよね」
「その割には全く興味ないじゃない。あーあ、花に詳しい人は教養が深いそうだけど...」
「まあ、無教養が僕のチャームポイントだから」
いつものたわいない言い合いを楽しみながら、五月の花々と穏やかな日曜日の日差しに包まれ、僕らは遊歩道を歩いていた。桜の木の下の若いカップルは、彼女の膝枕でうたたねを始めたみたいだ。
来月にひかえた結婚式のため、準備や打ち合わせでこのところずっと忙しく、春の花が終わる前に必ず連れて行くとの約束をやっと果たせた久しぶりのデートだった。
「彼女と最後に来た場所がここだったんだ...」
見覚えのある風景を眺めていたら、小さなトゲのささった痛みのような記憶がよみがえってきて、つい昔の話が口をついてきた。
「へー、どうして別れたの?」
ユリに聞かれて、僕は答えに窮した。別に恥ずかしいとか、ユリの機嫌を考えたとかじゃなく、本当にどうしてだったのか、僕自身にもよくわからなかったからだ。
「何でだったんだろうね、本当に」
「何それ?」
ふと僕は、ユリに聞いてみたくなった。女性として、彼女がどう思ってたのか、もしわかるなら教えてほしいと。
昔の恋人との思い出なんて、デートに最もふさわしくない話題だとわかっていながら、そんなことでケンカするほど僕らは若くもなく、ユリもちょっとしたミステリーを楽しむみたいに尋ねてきたので、僕は少しせつない思いに浸りながら、さくらのことを話し始めたんだ。
「よくある友達の友達ってパターン。僕の大学の学祭に遊びに来て、打ち上げに参加して、そこからつき合いが始まって、大学時代ずっと一緒だった。感情豊かで素直なんだけど、考え方はすごく冷静で、でも変に思い切りのいいところもあったりして...」
「へー例えば?」
「食事に行って何を食べるか迷うと、次の客が男ならパスタ、女ならドリアとか決めて、実際そのとおりにする、みたいな」
「へー」
「『迷う時間も無駄だし、運命は決まってて、踏ん切るきっかけが必要なだけ』っていうのが、彼女の口癖だった」
父親が地方の小さな会社の社長で、ちょっと育ちのいいお嬢さん的な感じがあった。花とアンドレ・ギャニオンとクロワッサンが好きで、グリーンピースと人ごみが嫌いだった。出逢った翌日に彼女から電話があって、翌々日には初めてのデートをしていた。
僕らはよく、中古のシトロエンで校外へドライブに出かけ、帰りに八王子の彼女の部屋に寄り、留守番をしていた猫とじゃれ合って遊んだ。
そう、僕らはケンカ一つしなかったんだ。
「卒業の年、僕は今の研究室に入ることが決まってたし、彼女も都内の出版社に就職が内定してた。お父さんの会社でちょっとゴタゴタがあったようで、彼女も何回か実家に帰っていたけど、深刻な状況だとは聞いてなかった」
「まあ順調だね、確かに」
「ここで最後に会った後、彼女に連絡がつかなくなって、翌月にはマンションも引き払ってた。友達に聞いたら、大学も辞めて、実家に帰ってお父さんの会社を手伝うことになったとか」
「じゃあ、帰った理由はわかってるじゃない? 家業を手伝うためでしょ?」
そう、わかってはいたさ。でもどうして、それが僕と別れることになるのか、わからない。遠距離だってつき合えるし、先々結婚して僕が会社を継ぐって選択肢だって、ない訳じゃない。
「実家の方に連絡は?」
「してない、できなかった」
「どうして?」
「だって彼女が決めたことだろうし、理由はよくわからないけど、結局僕は選ばれなかったってことだろうから、納得するしかない」
「それでよかったんだ?」
「よくはなかったけど...、しょうがない」

日が少し陰ってきて、人影もまばらになってきた頃、僕はふとあるシーンを思い出した。
「そうだ、ここだ、この場所で彼女に聞かれたんだ」
「聞かれたって何を?」
「『どっちの花を選ぶ』って聞かれた。確かこの花壇に真っ赤な花が咲いていて、さっきの道の脇には、白にピンクが混じってる花があった」
僕の指さす先に花はなく、まっさらな土に「サルビア」のプレートが立ててあった。そして来た道を少し戻ると、そこには多年草らしき草があり、「ホトトギス」というプレートがあった。
「花言葉なんて、もちろん知らないよね」
「花言葉があるのは知ってるけど、どの花がどんな意味なんて、全く知らない」
「たぶん、赤い花の方がサルビア、昔の歌の名前にもあったよね、花言葉は『家族愛』。それから白とピンクの方はホトトギス、鳥じゃなくてユリ科の花、花言葉は『永遠にあなたのもの』...」
僕は両方の花を頭に思い浮かべながら、あの時のさくらのちょっとさみしそうな横顔を思い出していた。
「つまり、家族と僕と、どっちを取るかってこと?」
「さあ、わかんないけどね、真実は彼女に聞かないと...。それであなたはどっちを選んだの?」
「...赤い花、サルビア...」
あの時僕は単純に、華やかで目を惹くという理由で、赤い花を選んだんだ。そして、さくらは僕の元を離れた。もしあの時ホトトギスを選んでたら、彼女は僕と別れなかったってこと?
「そっか、でもそういう運命だったってことだよね、つまり」
「ふうん、納得できたんだ?」

すっかり日が落ちて少し肌寒くなってきたので、僕らは植物公園を後にして、すぐ近くの古いお寺へ足をのばし、少し早い夕飯に名物の蕎麦を食べることにした。おいしい蕎麦を堪能し、食後の抹茶アイスを食べていたら、ユリが聞いてきた。
「じゃあ私も質問していいかな?」
「うん? 何を?」
「プリムラとキショウブなら、どっちを選ぶ?」
「えー、それまた花言葉なの? それで、選んだ花言葉によって、僕らも何か変わる訳?」
「だって、運命でしょ? 選択したのが運命なら従わなきゃね」
実はユリは腹を立ててるのかも。そりゃ確かに、昔の彼女の感傷的な話なんか聞きたい訳がない。ここは絶対外せないぞ、と僕は身を固くした。
どっちの花も全く知らない。プリムラの語感は明るい雰囲気だけど、いろんな呼び方があって、別名オニギクだったりして...、キショウブって菖蒲湯のショウブの仲間? だとすると...。
「さあ、どっち?」ユリは笑ってるけど、目はちょっと真剣だ。
僕は自分の勘に運命を託した。
「プリムラ」
「ファイナルアンサー?」
「うん、プリムラ、これで君を手放すならしょうがない」
しばしの沈黙の時間、ユリの反応があるまで、僕は1時間くらいの長さを感じてた。

「おめでとう、プリムラの花言葉は『運命を開く』でした」
僕は肩の力が一気に抜け、残っていたコップの水を飲み干した。
「あーよかった、心臓が止まるかと思った、今回は運命に見捨てられなかった。えーそれでキショウブの花言葉は何なの?」
「よく覚えてないけど『悲しい別れ』とかだったかな...。でも、もしそっちを選んでたらどうするつもりだったの?」
「えー、だって別れの運命だろ? 別れたくないけど、ユリがそうしたいって言ったらしょうがない...。でも良かったー、運命を信じて」
「そうか、じゃあ、まあ良かったね...」
ユリは微笑みながら、でもちょっとさみしそうな顔をした。僕は何かひっかかりを感じながら、それを言葉に出すのが不安で、ただ笑っていた。

家に帰ってから、僕はパソコンを開いて、花言葉を調べてみた。
「えープリムラ、キショウブ、ふうん、こんな花なんだ...」
ピンク色の華やかで大きな花弁のプリムラ、すらっとした葉で淡い黄色の花のキショウブ。
花言葉を調べると、プリムラは確かに『運命を開く』、そしてキショウブは『幸せをつかむ』。
あれ?『悲しい別れ』じゃない...。
そして僕は自分が間違っていたことに気付いたんだ。
ユリはどちらであっても、僕と生きることを決めていた。なのに僕は、運命ならしょうがない、なんて少しでも考えたから。
結婚は、幸せは、既に決まっていて変わらない運命じゃなく、意思で切り開いていくものだって。
もしかしてさくらは、僕が簡単にあきらめてしまったから別れを決めたのかもしれないし、自分の意思でつかまえようとしていれば、結果は違っていたのかもしれない。
僕は同じ間違いをもう一度するところだった。

明日、僕は朝一番に花屋に飛び込んで、キショウブの花を買うんだ。
そしてユリの元に届けよう。
「絶対に二人で幸せをつかむよ」って言葉を添えて。

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<著者紹介>
コカネサン(神奈川県厚木市/47歳/男性/団体職員)

 春先の午後だったと思う。風のある日で、芽吹いた若葉が日射しの下で嬉々とゆれていた。
 数年前まだ学生だった頃、私は山門の真下で人を待っていた。
 待ち人には一度会ったことがあるのだがどうしても顔が出てこない。肩口まで伸びた髪が頼りなく浮かんでいる。割と小柄な女性で身綺麗にはしている、と半ば強引に記憶をたぐり寄せるが後が続かず、遂にはあきらめ開き直った。
しばらくすると、バス停の方から重い枝葉の緑のアーチの下を早足にこちらへと向かってくるお嬢さんがひとり見えた。とかく若い娘が目立つ依然とした場所なのだ。待ち人である。顔に入ったモザイクはもうしっかりとれていた。多少緊張気味のこちらに反するように、平然とした面持ちで手を振ってきた。笑顔が見える。こちらもすぐに振り返した。
 この時の私には、残念ながら彼女を賛美する温情も余裕も持ち合わせてはいなかった。只々、なぜという疑問符が渦巻いていた。もちろん、そのメイクにも髪型にも服装にも、手間をかけ気を遣い、今日の日に合わせたというのは見てすぐにわかったのだが、その事実だけで、どうしてももうひとりのすらり美人を横に並べ、そちらを意識し満足して通り過ぎてしまっていた。
ゆくゆくはそちらの美人と懇意になることが私の望みであった。
その美人の友達である目の前の彼女とは先ごろの席であまり話をしていなかった。それを無理に深大寺まで呼び寄せたというわけでもない。勝手にこうなった。だから少々戸惑っているのである。
かと言って、決して彼女が美人の反対だったというわけではない。第一印象で、おまえはこっちだ、ともう一人の女の方に導かれてしまったのだからもうどうしようもない。不可抗力である。神様の悪戯心の前では誰でも従順にならざるを得ないとでも言おうか。突き動かされただけにすぎぬ。つまり悪気は微塵もなかったのだ。
すいません
 無知な若者の過ちと、君は可愛く許してくれますか。
 きっと許してくれた君の寛容さに私は自分の更なる醜態を次いで晒さねばならない。
 軽く挨拶を交わすと自然と山門の内側へ歩き出していた。お賽銭したい、と彼女が言い出した。
 途中、その口からちらとでも今日に至るいきさつ、なぜ君は友達が来られなくなったにも関わらず、延期せずに一人やってきたのか、を聞けるものだと踏んでいたが、特に触れない。表情には相変わらず屈託のない笑顔がつつましやかに乗っかっていた。
 ぼんやり腑に落ちなさを感じながらも、まあ焦ることはない、と自分に言い聞かせながら後をついて行く私であった。
常香楼で人のけむりを無雑作に浴び、置き去りにすたすたと本堂まで寄っていくと、腕に掛けた光沢のある茶色いバッグから財布を取り出し、おもむろに小銭を放った。
肩口まで伸びた彼女の髪が日射しを受けて、照り返すようなやわらかいブラウンが露わになった。風になびいてさらに煌めき遠くからでも目に刺さった。
私は後ずさりながら、菩提樹の下に移動し、ポケットからケータイを取り出すとカメラモードに切り替えた。
厳かに建つ本堂と、右手に屹立するムクロジの木と、そのもとで小さく手を合わす彼女とをフレームの中に閉じ込めて、シャッターを切った。そのまま画面越しに近づいていくと振り向きざまの相好がフレーム一杯に溢れた。
ここらへんからだろうか。凝り固まった心が徐々にほぐれ、同時に何か雲行きが変わり始めた。
ふしだら。こざかしい。お許しあれ。不遜にも、出会って五分足らずにヒロインの転向、という暴挙の兆しが見え隠れし始めたのだった。
何か御馳走したいという衝動に駆られ茶屋のほうに戻らないかと提案してみると、彼女は喜んで頷いた。砂利を踏んで、いったん釈迦堂の脇を抜けると、立ち並ぶ店先の賑わいに二人で交ざりながら一軒一軒見て回った。
彼女は並んだ商品すべてに興じた視線を送り、進み、佇み、後ずさり、と自由にやる。たまに私に説明や同意を求めようとちらと見上げてくる。私が答えながら何気なく両の目をのぞきこむと、うやむやに首を戻してうつむき、ひとり納得するようにつぶやいていた。
真横に並ぶと、シャンプーだか香水だかの甘い女の香りが際立ってくる。決して障りのない、ほのかに漂う芳香が、彼女に、らしさと清潔さを共に与えていた。
ゆるやかに鈍り、落ちていく自分を悟られまいと故意に活気を振りまき、うんちくなど垂れて澄ましこむ私に、彼女はいちいち感心してくれた。
それと併行して、景色や人並みをケータイに収めようと小気味よく動くのだが、その様がとても無邪気に映る。水車であったり、小さな地蔵であったりと足取りは軽快である。私も次いで軽快さを怠らない。その度に彼女の白いスカートが揺れていた。まるで高原の朝にかかる霧のように透けて波打つ生地の下から素朴な二本の脚が、白く生えていた。
当初、私の抱いていた本当の目的や彼女自身に対する疑問はもはや消滅しかけていた。たしかにもう一人の美人の影もちらつく。だがしかし、そんなことより手を伸ばせばすぐ届く距離にいるこの人のことを思いやるべきではないか。そもそも彼女に対し疑問を抱く必要などあるか。さして仲良くもない私のもとに、ひとりバスに揺られてまで会いに来たという現実をただ素直に受け止めればよいではないか。興味の無い相手にそこまで付き合う義理など皆無の関係なのだから。もう少し、もう少し踏み込めば結果は出るはずだ。形になって表れるはずだ。
足元のせせらぎに影の女を映して、そのためには冷徹であらねばと自分に言い聞かせた。
などと、都合の良い、浅はかな葛藤であった。
探索もひと段落し、二人は茶屋の店先に据えられた日除けの赤い傘のついたベンチに腰を下ろしていた。彼女は団子を、私はソフトクリームをそれぞれ手にしていた。
吊るされたいくつもの風鈴が、りんと弾け、情緒に満たされていく。流れる水の音がさらに添える。それとなく横顔を眺めるとそこにも情緒がある。可愛らしい。
ここが勝負どころだと見越して、私は距離を縮めようと悠々と構えた。学校のこと、家族のこと、さりげなくもう一人の彼女のことを織り交ぜてあれこれ質問した。とにかく深追いだけはしないよう気を配り、相手の表情を読み取ることに努めた。
彼女は、笑みを交え、時折団子を口に運びながら相槌を打った。こちらの問いにはためらいなく素直に答え、リラックスしているのがうかがえた。さすがに核心が見えるまでの返答には至らなかったが、私に不都合な情報も特に聞かなかった。
ようやく日も陰りだした頃、私の答えはもう出ていた。
彼女を誘って、生い茂る木々に埋もれた小さなベンチに二人で腰かけた。艶めいたもみじの緑が幾重に混じりあい、まるで天体に包まれているかのような贅沢感の中にいた。
彼女もおのずと見とれているようだった。
星の下で愛を語る。などという下品さをその時の若輩な私は臆面もなく信じ込む、うぶな男であった。だからといって、卒然と愛の告白が成立する流れではないことぐらいわかっていた。とにかくまた会う約束をなんとか取り付け、うっすらとでも自分の好意に気づいてくれれば、それで充分であった。
「なんか、いやらしいね」
 彼女の口からぽつりと出た。
 思わず耳を疑い相手に目をやると、笑みを浮かべてこちらを見返している。
 いやらしい、という響きが稲妻となって私に突き刺さった。いやらしいとはこの甘美な状況を指すのか、それとも二人の女を天秤にかけた我が愚行を指すのか、はたまたその両方を指し示しているのか、どれも判断がつかなかった。
「なんで今日来たの」
 あれだけ繊細に抑え込んでいた言葉が平然とこぼれた。落雷に遭い私の牙城がもれなく瓦解した模様だった。
「悲しいお知らせです」
彼女は正面を見据え、茶目っ気ありに言い放った。
 私はその先を聞こうともせず、化石のように黙った。
 身勝手なふたつの恋が同時に砕け散った瞬間だった。
 今思えばこの出来事は、自分の恋愛にまつわる些細な挿話に過ぎないが、それは刻印となって胸の中にとどまり続ける結果になった。
 あの日、深大寺に咲いた一輪の白い美しい花を、私は確かに見た。
 後に、その花を摘んで鉢に入れ、我が家に持ち帰ることが出来たのだから私は幸せである。
 白い花は今でも頑張って咲き続けている。
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<著者紹介>
小宮 隆児(東京都練馬区/40歳/男性/アルバイト)
夏の日差しに目を細めながら、見上げる木々の間に輝く空を見た。あの日、私はこの道で同じように生い茂った桜の葉を見上げたのか?いや、違う。私はこの道を歩かなかった。あの日は確かに約束の道を歩かなかったのだ。
 十九の夏、東京の大学に進学して来た彼から、連絡があった。三年ぶりの再会に心が躍った。転勤族の家庭に育った私は、多感な思春期を、彼の住む、のんびりとした地方都市で過ごすことになる。都会からの転校生は、学年中の注目の的になるものだ。転校慣れしていた私は、しばらくそんな窮屈な日々をやり過ごしながら、あたりを観察するのだ。私の目に飛び込んできたのが、少年時代の彼だった。家が裕福なのか、洒落た服を着せられ、体格も良くスポーツ万能な男子は、憧れの的だ。早熟だった私は、そっと見つめ合ったり、無視したりしながら、何年もの間彼の気持ちを弄び続けた。少年はきっとスポーツのことで頭が一杯だったろうけれども、間違いなく私の視線に戸惑い、恋心も募らせていくことになる。とはいえ、昔の少年少女だった私たちは、どうなることもなく、再び親の転勤で、私は三年前から東京に移り住んでいた。それなりに美しく成長した二人は、申し合わせたように恋をする。まだ携帯電話もない頃、親の目をかすめての逢瀬は、刺激に満ちていた。私は短大の代返を友達に頼んで、暇さえあれば彼のアパートに入り浸っていた。ごっこ遊びの延長は、甘ったるく暑苦しい日々だった。

 さっきタクシーを止めた、深大寺小学校正門の向かい側にあったアパートはすでになく、今では小奇麗な一戸建てが立ち並んでいた。趣のある小学校の石塀を右手に見ながら、深大寺東参道に入って行く。あの頃目に止めることもなかった景色が、私の心を妙に疼かせている。すっかり様変わりした街と、いつまでも変わらずにそこにあった風景が、混在し私に訴えかける。むっとした真夏の午後の風をまともに受けて、一瞬めまいに襲われたかのように、四十年の歳月が、私の眼の中で二重にぶれた。次々と蘇ってくる、若く気ままだった楽しいだけの暮らし。絵本の中の動物たちは、木々に覆われた緑の隠れ家へと向かうのだった。
彼と付き合いを始めて一年があっという間に経つ。いつものように、学校をさぼって彼のアパートに行くと、空っぽの部屋に、蒸し暑さと、死体のように凍り付いて動かない、想像を超えた何者かが、居座っていた。
「親父が死んだ。急いで帰る」走り書きのメモは私の手の中で石になった。それから私がどうしたか、思い出せない。ただ歯の根が合わないような震えと、じっとしていられない焦燥感だけは覚えている。生れて初めて味わった近しい人の死の感覚だったのだろう。年若かった私にとって、恐ろしい螺旋の中を落ちていくような日々は耐え難く、すっかり自信をなくして子供に戻っていた。
彼と連絡も取れないまま月日は過ぎ、やっと電話が来た日、彼は大学を辞め、実家の後を継ぐために東京を離れることを、私に告げた。「もし五年後、お互いに一人だったら、深大寺の山門で待ち合わせよう。僕の二五歳の誕生日の夕方に。その頃には、僕も今より大人になってるだろう。」そんなようなことを、方言を交えた口調で言ったのだ。私は電話口で、ただただ涙をこぼし、後から母に何事かと詰問された。何も答えることなく、暫くの間、呆けたように暮らした。
苦しい胸の内を切々と書き綴った手紙が、何度も往復した。しかし七五〇キロの道のりを五年かけて縮めてゆくことなんて、私には出来そうになく、哀しみを薄れさせることばかり考えていた。若さとは子供のように残酷だ。
私は短大を卒業し、小さなCM制作事務所に就職することができた。仕事は楽しかった。新しい世界が私の周りに開け、魅了した。何人もの男友達との出会いは、すでに悲しい恋を忘れるためでもなかった。その中の一人が娘の父親になり、私にも家族ができた。

右側の石垣が跡絶え、今度は左手に古い石垣が続く。路に影を落とす木々は、私と同じ年月を過ごしてきたのか。参道の両側に建ち並ぶ何軒かの蕎麦どころは、平日の午後にひっそり眠っているかのようだった。山門へと続く右手の明るい小道は、小さなお土産屋が並んでいてカラフルだ。私はそちらの路は通らずに、深大寺通りを、ゆっくり噛みしめるような足取りで歩いていた。持病となったリウマチが私の体の全ての関節をむしばみ、私を地面奥深くに埋め込もうとしていた。そんなことはたいしたことでもないと、自分に言い聞かせる。
あの約束の夏、私はここに来なかった。私の心の中で、すでに彼はほんの小さな痛みとしてしか存在していなかったからだ。そして今度は、本当に彼の希望を断ち切ったのだろうことにも、容赦しなかった。数日後、手紙が来た。誠実な文面に、少し後悔した。
「君の未来に僕が存在しないことは、ほんの少し、悲しいけれど、きっと正しい選択だろうね。僕はこれからも君を忘れることはないだろうけれど、僕の未来を創るために、君の力を借りることは、無いと思う。お互いに幸せになろう。でも一つだけ、僕の勝手な約束を、させて欲しい。これからそれぞれの道を正しく歩けて、何年か後、そうだ僕の六十歳の誕生日に、もう一度山門へ行くよ。それぞれの家族がいても、お互いに生きてさえいたら、逢って話がしたい。声を聞きたい。と、今は思っているよ。この手紙のことを、覚えていてくれることを、願っている。」

痛む足を少し引きずりながら、右手を見るとバス停の向こうに、山門が見えた。明るく賑やかな感じは、いつ見ても楽しげだ。あれから何度もここを訪れている。私にできた新しい恋人と。新しい家族と。その都度新しい思い出が創られてきた。自慢できるような人生でもなかったけれど、年を取るってこういうことかと、わかった気がする。何人もの近しい人との別れは、若くして父親を亡くした彼の想いを、わからせてくれた。ひとつずつ人の痛みを身をもって知ることは、有難いことだ。
まだ夕方には間がある。西に傾いた陽は、べたべたと私の肌に貼りついていく。もう少し先に、古くから営んでいる珈琲店があったはずだ。見えてきた。そこは本当の隠れ家のように、ひっそりと呼吸し続けていた。懐かしくて涙が出そうになり、深呼吸した。扉は躊躇うことなく私を迎え入れ、ひと時の涼を分け与えてくれた。変わらぬ昭和の風情を、代替わりした店主が、そのまま受け継ぐ美しさがそこにはあった。夕暮れが刻々と迫り、いざとなると私は尻込みしたくなった。今日彼が来る確率は、一体何%あるというのか。それぞれの仕事と家族としがらみの中で、自由な一日を獲得することは、意外と難しいものだ。だいたい何十年も前に出した手紙も、覚えているかどうか。ましてあの時私は返事も書いていない。つくづく優しくない女だった。だから、今日私はやってきたのだ。傷つけてしまった彼や、数々の秘密の責めを乞うために。  
M珈琲店を出て、道の向かい側へと渡り、夕陽に背を浴びながら山門へと向かう。私の歩みはさらに速度を緩め、今を味わうことに、唯一の救いを求めた。

その時、私を追い越す風が巻き上がった。濃いグリーンのその車のナンバープレートには、彼の住む町の名が刻まれていた。まさかと思ったその時、車のハザードランプが一度だけ点滅した。四十年がタイムスリップし、風景の色が一変していく。長い間胸につかえていた何かが、すぅっと通るような不思議な気分に襲われ、何年も走ることを忘れていた足は、羽のように軽くなった気がした。許しを乞う言葉も、私の辛かった人生も、むしばまれてしまった体も、そんなことはどうでもよくなった。
初恋の人よ。一緒に人生を歩むことはなかったけれど、素敵な約束をしてくれて、本当にありがとう。

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<著者紹介>
瓜生(東京都狛江市/59歳/女性/主婦)
 その日、俺は、三鷹の駅前で、ふと思い立って、深大寺行きのバスに乗った。神田のオフィスに戻る途中だったのに、どうしてあんなことが出来たのだろう。小心者の俺としては、でかしたと言って、大胆な行動を誉めてやるべきだったろうか。三鷹駅近くの客先で、期待していた商談が不首尾に終わったことが原因だったことだけは、確かだ。間違いない。
バスの窓から通り過ぎる街並みを見ながら、俺は、深大寺までの光景に、ほとんど見覚えがないことに気づいた。無理もない。前回来たのは、それより十年以上も前のことだ。
卒業した高校のクラス会が神代植物公園で開催された。三鷹駅前の集合場所に来たのは、二十三人だった。よく集まったなと思う反面、俺達は団塊の世代で、同級生が五十五人もいたことを思うと、ちょっと淋しい気もした。
参加者は、就職した仲間が多かった。大学に進学した者も少しは来たが、ほかの連中は、それぞれの大学で学生気分に浸れるから、クラス会に参加する必要もなかったのだろう。
俺たち就職組は、なかなか大人の世界に馴染むことが出来なくて、右往左往の毎日で、どこか疲れて、学生時代への郷愁のようなものがあったような気がする。高校で何かをやり残してきたような、やり遂げることが出来なかった心残りのようなもの、そんな感傷が、みんなの心の中に、潜んでいたように思う。
その日の幹事、就職組の女子二人の案内で、植物公園を散策したが、園内を見ることより、歩きながら旧友との久しぶりの会話に熱中していた。みんな、よく喋った。卒業して会社員となって味わった悲喜こもごもの体験談に花が咲き、喋り疲れて、芝生の上で輪になって、持ち寄った弁当を分け合って食べた。
ハンカチ落としもやった。その日の男たちは、一様に不似合な背広を着て集まっていて、一人前の社会人としての『証』を固く守るように、その上着を、汗や泥で汚さないように丁寧に折りたたんで、ひとまとめにして置いたのだが、それを、どこに置いたのだったろう。その場所を、思い出すことが出来ない。
男女に分かれて歌合戦をした。カラオケなどなかった時代だ。十九歳の初夏だった。
よく考え、よく語り、よく悩み、当時の俺達は、今以上に大人だったような気がする。
暫く遊んだあと、中締めとなって、それで帰宅した仲間もいたが、居残り組のほうが多くて、みんなで近くの深大寺に向かった。
「ここには縁結びの神様がいるのよ」
女子の一人が言った。すると、どういう訳だか、おかしくなって、みんなして笑った。
俺は、房江と一緒に絵馬を書いた。相合傘を書いて、その下に、房江と義男と書いて、それを境内のどこかにぶらさげた記憶があるのだが、それがどこだったか分からない。
しかし、その場所を探す気にならなかった。
その房江は、既に結婚して、子どもが二人いるそうだ。あの房江が、俺の知らない男と結婚して、子どもを産んだ。それを初めて知ったときに俺は、どんなに驚いたことか。
十年以上たって、未だに独り身の俺が、勤務時間中に、ふと思いついて、わざわざ方向違いのバスに乗って、その場所を訪ねるということは、どうしたことだろう。俺の心の中で、あの頃にもう一度戻りたいと願う、そんな未練みたいなものがあったのかも知れない。
未だに房江の笑顔を思い出すことがある。
クラス会は二年おきくらいの間隔で続いているが、房江は一度も顔を見せたことがない。
 深大寺に着いて、バスを降りると、激しい蝉しぐれに囲まれた。暑かった。付近を見回したが、あの日の記憶が、定かでない。クラス会の日に、俺達はどこをどう歩いたのか、思い出せない。こんなに整然と舗装された道路はなかったような気がする。バス停近くの案内所で、散策マップをもらって、見たが、はっきりした記憶につながらなかった。いや、確かにあった記憶を、房江とのことがあったから、俺は封印してしまったのかも知れない。
門前の蕎麦屋に入って、涼しい壁際のテーブルで、天ざる蕎麦を注文したときに、独りの女性が入ってきた。左の手首にリストバンドを巻いていた。バスを降りてから境内で何人かの人たちとすれ違ったが、ほとんど二人か数人連れで、特に若いカップルが多く、年配の女性だけの三人連れも見た。この場所に女性が独りで来るなんて、珍しい筈だ。たった独りで来て、恥ずかしくないのだろうか。
この場所に、どんな思い出があるのだろう。

 あの日、私は、深大寺の境内で、汗をふきながら、沢山の絵馬を見ていた。まだあるだろうか。信一さんと二人で書いた、あの絵馬。
「僕は必ず明子さんを幸せにします」
そう書いて、信一さんが優しい目をして渡してくれたので、私は、その横に「お願いします」と小さく書き添えた。信一さんは綺麗な笑顔になって、その絵馬を掛けてくれた。あの絵馬は、今でも、どこかにあるだろうか。
 その信一さんが亡くなって、もうすぐ三年。私は、信一さんを忘れることが、出来ない。
 境内で見事に咲いていた蓮の花に暫く見惚れたあと、門前のお蕎麦屋さんに入ったら、涼しい店内に、独りで座っている男性がいた。
 私は男の人を見ると、信一さんの姿を浮かべてしまう。つい比べてしまう。絶対に信一さんのほうが素敵だ。今もそうだ。ああここに、信一さんが一緒にいてくれたらいいのに。
それにしても、さっきから境内で多くの人たちを見てきたけれど、ほとんどの人には連れがいて、特に若いカップルが多くて、年配の女性が三人で賑やかに歩いている姿も見かけた。独りで来て、どういう神経の持ち主だろう。二十九歳の私と同い年くらいに見えるけれど、独りで照れくさくないのだろうか。よこしまな考えを持っているのかも知れない。
この場所に、何か思い出があるのだろうか。

 バスを降りて、三鷹駅に向かって歩いていたら、さっきの女性が歩いていた。これは、何かのご縁なのだろうか。俺はひかれるように、その後姿を見失わないように注意しながら、女性のあとを追って、歩き続けた。
会社に戻ることを、すっかり忘れていた。
女性は、洋品店や靴店、いろいろな店のウィンドウの前で立ち止まり、眺めていた。そのうちに俺は、動悸が激しくなって、息が苦しくなった。こんなとき、声をかけるべきだろうか。いや、行きずりのように出逢っただけの初対面の女性に対して、馴れ馴れしく話しかけたら、きっと嫌がられるだろうな。

 ウィンドウショッピングをしながら歩いて、三鷹駅に向かっていたら、深大寺のお蕎麦屋さんで見かけた、あの男性にまた出会った。目が合った途端に、不躾な声をかけてきた。
「お茶でも一緒に如何ですか」
なんて古臭い、図々しい誘い方だろう。私は、もちろん即座に断った。私の心の中には、今でも大切な人、信一さんがいるのだから。

 土曜日の朝、いや、もう十時過ぎだ。女房の明子はとっくに起きていて、ふた仕事くらいの家事を片付けて、キッチンテーブルで、折り込みチラシを見ている。だいぶ老けたな。
俺は、テレビの前で新聞を広げて、爪を切っている。太った腹が邪魔をして、足の爪が切りづらい。会社人生は卒業したが、毎週土曜日にしていたこの習慣は今でも続けている。
明子と一緒になって、三十二年。いつでも俺の顔を立てて、俺の言うことを優先してやってくれて有難い。三人の子どもたちは、自立して別々に暮らしている。結婚したのは長女だけだが、昨年の秋、孫が二人になった。
未だに房江の笑顔を思い出すこともあるが、
やはり何かのご縁があったのだろうか。
あの日、深大寺で出逢って、あのときの明子の心の中には、誰かがいた筈だ。間違いない。俺は、そのことが気になっていたが、結婚を申し込むまでの間も、結婚してからも、俺はこれまでに一度も、そのことを確かめることをしなかった。出来なかった。避けていた。遠慮していた。いや、恐れていた。新婚旅行で泊まった宿の露天風呂で、明子の左手首に、ためらい傷があるのを見てしまった。俺は、明子の心の中で生き続けている誰かのことを、知りたくなかった。明子は、今でもその誰かのことを思い出すことがあるのだろうか。あるだろうな。当然だ。あるに違いない。明子はこんなに、いいヤツなんだから。

夫の義男が、やっと起きて来た。かなり太ってしまった。昨年暮れに会社を辞めた。六十歳が定年と決まっていた会社で、その会社の方から、あと一年、もう一年と誘ってくれて、そのまま勤め続けて、六十四歳の誕生月に定年退職。長い間、本当にご苦労様でした。
ご縁、というのは、本当にあるのだろうか。
あの日、初めて深大寺で出逢ってから、ずっと月日がたったある日、私たちは、新宿の街中でバッタリ出逢ったのだ。私はその顔を不思議によく覚えていた。お互い突然のことで驚いて見つめ合って、そのとき私は、旧友に再会したような、懐かしい気持ちになった。
「やはり何かのご縁があるのでしょうか」
 そう言われて、私は思わず笑ってしまった。近くの喫茶店に入り、ひとときを過ごした。
結婚して暫くは、信一さんを想うこともあったけれど、その記憶も段々薄れてきて、夫のことだけを考えるように努力している。だけど時々、信一さんは夢の中に出て来てくれる。話の内容は定かでないのに、信一さんが私の左手首に優しく触れてくれるので、私は嬉しくて、涙を流す。ほっとして切なくなって、幸せな気持ちになり、ハッとして目をあけると、真夜中で、隣で夫が微かな寝息をたてている。私の夢など知らずに静かに眠っている。その寝顔を見て、私はまた目を閉じる。---------------------------------------------------------------
<著者紹介>
連野 潤(神奈川県横浜市/ 66歳/ 男性/ 無職)
「明日からロシアへ語学研修に行ってきます。元気でね」
「頑張ってね。いつ帰るの?」
席に挨拶に来た同期の枝廣に、聡子は尋ねた。
「ちょうど一年後だから、来年6月だよ」
「あら、そうなの。残念ね。その頃帰って来ても、私は寿退職していないから、泣いても遅いわよ」
「そうか。残念だね。でも、僕もロシアへ行ったら、彫りの深いのに慣れちゃって、もう日本人の平たい顔は受けつけなくなってしまうと思うんだ」
「よく言うわよ。でも、気をつけて行ってきてね」
「うん、ありがとう」
ふと、枝廣と視線がからみ合った気がした。しかし、また他愛のない同期同士の顔に戻り、じゃあ、と言って枝廣が部屋を出て行った。
(もう会えない。これでいい)
 聡子は自席で誰にも気づかれないように小さくため息をつく。枝廣とはたまに何人かで飲みに行く同期の仲間でしかない。聡子は大学時代から付き合っている彼氏がいたし、枝廣にも京都に彼女がいると聞いていた。お互いに惹かれ合うものを感じつつも、それ以上は踏み込まないでいた。時はバブルの気配を感じさせる80年代終り。企業が新入社員の優秀者に語学研修に出させていた時代だった。
枝廣は法学部卒であったが、ツルゲーネフやショーロホフといったロシア文学に傾倒していて、研修先にロシアを選んだ、と言っていた。聡子は、
「恰好つけちゃって。国立大出は違うわね。でも、それで研修先を決めるなんて相当ね」
 と、枝廣にふざけて言ったことがある。
「ははは、そうだね。でもツルゲーネフの『初恋』を読んでごらん。読みやすいし、とてもいい話だよ」
 その時、聡子は枝廣に慕情を抱く。学生時代から男子にロシア文学を薦められたことなど一度もない。枝廣は秀才だがくだけた話もするし、イギリスの中世の伝説からお好み焼きの焼き方まで雑学の何でも知っている。やさしい性質で顔も悪くない。
(もっと早くに出会いたかった。でももう遅い。枝廣君の彼女は、一年もどうやって待つんだろう?)
 聡子はそう思って、余計なお世話だとそこからは考えるのをやめた。二人の間でちゃんと約束をして、今後のことも考えているはずだ。自分には関係ない。
 それから一年して、聡子は帰国したばかりの枝廣に、エレベーターホールでばったり会った。
「おっ、まだいたの?結婚やめたの?」
「違うわよ。式が秋に延びただけよ。来週退社するのよ。これからどうするの?」
「自分の部に挨拶に行くところ。一週間休みを貰っているからね。再来週から仕事に復帰だよ。浦島太郎状態だよ、どうしよう。今晩から島根の実家に帰るんだ」
「そうなの。ご実家に帰るのね......」
「海も山もあっていいところだぞ。一緒に来るか?」
「えっ?」
「ははは」
 そこでお互いにまた笑い合い、じゃあ元気で、と言って別れた。
 冗談とわかっていながら、聡子は一瞬動揺した。
(本当について行ったらどんな人生に?)
 枝廣の仕事についてロシアへ行き、最期は島根に骨を埋める。いきなりで想像がつかなかった。もともとあり得ない話だし、考えても仕方ないのだが。
(すてきな人、さようなら)
 枝廣とはそれきりだった。
二十年余りの月日が流れた。聡子は夫のたび重なる浮気が原因で、十年前に離婚していた。二人の間には、結婚五年目にして生まれた一人息子があり、聡子が引き取り育てた。離婚後、息子のママ友が始めた小さな派遣会社を手伝うようになり、今では共同経営者として働いている。
元夫は、付き合い始めた頃から猛烈にアタックしてきて、聡子にぞっこんだった。しかし、結婚後、父親の経営する会社に入り、自由になる金が増えた頃から、女癖が悪くなる。聡子は人並みに嫉妬もし、悩みもしたが、夫が愛人宅から帰って来なくなった時、吹っ切れた。
(要は飽きられたということかしら?)
 情けなく思う一方で、自分がいつも何処かうわの空でいることを、夫も感じ取ったのではないかと思い、夫ばかりを責められないと思った。
枝廣の消息は、同期の仲間から時折聞いていた。東京勤務とロシアの駐在を繰り返していると。数年前、シベリアで発見された冷凍マンモスを日本の万博に持ってくるプロジェクトに参加し、かなりの有名人になったとも。聡子は、商社も枝廣自身もいろんな仕事をするようになったものだと感心していた。
そしてこの夏も、永久凍土から発見された少女マンモスが横浜のイベント会場で展示されると知り、きっと枝廣が連れてきたに違いないと思っていた。
枝廣には会ってみたいとは思わなかった。学生時代からの彼女ではなく、ロシア人女性と結婚したと聞いていた。やはり彫りの深さに参ったか......。
聡子の息子裕輔は、今年から三鷹にある大学に入り、学生寮に住んでいた。第一志望に合格し、世界中の学生が集まるグローバルな環境で、裕輔は楽しくやっている様子だった。
聡子は仕事で入学式にも出席できなかったし、裕輔はちょくちょく帰ってきたので、結局一度も大学やその周辺を訪れることなく過ぎる。
「母さん、試験が終わったら、閉寮する前に大学の周辺を案内するから来ないか?近くにある深大寺は、縁結びの神様なんだよ。母さんはまだ若いから、拝んだら嫁に行けるかもしれないよ」
と、ある時裕輔がメールしてきた。
(何を生意気なこと言ってるのかしら。最近までママ、ママとまとわりついていたくせに)
 聡子は吹き出しつつ、了解、と返信した。
 七月初め、聡子は裕輔と三鷹駅南口に待ち合わせ、バスに乗って深大寺に行った。茅葺きされた立派な山門をくぐり、先ずは本堂をお参りする。
「母さん、腹へった。うまい蕎麦屋さんがあるんだよ。少し離れてるけど、深水庵って店。手打ちで細い麺なんだ。母さん好きだろ?」
「ええ、いいわね」
なんでもその店は水にこだわり、地下80メートルの井戸からくみ上げた天然水を使って、蕎麦を打ったり、茹でたりしているとか。
二階の座敷に座る。すると裕輔が隣のテーブルの金髪の少女に声をかけた。
「エレーナ、びっくりした。君だったんだね」「あら、裕輔じゃない。驚いた!私もパパと来ているのよ」
少女は流暢な日本語で答えた。そこに日本人の男性が現れる。枝廣君?
「もしかして聡子さん?久しぶりだね。変わらないねぇ!」
「まぁ枝廣君なのね。変わらないわけないじゃない。いつぶりかしら!」
「確かに変わらないわけないか。二十五年は経っているよ。でも、相変わらず綺麗だね。」
 こんな奇跡があるだろうか。裕輔の大学の友人が、枝廣の娘であった。そして偶然、深水庵で鉢合わせした。
枝廣は白髪が混じった髪を恥ずかしそうに掻き分けながら、正真正銘のおっさんになったよ、と言った。しかし、体型もさほど変わりはなく、昔の面影をとどめていた。
「よかったら、一緒に食べませんか?」
 誰ともなく言い、四人でテーブルを囲み、手打ちの蕎麦と天ぷらを味わった。
「これから母を縁結びの神様のところへ連れて行こうと思っているんです」
「え、縁結び?」
 枝廣がキョトンとした顔をした。
「裕輔ったらいやぁね。私、夫に逃げられてずっと一人なものだから、息子にそんな心配されているのよ」
 聡子が答えると、エレーナが言った。
「パパも一人です。母は十年前に亡くなりましたから」
 それから深水庵を出て、四人は原生林の生い茂った参道を行き、縁結びの神と祀られている深沙大王堂に向かった。裕輔とエレーナは嬉しそうにおしゃべりを続けている。聡子と枝廣も二人の後について、並んで歩いた。
「エレーナさんは本当にいいお嬢さんね。それにとても美人さんだわ」
「ありがとう。でも、裕輔君もとてもいい青年だね。聡子さんは仕事もして、ちゃんと子育てもして頑張ったね」
「そんな......。奥さまのことびっくりしたわ」
「ああ、結婚した時から身体が弱くてね。かわいそうなことをした」
一同はお堂の前に着き、縁結びの神に静かに手を合わせた。
(この偶然は、縁結びの神様のせい?)
聡子は二十五年ぶりに込み上げる思いに震えていた。別れ際、枝廣が言う。
「聡子さん、裕輔君も、よかったら、来週冷凍マンモスを見に、横浜へ来ませんか?ご案内します」
「僕は来週から予備校のバイトがあるんです。母さんは行けるよね?」
「ええ、喜んで」
 聡子は真っ直ぐに枝廣を見つめ、枝廣も聡子を見つめ返した。二人の間を涼やかな風がひと筋通っていった。
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<著者紹介>
森 きわこ(東京都) 
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