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<第1回応募作品>『ヤマボウシの忘れ物』

 五月末、琥珀神社のヤマボウシは、これが見納めだよ、とでもいうように今年も一斉に咲き誇った。
 あの白い花のように見えるところは苞で、花は真ん中の細く束になっているところなんだ、と雅夫が自慢げに話していたのを思い出す。
 千恵が調布に越してきて、かれこれ十年近くになる。大学生活もあと一年というときに、校舎移転で、多摩と御茶ノ水の二つのキャンパスに通うことになった。しかたなく、どちらにも便利で、安いアパートがあった調布を選んだ。卒業後は、大手町にある会社に勤めるから、アパートも別の場所に替えようかと思っていた。
 そんな矢先に、大学の親友が、もう調布にも来なくなるのだから、深大寺周辺を一緒にぶらぶらしようよ、と誘いかけてきた。いつでも行けるからと、深大寺にはそれまで行ったことがなかったのだ。千恵には、思い入れのある場所ではなかった。その日、親友と深大寺近くの蕎麦屋で雅夫と会わなければ、こうして調布にいることさえなかったのだ。
 千恵たちと同じように、雅夫も男友達と二人でその店に来ていた。座った席が近かったから、おたがいの会話がもれ聞こえてきた。どうやら千恵たちの御茶ノ水校舎のそばにある大学に、二人とも通っているらしい。学年も来春卒業で同じのようだ。
 雅夫の親友がこちらに話しかけてきた。外見とは違い、明るく開けっ広げな話し方に、千恵たちは好意を抱いた。自然な成り行きで、本日限定の深大寺探検隊になってしまった。
 千恵と雅夫の両親友は、十分もしないうちに、ずっとつきあっている雰囲気になっていた。気まずい千恵と雅夫は、負けていられないと仲の良いところを装った。
 神代植物公園を歩き始めたときだった。会って三十分もしていないのに、千恵と雅夫の両親友は、おどけながら「じゃあそっちも楽しくやるように」と、手を振りながら千恵たちの前から姿を消してしまった。
「何だよ、おいっ」と、むっとした雅夫の横顔は、まるで豆鉄砲を食らった鳩のようだと千恵は思った。案の定、雅夫は、中学生並みの口下手だった。
 神代植物公園を出て、水性植物園を散策していたとき、雅夫が話しかけてきた。
「俺さ、大学でずっと体育会だったんだ。四年間、剣道ばかりやっていてさ、のんびり植物なんか眺めることなかったんだ。こんなところに来るのも初めてだし、女の子と一緒なのも初めてなんだ。変なヤツで、ごめんな」
 愛想のない喋り方なので、これからどうなるんだろうと千恵は面食らった。だが、自分も偉そうなことはいえない。ハードルが高いから、いつも一人ぼっちなんだ、と親友にからかわれ続けてきた。都内の気楽な週末のデートさえ、誘いに乗ったことがない、おカタイ子だったのだ。だが雅夫にだけは、理由なく気持ちが許せそうな気がした。
 千恵はそれから大学を卒業するまで、雅夫と頻繁に会うようになった。御茶ノ水で会うこともあったが、たいていは深大寺になった。
 雅夫にとって深大寺周辺は、とても落ち着く場所のようだった。千恵もまた、ここがデートの定番の映画館や、レジャー施設で遊ぶのとは違う、緑と水と歴史のいやしの穴場であるのに気づいていた。
 四季折々に咲く花々は目に眩しく、目を閉じて五感で感じようと深呼吸すると、酸素が体中に満たされる思いがする。花の香りも素晴らしかったが、木の香りがこんなにも深いものかを千恵は初めて知った。
「木が放つ匂いは木の言葉なんだ」というデパートの広告キャッチフレーズを、雅夫にいい続けている自分がそこにいた。
 雅夫も千恵の興味にあわせているうちに、植物について結構詳しくなっていた。
 そんなある日、雅夫は話しておきたいことがあるからと、千恵を強引に琥珀神社のそばまで連れて行った。
「俺が剣道をやっているのには、理由があるんだ。先祖が新撰組の下っ端剣士だったらしくてさ。中学校のときにそれを知って、なんだかかっこよさそうだから、剣道を始めちゃったんだ。それで、その剣士はちょっと変なヤツでね。文学者でいうと太宰治みたいなヤツだったらしいんだ」恥ずかしそうな顔をしながら話す雅夫だったが、ここでやめてはいけないと、一気に喋り続けた。
「それでさ、この剣士のことを慕っている、お千代って娘がいたらしくてね。剣士は、その娘にいつ死ぬか分からないから、自分の代わりだと櫛を渡そうとしたらしいんだ。でも、意地悪な女がいてさ、横恋慕っていうのかな、その櫛を渡してあげるっていって、自分のものにしちゃったらしいんだ。それが、まわりまわってなぜか俺のばあちゃんのところに来たんだ。ばあちゃんが死ぬときに、それを俺に残していったんだ。縁起の悪そうなものだから、俺は欲しくなかったんだけれど、おふくろは罰が当るからとっておけって。でね、お前の気に入った女の子にあげろとか遺言状に書いてあったらしいんだ。どうしようかと思ってさ」要領の得ない話は、千恵でなければ聞いてもらえなかっただろう。
「困ったものね。縁起の悪いものは、始末したくなったんだ」と、舌を出して千恵はちょっと意地悪く話を振った。
 紅潮した顔の雅夫。始末したくなったわけではなかったが、知恵に本心をいい当てられ頭をかきながら、結局、柘植で作られたその櫛を持っていてもらうことになった。
 照れくささをごまかすためか、雅夫は琥珀神社に咲く花について、持てる知識を千恵に披露する羽目になった。
 雅夫から不思議なプレゼントをもらって、二週間ぐらい経った頃だった。おたがい卒業までの用事をあれこれ済ませるのに忙しくて、しばらく会えなかった。
 そろそろ千恵から電話をしようかなと、夕方の六時前後にアパートに戻っていたときだった。
 かかってくる来るはずもない、警察から電話がかかってきた。千恵はどきりとしつつ、嫌な予感がする。昔からこういう千恵の予感はよく当った。父が亡くなったときもそうだったからだ。
 御茶ノ水の救急病院で対面した雅夫は、顔に白い布を被せられ帰らぬ人になっていた。警部らしき人物から、説明を聞いた千恵は愕然とする。
 下町にある、雅夫のアパート付近のコンビニで起きた事件だった。
 小雨のその日、客を装った二十代の男がミニバイクでコンビニに乗り付け、レジの店員をナイフで脅した。
 レジから離れていた雅夫だったが、すぐに強盗であるのを感じとって行動に出る。
 手に持っていた傘で男の不意をつき、相手のナイフを叩き落とし、そのまま取っ組み合いになった。
 雅夫が強盗を、床に押し付けて取り押さえた瞬間だった。男は、隠し持っていたバタフライナイフを雅夫の腹部に突き刺した。雅夫はうめきながらも、男を取り押さえたままでいた。
 コンビニ店員の通報で警察が到着し、男が現行犯逮捕されたときには、雅夫は顔色がなく、ぐったりしていた。
 病院に運ばれる救急車のなかで、心肺機能が停止し、病院で救急治療に当ったときには、ほとんどだめだったらしい。
 千恵は、交通事故で他界した父のことをだぶらせ、それ以上の存在になろうとしていた雅夫の不幸に言葉を失った。体のどこに、これほど水分があったのかと思うほど、涙は止まらなかった。
 警察から雅夫の実家とは、連絡こそ取れたが、北海道の過疎地であったため、両親がすぐに駆けつけるわけにはいかなかったようだ。
 しかたなく、アドレス帳の最初に書いてあった千恵のところに電話がきたのだった。
 警察の取調べが終わったあと、警察の電話を使って、初めて雅夫の両親と話した。受話器の向こうから聞こえてきた声は、他人とは思えない親しみが伝わってきた。
 雅夫が急死してから、一ヶ月ぐらい経ってからだろうか。雅夫の母親から一通の手紙が届いた。
 生前、最後まで世話になった千恵への礼が、丁重な言葉で綴られてあった。手紙の追伸に
は、雅夫からもらった櫛についての詫びとも願いともとれる一文が添えてあった。
「雅夫がお渡しした櫛の件ですが、やはり千恵さんに持っていていただきたいのです。雅夫は多分、新撰組だった先祖の生まれ変わりなのでしょう。お千代という娘は、この櫛を見てはいません。千恵さんの手元にあれば、千恵さんの目を通して、お千代も見られる気がしています。雅夫のことが、いつか思い出に変わったときに、櫛は処分してくださるようお願いいたします。押し付けになり、心苦しいのですが、私どもの心中をどうかお察しください」
 この花だけは調べなくても知っている、と雅夫がいったヤマボウシ。櫛の端に小さく彫られていた花だったからだ。
 梅雨に入る直前。毎年この季節になると、雅夫が来るはずもないのに、千恵は琥珀神社に来てしまう。そしてヤマボウシを見あげながら、櫛を握り締め、胸の奥でささやくのだ。
「わたしの手の温もりがわかるかな。百年もの思いと悲しみをありがとう。女ったらしの剣士さん」
 返事を告げるように、ヤマボウシは匂い立つばかりだった。

(東京都渋谷区/49歳/男性/コピーライター)

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