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<第9回公募・選外作品紹介>「白い花」 著者:小宮 隆児

 春先の午後だったと思う。風のある日で、芽吹いた若葉が日射しの下で嬉々とゆれていた。
 数年前まだ学生だった頃、私は山門の真下で人を待っていた。
 待ち人には一度会ったことがあるのだがどうしても顔が出てこない。肩口まで伸びた髪が頼りなく浮かんでいる。割と小柄な女性で身綺麗にはしている、と半ば強引に記憶をたぐり寄せるが後が続かず、遂にはあきらめ開き直った。
しばらくすると、バス停の方から重い枝葉の緑のアーチの下を早足にこちらへと向かってくるお嬢さんがひとり見えた。とかく若い娘が目立つ依然とした場所なのだ。待ち人である。顔に入ったモザイクはもうしっかりとれていた。多少緊張気味のこちらに反するように、平然とした面持ちで手を振ってきた。笑顔が見える。こちらもすぐに振り返した。
 この時の私には、残念ながら彼女を賛美する温情も余裕も持ち合わせてはいなかった。只々、なぜという疑問符が渦巻いていた。もちろん、そのメイクにも髪型にも服装にも、手間をかけ気を遣い、今日の日に合わせたというのは見てすぐにわかったのだが、その事実だけで、どうしてももうひとりのすらり美人を横に並べ、そちらを意識し満足して通り過ぎてしまっていた。
ゆくゆくはそちらの美人と懇意になることが私の望みであった。
その美人の友達である目の前の彼女とは先ごろの席であまり話をしていなかった。それを無理に深大寺まで呼び寄せたというわけでもない。勝手にこうなった。だから少々戸惑っているのである。
かと言って、決して彼女が美人の反対だったというわけではない。第一印象で、おまえはこっちだ、ともう一人の女の方に導かれてしまったのだからもうどうしようもない。不可抗力である。神様の悪戯心の前では誰でも従順にならざるを得ないとでも言おうか。突き動かされただけにすぎぬ。つまり悪気は微塵もなかったのだ。
すいません
 無知な若者の過ちと、君は可愛く許してくれますか。
 きっと許してくれた君の寛容さに私は自分の更なる醜態を次いで晒さねばならない。
 軽く挨拶を交わすと自然と山門の内側へ歩き出していた。お賽銭したい、と彼女が言い出した。
 途中、その口からちらとでも今日に至るいきさつ、なぜ君は友達が来られなくなったにも関わらず、延期せずに一人やってきたのか、を聞けるものだと踏んでいたが、特に触れない。表情には相変わらず屈託のない笑顔がつつましやかに乗っかっていた。
 ぼんやり腑に落ちなさを感じながらも、まあ焦ることはない、と自分に言い聞かせながら後をついて行く私であった。
常香楼で人のけむりを無雑作に浴び、置き去りにすたすたと本堂まで寄っていくと、腕に掛けた光沢のある茶色いバッグから財布を取り出し、おもむろに小銭を放った。
肩口まで伸びた彼女の髪が日射しを受けて、照り返すようなやわらかいブラウンが露わになった。風になびいてさらに煌めき遠くからでも目に刺さった。
私は後ずさりながら、菩提樹の下に移動し、ポケットからケータイを取り出すとカメラモードに切り替えた。
厳かに建つ本堂と、右手に屹立するムクロジの木と、そのもとで小さく手を合わす彼女とをフレームの中に閉じ込めて、シャッターを切った。そのまま画面越しに近づいていくと振り向きざまの相好がフレーム一杯に溢れた。
ここらへんからだろうか。凝り固まった心が徐々にほぐれ、同時に何か雲行きが変わり始めた。
ふしだら。こざかしい。お許しあれ。不遜にも、出会って五分足らずにヒロインの転向、という暴挙の兆しが見え隠れし始めたのだった。
何か御馳走したいという衝動に駆られ茶屋のほうに戻らないかと提案してみると、彼女は喜んで頷いた。砂利を踏んで、いったん釈迦堂の脇を抜けると、立ち並ぶ店先の賑わいに二人で交ざりながら一軒一軒見て回った。
彼女は並んだ商品すべてに興じた視線を送り、進み、佇み、後ずさり、と自由にやる。たまに私に説明や同意を求めようとちらと見上げてくる。私が答えながら何気なく両の目をのぞきこむと、うやむやに首を戻してうつむき、ひとり納得するようにつぶやいていた。
真横に並ぶと、シャンプーだか香水だかの甘い女の香りが際立ってくる。決して障りのない、ほのかに漂う芳香が、彼女に、らしさと清潔さを共に与えていた。
ゆるやかに鈍り、落ちていく自分を悟られまいと故意に活気を振りまき、うんちくなど垂れて澄ましこむ私に、彼女はいちいち感心してくれた。
それと併行して、景色や人並みをケータイに収めようと小気味よく動くのだが、その様がとても無邪気に映る。水車であったり、小さな地蔵であったりと足取りは軽快である。私も次いで軽快さを怠らない。その度に彼女の白いスカートが揺れていた。まるで高原の朝にかかる霧のように透けて波打つ生地の下から素朴な二本の脚が、白く生えていた。
当初、私の抱いていた本当の目的や彼女自身に対する疑問はもはや消滅しかけていた。たしかにもう一人の美人の影もちらつく。だがしかし、そんなことより手を伸ばせばすぐ届く距離にいるこの人のことを思いやるべきではないか。そもそも彼女に対し疑問を抱く必要などあるか。さして仲良くもない私のもとに、ひとりバスに揺られてまで会いに来たという現実をただ素直に受け止めればよいではないか。興味の無い相手にそこまで付き合う義理など皆無の関係なのだから。もう少し、もう少し踏み込めば結果は出るはずだ。形になって表れるはずだ。
足元のせせらぎに影の女を映して、そのためには冷徹であらねばと自分に言い聞かせた。
などと、都合の良い、浅はかな葛藤であった。
探索もひと段落し、二人は茶屋の店先に据えられた日除けの赤い傘のついたベンチに腰を下ろしていた。彼女は団子を、私はソフトクリームをそれぞれ手にしていた。
吊るされたいくつもの風鈴が、りんと弾け、情緒に満たされていく。流れる水の音がさらに添える。それとなく横顔を眺めるとそこにも情緒がある。可愛らしい。
ここが勝負どころだと見越して、私は距離を縮めようと悠々と構えた。学校のこと、家族のこと、さりげなくもう一人の彼女のことを織り交ぜてあれこれ質問した。とにかく深追いだけはしないよう気を配り、相手の表情を読み取ることに努めた。
彼女は、笑みを交え、時折団子を口に運びながら相槌を打った。こちらの問いにはためらいなく素直に答え、リラックスしているのがうかがえた。さすがに核心が見えるまでの返答には至らなかったが、私に不都合な情報も特に聞かなかった。
ようやく日も陰りだした頃、私の答えはもう出ていた。
彼女を誘って、生い茂る木々に埋もれた小さなベンチに二人で腰かけた。艶めいたもみじの緑が幾重に混じりあい、まるで天体に包まれているかのような贅沢感の中にいた。
彼女もおのずと見とれているようだった。
星の下で愛を語る。などという下品さをその時の若輩な私は臆面もなく信じ込む、うぶな男であった。だからといって、卒然と愛の告白が成立する流れではないことぐらいわかっていた。とにかくまた会う約束をなんとか取り付け、うっすらとでも自分の好意に気づいてくれれば、それで充分であった。
「なんか、いやらしいね」
 彼女の口からぽつりと出た。
 思わず耳を疑い相手に目をやると、笑みを浮かべてこちらを見返している。
 いやらしい、という響きが稲妻となって私に突き刺さった。いやらしいとはこの甘美な状況を指すのか、それとも二人の女を天秤にかけた我が愚行を指すのか、はたまたその両方を指し示しているのか、どれも判断がつかなかった。
「なんで今日来たの」
 あれだけ繊細に抑え込んでいた言葉が平然とこぼれた。落雷に遭い私の牙城がもれなく瓦解した模様だった。
「悲しいお知らせです」
彼女は正面を見据え、茶目っ気ありに言い放った。
 私はその先を聞こうともせず、化石のように黙った。
 身勝手なふたつの恋が同時に砕け散った瞬間だった。
 今思えばこの出来事は、自分の恋愛にまつわる些細な挿話に過ぎないが、それは刻印となって胸の中にとどまり続ける結果になった。
 あの日、深大寺に咲いた一輪の白い美しい花を、私は確かに見た。
 後に、その花を摘んで鉢に入れ、我が家に持ち帰ることが出来たのだから私は幸せである。
 白い花は今でも頑張って咲き続けている。

小宮 隆児(東京都練馬区/40歳/男性/アルバイト)

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