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 四月。深大寺へと続く満開の桜並木。ランドセルを背負った子どもたちが一列に並んで学校へ歩いている。一番背の高い女の子が先頭で、続いて背の低い順に6人がカルガモの親子のように進んでゆく。一番後ろの男の子が僕に気づいて話しかける。
「先生、おはようございます。何かいいことあったでしょう。」
「おはよう。なんで分かるの。」
「先生、鼻で歌っている時はいつも機嫌がいいじゃん。みんな知ってるよ。」
音楽の講師である僕は、毎日、子どもたちと同じ時間に登校する。学校の安全管理の一環として、校区内から歩いて通う僕は、警備員のような役割を任されている。鼻歌の理由は、この日、目覚まし時計よりも1時間早く鳴った携帯電話のせいだ。
「もしもし。由美子です。隆之、そろそろ起きる時間でしょ。こっちは夜の10時。きょうね、バルセロナで桜を見つけたの。今、五分咲き。東京は何分咲き。」
彼女から1週間ぶりの国際電話だった。彼女の声は、いつ聞いても美しい。プロのソプラノ歌手だから、当たり前かもしれないけれど、彼女の声には人の心を和ます不思議な力がある。彼女は何か相談事がある時に電話をしてくる。しかも浴室からと決まっている。のどを守るため、毎日バスタブの中で1時間以上過ごす。その間に本を読んだり、電話をしたりするのが彼女の習慣だ。僕はいつも裸の彼女を想像しながら話すことになる。本物は、まだ一度も見せてもらったことがない。
「桜はちょうど満開。今度の週末、神代植物公園は観光客できっと一杯になるよ。そっちはどう。蝶々夫人の稽古は順調かい。」
「イタリア語の発音が微妙に違うらしいの。今日もイケメンのピンカートンに注意されてしまいました。どうしたらいいと思う。」
「学生時代からさ、相手がイケメンだと、素直に耳を傾けるんだよな。俺のアドバイスなんて、たまにしか聞かないくせに。由美子のイタリア語は大丈夫だよ。今度のピンカートンさんはドイツ人だろ。ドイツ訛りを指摘して、やり返してやれよ。舞台はそうやって良くなっていくものだろ。」
「なるほど。さすが先生。励ますのがお上手。」
「ほら、俺が相手だと素直じゃない。で、今度、いつ帰国するの。」
「10月かな。その前にさ、隆之、夏休み、こっち来なよ。新婚旅行ごっこしようよ。」「"ごっこ"が余計だよ。だいたい無理言うなよ。俺には合唱部の指導があるの。」
「真面目に答えないでよ。冗談で言っているんだから。子どもたちは、頑張ってるの。」「今年は、いいよ。子どもたちのやる気が違う。帰国したらコンクール聞きに来てよ。」「楽しみにしてる。それじゃ、またね。なんか隆之と話したら元気が出てきた。」
「お役に立てて光栄です。バスタブで居眠りするなよ。期待の新人オペラ歌手が風呂場で溺れたら、かっこ悪いからな。」
「はい。はい。先生、分かりました。」
機嫌がいいと、ハミングする。そんな癖があることを僕は、この日初めて知った。

 彼女を初めてデートに誘ったのは6年前。大学院を卒業する3月だった。僕と彼女は、音楽大学で声楽を学ぶ同級生。その頃すでに、彼女は国内の声楽コンクールで優勝したことをきっかけに、プロ歌手として活動を始めていた。そして、僕は、母校の教壇に立つ夢をかなえ、卒業コンサートのマネージャーを務めたことをきっかけに彼女と親しくなった。自分が生まれ育った町を知ってもらいたくて、深大寺に誘った。観光客が少なくなる午後3時すぎに、馴染みの蕎麦屋の暖簾をくぐった。座敷に上がり、その店の名物である野草てんぷらを注文した。店の女将が料理を一つ一つ解説してくれたので、彼女はとても喜んで食べた。僕はちょっと得意になった。店を出た後、二人で参道を歩いた。小学校時代、この道が通学路だったこと、境内の池でザリガリを捕って坊さんに怒られたこと、子どもの頃の思い出を話して聞かせた。本堂の前で、二人並んで、さい銭箱にお金を投げ込んだ。彼女は、2拍打ってから手を合わせた。
「神社は2回たたくけど、お寺は手を合わせるだけだよ。」
「あ、そうだっけ。失敗。」
境内には、僕と彼女だけ。心の中で「この人とずっと一緒にいさせて下さい」と唱えた。深大寺を出て、今度は4月から僕の仕事場となる小学校に向かった。門の外から中をのぞきながら、かつて校庭の真ん中に大きな桜の木があったことを話した。サッカーをする時は、みんな桜の木を避けてパスを回した、と言ったら、彼女はその日一番素敵な笑顔になった。その瞬間、僕は彼女が寺で何を祈ったのか聞きたくなった。しかし、自分の願いごとを聞き返されるのを避けるために思い止まった。彼女は何かを察したのか、僕の顔から視線を外し、校庭の真ん中を見つめた。そして僕に言った。
「深大寺の神様って、どんな御利益があるの?」
「厄除けだよ。それと縁結びが少々。」
「今日、どうして私を誘ってくれたの。」
「由美子さんが蕎麦、好きだって言うから。」
「そうなんだ。また誘ってね。」
僕と彼女の距離は、心配したほど遠くもなく、有頂天になるほど近くもなかった。

 夏休みの音楽室。合唱コンクールに出場する36人の子どもたちが集まっている。6年生の4人は、僕が講師になった時に入学した子どもたちだ。みんな歌が大好きで、下級生の面倒見も良い。ソプラノ、アルト、テノール、バス。パートごとの発声練習は、すべて子どもたちに任せている。去年、合唱部は初めて東京都の大会で金賞に選ばれ、関東大会に出場。今年は、さらにその上の全国大会出場を目標にしている。
「みんな聞いて。明日はいよいよ東京都大会です。一人一人が練習通りに歌えば、きっといい合唱になる。今まで一緒に頑張ってきた仲間のために一生懸命やろう。」
練習の最後に自由曲を歌った。歌い終えた瞬間、子どもたちは黙ったまま互いの顔見合わせ、笑顔を浮かべた。みんな自分たちの合唱に自信を感じている。子どもたちのこんな雰囲気は初めてで、指導者として心が満たされる気分だった。その日の朝、由美子から国際電話があった。これからの二人について話した。
「私は、世界で一番好きな人と結婚したい。だから、隆之にバルセロナに来て欲しい。歌手を続けながら一緒に暮らすにはそれしか方法がないの。」
「子どもたちに歌を教えることは、僕の夢であり、生き甲斐でもある。俺だって由美子と一緒に暮らしたいけど、そのために夢を犠牲にすることは出来ない。離ればなれでも今まで通りお互い励まし合って頑張りたい。」
外国で活動するオペラ歌手と小学校の先生。歌を愛する気持ちは同じでも、二人の夢と現実の間には、大きな隔たりがあった。

 秋。神代植物公園の庭園では、バラの花が我こそ一番と、その華やかさを競って咲いている。合唱コンクールの全国大会を前に、由美子が帰国。久しぶりに顔を合わせた。「すごいね。とうとう全国大会出場まで果たすなんて。でも隆之なら、いつかやると思っていた。」
「あすのコンクール。子どもたちの歌を聴いてもらえば、僕の気持ちがきっと分かると思う。その上でどうするのか二人で決めよう。由美子の気持ちも確かめたいし、自分の気持ちも確かめたいから。」
「全国制覇の自信はあるの。」
「コンクールは相手のあることだから分からない。でも、子どもたちは本当にすごいよ。」
「私と子どもたち。どっちが好きなの。」
「子どもは素直だからね。」
彼女の笑顔は、植物公園に咲くどのバラの花よりも美しく、僕の心を和ませるのだった。 合唱コンクールの全国大会は、地区予選を勝ち抜いた10校によって競われる。課題曲と自由曲を連続して歌い、その年の日本一を決める。

 大会当日の朝、僕は深大寺へお参りし、手を合わせた。コンクールのこと、由美子のこと、すべての未来を信じたい気持ちでいっぱいだった。大会会場の音楽ホールは、何度も訪れたことがあったが、この日はやはり特別な場所に感じた。午後2時すぎ、僕は指揮者として、36人の子どもたちと一緒に夢の舞台に立った。客席に向かって一礼する時、一番声の響く席に由美子の姿を見つけた。とびきりの歌を愛する人に届けようと、僕は指揮棒を振りおろした。
「まさか本当に全国の頂点に立っちゃうなんてね。隆之が子どもたちに夢中になる気持ちが分かったわ。わがまま言ってばかりの自分が恥ずかしくなっちゃった。」

 その日の夜、僕は彼女を自分の部屋に招いた。二人の夢と現実にある大きな隔たりを乗り越えるため、気持ちを確かめるため。
「で、由美子はこれからどうするの。」
「離ればなれは寂しいけれど、もうちょっと私も頑張ってみる。」
「なんだ、ちょっとしか頑張らないの。俺は死ぬまで一緒に頑張りたいのに。」
「はいはい。日本一の先生が言うなら、仕方がないな。」
「本当に素直じゃないよな。」

(了)



<著者紹介>
浅田 昌之(東京都調布市/37歳/男性/会社員)

 もみじの大学院入試が迫り、彼女は勉強に集中したいから僕とはしばらく会わないと言った。それは試験日のちょうど三週間前のできごとであり、今日まで僕は彼女に会っていない。これまで、デートの約束を取りつけるべく先に動き出すのは決まって僕で、僕は自分で「もみじに会っていないと『くさくさ』してしまうたち性質」だとわかっていたから、そうしていたのだった。そんなふうだから、彼女に会わないことに対する耐性がまるでないはずの僕が14日間も彼女に会わずにいられたことは奇跡といえた。
 だけど今日、僕は彼女の住む街へ向かって自転車を走らせている。

 昨日、僕の家の「たると」(ウェルシュコーギー・♀・3才)がこどもを産んだ。「たると」の妊娠はもみじも知っていたから、出産の感動に震えているうちにこの気持ちをもみじに知らせたいと思ってしまったのだ。−感動なんて言葉じゃ薄っぺらくていやなんだけど、しっくり来る言葉がないんだ。うまく説明できないな、ただこみ上げてくるものがあったよ。泣きそうにもなった。彼女に会ったらどう話そうか、シュミレーションをしている自分に苦笑してしまうけれど、楽しくて止められなかった。
−たると、どうだった?
 ふうん、今はもう落ち着いてるの?
 こども大きくなるの、楽しみだねえ。
 彼女からの返答まで考えはじめて、はっと気づいた。
−どうして来たの?

−私、会わないって言ったよね。キミと約束したよね。キミもわかったって言った。なのに、何で?彼女なら言いかねない言葉だ。自分で想像しておきながら、その鋭さによって僕の甘い空想はばっさりと切られた。もみじはすごく頑固で、自分の計画とか、生活するリズムを崩されるのを非常に嫌がる。デートで寄り道を提案しようものなら、途端に機嫌が悪くなる。そして今、勉強に打ち込んでいるところに僕が行ったとしたら・・・。僕の空想がどんどん悪い方向に向かっていくにつれ、ペダルをこぐスピードは落ちていった。家を出た当初の勢いはすっかり影を潜め、気がつくと薄暗い失望のイメージが僕に張りついている。僕がもみじに会いたいと思っていても、もみじは同じように思っていないかもしれない。それなのに僕がもみじに会いたいと思って一生懸命に伝えるメッセージを考えたり彼女の顔を思い浮かべながらニヤついたりしていることって、僕のエゴなんだろうか?今や僕の両足にはちっとも力が入らない。前へ進む動力をすっかり失ってしまっている。少し立ち止まって考えたい。そう思って両足をそうっとアスファルトにつけた。アスファルトの上にはだいぶ落ち葉が積もっている。視線を前に向けていくと道路の両脇にサクラの木々が植えられていて、道路に覆いかぶさるように枝が広がっているのがわかる。このきれいな直線道路には馴染みがあった。もう、深大寺まで来ていたのか。

 もみじの家まではもう4、5分のところまで来ているのだが、完全に足の止まった僕は、少し落ち着こうと思い、久々に深大寺を訪れた。
 境内では蝉1匹分の鳴き声を耳にし、彼岸花の赤い花弁を一年ぶりに目にした。夏の終わりと秋の始まりを同時に味わっているような気持ちになる。
 これ以上家に居たくはないし、かといって新宿や渋谷みたいな「あくせくした」街に行ってデートしたいとは思えないような時に、僕らは深大寺に来た。深大寺に漂うゆったりとした空気は、もみじの心を安らげてくれるようで、普段と比べると深大寺でもみじが時間を気にする様子はあまりなかった気がする。そんな風にして深大寺でのデートを次々と思い出してしまい、今独りでいることの寂しさがいっそう身に沁みてきた。
 こんなに近くにいるのに、何で会えないんだろう、こんなんなら遠恋のほうがましだよとか、もみじは会わなくても平気なんだろうか、僕みたいに僕のことを思い出したりしないんだろうかとか、つまりはもみじのことを考えながら僕は茶屋の前を横切る人達を見るともなしに見ていた。すると、「たると」と同じ犬種を連れた、若い男女の二人組が横切って、僕はまたうっかり「たると」を連れてデートに来たときのことを思い出してしまった。
 
 まだ「たると」は仔犬っぽさが残っていて、すれ違う人が「わあっ」とか「かわいいねえ」とか言っているのが聞こえて、そのせいかもみじは散歩中よく笑った。もみじの笑顔を見ていたら僕はうれしくなり、高揚してきて、伸びをしながら冗談っぽく、「幸せだな〜っ」と言ってみた。するともみじは一瞬きょとんとした後で、顎の先を左手でもみながら、視線を下に落とした。少なくとも機嫌がいいようには、見えなくなったので、慌てて、
「どうした?僕の言ったこと気に入らなかった?ごめん」
と言うと、彼女は、左手を顔の前でぴらぴらさせながら
「あ、違うんだけど」
と言った。
「よく『幸せにしてあげる』とか『幸せにしてください』っていう決め文句があるじゃない?私あれ嫌い」
 僕は曖昧に頷いた。
「幸せってそんな人任せにできるものじゃないよね。結局は自分の心の中で、自分の価値観で決めることでしょう?だから私は幸せに・・なるの」
彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、そう言った。
 彼女の、自分の意志を貫く心の強さというのは日頃の付き合いの中でも垣間見えていたが、それは時として僕を悩ませ、頑固すぎやしないかという感想も持った。しかし、このとき僕は彼女の心根は頑固という表現には全く当てはまるようなものではなくて、むしろ自分の意志や力に疑いを持たないという意味で純粋というのが相応しいんじゃないかと思った。
 僕はそういう結論に至ったことで彼女が眩くいとおしい存在に思えた。そこで、
「じゃあ、一緒に幸せになろう」
と彼女に耳打ちしたのだった。
 その時の、彼女の顔といったら!僕が告白したときのように大きな目をさらに大きく見開き、頬は瞬時に紅潮したのである。そうして、照れくさそうな笑いを浮かべて、ちゃめっ気たっぷりに、
「プロポーズのつもり?」
と返してきた。
 それで僕たちは一気にはじけて、大声で笑い出したものだから、足元の「たると」が(なんだろう)という顔で僕らを見上げたのだった。

池には3分の1ほど赤くなった木の葉が浮かんでいた。カルガモが1羽、池の真ん中辺
りで休んでいる。僕はまだ、茶屋の前に腰掛けている。少しばかり風が冷たくなってきたように感じて、僕は茶屋でほかほかの"そばパン"を買った。
もみじは間違いなく自分のために、もっと言えば将来の自分の幸せのために、「会わない宣言」をしたのだ。そして僕は、今の自分の幸せのために彼女に会いたいと思っている。「将来の幸せ」と「今の幸せ」というのはさしたる問題ではない。重要なのは、お互いはただ純粋に自分の幸せを願っているというところだ。そして、自分の幸せを考えての選択が、相手の幸せを邪魔するかもしれないというところだ。
 だけど僕は忘れていない。あの時言った、「一緒に幸せになろう」ということばを。僕の幸せともみじの幸せは今の時点では矛盾しているように見えるかもしれないけれど、価値観によって幸せが決まるなら、考え方次第で僕ともみじがともに幸せを感じるようになれるはずだ。だからもう少し、ここで考えていきたいと思った。考えたいと思ったこと自体は数時間前にサクラの木々の下で前進する気力を失ったときと同じだけれど、今回の僕には何となく明るさがあるぞ、と思った。少しずつ落ち始めた初秋のひ陽の光はやわら
かく、僕の背中にじんわりとしみわたっていった。


(了)



<著者紹介>
芳刈亜緒(東京都世田谷区/24歳/女性/会社員)

 手を繋いで煉瓦敷きの並木通りを歩く私たちは、きっと仲のよい祖母と孫に見えるでしょう。五月の青葉と空気が、満たされた気持ちとはこういうものだと教えてくれます。えび茶色の、よそいき用ワンピースの端っこが、ひらひら。

 私は、今年で七十九歳になります。夫が死んだ時の歳などとうに追いこしてしまいました。それが、まだ中学生二年生の男の子に手を引かれているのですから、自分でも可笑しくなってしまいます。
「つねこ常子、疲れた?」
 腰が曲がって速くは歩けない私を、だるまさんはいつも気遣ってくれます。最近洒落っ気が出てきたのか、伸びかけた髪になにやら整髪料をつけているようです。制服の着こなしが少しだらしなく見えるのですが、口うるさい婆とは思われたくないので、黙っています。
「疲れたわけじゃないですけどね。だるまさんももうちょっとゆっくり歩きなさいよ」
 せっかくの、いい気候なのですから。
「しょうがないなぁ。常子は婆ちゃんだからな」
 だるまさんはあどけなく毒づいて、声変わり前の喉で笑います。
 小島悟、というのがだるまさんの名前だそうです。でも、悟ちゃん、と呼ぶととても複雑そうな顔をします。だからと言って爺さん、と呼ぶこともできず、死んだ夫の名などもっての外で、私はだるまさんと呼ぶのが精一杯。
「だるまさんはお腹すかないの」
 育ち盛りの腹具合を心配すると、だるまさんは、並木道に並ぶ蕎麦屋の一つを目で追いました。
「減った。でも、お参りしてからにしよう」
全く判りやすい人です。
 
 だるまさんが私の前に現れたのは、二年前の春の日でした。年に一度のだるま市で、私は小ぶりのだるまを一つ、自分のために買うことを小さな楽しみにしていました。アパートでの一人暮らしは話す相手もなかなかいないものですから、スーパーに買物に行く時など、靴箱の上のだるまに行ってきますと告げるのです。その時も、小さなだるまを返す返す、どれにしようかと眺めている最中でした。
「常子」
だるま市の人ごみの中、小柄な少年が真っ直ぐにこちらを眺めて私の名を呼びました。セーターが青かったことだけははっきり覚えています。伸びかけた坊主頭と、愛嬌のある顔立ちは、だるまに似て頬を赤く染めていました。
「なんだいあんた。どこの子」
心当たりはありませんでした。孫の友達だって、私を呼び捨てにしたりはしないでしょう。見れば孫よりもずっと幼子ですし、その孫だって、もう二年も会って無いのです。
「常子。よかった、生きてた」
 そう笑って、それから子供は顔をなお赤くして泣きました。泣いても笑ってもいっそうだるまに似ています。だから、だるまさんと呼ぶことにしました。
 私は途方に暮れて、暖かい饅頭を買って見ず知らずのその子に握らせました。
「だるま市に来れば、常子に会えると思ったんだ」
 泣き止んだだるまさんは、口に餡子をつけたままこともなげに言ったのです。
「毎年来てたじゃん。おれ、生まれる前から知ってた」

 山門を潜ると、私の好きな静謐さが身を引き締めます。ナンジャモンジャの白い花が慎ましやかに咲き誇っていました。
「だめよ。先に手を清めないと」
本堂に急ぐだるまさんを引きとめ、線香を買い、煙と清水に触れてからお参りします。だるまさんはいつも何か熱心に拝んでおります。でも、私はそれ以上の真摯さで祈ります。
夫が死んだのは十五年前。脳卒中で寝たきりになってから三年目の夏でした。夫はたいそう働き者だったので、麻痺で動けなくなった体をとても惜しみ、それ以上に私に面倒をかけることを申し訳なく考えていたようです。柴崎のアパートで、私たちは穏やかに暮らしていました。天井や、布団脇の尿瓶を眺める夫の眼差しに、生きることの悲しさが垣間見えても、私は傍にいて欲しかった。動けぬ夫の日々向かい合い、それぞれの苛立ちから口論も多々ありました。夫の調子と機嫌がいい時を見計らって、たまに深大寺に参拝するのが、その頃の私の唯一の息抜きでした。夫が早く逝くことを望んでいることを知りつつも、私は私のわがままから、少しでも傍にいてほしいと延命観音様に祈っていたのです。
「でもおれ、死ぬときのこと覚えててさ」
 だるま市でだるまさんは言いました。
「常子が心配だ心配だ。ありがたい。申し訳ない。常子を一人にできない。そういう感情と、名前と、この場所だけは忘れずにまた、生まれてきた。一人で会いに来れるようになるのをずっと待っていたんだ」
 だるまさんが言うことには、死ぬ前の全てを覚えているわけではなく、それらの記憶は年々薄れていくものだそうです。忘れないように、字を覚えたての頃からメモに残していた。住んでいた部屋の風景は思い出せるけれど、そこまでの道筋はわからない。だからここで待っていたと。見知らぬ子供にそんなことを言われて、信じられる人がいるでしょうか?
「それは、よく会いにきてくれたねぇ。でもあんた遅いじゃない。せめて電話くらい入れてもらわないと困るわ」
「しょうがないよ。電話番号まで持ってこれなかったんだから」
「今どこに住んでんの」
「府中」
「うまい具合にご近所でよかったね。北海道とかならあと十年は待たなきゃいかんもんね。ところで、あんたどこで私の名前見たの」
「あ。常子信じてないな。まじだって。常子の名前だけはこっちまでがんばって持ってきたんだって」
「あっはっはっは。それはご苦労だったね」
「イシハラツネコ。おれはイシハラタケオだった。タケは山のほう。子供は二人だった。男の子と女の子。男の子は子供の頃に病気で死んだ。子供も辛かったけど、そのあとずっと落ち込んでいる常子を見るのが辛かった。復員して常子に会えて、タケオはとても幸せだった。死ぬときに見た天井。常子が手を握っていた。あとはずいぶん忘れてしまった」
「よく知っているんだねえ」
「おれは常子に会えて幸せだったよ。また会えて嬉しい」
「ありがとう」
 もちろん私は信じませんでした。けれど涙はこぼれました。私の名前はアパートの郵便受けを見たのか、病院の待合室で見かけたのか、機会はいくらでもあったのでしょう。私たちの生い立ちについては、どなたかご近所の人から聞いたのかもしれません。嫁に行ったきりになった娘について、愚痴をこぼしたことだってあったのですから。なぜ、私なのかと理由だけがわかりません。使った手の込んだ年金詐欺かとも一瞬警戒しましたが、支払うような貯えも私にはそれほどありません。優しい子供の残酷ないたずらということにしておきました。一人暮らしの年寄りをからかう嘘は、泣きたくなるほど、信じたい何かがありました。事実私は信じたかった。置物のような夫が、もっと小さな白い箱に収まり、石の下に行ってから、私はずっとずっと一人でした。それがでたらめでもこんな風に、言ってくれる人がいてもいいと。
 その日限りと思ったいたずらは、子供の気まぐれゆえかその後も続き、早いものでもう二年。週に一度ほど、だるまさんが電車に乗ってやってきます。どう説明したのかは知りませんが、だるまさんのご両親は、おばあちゃんが増えたようだと喜んでくれました。たまに土産や電話まで入れてくださいます。私も孫が増えて嬉しいです、と澄まして答えています。だるまさんが来ると、私たちはまだ夫が元気だった頃のように、連れ立って深大寺まで散策に参ります。植物公園まで行く日もあります。それはとてもゆっくりとした道行きです。
 四季を回す水車を脇目に、私たちは手を繋いでどこか遠くへ思いを馳せるのです。だるまさんはまだ若いのに信心深く、私を憶えて再び会えたことは何かのお導きで、感謝してもしたりないと言います。そして、昔の道行きを辿ることで、タケオの記憶をとどめて置きたいと言うのです。でも、だるまさん自身はやはり歳相応の子供なのです。
「常子が倒れたら、今度はおれが面倒を見るよ。だからおれが大人になるまで元気でいてもらわなきゃ」
 帰りの蕎麦屋さんで、だるまさんはいつも同じことを言います。
「いい病院だってあるし、福祉の方もよくしてくださるのよ。だるまさんだって今年は高校を受けるんだから、そんなまめに来なくたっていいんだよ。勉強はできてるの」
「やってるよ。高校生になったらバイトもできるじゃん。そしたら常子におれが蕎麦をご馳走するよ。携帯も持つから、常子も持ってよ。ストラップはお揃いであれにしよう。お財布につけている目が飛び出すだるま」
「家の電話だって大して使わないのに必要ないでしょ」
「安心できる」
「そんなことより、まだ若いんだから、早く可愛い子でも好きになんなさいよ」
「常子は冷たい」
「私ほど優しい婆もそんなにいない」
「おれも優しいよ」
「優しいのは知ってるけども、だるまさんはこんな婆さんにつきあって何が楽しいんだか。義務で来ることなんかないよ。好きに時間を使えばいいじゃない」
「使ってるよ。楽しくなかったら来るわけないじゃん」
「何が楽しいの」
「時間が停まるところ」
 たまに、だるまさんが本当に死んだ夫の生まれ変わりじゃないのかと、信じる瞬間もあります。慎ましい我が家の玄関先で、だるまさんがだるまを懐かしそうに撫でているとき。苦労ばかりの戦後の思い出話を、黙って聞いていてくれるとき。こうして向かい合って、昔のように蕎麦を啜るとき。生まれ変わりというよりは、生前そのままの夫が、私の手を引いているような気がしてくるのです。
 けれどそれはやはり、信じすぎてはいけないのです。
「時間は停まったりしないよ。悲しいときも嬉しいときもすべて過ぎ去っていくものだよ」
「たまに停まる」
「それはまだだるまさんが若いからだね。歳取ると何もかもあっという間だよ」
「せっかくおれは常子に会いにきたのに」
「うん。今日も楽しかったよ」
 深大寺前からだるまさんを乗せたバスが見えなくなるまで、私は身じろきもせずに見送っていました。そうしてから、手を背中で組んで、一人暮らしのアパートまでゆっくり帰ります。
 私もまだまだお礼参りをしなければなりません。新しくできた願い事も一つあるのです。
 もし、万が一だるまさんが夫の生まれ変わりならば、どうか、今生でおしまいにしてください。
 あまりに満ち足りた日々と思いは、すべてこの世に置いてゆきます。だるまさん、あるいは夫は、充分すぎるほどによくしてくださいました。
 来年か、再来年か、あるいは十年後か、最後の日が訪れるあかつきには、どうかまたこの思いを抱えて生まれ変わることなどありませんように。
 だるまさんはいつか来なくなるかもしれません。それでも私は充分に幸福ですし、死者でも生者でも変わらず夫を思い、同じほどこの恋の供養を願っているのです。

(了)



<著者紹介>
(神奈川県川崎市/29歳/女性/自営業)

 亀の捨て場所に困っていた。この三年でずいぶん大きくなった。
 その日は朝から降っていた雨が昼過ぎには上がり、勝手な言い草だが亀を捨てるには良い日に思えた。ダンボールの箱に亀を入れて自転車に積むと、深大寺門前の亀島弁財天池を目指す。地図を見てめぼしをつけておいた場所だ。今日こそ亀を捨てよう。
 この町には大きな植物園があることと、深大寺という古い寺があり、その門前でそばが名物であることだけは越してくる前から知っていたが、住み始めて半年、まだ植物園も寺も訪れたことはなかった。ほどなくして着いた亀島弁財天池は亀の楽園に見えた。思っていたより広い池で亀がのんびり泳ぎ、小さな岩の上では重なり合って甲羅を干していた。絶好の亀捨て場だ。
 自転車を止め、箱の中でごそごそしている亀に別れを告げる。ごめんよ、もうおまえを飼っていられないんだ。ここで元気に暮らせよ。時々会いにくるよ。まさに池に亀を放そうとしたその時、鋭い声がした。
「池に亀を捨てないでください」
振り返るとそこには厳しい表情をした女の子が立っていた。
「よりによってアカミミじゃないの。だめよ、こんなものこの池に捨てないで。イシガメやクサガメが住めなくなるでしょ」
「えっ、だってもうここはアカミミばかりじゃない」
女の子の表情がいっそう険しくなるのを見て、自分が口を滑らせたことを後悔したがもう遅かった。
「そうよ、みんなが大きくなったアカミミを捨てにくるから、アカミミばかりになるのよ!とにかく飼えなくなったから捨てるなんて無責任よ。大人のすることじゃないわ」
えらい剣幕だ。僕はこの池に亀を放すのをあきらめた。女の子の言ってることは正しい。飼えなくなったからといって命あるものを捨ててはいけない。そして、外来種であるアカミミガメを、というよりミドリガメといった方がわかりやすいが、放すことは在来種であるクサガメやイシガメを追いやることになり、本来の生態系を壊す。例え、すでに日本国中の池がすっかりアカミミガメの天下になっているとしても、さらにそこにアカミミガメを放していいということにはならない。君の言う通りだ。
 僕は亀をダンボールに入れると女の子に頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。
「待ちなさいよ、ここに捨てるのはあきらめて、よそに捨てようと思ってるでしょう」
図星だ。このあたりはきれいな水がいたるところを流れており、いくらでも他に亀を放す場所はありそうだった。詰問が続く。
「どうしてそんなに亀を捨てたいの?」
「辛いからだよ。この亀と暮らすのが辛いんだ。どうして辛いかは君には関係ない」
女の子の剣幕に言わずもがなのことを言い返してしまった。
「でも、あなたはこの亀と別れるのも辛いと思ってるでしょう」
これも図星だ。どうやら、さっき長々と亀に別れを告げているところを見られたらしい。「それなら私がその亀もらってあげるわ」
 思わぬことから、その女の子、深雪ちゃんに亀を引き取ってもらうことになった。小学生の時に夜店で買ってもらったアカミミをずっと飼い続けているので、一匹増えてもかまわないという。深雪ちゃんはこまめに亀の写真付きのメールを携帯にくれた。高校生だと思っていたら大学院に通う学生だった。
 何度か会社帰りに駅で会うことがあり、お茶を飲むうちに、待ち合わせて食事をしたり飲みに行くようにもなった。もうすぐ三十になる僕と話してなにがおもしろいのか、なんでもない話で笑い転げる子だった。
 秋になってしばらくした頃、おそばを食べに行こうとお誘いがきた。なんでも深大寺で「縁結びそば祭り」が開催されるそうで、その招待カップルに当選したのだという。
 縁結び......間抜けにもこの時になってようやく深雪ちゃんが僕に好意を寄せているらしいことに気がついた。気がついてみるともういけなかった。メール一通返すことができなかった。そば祭りの日、僕は携帯の電源を切り、家から一歩も出なかった。携帯の電源はそれからずいぶん長いこと切ったままにしておいた。深雪ちゃんをひどく傷つけることはわかっていたが、どうしようもなかった。もう誰にも僕を好きになんてなって欲しくなかった。僕は一人でいるべき人間だ。
 職場とアパートを往復するだけの日々に戻り一年が過ぎた。駅で深雪ちゃんを一度だけ見かけたけど走るように逃げた。もしかしたら走って逃げる僕の後姿を見られたかもしれない。さぞ情けない姿だったことだろう。でも、それでよかった。
 時々亀を手放したことを深く後悔した。その日、自分を持て余してやみくもに自転車を漕いでいるうちに見覚えのある風景、深大寺にたどりついた。お参りをすませてから、ここが千三百年もの歴史がある関東でも屈指の古寺であることを知る。境内には池や水路がいくつもありそこかしこで水音がした。水辺が好きだったおまえを連れてきてやったなら、きっと喜んだに違いない。境内の池の端にたたずみおまえのことを思った、その時だった。
「また亀でも捨てにきたの?」
聞き覚えのある声がした。
「走って逃げたって追いかけるわよ、今日は」
深雪ちゃんが立っていた。
「あの日、ずっと待っていたんだよ。どうして来てくれなかったの? 私のことが嫌いならはっきりそう言ってくれればいいのに」
まっすぐな質問が僕を射る。下を向いてしばらく黙っていたが、観念して誰にもしたことのない話を始めた。話し始めてすぐに、誰かにこの話を聞いてもらいたくてたまらなかったのだと気がついた。
 恋人がいたんだ。その日彼女は僕にペットの亀を預けにきた。翌日から友達とヨーロッパ旅行に出かけることになっていたんだ。そう、君に飼ってもらってるあの亀だよ。帰り際駅まで送ってくれって頼まれたのに、僕は見たいテレビがあるからって送っていかなかった。ビデオが壊れていて録画できなかったのは事実なんだけど、でも、本当はちょっとおもしろくなかったんだよ、彼女がヨーロッパに行くのがね。一緒に行ければよかったけど僕にはそんな余裕はなかった。
 そして、その帰り道彼女は飲酒運転の車にはねられて死んだ。信じられないだろう、そんなドラマみたいな話。勿論そばにいても助けてやれなかったかもしれない。みんながそう言って慰めてくれた。彼女が死んだのは僕のせいじゃないってね。でもね、恋人がまさに死んでいくその時、僕はテレビを見てへらへら笑っていたんだよ。そんな自分を許すことはできないだろう。
 手元にはあの亀だけが残され、それから三年あの亀と暮らした。でも辛くて辛くてとうとうあの日捨てに来たんだよ。勿論、本当に捨てたかったのは亀じゃない。僕が捨てたかったのは僕自身だ。君が僕のこと好きなんじゃないかと気がついた時、たまらなく恐くなった。僕は君の気持ちに応えてあげることはできない。逃げたりして悪かった。
 池の端にしゃがみこんだ。泳ぐ鯉が滲んでみえた。流れる水のそばに住みたいというのがおまえの口ぐせだった。庭先に小さな流れがあったならどんなにすてきかしらん。僕は夢みていた。そんな家におまえと住むことを。そして、その庭であの亀を飼うことを。
「それでも私はあなたが好きよ」
すぐには深雪ちゃんの発した言葉の意味がわからなかった。
ソレデモワタシハアナタガスキヨ
「私は大雪の日に生まれたの。それと深大寺の深沙大王から一文字いただいて深雪って名前になったの。深沙大王は亀に姿をかえて、引き裂かれた恋人を添いとげさせてくださった水神さまなのよ。私には縁結びの神様がついてる。だから、きっとあなたは私のこと好きになるの。そう信じてるの」
深雪ちゃんは一気にしゃべった。それから急にしゅんとして小さな声で言った。
「そんなのただの思い込みだけど」
それがただの思い込みじゃないことを僕は知っていた。僕も深雪ちゃんを好きになり
始めていたのだ。だからこそ、あの日会いにいけなかった。深雪ちゃんが話し続ける。
「彼女の亀を捨てたり、彼女のことから逃げようとするのはいけないと思うの。事故の時テレビ見て笑っていた自分が許せないのはあたりまえだと思うし、そのことで一生苦しむのも仕方ないかもしれない。そうでしょ」
辛くてたまらなくても全くその通りだった。
「でもね、亀を預かったように、悲しいときや苦しい時に私がそばにいればなにかしてあげられるかもしれないでしょう」
温かな湯が突然胸の中に流れ込んできたような気がした。温かな湯は胸から腹へ広がりそして足や手の指の先までゆるゆると流れ込んで行った。それは自分がどれほど冷え切
っていたかを知らされるような温かさだった。「あなたが元気を取り戻して、またあの亀を自分で飼えるようになるまで大事に預かっててあげるから安心して。その代わりに今日はおそばごちそうになろっかな。去年の縁結びそば祭りで食べ損ねたからね」
 涙目の深雪ちゃんがそう言ってけらけらと笑い、つられて僕も笑った。それから門前のそば屋で奮発して天ざるをごちそうした。記念だからと言って二人で大盛りを食べた。久しぶりに心が晴々とした。

(了)



<著者紹介>
中島 晴(神奈川県横浜市/45歳/女性/主婦)

 晴れの得意日とは言ったものだ、10月10日の秋の日が快晴の空から斎場を照らしていた。何時もより小さく見える祖父の姿を私は黙って見ていた。葬儀も滞りなく終わり、丁度一ヶ月くらい過ぎて、店も平穏さを取り戻した頃、祖父が2,3日、父に任せ、旅行へ行くと言い出した。蕎麦打ちも仕込みも、今は父が行っているとは言え、味の見極めは、何時も祖父がしていた。戦後に店を出した歴史の浅い蕎麦屋にとって、味の維持が重要だとの思いが祖父にはあったのだろう。
「何処に行くんだ?まだ35日も終わってないじゃないか。」
父は、祖父の外出にこう苦言を呈した。特に反対するつもりはないが、35日の法要の直前であったことに多少不満があったのだろう。
「今行かないと間に合わないから。」
ぽつりと一言いって祖父は厨房の奥へ行ってしまった。私は、祖父が祖母の死を期に引退を考えたのではないかと勝手に思い込み、祖父のこの一言など気にせずに、
「行かせてあげればいいじゃん。店をお父さんに全て任せるなんて無かったことだし、おばあちゃんが死んだから、もうそろそろとでも思ったんじゃないの。」
などと、余計なことを言っていた。

 次の朝になって、祖父は、旅行へ行くと言うメモを残して、家からいなくなってしまった。旅行へ行ってしまったことは明らかであったが、行き先も日程も告げずに消えてしまったので、家族はそれなりに動揺した。とは言え、35日の法要の準備もあったし、店のこともあったので、帰ってきたら文句を言おうと言うことで、父の一括の元、家族会議は終わりになった。
 私は、家族会議の輪の中にいながら、全く別の事を考えていた。昨晩、非常に不思議な夢を見たのである。夢の中で私は、深大寺の池の前に立っていた。子供の時より親しんだ場所だけにそこが、深大寺の池であることはすぐに分かった。ところが、池の畔の社が無いのである。それが気になって、ふと、池を見ると大きな亀がこちらに泳いでくるのである。亀は水面より頭を持ち上げると、私の頭の中に直接話しかけてきた。
「声をかけねば恋もかなわん。お前の様な奴は自分の気持ちも良く分かっておらんだろうがの。」
と亀に言われて、何かを私は言い返そうとして目が覚めたのであった。私には、確かに気にかける異性がいる。しかし、それほど強い恋愛感情を持っているとも、自分の気持ちを伝えられない自分自身を厭になってもいなかったので、心の奥底では亀に言われた様な心理が有って、ストレスにでもなっていたのだろうかと真剣に悩んでしまったのである。

 家族中が浮き足立って、私も別のことに浮き足立って、3日が過ぎ、祖母の35日の法要を翌々日に控えた夕方、祖父は、泥だらけの靴で帰ってきた。様々にそれぞれの立場から祖父に、文句や、心配であった事などを告げたが、生返事をするばかりで、何処へ行ったの問いかけには、一言こう言った。
「奥久慈へ行って来た。」
父は、その一言を聞いただけで思い当たることでもあったのか、家族にもう失踪事件の事では、何も聞かない様に諭した。母は、嫁の立場というのがあってか、まだかなり不満顔であったが父の言葉に従った。私は、奥久慈が何処に有るかも分からず、ただ奥と地名に付くのだから紅葉のきれいな所で紅葉狩りにても行ったのだろう位に思った。祖父は、非常に疲れた様子で直ぐに床に就いてしまった。

 翌日の朝になって、祖父に宅配便が二つ届いた。送り主も祖父だったので、土産かと思い、祖父にその事を告げると、祖父は、店の開店前に、店内のレジ前の飛び石に使っている石臼を掘り出した。掘り出した後の穴の始末を父に告げ、奥でこの石臼を丁寧に洗っ
て、中央に小穴のあいた方に使い古したベルトと、荷縄ですりこぎ棒を側面に固定した。宅配便の荷を解くと蕎麦の実と籾殻を梱包材にした自然薯が入っていた。我が家の蕎麦屋は、生蕎麦であって、繋を使っていないのに自然薯とはとか、今は長野の新蕎麦の粉が店でも出しているのにと、私は変に思った。祖父は、蕎麦の実や自然薯を見ながら、嬉しそうに独り言をいった。
「この実はよく天日で干してある。良い匂いだ。天然物は細いが、やはり堀たては、泥も乾いて無くて新鮮だな。」
その言葉を聞いて、私は、祖父がなにやら素材への拘りが有った事と、靴を泥だらけにする程、入手困難で旅行に3日間歩き回った事を感じた。

 昼の営業時間も終え、昼休みなると、祖父は、父に夜の分の仕込みを任せて、石臼に向かい、蕎麦の実を製粉した。そして、ざるで外皮の粗いところを除き、さらに、菓子箱の一辺を切り落とした即席の箕で細かい外皮を器用に取り除いていた。
「昔は、もっと道具が揃っていたのに。」
と、言いながら、祖父は、この繰り返しを延々と夜遅くまで繰り返していた。
 翌朝、祖母の35日法要の当日、朝早くから、祖父は、擂り鉢で丁寧に擦り潰した自然薯を繋に蕎麦をうった。天然の物の自然薯は非常に粘度が高く、八百屋で売っている山芋とは、明らかに別物で有った。後で教えて貰ったが、自然薯はその辺で売っている山芋とは別品種で、自然薯自体山芋と呼ばれる事が昔は一般的だったとの事であった。法要も終わり、参集して貰った親類縁者にこの特製蕎麦が振る舞われた。この特製蕎麦は、蕎麦屋の子である私も初めての香りの強いもので、素朴という言葉が非常にぴったりの味だった。この時、祖父の失踪事件が話題となったが、当の本人は旅行の目的を語らず、深大寺に行くと言って席を外した。しかし、旅行目的が、材料の蕎麦の実と自然薯の入手に有ったことは、誰の目から見ても明らかだったし、席を外した事も照れ隠しであると思われた。叔母が、充分に特製蕎麦を堪能した後、奥久慈と言う単語から旅行目的の推理を披露した。
「初めての家族旅行の場所だったからね。お母さんの疎開先って聞いていたけど。だから奥久慈だったじゃないの今回の旅行先が。それに、この蕎麦の味は、疎開先だった家で頂いた蕎麦の味みたいじゃないの。お父さん、だからこの蕎麦をうちたかったんでしょう。」
言葉の最後の方には、叔母の目が少し潤んでいた。この推理に誰もが納得した。私は、父が、奥久慈の言葉で、家族をなだめた時、同じ思いが有っただろう事を思った。一同は祖父の祖母への思いの深さの様なものを感じた。

 会食も終わりに近づいて来たのに一向に帰る気配の無い祖父が気になり、私は、母に耳打ちし祖父を迎えに深大寺へ向かった。しかし、深大寺の表境内に祖父はいなかった。私は、夢の事を思い出し、池の方へ足を向けた。池の畔の社の前に祖父はいた。社には、祖父の特製蕎麦が、供えてあった。私は、祖父に家に帰る様に促し、祖父もそれに従った。帰り道で私は、叔母の蕎麦への推理を祖父に話した。すると、祖父は、天日干しの蕎麦の実が入手困難であったこと、自然薯を掘る人の家を譲って貰う様にお願いして回った事などを話してくれた。そして、
「昔は貧乏だったから、何処へも連れて行けなかったから、そんな昔の事を覚えていたんだろうな。小学校の夏休みなんて何処にもつれていかないとよく文句を言われたからな。」
と叔母の推理が正しかったことを認めた。しかし、蕎麦へのこだわりか、今日の蕎麦については、
「今日の蕎麦は、もてなしの料理で、店に出す物じゃないんだ。蕎麦屋は、蕎麦でお客に喜んで貰えばいい。でも、今日のは、婆さんの客への振る舞いだから別物だ。昔の旅行の時に連絡もしないで押しかけて、それでも最高のもてなしをしてくれた、婆さんの親戚の心遣いの真似事みたいな物だ。」
と言って、まだまだ、その域には達していないかの様に話をした。私は、その疎開先の家の人が今回、参列していないことを訪ねると、
「あの家の息子は優秀で旧制の高等学校に行って、そのまま学徒で戦死して、跡継ぎがいなくなった。今回も墓にだけには行ってきた。」
と答えた。子供のいなくなった夫婦が、自分の娘の様に祖母を思っていたであろう事は何となく理解できた。そして、家族旅行でわざわざ突然押しかけたり、それでも祖父の家族旅行で最高のもてなしをしてくれたのもその為であると思った。

 私は、夢の事もあって、あの社に何故、お供えをしたのかを祖父に尋ねた。する、祖父は、聞こえるか聞こえないかのような声で、
「あの池の亀が・・・。」
と言いかけ、思い直した様に、
「いやいや、婆さんが子供らや孫らをこの辺でお守りしてからな。」
と言い換えた。
 私は、祖父が気恥ずかしいだけでなく、この池の亀に祖母との出会いのお礼をしたくて、席を外したのだと思った。そして、意中の人に告白することを決意した。




<著者紹介>
倉嶋 秀樹(茨城県牛久市/37歳/男性/会社員)

 あー、むかつく!
 都立高校の合格発表のあった日の夜だ。あいつ、何てメールしてきたと思う?
「今度の土曜、ヒマ?付き合ってよ」
 デート?
 そんなんじゃないって。あいつなんて別にどーでもいい存在だ。ただ、近所ってだけ。小学校6年間と中学3年間、たまたまずっと一緒のクラスだったけど。もっとさかのぼれば、幼稚園も同じ。そりゃ長いけど、そう、腐れ縁とかいうやつ。嫌だ、嫌だ。
「ある人にプレゼントしようと思ってるんだけど、何を贈ったらいいか分からないから、選ぶの手伝って」
 ある人?
 何それ?
 好きな子ってこと?
 いっちょまえに色気づきやがって。プレゼントだと?
「相手は誰? 同じ学年? 何組? アタシの知ってる子?」
メールであまりにしつこく訊ねたので、あいつは逆ギレした。
「誰だっていいだろ」
 誰でもよくないだろ。卒業を前にして、片想いだった子に贈るつもりだろうか。そこでアタシに助けを求めにきた。普通、そういうこと、別の女の子に頼むかよ。
「アクセサリーなんかがいいんじゃないの?
でも、アタシの意見、参考にならないよ」
「いいんだよ。お前だって一応、同じ女だろ」
 一応、は余計だろ。なんでアタシがあいつの恋の手助けをしなきゃいけないんだ。けど断ったら、やきもちを妬いているんじゃないかって思われるのが癪だから、こう返信した。
「しょうがないから付き合ってやる。その代わり、メシおごれ」
 送信してから失敗したと悟った。案の定、食い気に対して、ツッコミを入れられた。

 土曜は渋谷で待ち合わせた。近所なんだから一緒に行けば、せめて地元の調布からでもいいと思うかもしれないが、そうはいかない。クラスメートの誰かに見られでもしたら大変だ。
 よく考えてみたら、あいつと二人きりになるなんて、中学に入って初めてかも。小さい頃はよく一緒に遊んだし、よく泣かした。アタシがあいつを泣かしたっていう意味。だって、あいつ、ウジウジしているから、ついキツイこと言ったり、蹴りとか入れたくなるんだよね。ま、昔のことは水に流してって言いたいけど、今でも根に持っているんだろうな。掃除当番の時、ほうきでゴミをアタシに向かって掃いてくる嫌がらせをするくらいだから。
 モヤイの前で待っていたら、いきなり背後からダッフルコートのフードをかぶせられた。やりやがったな。せっかくの髪型が台無しじゃんか。アタシは思いっきり睨み返した。からかうようにしてあいつは覗き込んできた。
「お前って、よく見ると可愛いな」
 えっ......。
「化粧がうまいんだな。てゆうか、化粧、濃くない?」
 余計なお世話だ。まったく頭に来る奴だ!

 春休み前なのに、渋谷は賑やかだった。いつもそうなんだろう。マルキューへ入ろうとして、あいつは躊躇した。恥ずかしいのだ。実はアタシもマルキューは初めて。でも、女の子の定番といえばココでしょ......たぶん。
 あいつはいちいち意見を訊いてくるのだが、アタシの反応がイマイチだったからだろう、なかなか選べずにいた。はっきり言って、アタシ、あんまり興味ないんだよね、アクセサリーとかって。
 スペイン坂でも決められず、あいつは原宿へ行こうと言い出した。アタシはお腹が空いて、仕方がなかった。しかし、乙女としては口が裂けても言えない。か弱いフリしてみた。
「アタシ、もう歩けない」
「なんだ、もう腹減ったのか」
 なんでズバリ言い当てるんだ。あいつは懐石料理なんて年寄りくさい、失礼、高級そうなお店へ入ろうとした。あいつなりのサービスのつもりだったのだろうけど、アタシは慌ててマックでいいと引き止めた。プライドが許さないのか、イタめし屋になったんだけど。
「お前、北高に決めたんだろ」
「近所だからね。ぎりぎりまで寝ていられるし。それにしても、またあんたと一緒だよ」
「俺、私立へ行くことにしたんだ」
 初耳だった。合格発表の時、お互いの受験番号を見つけて喜んだのに。
「残念だな。からかう相手がいなくなって」
「こっちだって、もうこんな厄介なことに巻き込まれなくて済むと思うと、せいせいする」
 そっか......別れ別れになっちゃうのか。そうしたら、あいつは言った。
「別に永遠の別れってわけじゃないしな」

 昼飯後、再びあいつは買い物の続きをした。
アタシはうわの空だったので、あいつが怒っていることに気づかなかった。
「どっちがいいか、決めろよ」
 アタシはキレた。
「なんで、アタシが決めなきゃいけないのよ。アタシは関係ないでしょ!」
 アタシはお店の前で、お客や通行人が見ているのも構わず怒鳴り散らしていた。
「第一、プレゼントする前に、相手に気持ち伝えたらどうなの!」
「できるわけねえだろ」
「どして?」
「......いいんだよ。ただ、俺のこと、ちょっとでも覚えてくれていたらと思って」
「分かんない。全然、分かんない」
「分かってたまるか」
「女の子はモノより気持ちの方がずっとずっと嬉しいの!」
 いきなり周囲から拍手が起こった。ギャラリーの野次馬たちが一斉に手を叩いていた。アタシは顔から火が噴き出るような思いで、一目散に逃げ出した。走って、走って、走った。が、その腕を掴まれた。あいつだった。あいつの握りしめる力は強く痛かった。
「悪かったよ。お前にこんなこと頼んじゃって。もう帰ろう」
 アタシは何も言えなかった。

 調布の駅に着くまでアタシたちはずっと無言だった。改札を出て、バスで帰ろうと思っていたアタシに、あいつは自分のチャリンコの荷台を示した。いつもなら、憎まれ口でも叩いて何か言い返すアタシだが、おとなしく従った。でも、やっぱりアタシはアタシ。二人乗りったって、普通の乗り方じゃない。後ろ向きだ。
「女らしく横坐りしろとは言わないけど、フツー、そんな乗り方するか?」
「だって、疲れたから、背もたれがほしい」
 アタシはあいつの背中に寄りかかった。
「それとも、腰に手を回してほしかった?」
「バ〜カ」
 あいつは御塔坂をいっきに駆け上ろうとした。アタシはバランスを崩し、荷台から飛び降りた。あわやひっくり返るところだった。
「それがレディに対する仕打ち?」
「だから、ちゃんと坐れって言っただろ」
 しょうがなくチャリンコを押して、アタシたちは歩いた。
「このまままっすぐ行くと北高だな」
「あんたはこの道を下って、通学するんだね。アタシと正反対」
 深大寺入口の信号まで来た時、気づいた。
「ねえ、ちょっと寄っていこうよ」

 深大寺はちょうどだるま市で、屋台の並ぶ境内はものすごい数の人と威勢のいい声で熱気に包まれていた。アタシはもみくちゃにされ、あいつの姿を見失った。見回してもどこにもいない。焦った。そして、心細くなった。思わずあいつの名前を叫んでいた。するといきなり、目の前にチョコバナナとあんず飴とタコ焼きが差し出された。あいつはアタシの気持ちなんか知らずに抜かしやがった。
「そろそろエサの時間だと思って。あれ、食べないのか?」
 もちろん食べるさ。現金な奴だ、アタシは。
「だるまは買わないの?」
「受験が終わったら、必要ねえよ」
「恋愛成就祈願ってのもあるよ」
 アタシの目に入ってきたのは、ピンクとブルーの小さなだるまのセットだった。
「これ、これ、これにしなよ、プレゼント」
「こんなのが? この色、気持ち悪いぞ」
「カワイイじゃん。絶対、いいって。ピンクのだるま、もらったらきっと嬉しいよ」
「そうかな......」
 気乗りしないあいつを見て、アタシは気づいた。これはアタシがもらうんじゃない。
「そうだね......アタシはカワイイと思っても、その子は気に入らないかも......」
 アタシとあいつは植物公園の前で別れた。
「じゃあね」
「じゃあな」
 いつもと同じ挨拶。でも、これが最後の挨拶かもしれない。

 家に帰ると、アタシはぐったりとベッドに倒れ込んだ。
「痛ッ」
 首の付け根に何か当たった。ダッフルコートのフードの中だ。また、あいつの悪戯か?
「......!」
 アタシはそれを手にしたまま、じっと見つめていた。何だよ、あいつ。何なんだよ、あいつ。アタシは怒っているのに、笑顔を作り、しかも涙までこぼしていた。忙しいやつだ。
 アタシの手の中にあるのは、小さなピンクのだるま。





<著者紹介>
(東京都調布市/34歳/男性/脚本家)

 新緑の深大寺は、木漏れ日が溢れ、流れる水も輝いて、眩しいばかりだった。打ち水された石畳までが春を喜ぶようで、行き交う人の足もとも軽やかだ。門前に並ぶ店からは、茹で上がったばかりの蕎麦の香りがこぼれ出し、舌鼓を打つ人々のざわめきが聞こえる。こんな佇まいが、深大寺の魅力の一つと言えるだろう。
 爽やかなせせらぎに乗って、今、僕の傍らを五月の風が通り過ぎていく。

「おや、可愛い赤ちゃんだな。」
 お母さんがニコニコと赤ちゃんをあやしている。今は母となったこの娘のことを、僕はよく知っていた。もちろん、この赤ちゃんのお父さんのことも忘れられない。ほぉら、現れたよ。面影はそのままだ。この二人の間にできた赤ちゃんだったとはね。時の流れるのは早いものだ。まるでさっき通り過ぎていった風のように感じられる。
 この二人を初めて僕が見たのは、あれはもう十年も前のことだろうか。まだ二人とも幼い感じの学生だった。いつもこの石畳を歩いて...。そう、手も繋がずに歩いて、門前の石段を登って行った。
 あれは何度目のことだっただろう。寒い冬の日だった。うっすらと雪が積もっていた。夕暮れは早く、小百合ちゃんは寒そうにじっと待っていた。ときどき足踏みをしながら。僕は彼女に尋ねた。
「そんなところで立っていたら、足も手も冷たかろう。」
 小百合ちゃんは言った。
「ちっとも寒くはないの。だって待っていることが嬉しいんだもの。」
 僕はなるほどと思った。彼女はきっと寒くはないのだ。そう思ったのは、僕を見つめる小百合ちゃんの瞳が輝いていたからだ。彼女はそのきらきら輝く瞳で僕を見つめながらおしゃべりを始めた。
「もうすぐ私ね、彼と結婚するの。きっとすてきな家庭を作れると思うわ。」
 僕にもそんな気がして、彼女の報告がとても嬉しかった。うなずいて聞いている僕に、小百合ちゃんは彼のことを話しだした。
「彼ってね。ほんとは、とっても気が小さいの。優しいくせに強がりを言うし、私には偉そうにいばったようなことも言うのよ。でも、私はそんなところも全部好き。どうして好きだかわからないくらいに、そんな彼のことがみぃんな大好きなの。」
「あはは。そうかい。そうかい。」
 僕は、『そんな男はやめちまえ。』なんてことは、心に思っても言い出さなかったさ。父親のような心境だったのかもしれないな。それに、誰でも男にはそんなところがあるからね。僕だって強がってばかりいるけれど、一番傍にいてくれる人には、なんでもかんでも預けてしまいたくなる。そんな気持ちがあるしね。一緒になる前に、男のそういう弱い部分もちゃんと受け止めているんだから、きっと幸せになるだろう。そう思ってニコニコと聞いていたよ。
「ほら、政人君のお出ましだ。」
 僕の声も耳に入らないかのように、小百合ちゃんは彼の元へ駆けて行った。そして、まるでじゃれつく子犬みたいに政人君の腕にしがみつき、そして彼を見つめた。意地の悪い北風もたまにはいいことをするものさ。二人が真っ直ぐ見つめ合ったそのとき、彼女の背中をピューっと思い切り押したんだ。「時が止まる」ってことを知っているかな?
 言葉だけならみんな知っているだろう。でも、ほんとに時間は止まったり速くなったりするんだよ。まったく天の時というのも粋な計らいをするものさ。周りのみんながじっと息を詰めて、二人の時間を止めた。小百合ちゃんは政人君の胸の中へふんわり倒れこむと、冷たくなった頬を赤らめながら、そっと彼を見上げていた。きっと彼女は、彼の胸の中を蒲団のように暖かく気持ちがいいと思ったことだろう。その証拠に、彼女はうっとりとして目を瞑ってしまった。政人君はちょっとどぎまぎしていた。小百合ちゃんの可愛い唇がすぐ目の前にあるのだからね。彼は身じろぎもせず、目だけで天を仰いでいる。さっきまでの夕暮れはもう夜の闇に取って代わられていた。一瞬、政人君がきょろきょろと首を回した。僕はもう北風と笑っていたよ。さあ早く。時が動き出す前に、さあ早く。君の愛した可愛い彼女に、君の唇で気持ちを伝えなさい。おせっかいな夜の帳もざわめきだした。
「こんなときは本当にじれったい。」
 気の短い北風がそんなことを呟いた。誰もがじっと息を詰めて二人を見守っている。
 そのときだった。二人の周りがピンクに染まって燃えている。僕はこんな景色を何度も見てきていた。北風もほっとしたように見つめていたよ。二人を包むピンクの炎。こんな素敵な景色は他にはないだろう。誰の目にも映らない二人だけの時間が、二人の中だけに流れている。話し声が聞こえるようだ。
「あなたを愛してるわ。大好きなの。」
「ぼくも君が大好きだよ。誰よりも愛しているよ。」
 二人の心の声が、ピンクの炎の中で燃えている。そっと二人が体を起こして見つめ合った瞬間、そうさ、時間が流れ出した。息を詰めて時間を止めていたさまざまな精霊たちも、一瞬にして姿を消した。きっとみんなほっとしたことだろうよ。北風ももうひと働きしてくると僕に告げて、飛び立っていった。小百合ちゃんは微笑んでいた。政人君も照れたように微笑んでいた。二人は僕の前をゆっくり手を繋いで歩いていった。彼の右手には彼女の左手がしっかりと握られ、その手は彼の大きなポケットの中に入っていた。
 あの二人が今はもう父親と母親になったなんてね。これからきっとあの新しい命の塊みたいな赤ん坊に、二人の気持ちをいっぱい伝えて育ててくれることだろう。二人と小さな一人を見送りながら、そんなことを僕は思っていた。

「よっこらしょ。」
 誰かと思えば、もう何百回となく僕にその言葉を聞かせてきた女性の姿がそこにはあった。足も腰もひどく重そうだ。あぁ...。もちろん早苗さんのことも僕は知っている。もう五十年以上になるのだろうか。彼女の周りの時間は今はもうゆっくりゆっくりと進んでいる。早苗さんもそれをわかっているようだ。穏やかな瞳でこの深大寺を見つめてきた一人だった。
 早苗さんがこの深大寺の中でも有名な蕎麦屋に嫁いできたのは、深大寺が紅葉で染まる季節だった。若い嫁として店を手伝い、そしてやがて子どもができると背中に背負い、緑豊かな深大寺の境内を子どもたちは駆け回り大きくなった。豊かな水に支えられたこの深大寺で一生を送ってきた彼女の瞳は、僕と同じようにこの地を愛してやまない瞳に見える。「よっこらしょ」という言葉が早苗さんの口から出るようになったのは、彼女の夫が亡くなってからだった。僕ははっきりと思い出す。彼女が僕の傍に駆けてきて、声を殺して泣いていた夜のことを。人はいつかは死を迎える。そして、長い人生を共に歩くということもたやすいことではない。それだからこそ彼女は、この深大寺に嫁いだ日からのことを振り返って、現実となった別れに涙を流したのだろう。

「よっこらしょ」と言う口癖は変わりなかったが、早苗さんは微笑んで僕を見つめていた。そっと僕に触れると、懐かしい気持ちがその手のひらから流れ込んでくる。彼女の心の中に、今は何かしら暖かな想いが育まれているようだ。僕は早苗さんに尋ねた。
「何かいいことでもあったのかい?」
 彼女はふっと笑って黙った。けれど僕には彼女が幸せな気持ちに浸っているのがはっきりわかった。見つめる彼女の瞳はただ優しくて、僕は穏やかな幸せな気持ちを分けてもらっているような気分になっていた。
 きゃっきゃと走り回る子どもたちからは、溢れるようなエネルギーを与えられる。こうして年老いた彼女からは、今まさに深い慈愛のような心地よさを与えられていた。空にも風にもそれぞれに役割があるように、赤ん坊にも、子どもたちにも、若い男女にも、そして年老いた人々にもその役割がある。この地球上のすべてのものたちは、互いに連動し合いかかわり合って、そのエネルギーを交換し合っているのだろう。
 早苗さんは僕をゆっくりと擦った。その手は痛みを知った尊い手だった。
「よっこらしょ。」
 彼女はもう一度そういって立ち上がると、ゆっくりと彼女の方へ近づいてくる老人に会釈をした。言葉を交わすわけでもない。ただ眩しいばかりの生まれたての若葉を二人で眺めている。そのとき僕には見えた。蜻蛉のようにうっすらと二人を包むピンクの炎が...。足も腰も支えるのが精一杯のはずなのに、今二人の心は軽やかに青空を駆けている。

 爽やかな五月の風が花びらを揺らした。二人が僕の花びらを見つめながらこう囁いたのが聞こえた。

「今年も綺麗に咲きましたね。」
「あぁ、ほんとうに綺麗な、そして不思議な花だね。このなんじゃもんじゃの花は...。」



<著者紹介>
長沼 直(東京都練馬区/44歳/女性/主婦)

 このところ、携帯電話を握っている時間が確実に増えた。誰かからの連絡を待つ時間が増えたということだ。それは、楽しくもあり、息苦しくもある時間だった。
 麻衣は携帯の液晶画面をちらっと確認して、小さくため息をついた。翼からのメールはない。二つ折りにパチンと閉じる音が妙に大きく聞こえた。携帯をテーブルの脇に置き、お茶でも飲もうと冷蔵庫を開けに立ったとき、ブーンと振動音。麻衣はぱっと携帯を開き、メールを確認した。翼からのメールだった。そういうちょっとズレたタイミングだ。小さな落胆のあと、それを振り切って、諦めがついたころ。 それでも嬉しくてメールを読んで返事を打つ間、麻衣は顔にうっすら微笑みを浮かべている。送信して、携帯を閉じる。また翼からの返事を待つ時間。
 今、二人を繋いでいるのは携帯電話だけ。麻衣のもとから350キロ離れた東京三鷹に、翼は暮らしている。
 毎日ゆるやかに続く、翼からのメールに一喜一憂。不安になったり心配になったり、嬉しくなったり笑ったり、どうしようもなく会いたくなったり。そうして自分がメールに振り回されていると思うと苛立ちもしたが、翼とのやりとりでは許せてしまう。それはたぶん離れているからだ、と麻衣は思う。離れている自分たちを繋ぐものは、この携帯電話のメールしかない。そう気づいたとき、麻衣は翼にこう伝えた。

すぐに返事できるかわからないけど、いつでもメールしてね。

けれど、途切れることなく送受信を繰り返していると、 麻衣はときどきわからなくなる。自分はいったい何と繋がっているのだろう、向き合っているのは、この小さな機械じゃないか、と。翼との繋がりを確かめたくて、翼の気持ちを確かめたくて、麻衣はついつい挑発的な言葉を選んでしまうことがある。そしていつも後悔する。

怒った?
なんで?むしろニヤけた。
わざと言ったから。うーん、試した。
試す?そんなことしなくていいよ。...

翼は、麻衣のほうが恥ずかしくなってしまうような甘い言葉で、麻衣の不安をくるっと包んでしまう。翼の腕の中にいるみたい、そう感じると安心して、素直に「ごめんね」と言える。メールは表情が見えないぶん、本当に怒っているのか、冗談なのかわからない。
返事を待つ間の後悔と不安、怖いくらいだった。もうあんな気持ちにはなりたくない。試さなくてもいいという、翼のまっすぐな気持ちを信じよう、と麻衣は思った。
日差しと湿気で空気が重みを増し、夏の気配を感じるころ、麻衣は友人の部屋で妙なものを見つけた。目玉おやじの棒付きキャンディ、ブルーベリー味。
「有加ちゃん!これなに?」
「ああ、それ意外においしんだよ。食べてみて?ちょっと途中気持ち悪いけど。見た目が」
「目玉の親父?」
 有加はニコニコして「そうだよー」と言う。
「ちっちゃいころから好きなんだよねー、鬼太郎。なんか懐かしくてかわいくて買っちゃった」
 竹串に刺さった目玉の飴を有加は麻衣に手渡して、自分も一つほおばった。
「かわいい...わ。かわいいような、きもちわるいような。キモチワルカワイイ」
 そう言って麻衣も目玉を口に入れた。ほわん、と甘い匂い。懐かしいような、優しいような。
「うん、私も好きだったよ、鬼太郎。テレビ欠かさず見てた。妖怪の学校行きたかった」「行きたかった行きたかった。試験ないの、いいなあって」
「そう!むしろ夜中迎えに来てってかんじ」
 目玉の飴をなめながら、二人は声をたてて笑う。有加は、そういえばと甘い息で言った。「調布の深大寺ってところに鬼太郎茶屋っていうのがあるらしいんだけど、麻衣知ってる?」
 一瞬息が止まったかもしれない。麻衣は自分の身体がきゅっと固まるのを感じた。ゆっくりまばたきをしてから問い直す。
「どこだって?」
「調布。深大寺」
 聞き覚えがあった。随分前に翼が話してくれたはずだ。お祭りの話だったっけ?

  ねえ、翼の家の近くに鬼太郎茶屋があるってホント?
  ああ、深大寺のところでしょ?
  行ってみたい。
  じゃあ今度行ってみようか。深大寺は近いしよく行くよ。東京っぽくなくていい味だしてる感じが好きなんだ。麻衣にも見せたい。
  楽しみにしてる!

 雨が降っていた。
 麻衣は翼が運転する車の助手席で、左手に広がる森を見ていた。
「あのさ、次の信号左に曲がったら、深大寺の前なんだけど、俺が地元で一番好きな道なんだ」
 車はゆっくり左折した。
「うわ、すごい。木のトンネルだぁ」
 翼が車の速度を落す。麻衣は身を乗り出した。よく見ると両側の木は桜だとわかる。
「春とか...すごい綺麗なんだろうな」
「うん、みんなここで20キロくらいに速度落としてゆっくり運転するから渋滞しちゃうんだよね」
そう言って笑う翼の隣で麻衣は「今私、好きな人の好きな場所に一緒にいるんだなぁ」と思い、なんだか息が詰まるくらい、いとおしい気持ちでいっぱいになった。
車を蕎麦屋さんの駐車場に止めさせてもらい、翼は蕎麦屋さんに声をかけに行った。麻衣は傘をさし、翼が来るのを待った。透明なビニール傘越しに木々の枝葉を見上げると、大粒の雫がぽたんぽたんと傘をたたく。
「お待たせ」
「...すごいね。トトロの森みたいだね。このバス停でずっと待ってたら、猫バスが本当に来そう」
「んん、言われてみれば。今まで気にしたことなかったけど、そうかも」
 少しサビのついた停留所看板は、バス停ではなくタクシー乗り場と書いてあった。
「あそこの蕎麦屋のおかみさんが言ってたけど、今日は月曜日で植物園が休みだからほとんどの店もお休みだって。鬼太郎茶屋も休みかも」
 石畳の参道に差しかかったころ、翼が言った。
「ホントだ。閉まってるわ」
 すぐ左側に一目でそれとわかる鬼太郎茶屋があった。
「麻衣、上、上!」
 見上げた木の上に「鬼太郎の家がある!」と麻衣がはしゃぐ。それを見た翼も「この車、ぬりかべだし」と笑う。
「見て、庭にもいっぱい。ぬらりひょんまでいる!ああ今度は絶対、絶対月曜以外の日に来る!」
 ひっそりした参道に二人の笑い声が跳ねている。
 参道を進む間、翼は麻衣に話し続けていた。
「店が開いてるとね、お祭りみたいなかんじなんだ」とか「この裏の植物園、小さいころおじいちゃんとよく行ったなぁ、自転車で」とか「初詣は毎年ここって決まってるんだ」とか。そして山門の前で、ゆっくり石段を上ってくる麻衣を振り返って言った。
「蛇の目傘あったらなぁ。ビニ傘じゃちょっとなぁ...」
「浴衣に蛇の目が似合う風情?」
 麻衣は少し傘を持ち上げて笑った。
 山門の草葺屋根は、空からまっすぐ落ちてくる雨を吸い込んで、またまっすぐに雨垂れを落としている。麻衣は先に歩く翼の背中に話かける。「でもビニ傘は味気ないけど、透明だから景色がちゃんと見えるよ」普段は見ることができない翼の背中も。
境内は凛とした静けさに包まれて、その中にあるのは雨の音と二人の足音だけだった。翼の穏やかな顔の表情や声色は、深大寺の空気に溶け込んでしまっているようだと麻衣は思う。翼はきっと、この社がいつできたとか、この石はいつからここにあるとか、いちいち考えないのだろう。翼にとってそれはこの場所に当たり前にあるものとして、身体の一部に含まれているように馴染んでいるのだろう。
そう思うと、今深大寺に来ていることは麻衣にとって翼をもっと近くに感じることと同じだ。
「ここって恋愛成就のお寺なんだって」
「そうなんだ」
「最近知ったんだけどね。小さいころから来てるのに」
そう言って翼は笑う。
「...なんか、小さいころから馴染みのある景色の中に麻衣がいるって、変な感じ」
翼と、見上げた麻衣の視線が絡む。
「だけど、すごくいい」
翼があまりにも嬉しそうな顔をするので、麻衣は翼の手をぎゅうっと握る。自分も翼の中の一部になってしまいたいというように。
境内を背に、赤い橋と石橋が二つの社の浮島を結ぶ池に出る。紫陽花が池の端を飾っていた。静かに、大きく。池に手を伸ばしている木々たちも、しっとりと雨の雫に濡れていた。翼が呟く。
「雨もいいもんだね。なんだか綺麗だ」
「雨も好きになった?」
「うん」
今この景色を二人で並んで見ていること、今日翼と一緒にこの雨の日を好きだと思うこと、それが嬉しくて麻衣は翼に寄り添った。メールのときのように実体があやふやになったりしない。
あなたが隣にいて話す。あなたの声が聞こえる。手をつなぐ。あなたが温かい人だとわかる。ぎゅっと力をこめる。あなたが握り返してくれる。私たち、ちゃんと繋がってる。お互いの手で。離れていても大丈夫。きっと私、この手の感触を覚えている。思い出せる。麻衣は祈るような気持ちで目を閉じた。翼の手のぬくもりを、力強さを確かめながら。




<著者紹介>
佐藤 里奈(愛知県名古屋市/23歳/女性/アルバイト)

 薫には、まさかの失恋だった。和樹が友達の奈穂と自分と二股をかけていたなどとは思いもよらなかった。
 均整のとれたプロポーションとキュートな小顔を持つ薫にいい寄る男は何人もいた。和樹に絞ったのは、薫好みの繊細な容姿が大きな魅力だったが、それ以上に二十五歳だった薫が結婚を真剣に考える年齢だと自覚したからであった。
 それなのに、当時あれほど結婚しようと迫っていた和樹は、二年経っても結婚を具体化する気配がなく、逆に一週間前に「実は奈穂と付き合っているんだ。ごめん」と今日の深大寺行きを断ってきたのだ。
 傷心からか体がだるいし熱っぽい。何もしたくないけど、何かをせずにいられない。のろのろと立ち上がると、予定通りホームページに載せる写真を撮りに深大寺に向かった。 神代植物園の門を入ると広大な自然が目の前に広がっている。薫は花木の写真を撮りながらハナミズキ園に来た。木を見上げると葉の隙間に赤い実がなっている。薫はデジカメを構えた。
 その時、背後でシャッターの音がした。振り返ると、三十過ぎの赤のアロハに茶のジャケット、ジーンズ姿のがっちりとした体躯の男が、一眼レフのカメラを覗いている。撮り終えた男は、薫の視線に気が付いたらしく照れたような笑みを浮かべた。
 ださいのは服装のセンスだけでない。顔つきもギョロ目に大きな口、色黒の見るからに暑苦しい顔をしている。薫は思わず目を逸らした。
 男を無視して歩き始めると、男は親しげに話しながらついてくる。
「あの木、ハナミズキっていうんですよね」
男の馴れ馴れしさに警戒しながら、
「そうです。ホームページにハナミズキの紅葉を載せようと思ったのだけど、ちょっと早かったみたい」と素っ気なく答えた。
「えっ、ホームページ持っているの? 見たいなあ。ね、アドレス教えてくれない?」
薫は口が滑ったと後悔した。それが表情に現れたのか、男は慌てて付け加えた。
「あ、僕、怪しい者じゃないです」
 男はポケットをまさぐって探しあてた名刺を薫に差し出した。名前は木原ひろし、A広告代理店のコピーライターとある。薫が仕方なくパソコンで作った名刺を出すと、木原と名乗る男は「薫さんですか。よろしく」と押し戴くようにしてポケットにしまい込んだ。 植物園の出入り口にあたる深大寺門を出ると石畳の坂道がある。坂の途中にある門から境内に入ると、木原もついてきた。和樹のようなハンサムな男、とまでの欲は言わないが、人一倍面食いの薫は木原と肩を並べて歩くのが厭だった。だが、木原はまるで薫と旧知のような親しさで寄り添ってくる。
 深大寺の御堂をカメラにおさめた木原は、「縁結びの神様らしいですよ」と言って賽銭を投げ入れると手を合わせた。
「へえーそうなんだ。じゃ、私も祈ろっと」薫は慌てて硬貨を賽銭箱に入れると、和樹が戻って来ますように、と長〜い時間を掛けて祈った。

 あれから一週間が過ぎた。木原は頻繁にメールを送ってくるようになった。木原のメールには人を惹きつける魅力がある。しかし、読み終えると木原のことはどこかに追いやられ、いつの間にか和樹のことを考えている。
 最近、薫は体に異常を感じていた。疲れやすく、息切れや動悸もする。顔面蒼白の娘を心配した母は強引に病院に連れて行った。
 血液検査と悲鳴をあげそうな痛い骨髄穿刺の検査で「再生不良性貧血」だとわかった。 医師は厄介な病気だが、軽症なので、まず蛋白同化ステロイド薬の投与で様子をみましょう、と言った。
 ネットで病名を検索した薫は、病気が難病だと知った。進む道もない、掴む所もない宇宙にいきなり放り出されたような気がする。
 終日、ベッドに横たわっていると、健康な時は意識さえしなかった他愛のない事が、あれもこれもまだやっていないと大きくクローズアップされてくる。
 こんな時、和樹がいてくれたらどんなに心強いだろう。携帯電話を手にとって保存してある涼しげな顔の和樹の写真を眺めた。奈穂が独占しているのだと思うと悔しくてたまらない。
 涙が溢れてきて目をしばたたいた時、携帯のバイブ音が鳴った。見ると薫の病気を知らない木原から能天気なメールがきている。
 薫はふと木原に病状を知らせたい衝動に駆られた。メールを送信すると、一分も経たないうちに返事が来た。気が動転しているのか珍しく誤字脱字のひどい文だ。木原は無神経なメールを謝り、病気を知らせてくれなかったことを詰っている。そんな木原のメールを和樹からのメールに置き換えてみた。すると幸せな気分になってきた。薫は木原に返事を書いた。
「病気って、未来を覆い隠して絶望的な心境に追い込むよね。これって結構残酷。いっそ狂って何もがわからなくなるといいな。そうしたら楽になれるかも。副作用もひどいし」 木原から直ぐに返事が来た。
「あのさ、提案。辛い時、独りじゃないと声に出して言ってごらんよ。元気が出ると思う。それから副作用があると書いてあったけど、どんな症状なの? 僕に何かできる?」
 そんなこと訊ねられても、副作用で髭が濃くなり声も太い男性化が進んでいるとは言えるはずがない。私はプライドが高い女なのだ。
 返事を書きあぐねていると携帯が鳴った。
 驚いたことに電話は和樹からで、菜穂と別れたからデートしないかとの誘いだった。病気だと告げると、見舞いに行くよと言う。優しい言葉にホロリとなって副作用で顔がひどいことを打ち明けてしまった。すると和樹は、じゃ無理だな。元気になったら会おうぜ、とそそくさと電話を切った。切れた携帯から流れるプープー音を聞きながら、和樹への熱い想いが急速に冷めていくのを感じていた。
 それからの薫は不安と空虚さを紛らわすかのように木原と電話で話すようになった。気が付くと薫ひとりが喋っている。木原は話をじっくりと聞き、適切な相槌を打ってくる。 ある日、木原が、「気分のいい日があったら、深大寺に行ってみない?」と言った。外の空気を吸わせてやろうとする木原の好意だったに違いない。しかし、気が付くと薫はヒステリックに叫んでいた。
「木原さんなんか大嫌い。副作用のこんなひどい顔で外を歩けると思うの?こんな顔を見られるなら死んだ方がましだわ」
 木原は答えず、しばし沈黙の時が流れた。それから諭すように静かな口調で言った。
「顔が醜くなったから死にたいなんて贅沢だなあ。僕なんか生まれつきこの顔なんだからね。ひどいって言っても僕よりずっとましだと思うよ。それに薬をやめれば元に戻るしさ。僕がいう資格はないけれど、顔なんか問題ないんじゃないのかなあ」
 薫ははっとした。僕がいう資格......木原の言葉は、実を知らないでスープの上澄みだけの世界で生きてきた薫の傲慢さを突いていた。

 桜にはまだ早い三月の中旬、木原が車で迎えに来た。都会の喧騒から離れた深大寺界隈は昔懐かしい雰囲気を漂わせている。
「あれを見てごらんよ」
 木原が指差す方を見ると、蕎麦屋の前に緋毛氈を敷いた縁台がある。ほかの店の前には休憩用の椅子が置いてある。
「深大寺の蕎麦屋っていいよな。さりげない温かさ。ね、そう思わない? 蕎麦がうまいのは蕎麦そのものと、うまいと感じさせる心配りじゃないかな。お参りを済ませたら蕎麦を食って土産物店を覗こうね」
 薫は頷いて周囲を見た。すると店も景色も、そして漂う風にさえほのぼのとしたものを感じる。
 寺ヘは石段を避けて坂道から行くことにした。坂の勾配は緩やかだが、病身の薫にはこたえる。すばやく察知した木原は、「おんぶしようか」と言った。薫は「いやよ。恥ずかしいわ」と首を強く横に振った。「恥ずかしがることなんかないよ」そういうと薫の前にしゃがんだ。「早く」と急かされて、厚い背中に体を預けた。木原の背中に顔を凭せかけると、日光をいっぱいに吸収したような陽の匂いがする。安心して身をゆだねることができる大きな背中である。
「重いでしょ」「軽すぎるよ」彼の声は涙声に聞こえる。
薫は、親鳥の愛情を一身に受けている雛鳥のように甘やいだ気分になった。
「私、死にたくない。木原さんといつまでも一緒にいたい」と木原の後ろ耳に囁いた。
「僕は薫さんが好きだよ。君のぬくもりを背に感じている僕は、世界一幸せ者だね。僕は薫さんのために生きる。だから僕のために生きて欲しい。初めてハナミズキの下で君を見た時、顔が真っ青なので驚いた。心配で後を付いて行ったんだ。君は突っ張っていたけど、それが僕にはすっごく可愛く見えた。白状するとね、あの時、深大寺で薫さんと交際できるように祈ったんだ」
 語尾は聴き取れないくらいの小声だった。
「そうだったの。真っ暗な宇宙を彷徨っていたみたいだったけど、木原さんにおんぶされて、やっと安らげる場所にたどり着けたって感じ。木原さんの背中って大きくて好き」
 木原は背中の薫を揺すった。
「僕におぶさっていればいい。薫さんの苦しみや悲しみを全部背負っていくからね」
 薫は木原の背中に顔を埋めて泣きじゃくった。
 二人が深大寺の前に立ち手を合わせた時、薫は木原と思いが重なるのを感じていた。




<著者紹介>
野末 ひな子(東京都杉並区/女性/主婦)

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