五月の連休前、雪花から電話があった。
雪花は大学の天文学ゼミの後輩だった。雪の花と書いて「ユカ」と読む。冬生まれかと聞くと、誕生日は五月だといたずらっぽく笑った。
雪花からの電話は大学卒業以来二度目だった。前回は確か一年半前。電話と電話との間の長い時間、僕は折りに触れ、雪花を想っていた。
雪花は平素はおとなしいけれど、ミステリアスで気になる存在だった。
いや、正直に言おう。
僕は雪花に恋をしていた。
就職の内定を受けたころ、僕の長年の思いを察して同級の玲子が世話を焼いた。ぜったい脈ありだから、それとなく伝えてあげるわ。そう玲子は言い、僕が断ったにもかかわらず雪花に働きかけた。
答えは「ノー」。
雪花の眼中に僕はいなかった。
それから大学卒業までの間は気まずく、以前のように話しかけることはできなくなった。たまたま学食で席が近くなると、互いに懸命に食べることを急いだりしたものだった。
「久しぶりだね」
 大人らしく、僕は言った。
「今週の土曜、仙川で芝居があるんです。よかったら見に来てほしくて」
「そうか、雪花ちゃん、芝居を始めたんだね」
「覚えていてくれましたか。劇団に入ろうかどうか迷っていたこと。このご時世に就職しできた会社をやめちゃって、フリーターです」
 一年半前の電話の記憶がよみがえった。
したいことが見つかった気がするという雪花に、やればいいと答えた。後悔してほしくなかった。僕は大学院へは進まず、硬い企業への就職を選んだ。毎日が数字との追いかけっこだった。後悔は常に結石のように内在し、ときおり暴れた。雪花を応援する気持ちのいくらかは自分への不満の裏返しだったのかもしれない。
「苦しいけど、やってよかったと思っています。背中を押してくれた先輩のおかげです」
「僕は何もしてないよ」
「でも、あのとき自分でも迷っていて。先輩に聞いてほしかったから」
 意外な言葉にこそばゆくなった。
だがそれならなぜ一年半の間、連絡してくれなかったのだろう。
先輩に聞いてほしかった、というのは、世辞だろうと思いなおした。いくばくかの失望を感じながら、会いたいという気持ちが勝ち、僕は芝居に行くことを約束していた。
「深大寺には行きましたか」
 唐突に雪花は聞いた。
「あ、いや、深大寺蕎麦なら食べたけどね」
学生の頃、雪花と深大寺を話題にしたことがあった。調布に住むようになった頃だ。調布生まれなんです、と雪花は目を輝かせた。幼いころ深大寺に何度も連れて行ってもらったという雪花は、僕が足を運んだことがないと知ると、じゃあ、なんじゃもんじゃの木を見たこともないんですね。ざーんねん、とほんとうに無念げに言ったものだ。
「行きませんか、なんじゃもんじゃの木を見に。芝居は土曜が千秋楽で日曜はフリーなんです。先輩の都合がよかったら、ですけど」

芝居は『近代能楽集』からの二篇。雪花は『班女』の花子だった。駅のベンチで自分を捨てた男をひねもす待ち続ける、エキセントリックな役を見事に演じていた。芝居にのめりこんでいるとは言っても、まだ下っ端で、受付あたりにいるのかと想像していたのに、雪花は舞台の中央にいた。うれしい魔法をかけられたようだった。
翌日、調布駅前に現れた雪花の、昔と変わらない笑顔にほっとした。白いワンピースが似合っていた。白は昔も雪花が好んで身につけていた色だ。芝居を見てうれしいながらもうまれていたたじろぎは霧散した。
「きのうはありがとうございました」
 雪花はおどけたようにぺこりと頭を下げた。
「とてもよかった。作品もだけど、雪花ちゃん、見違えたよ。僕が来ていたの、気づいた?」
「舞台から見えました」
「へえ。余裕だね」
 雪花は首を傾げる。
「深大寺のなんじゃもんじゃの木の話をしたこと、覚えてましたか」
「なんとなくね」
「なんじゃもんじゃの木なんて変わった名前だねって先輩が言うから、おかしかったなあ」
 バスに揺られながら他愛のない話をした。乗客がちらちらと僕たちを見た。彼らには僕たちはどんな風に映っているのだろう。恋人に見えるだろうか。想像すると口元が緩んだ。
 バスを降り、深大寺入口から、木の茂る道なりを進んだ。道路の両脇から枝を伸ばした木々はやわらかなアーチをこしらえていた。水車を横目に境内へ向かった。道の傍らを水が流れている。僕たちはやさしげな水の音に包まれていた。
 深大寺は懐の深い場所だった。おおらかな大黒天、恵比寿尊の像があった。門前の店が連なる通りには、店の子だろうか。敷石でケンケン遊びをしていた。
三天橋という池にせり出した橋があった。渡ったところが亀島ですと雪花が言った。島と呼ぶにはあまりにかわいらしい小さなもので、両端には祠があった。
「ほらあそこ」
 雪花の指の先をたどると、苔むした岩の色の亀が泳いでいた。眼を滑らすとそれほど大ぶりではない、初々しいような鯉が身を撓らせて泳いでいた。
「ずいぶん鯉がいるんだね」
 夢の影のように白い鯉が、すぐ近くを通り過ぎて行った。鯉はすうっと心の裡を、身で打ちながら通ったようだった。僕は思わず立ちすくんだ。鯉が雪花のように思われたのだ。雪花がいぶかしげに見上げていた。僕は咳払いをひとつした。
「なんじゃもんじゃの木は山門の中です」
 切妻屋根の山門が、境内の緑の額縁になっていた。
 くぐると正面にあるのは枝垂れの桜。その左手にはやはり枝垂れの、枝にたくさんの、あいらしいかたちの葉をつけた樹がある。木の頂から緑の噴水がこぼれるような枝ぶりが印象的だ。シダレカツラだと雪花は言った。
 さりげないバランスで様々な樹がある。抜きんでた大木がないのも、物足りないというより愛らしい気がした。
シダレカツラの奥に、雪をいただいたように白い花の咲く木があり、思わず目を奪われた。
雪花が白い花の木に駆けよっていった。くるりと振り返り、雪花はおおきな笑顔になった。
「これです。これが、なんじゃもんじゃの木」
「え、これが・・・」
 花はやさしい葉の緑と引き立て合うように純白だった。プロペラの羽根のように、中心から懸命にほそい指を開ききるように、咲いている。
「きれいだね。名前から想像すると老獪な、人をくった老人のような・・・。そんなふうに想像していたよ」
「先輩、なんじゃもんじゃは木の名前じゃないです。それって昔も言ったでしょう」
「そうだね。そうだった」
と、あいまいな相槌を打った。
「なんじゃもんじゃは、珍しい樹や巨木を指して呼ばれる名前なんですって。深大寺のなんじゃもんじゃの木はヒトツバタゴです。学名はチオナンソス。母が教えてくれたんですけど、ギリシャ語の『雪』と『花』を重ねているんですって」
「雪と花って・・・あ、そうか。雪花ちゃんは五月生まれだったね」
「はい。生まれたとき、この花が満開だったそうです」
 不意になんじゃもんじゃの木がいとしく思えてきた。得難い、唯一のものというわけだ。
「先輩、私、余裕なんてありませんから」
 振り向くと雪花の目が潤んでいた。
「舞台から先輩を必死で探していました」
 なんだか妙だった。雪花の目は、まるで僕に恋しているようではないか。
「玲子先輩が別の人と結婚したって聞いて、思い切って先輩を誘ったんです」
「玲子の結婚がどうかしたの」
「玲子先輩から、先輩たちが付き合ってるって聞いたときはショックでした。ちょうど先輩の就職が決まった頃、告白しようと思って。先輩を好きなこと、態度に出ていたみたい。他の人から、先輩のこと好きなの、なんて聞かれたり。玲子先輩も察して教えてくれたんです」
 頭の中がぐるぐると回り始めた。
 態度に出ていた? 僕だけが気づいていなかった?そして玲子はなぜ僕にも雪花にも嘘をついていた?
「あのね、僕は玲子に気持ちを伝えてもらった気でいたんだよ。雪花ちゃんの答えは『ノー』だったって」
 雪花はきょとんとしていたが、やがて笑い出した。
「やだ。じゃあ玲子先輩は私のライバルだったの」
「いったい・・・」
「先輩、鈍すぎです」
 ゆっくりと謎がとけ出していくようだった。
 時間はかかったが、どうやら僕は雪花と向きあえているらしい。
そういえば深大寺は縁結びのご利益もあるんだったな、とぼんやり思いながら、僕は雪花の瞳を覗き込んでいた。

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<著者紹介>
江口 ちかる(東京都大田区/47歳/女性/派遣社員)

人を本気で愛したことがない、人を本気で愛せないという、会社で噂の"軍曹"。外見も坊主で、自衛隊出身だと本気で一部の人には思われていて、本気で笑うことなんてないんじゃないかと言われている"軍曹"。彼の祖父が軍人だったという説もある。そうかと思えば、本当は、いい人だけど不器用だから、40歳を過ぎても結婚できないんだという意見もある。
とにかく様々な噂が飛び交い、"軍曹"には謎が多い。私にとって、真相はわからない。

三年前のある金曜日の夜に会社の先輩たちと皆で飲んでいて、その中にたまたま"軍曹"もいた。トイレですれ違った時に、
「深大寺に行きたいって思うけど、明後日行かない?」
って、"軍曹"が言う。
唐突過ぎる。普通、深大寺に行ったことがあるかとか、興味があるかとか、そういうことから聞くのではないだろうか。
私は好きな男に振られたばかりで、特に予定もなかったので、
「いいですよ。深大寺って名前しか聞いたことがないけど、何があるんですか?」
と尋ねると、
「蕎麦が有名だから、食べたいなって思って。思いつきでしかないけど。」
「そうなんですかぁ。行ったことないし、是非行きたいです。」

なぜだか、"軍曹"と初めてデートをすることになり、深大寺へ行くことになった。
蕎麦が有名とは言っていたが、せっかく出かけるわけだし、他に何かないのかと思い、帰って早速、ネットで『深大寺』について調べる。

「...深大寺は、"縁結びのお寺"...」

え!?マジで!? ここ、二人で行っちゃマズくない!?
"軍曹"が行きたいって言った理由は、蕎麦ではなく、"縁結び"だから!?
いやいやそんなこと、あるわけがない。ただ蕎麦が食べたいだけだ。・・・色んな思いが、自分の頭の中を駆け巡る。

本当はなぜ、深大寺に行こうと"軍曹"はしたのか?メールですぐにでも、冗談交じりに、
「深大寺って"縁結びのお寺"なんですよね?(笑)」
って送ってみたかったが、蕎麦を食べたいから行きたいと言われたわけだし、自分から深大寺って"縁結びのお寺"なんですよねなんてことは、さすがに言えない。

考えすぎによる知恵熱なのか、勝手に思いをめぐらしすぎたせいか、あんなに元気だったのに、土曜の夜から体調を崩してしまう。夜中に39度近い熱が出て、吐いてしまった。
でも、せっかく誘ってもらい、しかもデートとしては初めてで、断ったら一生デートはない気もして、断れず、体調を崩したことも伝えられず、何も言わずにデートを決行した。

ところが、吉祥寺から深大寺に向かってバスに乗ると、やはり体調がおかしくなる。込んでいたこともあるが、貧血になり、倒れた。"軍曹"がいなかったら、頭を打っていたかもしれないし、もっとひどい倒れ方をしていたかもしれない。
しかし、そもそも彼がいなければ、深大寺に行かないから、倒れもしないか・・・。
意識がなくなったので、途中でバスを降りる。
数分は意識がなく、"軍曹"の声は遠かった。だんだん意識が戻り、声が聞こえる。
「無理はよくない。体調悪いなら、帰ろうか?」
「大丈夫です。ちょっと休んだら直ると思いますし。」
「でも、また行けばいいじゃない。」
「せっかくここまで来たし。」
「案外、頑固だね(笑) じゃ、水を買って来るから待ってて。」
"軍曹"は水を買って戻ってきた。少し休んで、またバスへ乗る。

深大寺には着いたものの、やっぱり体調が芳しくない。"軍曹"がいうように、引き返したほうがよかったのだろうか。でも、引き返すことを断念したのだから、具合が悪い姿は見せたくない。

有名な蕎麦屋で蕎麦と、深大寺ビールを飲むが、どちらもなかなか体が受け付けない。
蕎麦は二口くらいしか食べられず、後は私の分の蕎麦も、"曹長"は食した。食べ物を残すのはよくないからと言いながら・・・。

様子を見つつ、深大寺を歩くが、お寺でも気持ちが悪くなってきた。座って休めるベンチもなく、我慢しきれず、
「苦しい」
と"軍曹"に伝えると、深大寺本堂の近くにある建物に入り、少し休ませて貰えるよう、"軍曹"はお寺の方にお願いする。
人を愛せないような、冷たい人間だと言われているわりには優しく、行動もテキパキしていて、驚いた。それに対し、お寺の方は、
「倒れはったなんて、お気の毒に。少し暑いかもしれませんが、気にせず、ゆっくり休んでいってください。」
と優しい言葉をかけてくださり、薬までくださった。
暫く、休ませてもらう。私は1時間くらい寝させて貰い、彼は深大寺本堂を見ながら、涼んでいた。

見知らぬ"軍曹"と私に対して、とても親切にしてくださったお寺の方のことは、今となっても忘れられない。
薬の効果もあってか、暫く休ませていただいた後は、無事に体調も回復し、いったいあの苦しさは何だったのか?というようなほどにまで回復した。深大寺で休ませていただけなければ、また倒れていたかもしれない。


初めてのデートで行った場所だからということもあるが、深大寺とは"軍曹"と私の間では忘れることができないお寺である。

蕎麦が目的だったのか、"縁結び"のお寺に行こうとしたのか、未だに真相は"曹長"には聞けていない。今となっては聞く機会を逃したし、聞いたとしても、
「蕎麦が食べたかっただけ。」
という回答が帰ってきそうな気がする。

それから暫くし、何度かデートも重ね、"曹長"と付き合うことになった。
理由は色々あるが、確かに変わっているところはあるし、不器用な人間でもあるが、まっすぐで、本当に困ったときには助けてくれる気がしたし、一緒にいることで、人を愛せないココロの持ち主のココロを少しは解凍できるかもしれない気がしたからだ。
人を愛せないし、愛したこともないという点に関しては、何かトラウマと言うか、昔の彼女にひどい目に会わされたとか、きっと何かがあるに違いない。あえて話そうとしないから、その点は無理に聞いてはいないが・・・。

ネットで出てきた文字のように、本当に深大寺は"縁結びのお寺"だったのかもしれない。

久々に、
「深大寺に蕎麦を食べに行こう。」
と言って、深大寺に"曹長"と深大寺に足を運んでみようかと思う。
そして、深大寺の本殿で、ここは"縁結びのお寺"なんだよと、話してみようかと思う。
「今日は蕎麦を食べにここに来たわけじゃないよ。今日来た目的は・・・」
と笑顔で言ってみたい。
"軍曹"はいったい、どんな反応をするのだろうか・・・。

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<著者紹介>
藤村 優(東京都新宿区/女性/OL)

 「何してんの?」
 「金魚、埋めてる。」
 深大寺の本堂に続く階段の脇で、男の子はしきりに砂利に埋もれた土を掘り返している。男の子の隣には金魚鉢。のなかにはお腹を見せた仰向けの金魚。
 あやねはその姿が奇妙に感じて声をかけたのだ。
 「何でここに埋めてるの?」
 「ここなら金魚が神様に会えるかもしれないから。」男の子は答えながらも手を動かすのを止めない。何言ってるんだろ、この子。あやねは冷たい視線を男の子に投げかけた。
 「よしっ出来た。」男の子は勢いよく立ち上がり、両手についた湿った土をはらう。あ:。同じ目線になってあやねは気づいた。
 私、この子知ってる。 
 隣のクラスに転校してきた藤坂陸だ。よっちゃんが超かっこいい、やばいって騒いでいたのを思い出した。
 それでなくても転校生は転校生というだけで目立つものだ。
 初めて真正面から陸の顔を見てあやねは納得する。切りそろえられた髪はうっすらと茶色く、日差しを通して今は金色に見える。目がきれいなパッチリ二重で赤い唇は作り物みたいに形いい。身長は:同じくらい。
 フーン、かっこいいじゃん。なんか都会の子って感じ。
 「君さ、隣のクラスの子だよね?」陸が話しかけてきた。 
 「あ:うん。転校生してきた藤坂陸君だよね?」一応確認する。
 「うん。」陸は短く答えた。それから会話が途絶えてしまった。なんか喋らなきゃ。
 「ねえ、なんで金魚ここに埋めてたの?」
 「え?だから、」「神様に会えるから?意味わかんないよ。なんで神様に会う必要があるの?」私の問いに陸は当たり前のように言う。
 「金魚が神様に会えたら、僕のお願い伝えてもらえるからさ。」
 お願い?なんか、子供っぽい。
 「お願いって、」「ねえ、これからひま?」聞こうとしたら陸に遮られた。ひま?
ひまじゃなかったらこんなとこ来ない。心の中で毒つく。
 あやねはこの調布という町があまり好きじゃない。家の前の大道路を渡るとある、あやねが通う深大寺小学校。一二〇〇年の歴史をもつ深大寺。深大寺の界隈にはお蕎麦屋さんやお団子屋さんが数多く建っている。三月のダルマ市や十月のそば祭り、年明けの初詣の時にはここはたくさんの人で溢れる。そしてその深大寺と小学校を覆うようにある大きな神代植物公園。
 つまらない、とあやねは思う。つまらないよ、こんなとこ。渋谷とか原宿が近所にあればいいのに。だけどお母さんはそんな危ないところ一人で行っちゃいけないって言う。
 「ねえ、ヒマなの?」しびれを切らしたように陸がもう一度聞いてきた。
 「まあ:うん。」
 「じゃあ一緒に遊ぼうよ。僕、引っ越してきたばかりだからまだ友達いないんだ。」
 「ここで?」
 「うん。ここ、すごくいいところだね。空気が澄んでるかんじがする。」陸はあたりを見渡しながら大きく息を吸った。
 「こんなとこ、何もなくてつまらない。」
あやねは鯉が気持ちよさそうに泳ぐ池を眺めながら言う。陸がついてくる。
 「そう?立派なお寺があって、公園があって、近くにはお蕎麦屋さんとか団子屋があって風情あるじゃない。僕は気に入ったな。」
 フゼイって何?こいつ、難しい言葉使って大人ぶってる。あやねはいらついた。
 「ねえ、渋谷行ったことある?」陸はここに来る前、都心のほうにいたって噂を耳にした。お金持ちらしいよって聞いてもないのによっちゃんが興奮しながら言ってたっけ。お金持ちならあたしが行ったことない渋谷にも行ったことあるんだ。むかつく。陸はさらりと答える。
 「うん、あるよ。でも人が多いだけで別に楽しくないよ。」それでも行ったことあるんだからいいじゃない。あやねはますます苛立ちを覚えた。
 「私、もう帰らなきゃ。」こんなやつと遊んでも楽しいわけない。どうせここのことも田舎だと思って馬鹿にしてるくせに。あやねは早足で山門まで歩いていく。
 「え:遊ばないの。」陸の消えそうな小さい声が聞こえたけれど、無視した。
 こんなとこ早く出て行くんだ。あやねは授業中もずっと同じことを考えていた。
今度小テストやりまーすと言う先生の声も届かないくらい、心の中は別の思いに支配されていた。
 三時間目と四時間目の間の十分休みも寄っちゃん達のおしゃべりには参加せずに、机に座って算数のノートに「脱出計画」とタイトルをつけてひたすら作戦を練っていた。うーんうーんと唸っていると、隣のクラスから何かがぶつかるような激しい音が聞こえた。みんな驚いて次々と教室から出て、隣のクラスを覗きに行く。あやねもさすがに気になって、席を立った。
 他のクラスからも見に来ていてちょっとした人だかりができている。
 「何?どうしたの?」あやねが近くにいた子に聞いたとき、陸がイスを持ち上げている姿が前にいた子の頭越しに見えた。陸の目線の先にはしりもちをついた男の子が三人。まさに今、その三人に向かって投げようとしている。陸が叫ぶ。
 「僕の家は夜逃げしてきたわけじゃない!ただお父さんの仕事がうまくいかなくなったから引っ越してきただけだ!」その叫び声と同時に陸はイスを思いっきり投げた。きゃあっと周りで見ている女の子達が顔を手で覆う。あやねは目を背けずに陸を見続けた。陸から目が離せない。十分休みはとうに終わっていて、異変に気づいた先生達が止めなさい!と陸を押さえつけた。陸はそれでも近くにあったイスを持ち上げようとした。そのイスを先生が奪う。
 「今度変なこと言ったら許さないからな!」周りの机やイスを足で蹴飛ばしながら、陸は教室から出て行った。待ちなさい、と先生が声をかけてもお構いなしに。すげーとかこわーいという声があやねの周りで飛び交う。
 あやねはすげーともこわいとも思わなかった。別のことを考えていた。昨日の陸の神様へのお願いのこと。金魚に託した陸の願い。
さっきの怒り狂う陸を見て、わかったような気がした。わかったら、陸と話したくなった。脱出計画を考えるよりも、陸と話したい。あやねは教室に戻る人だかりから逃れ、先生に気づかれないように陸の後を追った。
 陸は深大寺の本堂より奥にある元三大師堂へと続く階段に座りうずくまっていた。あやねはそっと近づき、ねえ、と声をかけた。陸が驚いたように腕の中にうずめていた顔をあげた。陸の前にしゃがみ込んで、あやねは陸の顔を見上げて言う。
 「昨日なんのお願いしてたのか当ててあげようか。」
 「:何?」陸は眉毛を歪めた。まだ、怒ってるみたい。
 「君の昨日のお願い。昔に戻れますように、でしょ。お金持ちで、都会に住んでたときに戻れますようにってお願いしてたんでしょ。」この答えに自信があった。
だけど陸はゆっくりと首を横に振りながら、「違うよ。」と言った。:あれ?
 「僕は、お金持ちじゃなくても都会に住めなくてもいいんだ。ただお父さんの仕事がもう一度うまくいって、お母さんとお父さんと僕の三人で幸せに暮らして行ければそれでいいんだ。」落ち着いた声で言う。静かだった。さわさわと木々の葉が揺れる音がはっきりと聞きとれるくらい静かな声だった。
 「お金持ちじゃなくていいの?」
 「うん。」
 「都会じゃなくてもいいの?」
 「うん。」
 :フーン。なんか、私よりずっと大人じゃん、この子。脱出とか考えてるの馬鹿みたいに思えてきた。あやねは陸の隣にこしかけた。
 「ねえ、あれに書いたら願い事叶う?」
陸は目の前にある絵馬掛けを見て言った。そこにはひしめき合うようにたくさんの絵馬がくくりつけられいる。
 正直こんなにたくさんの願いを神様が聞いてくれるのか疑問だったけれど、うん、と答えておいた。陸が必死な顔で見てたから。つい応援したくなる。神様もこの子のためならと頑張ってくれるかもしれない。
 陸は絵馬を買って、すぐに書き始めた。後ろから覗いてみると、「お父さんの仕事がうまくいきますように」と書いていた。藤坂陸、と名前を書いて一番上の真ん中に背伸びしてくくりつける。
 「ありがとう。」陸が私に向かって唐突に言った。何で?私、何もしてない。
 「後追ってきてくれたでしょ。なんか嬉しかったから。」陸が照れくさそうに微笑む。
 ありがとう、なんて言われてなんだか私も照れくさい。陸と目が合って、顔が赤くなるのが分かった。何赤くなってんの、私。
 「あ!」そういえば。え、何?とすかさず陸が聞いてくる。
 「ここの神様って縁結びの神様だからそれ以外は叶えてくれないかも。」私の言葉に陸はああ、と拍子抜けしたように言った。
 「大丈夫だよ。縁結びの他に厄除けと商家繁栄のご利益もあるみたいだから。」
 :また難しい言葉使ってる。あやねが無言で睨むとどうしたの、と陸が慌てたように言った。         

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<著者紹介>
伊藤 朝香(山形県飽海郡/21歳/女性/フリーター)

 懐かしさに誘われて、ふと立ち寄ろうと思ったのは取引先から戻る京王線の車内で「調布」という駅名を見つけたからだ。駅で降りバスに乗ること十五分ほどで目当ての停留所に到着した。
「神代植物公園前」
周りの道路などは舗装されているが深大寺に向かう石畳の道は今も薄暗く、見渡す限り緑に覆われたこの趣は今も変わっていない。
ネクタイを緩め、缶コーヒーでも買おうかと販売機に小銭を入れる自分の後ろを自転車に乗った高校生が通り過ぎていった。振り返るとその高校生を追うようにしてモノクロのニキビ面した自分が通り過ぎて行く―。

 高校生になった自分はある決意を胸に今日も必死に自転車を漕いでいた。そして祈れば「縁が結ばれる」という深大寺の前を通り過ぎる度に目を瞑りこう願う。
「初めてのデートは神代植物公園に行く!」
無論、そのデートすべき相手はまだ見つかっていない。
缶コーヒーを持ったまま、遠くへ小さくなっていくモノクロの自分を見送る。きっとニキビ面少年はあの必死な自転車の漕ぎ方から見て今日も遅刻だったはずだ。
「大人を一枚ください。」
高校時代、勝手に神聖なデートコースとして任命した植物公園へ入るのも二十年ぶりだ。入口も当時より綺麗で大きくなったような気がする。入場券を渡し、中へ入ろうとすると懐かしい匂いが鼻先をかすめた。匂いがする方向を見るとまたモノクロのニキビ面が立っている。今度の自分はちょっとオシャレな格好でかなり緊張をしている様子だ。

初めてのデートは願いどおり神代植物公園となった。相手の名前は「高崎さん」。一年生の時から同じクラスメイトで、ずっと気になる存在だったがデートを申し込んだのは二年生になってからだった。顔を紅潮させ高崎さんの目も見られずカチカチになった自分に笑いながら
「いいよ。一緒にいると楽しいもん。牧田君お勧めの植物公園に行こうよ!」
と返事をくれたのだ。天にも昇る気持ちというのはこういう事なのかと感じた瞬間だった。
 あの日の帰りは高校から家までの最短通学時間を更新し、深大寺に願い事のお礼として小遣いを全額お賽銭として投げ入れ、それでも興奮が収まらず植物公園の周りをぐるぐると五周もして帰宅した。帰ってからもずっとニヤニヤして母親に気味悪がられた記憶が思い出される。
「あの時、何で小遣いを全額お賽銭に入れちゃったのだろうな...。デート代に使えば良かったのに。」
舞いあがるとロクな事は無い。今月の小遣いが無くなってしまったためデートは来月にしてもらうよう翌日お願いをした所、高崎さんはちょっとガッカリした顔を見せたが快くOKの返事をくれた。

懐かしい匂いは植物公園の中へと続いている。匂いに誘われ奥へ進んでいくと艶やかなバラ園が目の前に広がってきた。バラ園、神聖なデートコースの栄えあるスタート地点として「必勝!デートプラン」に赤字で大きく書いた懐かしき場所だ。
待ちに待った初めての植物公園デート、期待と妄想が先行し過ぎた自分は高崎さんと一緒に歩く姿を想像しながら、勉強そっちのけで「デートプラン」を作る事にした。家に帰れば時間はたっぷりある、一週間ああでもないこうでもないと悩んだ結果、最終的には園内を巡る順序まで細かく書きあげたスケジュール表が出来上がっていた。

「あのマメさが勉強にも発揮されていれば毎回テストで困る事も無かったのに...」
バラ園は高貴ながらもどこか優しい雰囲気で出迎えてくれた。あの時と全く同じだ。感傷に耽っていると懐かしい匂いがまた鼻先を通り過ぎていく。匂いの先にモノクロの自分がいないか探してみるが見つからない。その理由も今の自分は分かっている。ニキビ面の少年は今も入口で彼女を待ち続けているからだ。温くなった缶コーヒーに口をつける。苦い。この苦さも懐かしい気がする。

 デート当日、待ち合わせ場所の植物公園入口で心躍らせながら高崎さんを待っていた。家を出るまで何回も読み返してクシャクシャになった「必勝!デートプラン」をもう一度チェックする。
【プラン①・十一時に入口で待ち合わせ】
頭の中では「逢って最初の一言目は何と言おうか」等を考えたりしている。ふと腕時計に目をやると、針は十二時近くを示していた。そろそろ約束の時刻から一時間が過ぎようとしているが高崎さんの姿は見えない。
「彼女が来ない間、周りの時間も止まっているように見えたな...」
 さらに三十分が過ぎたところで急に不安に襲われてきた。待ち合わせ場所を間違えたかな?後ろの看板を確認する。書かれた文字は「植物公園入口」、ここで合っているはずだ。初めてのデートに対する胸の高鳴りが段々胸騒ぎへと変わっていく。落ち着かせるため販売機で缶コーヒーを買った。一口目、味が全くしない。何か事故にでも遭ったのだろうか?不安を打ち消すため二口目を飲む。苦い。もしかしたらデートをするのが嫌になったのだろうか?慌てて首を振りながら三口目で一気に飲み干した。とてつもなく苦い。コーヒーの苦さが今の心境を表しているようで悲しくなってきた。
約束の時刻から二時間が過ぎても高崎さんはまだ現れなかった。
「もう諦めて帰ろう...」
この世の終わりのような顔をしてトボトボ引き返そうとしていると、入口受付のおばさんが見かねて話しかけてきた。
「あなた、さっきから人を待っているようだけど、こちらではなく正門の方の入口には行ったのかね?」

「はい、じゃあ待っているから。よろしく。」
通話ボタンを切り液晶画面を見つめた。あの頃にも携帯電話があれば、待ち合わせ場所で出会えない等という事は無かっただろう。
前を見ると、モノクロのニキビ面少年が必死に彼女に謝っていた。二人の上には看板がある。書かれた文字は「植物公園入口(正門)」、
神代植物公園には入口が二つあったのだ―。

「待ち合わせ場所を間違えるなんて牧田君らしいや。」
高崎さんは笑いながら許してくれた。どちらもやっと逢えて緊張がほぐれたのか、会話はほどよく弾んだ。ただ、彼女の顔にうっすら見える涙の跡については聞く事が出来なった。
 待ち合わせ場所からすでに「必勝!」では無くなったデートプランはこの後も全敗街道を歩んでいく。【プラン③・園内の大温室でさりげなく手をつなぐ】は、肝心の大温室が改修中で入れなかったり、【プラン⑤ 花について薀蓄を語り賢いところを見せる】では、逆に「チャイコフスキー」というバラは有名な音楽家にちなんで付けられた事をクラシック好きの高崎さんに教えてもらったりと、一日中しどろもどろな自分に対して彼女はずっと微笑んで接してくれた。

 ×印ばかりの「必勝!デートプラン」も気がつけば最後にして最大の目標、【プラン⑫・境内の前で告白、深大寺そばを一緒に食べる】だけが残った。
肩を並べて歩くモノクロの二人、深大寺はもうすぐだ。境内の前に来た所でニキビ面少年が覚悟を決めて立ち止まった。一呼吸置く。
「高崎さん!」と「ごめんね。」
 二人の言葉はほぼ同時だった
「バスの時刻が迫っているから、今日は帰らないと。」
 人生、自分が思っていた通りに行く事などほとんどない。初めてのデートは告白の前で終わってしまったのだ―。

場面はまだ屋根の付いてない停留所へ移る。
「今日はありがとう。」
 そう言って高崎さんはバスに乗り込んでいく。振り返りバイバイと手を振ってくれたが、ニキビ面の少年は俯いたままだ。バスは定刻どおり発車し、彼女はみるみる小さくなっていく。少年はバスを全力で追いかけ叫んだ。
「君が好きだ!」
手を振り続ける彼女に聞こえてはいないだろう。それでも何だか心がスッキリしていた。

 「神代植物公園前」
またこの場所に戻ってきた。停留所にバスが停まり、学生、サラリーマンたくさんの人が降りてくる。最後に降りてきた女性が懐かしそうに辺りを見回した。そして、自分を見つけると手を振ってきた。彼女の名前は裕美子、私の妻だ。そして旧姓は「高崎」―。 
「ここは変わってないわね。でもビックリしたわよ、いきなり電話で呼び出して。」
「久しぶりの深大寺、あの日のデートの続きをしたくてね。」
深大寺は縁結びの神様、二人が結ばれたお礼を言わなくては。お賽銭もたくさん入れよう。そして、一緒におそばを食べに行こう。二十年ぶり「初めてのデート」の続き、きっと今日はプランどおりに行くはずだ―。

「あなた、このお店今日は定休日ですって。」

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<著者紹介>
加藤 はるき(東京都府中市/28歳/男性/会社員)

「男の子と話せるようになりますように」

私は大学進学とともに引っ越してきたこの地にある深大寺にお参りに来ていた。
深大寺は厄除けと縁結びで有名なお寺。お寺で縁結びって不思議な感じがするけど、私はここが好きだ。
ちょっとした観光地になっているこの場所は、そばが有名で参道にはそば屋が立ち並ぶ。まだ食べたことはなかったが、日によっては通りにまで行列が連なるのを見るときっとおいしいのだろう。
ただ・・・
私は引っ込み思案で、一人でお店に入ることすらできなかった。こうして一人でお参りに来ることも、今までだったらきっとしなかったんだろうけど・・・・大学に入学したと同時に、変わりたいと思った。普通の女の子のように、おしゃれして、学校帰りにはお茶をしながら誰かの彼氏の話をしたり、ともかくこの引っ込み思案でうじうじした性格をどうにかしたいと思った。
それから毎週週末になるとここ深大寺に通っている。神頼みなんて、やっぱり暗いかもしれないけどそれでも何もしないよりは私に少しだけ勇気をくれる。
「あの、落としましたよ」
その声に振り向くと、漆黒の髪がさらさらと風に流れ柔らかく微笑む男の人がこちらに向かってハンカチを差し出していた。
お、男の人だ。
私はそのことだけで、思わず身体が固く緊張してしまう。
「あ、ありがとうございます」
顔を見ないままなんとか手を出してハンカチを受け取ると、途端に私のお腹がきゅうっと恥ずかしい音をたてた。
「お腹すいてるの?」
その人の言葉に、私は思わず真っ赤になってしまう。
こんなところに一人でお参りに来て、お腹鳴っちゃうなんてかわいそうな子だと思われてしまうんじゃないかと、受け取ったハンカチを強く握り締めた。
「良かったら、おそば食べに来ない?」
上目遣いで少しだけその人を盗み見ると、その人は笑うだけでもなく、ただ柔らかく私に微笑みかけてくれている。
私はその微笑みに、気がつかない間に首を縦に振っていた。

その人は、文哉さんと言ってこの深大寺のおそば屋さんで週末はアルバイトをしているらしい。その優しい笑顔のせいか、文哉さんはすごく年上に見える。実際はいくつなんだろう?アルバイトなら、大学生かな・・・そう思いながら、彼の隣を歩く。彼は相変わらず優しく微笑みながら、私をそのお店に連れていってくれた。
文哉さんの声は不思議なほど柔らかく私の耳に溶け込み、聞いていてすごく心地いい。
男の人なのに、私、男の人すごく苦手だったはずなのに、お店に向かうまでのほんのちょっとの道のりですっかり打ち解けてしまった。

「そっか、それでお参りにね」
お昼の時間を過ぎた店内はまばらにしかお客さんがいなくて、文哉さんが直々に私のところにそば湯を運んできてくれた。
「・・・男の子とまともに話せないなんて、イマドキ珍しいですよ、ね・・・」
文哉さんはふっと笑うと、「じゃあ、僕は?」と聞いてくる。
本当不思議。初めて会ったのに、初めてじゃないような、文哉さんの声を聴いていると心がふんわりあったかくなるような、そんな懐かしい感じがする。
「君さえよければ、また会いたいな」
そう言って文哉さんはレシートの裏に携帯番号とメールアドレスを走り書きした。


家に帰ると、私はベットに寝転がってそのレシートを見つめた。
「くれたってことは、連絡していいんだよね」
私はドキドキしながら、自分の携帯に文哉さんの番号を登録する。携帯の画面には登録された文哉さんの名前が数少ない名前の一覧に追加され、なんだか私は嬉しくなった。
早速今日のおそばのお礼をしようと、メール作成画面を開いた。
結局あのあと再びお客さんが多くなり、文哉さんとはあまり話せないまま家に帰ってきてしまったのだ。
おそば、おいしかったな・・・
初めて一人で入ったお店。正確には文哉さんが連れていってくれたんだけど、あのおそばのおいしさと、初めてのドキドキ感は今も忘れられない。私は思いつくままにメールを綴った。
送信ボタンを押すと、5分もしないうちに文哉さんからの返信が届く。その内容はさっきの私が送ったメールの内容の返事ではなく、明日会えないかという内容だった。
明日は、特に用事もないし・・・私も文哉さんともう少し話をしたかった。あの柔らかい笑顔を、優しい声をもっと聴いていたい。私は自然と微笑みながら、メールを返信した。

まだあまり土地勘のない私のためにと、待ち合わせをしたのは深大寺の正門前だった。今日は日曜日なだけあって、まだ十一時前だったけど、結構人が出ていて正門前のおせんべい屋さんも隣のおそば屋さんもかなり繁盛しているようだった。
「朱里ちゃん」
私が周りをきょろきょろしていると、後ろから肩を叩かれた。思わずびくっとしてしまった私に文哉さんが「ごめんね」と微笑む。その手が触れた場所は次第に熱を持ち、私の心を再び沸き立たせた。
「まずはお参り、しようか」
文哉さんの優しい微笑みがまるでお日様みたいに見える。私は文哉さんのあとを追って、石段を登った。いつものように手を洗い、いつものようにお賽銭を投げる。ただ違うのは、今日は隣には同じように手を合わせる文哉さんがいること。私はいつに増しても長い間、目を閉じていた。
 気がつけば、文哉さんは微笑むわけでもなくただ優しい瞳で私を見つめていた。
「何をお願いしてたの?」
その言葉に心臓がドキンと音をたてた。
「ふ、文哉さんこそ何をお願いしたんですか?」
私は自分が今お願いしていたことを悟られないように、文哉さんに質問を振り返した。
「僕?僕はね」
並んで歩き出した肩が時折かすかに触れる。お互いの指先がぶつかった瞬間、そのまま文哉さんの大きな手が私の手を包み込んだ。
「ふ、文哉さん?」
私は驚いて文哉さんを見上げた。
「君をデートに誘えますように、って」
少しだけ頬が赤くなっているようにも見える。
「だめ、かな?」
文哉さんの困ったような照れたような笑顔が私の胸を締め付ける。私は返事の代わりにつないだ手を少しだけ強く握り返した。そうして私たちは深大寺の参道を歩き出す。温かい日差しが私たち二人を包み込み、ただ微笑みあっているだけで幸せだった。
『この先も文哉さんの笑顔を見ていたい』
そう願ったことは秘密だけど、私たちはお互いのことを歩きながら、すべて話そうとした。文哉さんは実は同じ大学の先輩だったこと、いつもお昼を一人で食べている私に実はずっと声をかけたいと思っていたこと、そして私に一目惚れだったということ。
 柔らかい微笑みに包まれて、私の心は解き放たれ、私も素直になることができた。本当はもっと普通の子みたいに恋愛をしてみたかった。ふんわりとそこから救い出してくれたのは文哉さん。他の子は暗い、つまんない子だって見放してた私の手を取ってくれたのは文哉さんが初めてだった。
 出会えたのは深大寺の奇跡、なのかな。偶然この土地に住むことになって、偶然深大寺で文哉さんと出会って、偶然が偶然を呼んで出会えた奇跡。
 私は文哉さんの手を握ったままその横顔を見つめると、来週は二人でお礼を言いに行かなくちゃいけないかなとぼんやりそう思った。

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<著者紹介>
神堂 瑠珂(東京都調布市/31歳/女性/会社員)

 木の葉のシルエットが途切れ、遠くに白くて堅そうな満月が現れた。満月は歩くごとに木の葉の陰から出たり隠れたりした。まばたきするみたいに。かすかなせせらぎと、靴が小枝を踏む乾いた音だけが響いていた。 その夜、私たちは野川公園で待合わせた。
 こんばんは。橋の上で私たちは言った。白い息がすっと暗闇に溶けた。私たちは川べりに降り、手をつないで南へ歩いた。ずっと。足元はコンクリートになったり砂利道になったり膝の丈くらいの草に覆われたりした。
 今何時なのかわからなかった。でも、明日の午後四時でない限り何時でもよかった。
 私たちは何も話さなかった。でも彼の手は何度も私の手を握りしめた。

 彼と初めて会った場所は市立図書館だった。私は≪文化≫と≪歴史≫の書架に返却処理が済んだ本を戻していた。金曜の午後6時前。閉館間際で来館者はほとんどいなかった。
 あの、すみません、助けてくれますか。
 声は低く穏やかで訛りがあった。
 本を借りたいですが、どうできますか。
 暗い色の髪と瞳。日本人でないのはすぐにわかったけれど、遠いどこの国にでも馴染じんでしまいそうな不思議な雰囲気だった。よく日焼けして、切れ長の眼は優しそうだった。
 彼が抱えていたのはアイヌの文化に関する本と神道についての本だった。彼はフランスのトゥールーズ出身で、大学で日本文化の勉強をしていて、調布駅近くに住んでいて、北海道に何度か旅行したことがある。カウンターで図書館の利用者登録と貸出手続きをしながら、彼は流暢な日本語でそんなことを次々と話した。
 彼は手続きが終わってからも立ち話を続け、同じ熱心さで私のことを尋ねた。彼は冗談が上手くて、大人びた熱心さと子どもっぽい無心さで話し、よく笑った。私はもっと前から彼と知り合いだったような気がした。
 彼がカードを財布にしまい、肩からかけていたバックパックに本を入れるのを見ながら、あ、この人は行ってしまう。と思った。
 首に下がった黒い紐のペンダント。もっと一緒にいたいのに、どうすればいいかわからなかった。私の気持ちが彼が羽織ったジャケットの袖をつかみ、私の顔を見た彼が言う。
 あの、今日、夕食しませんか。
 私はポケットに入っている彼の名前と電話番号を書いた紙切れに何度か手で触れながら残りの仕事を終えた。

 小さな定食屋で夕食を食べながら、彼は今している神道の研究について熱心に説明した。とてもおもしろい、と話す合い間に何度も挟んだ。それから神道についてどう思う、と私に尋ねた。私はそんなことゆっくり考えたこともなかったから、思いついたことをそのまま言葉にした。
 私は、神道には親近感を感じてると思う。神道って自然を畏れることを大切にしてて、でも自然に対する愛情も含まれてて。自然って誰にでもきっと、怖いけど、懐かしくて温かいものだと思う。自分や自分のまわりの人が自然に属してるって気持ちかな、それが習慣や言伝えになって、代々続いていくのって
よくわからないけど、いいことだと思う。
 霊や魂の存在も素敵だと思う。素敵って、ちょっと変かもしれないけど。
 わかると思う。と彼は相槌を打つ。
 すべてのものに神様が宿ってるって考え方、それって人間の根っこの方にある、原始的な力を表してる気がする。森の神様、河の神様、風の神様。それがいろんなかたちで表現されて、お互いに関係し合ってる。そういう考え方って世界を理解する魅力的な方法だと思う。
 彼はゆっくりうなずいて、それから笑みを浮かべて言った。
 きみの考え方も、神道を理解するとても魅力的な方法と思う。
 話は岡本太郎の芸術に移り、それから彼は私の質問に答えながらフランスの街について話した。
 彼の言葉が、私がいつか映画で見た景色に鮮やかな色を落としていく。私はその景色の中にいる彼を想像する。彼が選ぶ言葉のひとつひとつが私の中にひとつの街を造っていく。
 トゥールーズという私だけの魔法の街。私たちは飽きることなく話し続けた。
 調布駅に向かって歩きながら、彼と私はとても自然に手をつないでいた。街灯やすれ違う自転車の灯りやネオンがいつもよりやわらかかった。
 私たちは日曜日にまた会う予定を作った。彼は深大寺に行こうと言った。

  深大寺に着いたのは夕暮れの少し前だった。お参りの人波は引いてしまったらしく、遠くの方から蕎麦屋の水車が規則的に水を汲み上げる音が聞こえてくる。饅頭を蒸かす湯気。お茶屋の軒の鮮やかな赤い布。土産物屋の店先が子どもの頃を思い出させる。
 私たちは本堂をお参りしてから神代植物公園沿いに西側へまわり、深沙大王堂に出た。蝉の声が消えてしまった季節、まだ青々とした木がざわざわと風に吹かれる音が涼しい。ぴったりと敷き詰められた石畳の上に木の葉の影が踊っている。
 深大寺には何の神様がいるの、と彼が尋ねた。私は、縁結びの神様だから恋人たちの神様かなと答えた。
 えんむすび、と彼が聞き返す。
 ≪えん≫っていうのは、人と人の関係のこと。友達とか恋人とか、人と人をつないでいるもののこと。人と人を出会わせて結びつけてくれるもの。
 私は彼の横顔を見た。
 そうか、その結び目の神様なんだね。
 彼は静かに言った。
 深沙大王堂の裏にある小さな泉の淵に立ちながら、私は島に閉じ込められた恋人に千通の手紙を書いた男の伝説を話した。彼は泉を見つめながら聞いていたけれど、だから深大寺は縁結びの神様なんだって、と私が話を終えたとき、ふと私の顔を見た。私は彼の硬い表情になんだか怖くなって彼の言葉を待った。
 ごめんなさい。
 彼は私の顔をまっすぐ見ながら言った。
 私は、二カ月後にはフランスに帰ります。だから、きみの恋人になれない。きみを幸せにできないかもしれないから。
 私は黙って泉の水を見た。木漏れ日が水面に揺れていた。不思議と穏やかな気持ちだった。こんなにまっすぐな言葉を聞いたのは久しぶりだと思った。
 私が好きなの。
 私は尋ねた。
 彼はもちろん好きだと言った。
 私は彼の顔を見た。彼の不安で真摯な瞳を見た。話すときにはあんなにも活き活きと輝く瞳。
 とても大人びて見えた次の瞬間には子どものように笑う。そして私は彼の歳を知らないことに今気づく。彼の家族。彼の友人。彼の過去。未来。彼について知らないことの終わりのないリスト。埋めるのに一生は短すぎるけれど二カ月は長い。
 でも、恋人になりたい。
 私の唇は言った。
 一緒にいなかったことを後悔するよりは、一緒にいたことを後悔したいの。
 自分が正しいことを言っているのか私にはわからなかったけれど、今まででいちばん言いたいことを言っている気持ちがした。
 本当にそう思うの。
 彼の声はまだ不安そうだった。
 私には彼の近くにいる理由が充分過ぎるほどあった。初めて会った日の彼。それだけでこんなにもたくさんの仕草を覚えている。それが何よりの証明だった。
 彼が帰る日に感じる悲しさよりもずっとたくさんのものを彼は私にくれる。私はそれが見たかった。
 縁結びの神様は縁を結んでくれるけど、つなぎとめるのは人でしょう。
 そう言った私は、それでも怖くなって彼にしがみついた。

 街灯に照らされて夜が目の前で開けた。私たちは武蔵境通りと野川が交わる橋の下にいた。今までに何度も待ち合わせをした橋。最後の散歩の終わり。
 二カ月の記憶が私からこぼれていく。彼の眼に光がたくさん浮かんでいるのが見える。涙のような月の光。
 彼が私の頬を両手で包む。
 行かないで。帰ってくるって言って。
 それを声にしていいのか、しない方がいいのかわからなくて、私はただ彼の顔を見ながら胸の中で繰り返した。
 きみに出会ったことの他に何もいいことがなかったとしても、日本に来てよかった。
 聞き慣れた声が涙をこぼさせる。
 明日の午後四時、彼が乗った飛行機が日本から飛び立つとき、私は彼のことを考えているだろう。思い出をひとつひとつ手にとって眺めているだろう。
 そのひとつひとつはあまりに幸せで、もう私に涙を流させないだろう。
 ありがとう。
 それは私の言葉か彼の言葉か、私の中で聞こえただけだったのか、私にもわからなかった。でも、それ以外のどんな言葉もこの場に相応しくなかった。
 彼の体が私の体を抱きしめる。世界の音がすべて消えて彼の呼吸と私の鼓動だけが脳に響く。彼の肩に涙をが吸い込まれていくように、感情が彼の体温に溶けていく。
 そして野川の神様が、私たちのそばを通り抜けていった。

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<著者紹介>
Ryo(大阪府高石市/23歳/女性/学生)

きっかけはラジオでした。
調布で新生活を始めて二ヶ月程が過ぎた五月の半ば頃だったと思います。ちょうど桜が終わり、自宅近くの深大寺の周りにはピンク色のつつじの花が鮮やかに咲き乱れていましたから。
調布の街は緑に溢れていて過ごしやすく、私は気に入っていました。そんなある晴れた土曜日の午後、私は洗濯をしながらラジオを聴いていたんです。ほら、コミュニティFMっていうんですか。調布から発信されているラジオです。自分の好きな曲が流れていた事もあり、リズムに乗りながら洗濯物を干していたんです。ラジオからは美園新吾という人気パーソナリティーの番組が流れていました。すると静かなピアノの曲をバックに彼は便りを読み始めたんです。何やらリスナーからの便りを読むようでした。
「調布市内の陽子さんからこんなお便りを頂きました。...いつも楽しく拝聴しています。私は所謂シングルマザーです。息子の圭太と二人で細々と生活をしています」
便りはそんな始まりだったと思います。それを聴いた時、私の手は止まりました。陽子と圭太という聞き覚えのある二つの単語が耳に入ったからです。私はボリュームを上げてラジオに聴き入りました。
「...先日、私は帰宅した息子の姿を見てびっくりしたんです。全身泥だらけなんですよ。髪の毛には砂を被っているようでした。その理由を尋ねると友達とサッカーをやっていたって言うんです。親は子供の嘘を簡単に見抜けます。私は圭太の背中に足跡が付いているのを見た時に嘘をついていると確信しました。私は圭太と向かい合って彼を問い質しました。すると圭太は観念したように話し始めました。案の定、圭太はいじめに合っていたのです。一週間程前から始まったといういじめの発端はサッカーの試合の際、圭太のミスのせいで圭太側のチームが逆転負けしたそうなんです。その鬱憤がエスカレートして、毎日圭太を蹴飛ばしたり、鉛筆を隠したり、水溜まりに投げ飛ばしたり、頭から砂をかけたり、靴を投げ捨てたりしていると言うんですよ。でも、圭太は泣きませんでした。いえ、逆に信じられないような事を口にしたのです。ママ、僕は平気だよ。いじめなんて、いじめだと思うから辛いのであって、強い人間になるための試練だと思えば耐えられるもんさなんて言うんですよ。私の方が泣いてしまいました。そんな台詞を幼い息子に吐かせる自分が情けなくて、申し訳なくて仕方ないです。こんな時に男親がいてくれたら頼もしいと思いますね」
私はラジオを聴きながら涙が溢れてきました。便りの主は明らかに別れた陽子であり、圭太とは私の息子に違いありません。夫婦のすれ違いが原因で三年前に離婚しましたが、陽子と圭太がこんなに厳しい想いをして生きているなどとは思ってもいませんでした。
 大学三年生の時、私は陽子と出逢いました。私はいつの頃からか陽子を意識するようになっていました。陽子を特別な目で見ていたし、特別な関係になりたいと思うようになっていました。陽子は名前の通り太陽のような人で、いつも笑顔が絶えなかった。いま振り返ってみても、陽子が笑っていなかった日なんて一度もなかったんじゃないかと思います。私は陽子への想いが募り、ある日、深大寺の境内に陽子を呼び出して自分の想いを告白しました。とても風が強い日でした。陽子が「私もあなたの事が好きだった」という台詞を言ってくれた時、私は生まれて以来、一番と言えるほど嬉しかった。
初めて二人きりでデートをしたのは陽子のアパートの近くの神代植物公園でした。
「見せたいものがあるの」と陽子は言って、辺り一面に咲く薔薇の花を見せてくれました。薔薇の花なんて切り花でしか見た事がなかった私は、咲き誇る薔薇の華麗さに圧倒されたのを覚えています。
「私ね、いつか大好きな人とこの素敵な薔薇を見るのが夢だったの。でも、それがあなたで良かった」
陽子は笑顔でそう言ってくれました。そんな陽子を私は強く抱きしめました。そして、紅く鮮やかな薔薇の前で私達は唇を重ねたんです。結婚したばかりの頃、私は陽子と共にこの神代植物公園を訪れたことがあります。そして二人で話したんです。
「いつか、子供が出来たら三人でここに来ようか」
「そうね。必ず来ましょ。そして、私は子供に教えてあげるつもりよ。ここで初めてパパとママはデートしたのよって」

 ラジオからは、なおも陽子の便りが読まれていました。私は涙を拭きもせず聴き続けました。陽子も圭太もこんな苦労をしていたなんて知らなかった。我が息子が他人にいじめられていたというのに、全身を泥まみれにされたというのに、背中を蹴られたというのに、父親の私は助けてやるどころか、その叫びを聞いてやる事も出来なかった。
陽子と圭太に会いたい。もう一度、やり直したい。一から、いや、ゼロからやり直したい。三人で神代植物公園に行きたい。
想えば想う程、二人の顔や共に過ごした日々が私の脳裏に浮かんできました。
初めて出逢った時の陽子の笑顔、初めて手を握った時の陽子の温もり、初めて唇を重ねた時の甘い感触、初めて身体を重ねた時の互いの愛情、陽子が作った料理の味、陽子さんを嫁に下さいとご両親に挨拶した時の緊張、婚姻届に判を押した時の互いの決意、真っ白なウエディングドレスに身を包んだ綺麗な陽子、共にケーキをカットした時の互いの幸福、新居のドアを二人で開けた時の互いの微笑み、毎朝目覚めると横に陽子がいる嬉しさ、帰宅するとテーブルに料理が並べてある感動、陣痛で苦しむ陽子の格闘、産まれて来た圭太の寝顔、産み終えた陽子の安堵、もみじのような圭太の手、祝福してくれた友人達の笑顔、爺ちゃんだよ婆ちゃんだよと喜ぶ互いの両親、ハイハイして歩く圭太の顔、夜泣きする圭太の声、初めてパパと呼んでくれた時の圭太の姿、親子三人で川の字になって寝た柔らかい布団、圭太を真ん中にして三人で歩いた深大寺の境内、アヒルのおまるにまたがる小さな圭太、保育園の水色の制服と黄色の帽子、チューリップの形をした「けいた」と書かれた名札...想い出す出来事の随所に笑顔が溢れていた。
陽子と圭太にもう一度会いたい。もう一度やり直したい。出逢った頃に戻りたい。私は溢れる涙を拭き、深大寺へと走りました。陽子に自分の気持ちを伝えた想い出の場所が深大寺なんです。
 縁結びの御利益があるとされる深大寺の境内はその日も静寂に包まれていました。湧水の流れる音までもが聞こえました。私は深妙大王堂の前に跪き、そして祈りました。深妙大王は縁結びの神です。もう一度だけ、もう一度だけ、陽子に出逢いたい。圭太を抱きしめたい。そう強く祈りました。
 大学時代に陽子と出逢った事は偶然ではなかったと思います。この縁は必然だった。偶然も五年続けば必然になりますし、縁も十年続けば絆になります。しかし、続けるためには互いの努力が必要です。その縁を絆にまでするという努力を私はしていなかったのです。縁があって男女が出逢っても、それを続ける努力をしなくては縁は続きません。一本の糸を半分ずつ持ち合って、離れないように強く握り合って、縁を絆にまでしていかなくてはなりません。
本当に馬鹿ですよ私は。陽子を失ってから、そんな事に気付いたのですからね。もういまさらそんな事を思ってみても遅いのかもしれません。けれど、私は祈りました。そして、二人のもとを訪れたのです。
いま、私がこうして過去の話をするのは、二度と人との出逢いを無駄にはしたくないからです。人と出逢う事は素晴らしい事だと思います。人は独りでは笑えませんし、前にも進めません。出逢いが自分を前向きに歩かせてくれるのです。
私は陽子という人と出逢い、それを学びました。そして、二人の間に出来た圭太が私と陽子を前向きに歩かせてくれています。もう二度と二人を失いたくはない。ですから、私は縁を絆にまでしていく努力を惜しまずに続けるつもりでいます。
私はいまこうして深大寺の境内の隅に腰をかけながら、二人の姿を眺めています。蝶を追いかけて走りまわる圭太を陽子も追っています。二人とも笑顔で走っています。この笑顔を絶やさぬようにこれからを生きていこうと思っています。

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<著者紹介>
こん たっけ(東京都世田谷区/32歳/男性)

私達が出会ったのは、春まだ浅き弥生のこと。大学の卒業旅行の夕食のバイキングの時、
「僕、高本翔次、これからよろしく」
と話しかけてきた。予期していなかったので、「私は、藤元つつじ」
とあわてて名前を言うのが精一杯だった。卒業旅行で「これから」はおかしいと思うだろうけれど、私達は大学院の修士への進学が決まっていて、彼の名前だけは知っていた。彼は他大学の英文科を卒業してから国文科に入学したためか、それまで出会うこともなく、この夜が「はじめまして」になった。
翌日朝方に河口湖畔を散策した時、少し離れて翔次がいた。何となく目があった私は、そっと微笑んだ。そして翔次も、そっと返してくれた。二人の間にぽっと点った灯り。翔次との空気感はこんな風にして生まれた。
卯月になって大学院が始まり、大学四年と比べたらはるかにキャンパスにいる時間は長くなった。彼は調布、私はつつじヶ丘と同じ私鉄沿線に住んでいて、朝からキャンパスへ向かう途中で彼と出会うことも少なくなかった。翔次と「おはよう」で始まる清々しい一日。教室に入ってから出会っても、彼は必ず微笑みを投げかけて、私の緊張をほどいてくれた。年齢は私より五歳上だったので、同級生といっても大きな包容力を感じていた。
皐月に入る頃には、私達は家に帰ってからの電話でも話すようになっていた。
「今度の日曜日、一緒にレポートやろうか」
と翔次が言ってくれたので、
「ねぇ、天気がよかったら、神代植物公園でやらない?」
と私も思い切って問いかけた。
「いいよ」
あっさり翔次の答が返ってきた。その日曜日が晴れますようにと、私は幼子のようにてるてる坊主を作った。そんなお願いが天に届いたのか、日曜日は空が高く青く澄んでいた。
翔次が住んでいる調布からも神代植物公園へ行けるバスはあるが、
「つつじ住む つつじヶ丘まで お迎えに」
と彼がおどけて言い、つつじヶ丘からバスで一緒に向かった。花の季節は過ぎていたが、桜の樹木の並木をバスは進む。バスを降りた場所で、私は桜の樹下から太陽を見上げた。無数の桜の花びらが降りしきるような白い光を感じる。
「私、小さい頃はこの近くに住んでたの。ここに来ると、降るように舞い散る桜の花びら追いかけてた」
少女の目に戻っていた私を、翔次はあったかく見ていてくれた。
「ねぇ、葉っぱごしに太陽を見ると、緑の光が見えるのよ」
とさも私が発見したかのようにはしゃいでも、彼は優しく、
「そうだね」
と私の話を聞いてくれた。公園に入ってちょっと進むと、満開のつつじが私達を迎えてくれる。
「私が咲いてるって、ちっちゃい頃から思ってた」
「確かにすごいな。ここはつつじだらけだ」
そう言って、翔次は掌で軽く私の頭の上から小突いた。彼の茶目っ気は私にはうれしいもので、
「そう、つつじがいっぱい!」
と放った私の声は、伸びやかに皐月の空に溶けていった。園内を進んで、藤棚がある所まで翔次を連れて行くと、
「藤のもとにつつじで、私そのものでしょ」「あぁそれでつつじは、ここで勉強したがったんだな」
「うん」
と頷きながらも、翔次にここに来てほしかったんだよ...と心の中で呟いた。この景色の中に、大好きな翔次と一緒にいたいと思ったんだよ...。私達はもちろん勉強にも精を出し、佐藤春夫の詩に時に意見を交わしながら、レポートを仕上げた。
「ふぅ、やっと終わった。一生懸命やってたらおなか空いたね」
「深大寺そばってつつじの顔に書いてある」
と翔次は私の顔の前でそばという文字をなぞるようにからかい、さっと私の手を掴んだ。「つつじ、行こう」
「はい」
素直にそう答えたくなる翔次の爽やかさが、私の心に響いていた。私達は神代植物公園を奥まで進み、深大寺へ行ける道を辿った。小さい頃箱庭の品々を買い揃えたお土産屋さん沿いに、坂をちょっと下って行くと、見ていて飽きない水車がお店の前にあり、風情のあるたくさんのおそば屋さんが軒を連ねる。
「いっぱいあって迷っちゃうね」
「とにかく入ってみようっか」
と応じる翔次の後に続いて店内に入る。二人とももりそばを注文し、程なく運ばれてきた深大寺そばが、私達の空腹を満たしてくれる。
「さっぱりしてて美味しいね」
「おかわりしたくなるよな」
「勉強して深大寺そばのコース、いいと思わない?」
「うん、また来よう」
私達の楽しい語らいはそれからも尽きなかった。そして、また翔次とこういう時をもてそうなことが、私には何よりうれしかった。
果たして、翔次の言葉に嘘はなかった。水無月は梅雨の合間を縫って、紫陽花を愛でつつ万葉集のレポートをまとめたし、文月は、サルスベリを目にしつつ、修士に入って初めての試験勉強に二人で集中した。もちろん深大寺そばも食べに行き、小さい頃らくやきの絵を描いたお店を、翔次に案内もした。葉月はぎらぎらする太陽の下、暑いさ中だったが、
「自然の中で勉強するのが一番」
と彼は言ってくれ、スイレンで涼を取りながら夏休みの課題に取り組んだ。深大寺では、私が小学生の頃は釣りができるようになっていて、亡き父と鯉を釣った思い出話もした。ようやく暑さをしのげるようになった長月には、揺れるコスモスを目で楽しみつつ課題に追い込みをかけ、ほっとして後期を迎えた。
国文科共同研究室では、私達二人を指して、「もとじ」と呼ばれることもあった。たかもとしょうじとふじもとつつじで、自分達でも気づかない名前の偶然を先輩が見つけ、「二人まとめて速く呼べる」とは言われたものの、やはり仲の良さをからかわれていたのかもしれない。二人の時を楽しく穏やかに過ごせていたので、私達自身はお互いに何も口にはしなかった。私は翔次と一緒にいられればそれでよかった。むしろ気持ちを口にすることで壊れてしまいそうな純粋なものを、必死に守ろうとしていたのかもしれない。
神無月は神代植物公園のバラ園の散策を楽しみに明月記のレポートをまとめ、霜月には菊花展に感嘆した後、源氏物語の課題を二人で長考した。大分風が冷たくなって野外での勉強は難しいとも思われたが、霜月は翔次の誕生月で、お誕生日に神代植物公園に行くのは、二人の暗黙の約束のようになっていた。午後も遅くなって課題を終え、深大寺への道を二人で落葉を踏みしめ歩いていた。
「寒くなったね」
と翔次の方を見ると、彼がそっと肩を抱いてくれた。そして一瞬時がすべて静止したかのようになり、翔次は初めての口づけを私の唇にそっとしてくれた。どこまでも翔次の優しさが心に沁み入るような口づけで、このままいつまでも時が止まっていればいいと、私はその瞬間心底願った。翔次が私の唇から離れた時、「翔次...」と私が囁くと、翔次も「つつじ...」と囁いてくれた。私達二人には、もうそれがすべてのように充分な世界だった。
師走、睦月、如月の冬の季節はさすがに屋外での勉強はやめた。一度二人で勉強の息抜きに訪ねた時、落葉の狭間に黒い玉を見つけ、私は宝物のように大事に拾い上げた。
「これ、小さい時にも両親とここで見つけて、羽根突きの羽根の玉だって、植物図鑑で名前を調べたの。ムクロジっていうんだよ」
夢中になって喋る私を、翔次はいつものようにちゃんと見守っていてくれた。武蔵野の空の下で育んだ想いは、寒い季節も私達の心を温めてくれ、年末年始のレポートの山や、修士の学年末試験を乗り切らせてくれた。
やがて私達が出会った弥生が訪れる頃、翔次は中学校の英語の非常勤講師の職が決まった。翔次には英語の才能もあり、それで仕事に就ける翔次が、急にすごく立派に見えた。「つつじ、ごめん。今準備ですごく忙しくて、お花見に行けない」
「わかってるよ。それより健康に注意してね。応援してるから」
卯月を迎え、彼はいよいよ正式に先生になった。大学院に比較的近い中学だったから修士の授業には来ていたが、なかなか電話もできない忙しさが続いた。彼がまぶしいほど大人に見え、私も真剣に就職を考える時期に来ていた。修論を書きつつ、私は念願の、辞書を作る仕事ができる出版社に就職が決まった。こうして私達がそれぞれの道を歩き始めたのも、まっすぐな、ごく自然な流れだった。
二十五年前、確かに翔次と刻んだ日々だったのに、私は壊れ物のようにあまりに大事にし過ぎて、指の間から砂がこぼれ落ちるように喪失してしまった。...と、少し前までは思っていた。でもそうじゃないと今はわかる。きらめくような日々は明確に刻印され、その後の二人の人生は別々に歩んでも、今もこれほどまでに実り豊かに私の心の襞を震わせてくれる。失われてなんていない。精一杯生きた日々には、喪失なんて無縁だった。これからも、武蔵野の大空のもとの四季の記憶は色鮮やかに、翔次の二十八歳とつつじの二十三歳は輝き続ける。美しい自然の中で、深大寺の神様に見守られて青春を彩った恋は、年月を経てより強く私の心の中で生き続けている。

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<著者紹介>
牧野 さつき( 東京都新宿区/48歳/女性/主婦)

 「とりあえず、お参りしようか。」
車から降りたボクは祖父を誘った。

母から、同居して間も無い祖父の世話を一日頼まれたのは、三ヶ月程前の事だった。知人の娘さんの結婚式に父と揃って出席するので、一日面倒を見て欲しい、と言う事だった。

 祖父母の家は以前、うちから歩いて五分程の所にあった。小学校の頃などは、呼ばれてもいないのに、学校帰りには何故か必ずと言っていい程立ち寄っていた。祖父母の家は暗かった。鬱蒼とした木々が生い茂り、庭には鉢植や盆栽などが所狭しと置かれていた。今で言うガーデニングの様な、洗練さや優雅さなどとはまるでかけ離れた、何か薄気味悪い様な、太陽の光の射さない家だった。家内には小さな居間があり、古めかしい堀ゴタツの周りは、いつの物かも分からない新聞や雑誌のスクラップで埋め尽されていた。その中で、本を相手に一人でパチンパチンと碁盤に碁石を置く祖父と、時代劇の再放送を観ながら静かにタバコをふかす祖母。
 ボクには、祖父母が話しをしている記憶が無い。笑い合っている記憶が無い。口数の少ない、黒々とした眉毛をたくわえた、熊の様な九州男児の祖父と、細身を通り越した、皮膚と骨がくっついている様な、眼つきの厳しい新潟女の祖母。

 祖母の様子がおかしくなったのは、五年程前の事だった。同じ話を何度も繰り返す事から始まり、家の電話機を冷蔵庫に入れたり、馴染みのスーパーに辿り着けなくなったりした。症状の進行は驚く程早く、一年後位には、もうボクが誰かも分からなくなり、色々な事を忘れて行き、そして先月、専門の施設に入居した。

 去年の末、祖父母の家を取り壊す話が持ち上がり、それと同時に祖父はボクの家にやって来た。朝早く出勤し、何だかんだ夜遅く帰宅するボクは、中々祖父と顔を合わせる事も無かった。一日と言う長い時間を二人きりで過ごすなど、勿論初めてだった。ボクは何だか気まずさの様なものを感じた。

 「おばあちゃんのお見舞いに行こうか。」
祖母の施設は少し郊外にある。ドライブがてら、我ながら良い提案だと思った。とりあえず簡単に出掛ける準備をし、車に乗り込んだ。

 何だか不思議と気持ちが昂揚した。彼女以外の人間が助手席に座るのはいつ以来だろう。付き合い出して四年近く、月に何度かある休日は、ほとんど彼女と過ごして来た。大学時代の後輩との運命的な再会、一瞬で恋に堕ちた。今では彼女が隣に座っていても何も感じる事は無い。彼女の反応一つ一つに一喜一憂していた頃が嘘の様だ。特別な会話も無い。ドライブをしていても、彼女は一人助手席で寝息を立てている。会う事を義務の様に感じる事さえある。

「何処かで飲み物でも買おうね。」
エンジンをかけたボクに、祖父は突然言った。
「深大寺に寄ってくれ。」
「良いけど。どうしたの、急に。」
尋ねるボクに、祖父の返事は無い。別段急ぐ理由も無いので、ボクは言われた通り車を進めた。

 何年振りだろう。久し振りの深大寺は幼い頃の印象と全く変わらない。ある一角から、急にそれまでの住宅地とは全く趣の違った、緑豊かな澄んだ空気が現れる。ここが都内で、しかも自分が長年住んでいる場所から数分の所とは思えない程、静かな別世界がそこにあった。
 ボク達は、雰囲気のあるひなびた蕎麦屋の棟々を眺めつつ、並んで歩いた。
 境内に着き、身を清め、お参りをした。ふと隣を見ると、祖父はさらりとお参りを済ませ、静かに歩き出していた。
「何をお祈りしたの?おばあちゃんの事?」
問い掛けるボクに、祖父は何も答えない。
「まだ早いし、折角だからお蕎麦でも食べて行こうか。」
と誘うボクに背を向け、祖父は一番賑やかな門前街とは逆の方向に歩いて行った。
「おばあちゃんに御守りでも買って行こうか。喜ぶよ、きっと。」
そんなボクの言葉が聞こえているのかいなのか、売店などには立ち寄る気配も無く、祖父は静かに歩いて行く。
『何で此処に来たのかな。』
ボクは思った。

 狭い小道に入った。そこはもう参詣者の姿もあまり無い。木々の冷たい静かな空気の中を、祖父の後ろに着いてゆっくり歩いて行く。小さな階段を抜け、ゆるい石の坂道を下った。

 角を曲がると、そこに小さな花屋があった。花屋、と言っても、切り花を花束にしてくれる様な店では無く、鉢植だの苗だの、『植物』と言った物が雑然と並べられている。

「望月さん、お久し振りです。」
突然祖父に向かって、花屋の店主らしき中年の男性が声を掛けた。
「お知り合い?」
ボクの問いに答える事も無く、祖父は店主に言った。
「黄色いのを。」
何と言う注文だろう。ボクの怪訝そうな反応とはうらはらに男性は、
「黄色ですね。ちょっと待って下さい、奥、探してみますので。」
と、いそいそと店の奥に入って行った。すると祖父は、
「トイレに行って来る。」
と、ボクを置いて、勝手知ったる風にその場を離れた。
 一人残されたボクが仕方なく店内をブラついていると、店の奥から先程の男性が嬉しそうな顔をして戻って来た。
「あれ、望月さんは?」
「すみません、今トイレに。」
「そうですか。良かった、奥に一つだけ残っていました、黄色。」
と、小さな球根をボクに見せた。
「いつものヒヤシンスです。在庫があって良かった。」
と、当たり前の様に球根を袋に入れ、ボクに差し出した。
「おばあちゃんにかな。」
ボソッと言ったボクの言葉に男性は、
「お孫さんでしたか。そうですね、こんな大きなお孫さんが居たって不思議じゃないですね。」
と、にこやかに話した。
「祖父とお知り合いだったんですか。」
「ええ。私の父の代からのお客様で。奥様もお変わり無く?」
ボクは、祖母の近況をかいつまんで話した。
「そうでしたか。最近お二人でお見えにならないと思っていたら、そう言う事だったんですね。」
「ええ。これもおばあちゃんへのお見舞いのつもりなのかな。でも、お見舞いに根の生えるモノって、あまり縁起良く無いんですよね。」
 球根の入ったビニール袋を受け取るボクに男性は、
「そうですね。でも、望月さんは良いんじゃないですか、これが。」
と、やわらかに言い、手に持っていたお茶をボクに渡した。
「望月さんご夫婦がまだお付き合いする前らしんですけどね、お二人で此処にいらしたそうなんですよ。その時望月さんが、奥様にヒヤシンスの球根をプレゼントしたそうで。初めてのプレゼントだったらしくて、その時の奥様の嬉しそうな顔が忘れられないって、父が私に良く話してくれました。」
男性は、にこやかに続けた。
「それから年に一度位かな、これ位の時期に花の苗や鉢植を買いにいらして。ボクの代になってからも毎年お見えになっていたんですよ、仲良く二人で。」
と、男性もお茶に口を付けた。
 ボクには想像出来なかった。あの祖父母の若かりし頃が。ボクが知っているのは、温かさや明るさや微笑みなどとはまるで無縁の鬱蒼としたあの家で、静かに厳しくに生きて来た祖父母だ。
「最初のヒヤシンスね、花言葉が望月さんの愛の告白になったみたいなんですよ。」
男性は、いたずらっ子の様に、にこやかに続けた。
「望月さん、奥様にずっと気持を伝えられずにいたらしんです。でね、緊張でガチガチだった望月さんを見るに見かねて、父が紫のヒヤシンスをお勧めしたんだそうです。」
「紫のヒヤシンス?」
「ええ。それで帰り際、トイレに行った望月さんを待っていた奥様に、父がこっそり言ったんですって。『花言葉ってご存知ですか?』って。」
男性は大切そうに続けた。
「その一年後に二人でお見えになった時、お二人はもう結婚されていたそうで、父もすごく嬉しかったみたいで、何度もその話、聞かされました。だから今日も、お見舞いには不向きでも、奥様はきっと、すごく嬉しいんじゃないかな。」
 男性の話に聞き入るボクの目に、遠くからゆっくり歩いて来る祖父の姿が見えた。
「望月さん、用意出来てますよ。」
 祖父は男性に代金を支払った。
「奥様によろしくお伝え下さい。」
男性は祖父とボクに会釈した。球根の入った袋を受け取った祖父は店を後にした。その後ろを追うボクを男性は軽く引き止め、
「黄色のヒヤシンスの花言葉、ご存知ですか?」
と、少年の様に微笑み、店の奥に戻って行った。

 ボクは祖父の後ろをゆっくりと歩いた。祖父の小さくなった背中が切なかった。祖父の隣に居るのがボクである事が切なかった。

 車に乗り込み、祖母の待つ施設に向かった。助手席の祖父は、眠っているのだろうか、黙ってそこに座っている。手にヒヤシンスの球根を持って。
 話す事は無かった。言葉にしたら、声を発したらいけない様な気がした。他の誰も踏み込んではいけない、祖父と祖母の、二人だけの記憶。

 不思議な一日が終わった。両親も帰宅し、自分の部屋に戻ったボクは、男性の言葉を思い出し、パソコンに向かい、ヒヤシンスの花言葉を調べた。

 急に彼女に会いたくなった。ただ、会いたくなった。今度の休みを、少し待ち遠しく思った。

 そこにあった。黄色いヒヤシンスの花言葉。

『あなたとなら幸せ』。

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<著者紹介>
ヒサトミ マキ(東京都三鷹市/35歳/女性/フリー)

 あたたかい柔らかな毛が、わたしの頬に触れている。夜中にふと目覚めた時などにもたらされる、何とも言えない幸せ。ふわふわ三毛の癒し。中学校の友達に言わせれば、ニャンコで幸せを満喫している場合じゃないよ、恋しなさい。ありがたいお言葉だけど、ガサツな男子とコダマを同列に並べるなんて、どうにかしている。ふわふわの至福は、コダマをおいて他にはない。そう思っていた。そして、それは永遠に続くと思っていた。
 コダマは、物心ついた時からいたから、いなくなってしまうなんてことは考えたこともなかった。わたしの膝の上がお気に入りで、寝るときはいつも一緒だった。同じ時の流れを過ごしたのに、コダマはいつの間にかわたしを追い越して、年老いていったのだ。
 今年の冬、家の前の道でうずくまったまま動けなくなり、危うく轢かれかけた。毛布を敷いた籠の中に丸くなって、ほとんど寝たきりになった。それでもコダマはふわふわで、撫でるとわずかに顔をあげて、かすれた声で返事をした。

 深大寺動物霊園の萬霊塔は、春の明るい空に向かってすっくと立っている。六角形の法輪が三十三個積み重なっているそうだ。わたしは、その根元に安置してある十二支観音様のお顔が好きだ。金色の逗子のなか、十二支を配した光背を背にした祈りの姿。ふっくらとした頬に柔らかな優しい微笑みをたたえていらっしゃる。あの世でも、コダマはきっと幸せに過ごしていることだろう。好きだったポリポリと気に入りの毛布と、庭に咲いている花々と。わたしはそこにいられないけど、観音様が見守っていてくれるから、大丈夫だよね。そう自分に言い聞かせる。コダマのいない日々。あの、小さなふわふわがいなくなった、それだけでわたしの毎日は変わってしまった。春休みなのにちっとも楽しくない。友達の誘いにも、出かける気が起こらない。ちょっとしたことで涙が出てしまうもの。
 深大寺の境内では、なんじゃもんじゃの木が花を咲かせている。霊園の階段下の乾門から入るとすぐに、白い霞のような花をつけた木が目に入る。この花の様子は何となく丸くてふっくらしてて、白猫みたいだ。
 灯篭の中に、猫がいる。燈心を置くせまい空間にすっぽりはまって眠っている。はみ出した背中の毛しか見えないけど、そこが一番安らぐのだろうな、とわたしはその毛玉を眺める。触りたいけど触らない。触られたくないらそんなとこにはまっているのだろうから。それから、五大尊池のそばには茶縞の親子。 人に馴れているようでいて馴れきれてない。一定の距離をおいて眺めているから、わたしも その距離で眺め返す。湧水の流れには、水を飲む黒トラ。そっと近寄って横に並んでみる。気配に顔をあげて、じっとわたしを見る。でも、それは親しげな瞳ではない。そうよね、あんたはコダマじゃないもんね。もうどこにもいないと分っているけれど、もう一度会いたい。ふわふわに触りたい。わたしは黒トラに手を伸ばしたが、トラはぱっと身をひるがえして走り去った。
 夕焼けが、門前のお蕎麦屋さんの古い軒の上にひろがっている。お腹が空いてきた。哀しくても、空いてしまうお腹がうらめしい。お土産用のソバ豆の試食品を一つつまんだ。おいしいけれど、もっと虚しくなった。
 深沙の杜には、もうわたしの自転車しかなかった。杜の中は、周りよりも夕闇が早く降りてくるのか、だいぶ薄暗い。ポケットから鍵を出した時、勢い余って鍵が草むらの中に飛んで行った。ため息が出た。草むらを覗き込むと、少し手を伸ばせば届きそうなところに鍵があった。体を平べったくして手を伸ばそうとした時、木の下闇の奥に金色の二つの光が見えた。わたしは目を凝らした。猫だということは確認できたが、様子がよくわからない。うずくまったまま、動く気配はないようだ。そのうちに目が慣れて、それが三毛猫で、さほど小さくはないということが見えてきた。金色の光は、逃げようという気力もないのか、変わらずにこちらに向けられている。弱って、動けずにいるのかもしれない。
「どうしたの。具合が悪いの」
 わたしは声をかけた。ミァとかすかな声がした。弱ったコダマの声にそっくりだ、と感じた瞬間、わたしは草の中を匍匐前進していた。足に怪我をしている。衰弱しているようだった。コダマとは目の色が違っているし、ずっと若いけど、同じ三毛猫だ。大きさも同じくらい。わたしは草をかき分けて、傷に触れないように気をつけながら抱き上げた。抗わなかった。何日もこの草むらで、傷を舐めていたのかもしれない。上着を脱いで、顔だけが出せるようにして包むと、自転車籠に乗せて走りだそうとした。その時、草むらの中から茶トラが走りだしてきて、フウッと全身の毛を逆立ててわたしを威嚇した。猫にそんな態度を取られたことがないので、びっくりしたが「けがしてるから、治療に行くの」と言い捨てて走り出した。 
 動物病院はもう終わった時間だったが、先生は診察を引き受けてくれた。
「コダマちゃんに似てるよね」
 先生は、診察をしながら笑った。
「車かバイクにでも引っかけられたんだろうな。化膿して弱ってるけど、もう大丈夫だよ」

 お母さんは、しまい込んでいた餌箱を出したり、缶詰を棚の奥から引っぱり出したり。「コダマの籠、捨てられなくて」
 そう言いながら、古毛布を敷いて持ってきたくれた。何だか少し嬉しそうだった。ミケは、薬が効いたのか、少しネコ缶を食べて、コダマの籠の中で丸くなって眠っている。夜中に、遅く帰ったお父さんが籠を覗き込んでミケちゃんの頭を撫でていた。ごろごろいう甘え声が、ベッドで半分眠りかけていたわたしの耳に優しく響いた。

 チリチリン。鈴の音がして、大きな茶トラがシッポをピーンと立てて近寄ってくる。スリスリ頬ずりをして、顔を優しく舐めてくれる。ああ、あの時の怒りんぼ猫だと思った。舌のザラザラがちょっと痛い。ころころボー ルが転がる。古い野球ボールらしい。茶トラはぱっと身構えて、ボールにじゃれかかる。パンチで転がす。前足で押さえて齧りつく。こっちの方にも転がってくる。わたしも躍りかかって、跳ね返す。何だかわくわくする。わたしと茶トラは、交錯したり奪い合ったりして遊んでいる。そして毛づくろい。茶トラはわたしの毛を舐めてくれる。安らかな時間。段々に眠くなってくる。
 なんて夢を見た朝、気がつくとミケちゃんはわたしの横に寝ていた。ベッドに上ってこられるくらいになったのだ。ふわふわがベッドの上にいる。それだけのことなのに、心が温かい。この子にも家族がいるかもしれないと心のどこかに引っ掛かっていたが、コダマが弱っているわたしの元にこの子をもたらしてくれたんだ、と考えることにした。
 わたしは、参考書を買わなければならないことを思い出し、家を出た。深大寺を通りかかったとき、観音様にお礼詣りをしなくっちゃ、と思いついた。霊園の階段を上ろうとした時、階段脇の壁に、手作りらしいポスターが貼ってあることに気がついた。猫、探してます。大きな字。嫌な予感がした。見ない。そのまま通り過ぎ、階段を上って行った。
 お線香を供えて手を合わせながら、観音様のお顔を見た。たなびく煙の向こうで、観音様は哀しげな表情を浮かべている。やっぱり無視しちゃダメなんだ。わたしはポスターの前にたたずんだ。ミケちゃんと、大きな茶トラが、寄り添っている写真。猫、探しています。右側の三毛猫(メス)が、三月下旬頃いなくなりました。見かけた方はご連絡ください。そして連絡先。写真をじっと見つめた。似てるけど猫違いかもしれない。夢の中の茶トラ、わたしを威嚇した茶トラ。わたしはポスターの前で葛藤した。写真の中の二匹。ミケちゃんは茶トラに頭を擦りよせて、茶トラは目を細めてミケちゃんの頭を優しく舐めている。ほのぼのツーショット。
 参考書を買うこともすっかり忘れて、家に戻った。部屋に入ると、ミケちゃんが危なっかしい足取りながらも近づいて来て、わたしの足にスリスリした。
「茶トラくんは彼氏なのかな」
 わたしのつぶやきにミケちゃんはニァァとお返事した。わたしはため息をついて、ミケちゃんの顔をなでなでした。
「会いたいよね」というわたしに、またニァァとすり寄る。わたしは、そんなミケちゃんを見ながら、ポケットから連絡先をメモした紙を出した。くしゃくしゃになったメモを膝の上でのばしていると、ミケちゃんがきらきらした目で見上げている。わたしは、携帯電話をカバンから取り出した。

 飼い主さんが訪ねて来る日。わたしは、悔しいような腹立たしいような、もやもやした気持ちでいた。立ったり座ったり落ち着かないでいるうちに、玄関のチャイムが鳴った。わたしは、笑顔を作ってドアを開けた。そこには、背の高い男の子が立っている。イケメンではないけれど、素敵な笑顔。彼はミケちゃんを膝に乗せて、人懐っこく話す。つれあいのチャーがすっかり元気がないこと。ミケちゃんの初めての子供がかわいくて、貰われていく時のことを考えると泣きそうになること。そう、そして、ふわふわのお昼寝の幸せについて。わたしは、相槌を打ちながら、久しぶりに心から笑っていた。

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<著者紹介>
向山 葉子(東京都調布市/49歳/女性/主婦)

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