「6月の過ごし方が、わたしの課題なんです」

 助手席の加藤美樹は呟くように言った。
 僕は黙って車を運転していた。
 車は調布駅に向かっていた。
 信号は青に変わろうとしていて、前には中央道の高架橋が、横には白い紫陽花が見えた。

 「青山さん、6月は好きですか?」
 「好きだよ」
 「どうして?」
 「どうしてだろう」
 「私は嫌いなんです」
 「どうして?」
 「まず、祝日が無いじゃないですか。それに、天気は良くなくて気持ちが晴れないんです。わかります? この気持ち」
 「なんとなくわかるよ」
 「だけど、もっと他に理由はあるんですよ」
 「他には何?」 
僕が尋ねても、加藤美樹は黙って窓の外を見続けていた。
 加藤美樹は、このとき大学2年生だった。調布駅から京王相模原線で数駅行ったところにある女子大に通っていた。
 僕は、加藤美樹を最初は調布駅まで送っていたが、数ヶ月もすると家まで送るようになっていた。

加藤美樹と僕は、喫茶店の店主とアルバイトという関係だった。ただ、そうじゃなくなるかもしれない夜があった。

 「今夜は帰りたくないんです」
 助手席に座ってすぐに、加藤美樹は言った。
 「どうして?」
 「面倒くさいんです。もう何もかも」
 僕は理由を聞かなかった。
 「今夜は、青山さんの家に泊めてもらえませんか?」
 「構わないよ」
 僕はそう言って、加藤美樹の住むマンションの前に車を止めた。
 加藤美樹は黙って車を降りて、自分の部屋に帰っていった。

 その夜の後も、加藤美樹は何事も無かったかのように僕の店で働いてくれていた。

 加藤美樹は、大学を卒業すると、6月が一番忙しいはずのブライダル業界に就職した。
 喫茶店を辞める日に、加藤美樹は自分で描いた小さな絵を壁に掛けていった。水彩絵の具で描かれた、薄いピンクのスィートピーの花の絵だった。

 「絶対に遊びに来ますからね、それまでお店やっててくださいね」

 加藤美樹はそう言ったが、就職してからは会っていない。一度くらいは本当に遊びに来るつもりだったのかもしれない。

 でも、僕はもうそれを確かめることはできない。

 喫茶店を閉めることにしたからだ。

 加藤美樹が僕の店を辞めて、まだ3ヶ月も経っていない6月のことだった。

       *

 『6月の深大寺に来ると幸せになれる』

 そう、喫茶店に来た夫婦は言った。

 「昔から、そう言われているんだよ。特に雨の降る6月が良いんだ」
 「初めて聞きましたよ」と、僕は言った。
 「地元の人は言わないのかもしれないね。だけど、とにかくそうなんだよ」
 「何より私たちが証拠よ。結ばれた二人がさらに強く本当に結ばれて幸せになるには、雨の中を二人で一つの傘に入ってお参りするのが良いの」
 「それには、6月の梅雨の時期が適しているんですね?」
 「そうよ」
 「そのお参りした日に結婚を決めたんですか?」と彼女は質問した。
 「そうだよ」
 「だから、毎年6月になると深大寺にお参りに来るようにしているのよ」
 「うらやましい」彼女は微笑んで言った。
 「あなた達もそうでしょう?」
 「私たち、入籍はまだなんです」
 「あら、一緒にお店をやっているのに?」
 「私はプロポーズしているんですけど、彼が受け入れてくれなくて」
 「逆ですよ」と僕は言った。
 「まあ、結婚しているようなものだろう。あとは紙に書くか書かないかだけの問題だからな」

 しかし、紙に書かれることはなく、彼女は僕の前からいなくなった。

 この喫茶店は彼女と始めたものだった。学生時代から、お互い協力してお金を貯めて開いたのだ。
 僕は、この街にある大学で電子工学を勉強するために地方から上京してきた。彼女は生まれも育ちもこの街で、高校を卒業すると、新宿にある製菓

の専門学校に通っていた。
 彼女と僕は、共通の知人を通して知り合った。
 彼女の夢はケーキの美味しい喫茶店を開くことだった。当時、将来をろくに考えていなかった僕は、彼女の夢に引きずられるようにしてアルバイトに

明け暮れ、大学を中退した。

 喫茶店は小さかったが、それなりに繁盛していた。京王線の駅からも遠く、深大寺や植物公園からも少し離れているのに何とかやっていけたのは、

彼女の作るケーキのおかげだった。
彼女の夢は現実になった。
しかし、開店して5年目に彼女はいなくなった。彼女がいなくなると、もともと彼女の夢だったこの喫茶店は、夢の抜け殻になってしまった。
彼女の夢も、彼女といっしょにしてあげたほうがいい―僕はそう考えて、喫茶店の窓に閉店を知らせる張り紙を出した。

 その張り紙を貼った翌日のことだった。
 「本当に、このお店を閉めちゃうんですか?」二人組みの女の子のお客さんのうち一人が聞いてきた。
 「名物のケーキが出せなくなってしまいましたから」
 「でも、マスターさんの作るケーキも美味しいですよ」
 「一人だと、いろいろと大変なんです」
 「じゃあ、わたしがアルバイトとして手伝います。大丈夫ですよ、わたし体力には自信がありますから」
 そう宣言すると、加藤美樹は次の日から僕の店にアルバイトに来てくれることになった。
加藤美樹は、それから2年間ほぼ毎日働いてくれた。
       *

しかし、加藤美樹が大学を卒業し就職して喫茶店を去ってしまうと、今度こそ僕は一人になった。加藤美樹が描いたスィートピーの絵は、僕をさらに孤

独にさせた。
僕は一人で喫茶店にいることに耐えられなくなっていた。
 それと同時に僕は一人にもなりたかった。
 僕は店を閉めてからは、しばらく一人で部屋に居ようと決めた。お金には少しだけ余裕があった。しかし、先のことなんて考えたくなかった。これまで

のことを考えたかった。

 喫茶店を閉めて一週間後の雨の強く降る昼間に、加藤美樹から電話がかかってきた。僕はまだ寝ていたが、出ることにした。
 「青山さん、お店閉めたんですか?」
 僕しかいない僕の部屋に、受話器越しの加藤美樹の声が響いた。
 「どうしてですか?」
 「電話では説明出来ないんだ」
 「じゃあ、今からわたし行きますから。お店にいてくださいね」

 そう言うと1時間後に、加藤美樹は本当にやって来た。
 「仕事はどうしたの? 6月は特に忙しいんだろう」
 「仕事なんて、もうどうでもいいんです」
 加藤美樹は僕に閉店の理由を聞かなかった。
 「青山さん、それより深大寺にお参りに行きません?」
 「どうして?」
 「わたし、お願いしたいことがあるんです」
 「何を?」
 「わたしの夢をです」
 「どういう夢なの?」
 加藤美樹は、僕の耳元で加藤美樹の夢を囁いた。

 それから、加藤美樹と僕は外に出た。加藤美樹は自分の傘を持たずに、僕の傘の中に入ってきた。

 僕たち二人は一つの傘の下、雨の深大寺へと向かって歩いていった。

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<著者紹介>
青山 祥(神奈川県川崎市/25歳/男性)

 学校帰りに駅のホームでばったり、同じクラスの橋倉梢に会った。梢は俺の顔を見るなり、傘を小さく振りながら、満面の笑みで近づいてきて、いいところで会った、と言った。
「これから深大寺に行くんだけどさ、一緒にどう?」
 なんだよ深大寺って、と俺が訊くと、梢は目を丸くして大げさに驚いたあと、気を取り直すようにして言った。
「帰り道だからさ。どうせ家に帰ってもすることないでしょ?」
 昼過ぎから降り出した雨は相変わらずしとしとと降り続けていた。そのおかげで今日はサッカー部がなく早く家に帰れるのだった。
 梢によると深大寺というのは調布にある縁結びで有名なお寺らしく、ここ中央線立川駅から荻窪の自宅に帰る途中に、三鷹で降りてバスに乗って行けるらしい。俺も梢も地元は同じ荻窪で、小学校からの腐れ縁なのだった。
「お前、俺と縁結びしたいわけ?」ためしに訊いてみたら、梢は「キモイこと言わないで」と吐き捨てるように言った。
 夏休みを前にしたころで、高校生活にも慣れてきたせいか、周囲がバタバタとあわただしくなっていた。梢もその例外ではなかったようで、野球部の大野先輩とやらと明日の土曜日にデートする約束をとりつけたらしい。
「どうしても大野先輩と会う前に深大寺で縁結びの神様にお祈りをしておきたくて」
 梢の話を聞いている途中で心臓がどくんと鳴った。線路を挟んだ向かいのホームに坂田美雪の姿を見つけたからだ。坂田美雪の方でも、顔を上げて俺を見た――気がしたが、ホームに入ってきた新宿行の電車が視界を遮ってしまった。
 電車に乗り込んだあとも、梢の話を聞き流しながら、窓越しに坂田美雪の姿をちらちらと見ていた。坂田美雪は文庫本に目を落したまま結局一度も顔を上げなかった。
 
 俺は三鷹駅で梢とともに途中下車した。車中、梢に滔々と語って聞かされた、深大寺縁結び大社の力に賭けてみたくなったからだ。
 ロータリーに深大寺行のバスが到着したころには、雨脚がだいぶ強くなっていた。
 雨粒に車体を叩かれながら、バスはざぶざぶと水をかくようにして走った。七月の、まだ夕方も早い時間だというのに、厚く垂れこめた雲のせいで外は薄暗く、水しぶきをあげて走る車はみなヘッドライトをつけていた。
「深大寺っておそばでも有名なの。お寺の周りにおそば屋さんが軒を連ねてるんだって」
 俺は窓ガラスにたれる水滴を見るともなく眺めていた。
「腐れ縁っていうくらいだから、やっぱり縁にも鮮度みたいのがあるんだろうねえ。縁結びしてもらったあとの縁っていうのは、やっぱり新鮮なんだろうなあ」
 そんなことを梢がぶつぶつとつぶやいていた。
 二十分ほどバスに揺られて、俺たちはようやく目的の深大寺に到着した。バスを降りた瞬間に、遠くで雷鳴が鳴った。それを契機に雨はいよいよ激しくなった。とにかく境内を目指そうと、俺たちは看板の地図を頼りに、車道から石畳の敷きつめられた路地に入った。
「へえ、すごい」
しばらく雨のことも忘れて、俺と梢は住宅街にぽっつりと現れた風情ある街並みに、口をそろえて感嘆の声を上げた。学校を出てせいぜい四、五十分ほどなのに、どこか遠い所に来たような、不思議な錯覚に陥った。
 問題は人の姿がまったく見えないことだった。ひっそりとしずまり返った界隈で、雨だけが激しく音を立てながら石畳を打ちつけている。立ち並ぶそば屋はみな店を畳んでいた。
 豪雨のせいではなかった。
 午後、五時二十分。
 すでに閉門の時間を回っていたのだった。
「ごめん、ちゃんと調べとくんだった」
ようやく梢がつぶやいた。
「いや、ついてきた俺がバカだった」
「大丈夫、まだ境内には入れるみたい!」
 俺の愚痴をかき消すように梢が大きな声を上げて小走りに駆けだした。こうなればやけだ、と俺も傘を閉じて梢のあとを追いかけた。        傘をさしていたところで、風にあおられ生き物のようにうねる雨が四方から襲い掛かり、びしょ濡れになるのは避けようがなかった。
 濡れ鼠で境内をかける俺達を、おみくじ売場らしい小屋の中から、二人のお坊さんが目を丸くして見ていた。
 本堂前の軒下に転がり込むと俺たちはようやく人心地ついた。
「よかった。参拝できるよ」
同感だった。
 梢は賽銭箱に五百円玉を投げ入れた。もったいない、と俺が咎めると、梢は満面の笑みで言った。
「あんたにおごるつもりだったおそば代」
 梢は両手を合わせ、目を閉じて祈りはじめた。
 躊躇したが俺も五百円玉を放った。それから梢と肩を並べるようにして、坂田美雪のことを真剣に祈った。さっきホームであったばかりの、目鼻立ちの整った白く小作りな顔を思い浮かべて、胸がうずいた。
 参拝を終えた俺たちは身をひるがえして境内を横切り、山門を出て今度はそば屋の軒下に駆け込んだ。
 梢は鞄からハンドタオルを取り出し額や首筋を軽く拭いた。それから梢はタオルを絞って水を切ってから、
「使う?」と俺に差し出した。
 少し逡巡したが、結局俺はそのタオルを受取り、顔と髪を遠慮なくごしごしと拭いた。それから梢がそうしたように、タオルをきつくしぼった。ボタボタと水が垂れた。もう一度同じ動作を繰り返した後で、梢にタオルを返した。
 それからずいぶん長い間、二人で雨を眺めていた。
 まるで二人きりで時空のはざまに閉じ込められたみたいだ、バチバチと音を立ててきらめく稲妻に驚かされながら俺が言うと、「大丈夫、ここは調布だから」梢が真顔で答えた。
「通り雨かな」梢が言った。
「いや、嵐だよ」俺は答えた。
濡れ鼠になり体力を奪われたせいか、家路につくのがひどくかったるく感じられた。梢も同じ気分だったのだろう。何度か小さくため息をこぼしていた。
「で、あんたはちゃんと坂田さんのことお祈りした?」
 空を切り裂くような激しい雷鳴が轟いた。
「あんたも男ならさ、当たって砕けろでしょ。大丈夫、深大寺の神様がついてるから!」
「うっせーよ!」
 思わず大きな声を上げてしまった。梢はびくんと体を震わせた。
 たぶん、梢に分かったような口を聞かれたのが癪にさわったのだ。ややしばらく沈黙の後、梢はおそるおそる口を開いた。
「坂田さん、超絶可愛いから、意外と分かんないよ」
「どうして?」
「男の子たち、みんな距離を置いてる感じでしょう? 坂田さん自身も、わりと引っ込み思案な感じだし。あんたみたいのが、急に言い寄ったら、意外と喜ぶと思うけどな」
 帰路、俺たちはほとんど口をきかなかった。俺の頭の中は坂田美雪のことでいっぱいだった。梢の頭の中もきっと大野先輩のことでいっぱいだったに違いない。
 別れ際に梢が、思い出したように、「今日はありがとう」と言った。俺も思い出したように、「デートがんばれよ」と返した。

 その翌日、梢は予定どおりに大野先輩とデートをした末に、「まずは友達からはじめましょう」と丁重に断られたらしい。風邪気味で本調子じゃなかった、などと強がっていたが、人並みに落ち込んでいたのは確かだ。

 一方、俺の方はといえば、梢に言われたことを何度も反芻し、とうとう意を決して、坂田美雪にコクって、見事に玉砕された。
 身長百六十センチしかないニキビ顔の俺には、初めから叶うはずのない恋だった。分かっていても、俺は体重を五キロ落とした。学校に行くのが苦痛だった。申し訳なさそうにしてすり寄ってくる梢を、俺はしばらくの間無視し続けた。

「土砂降りの雨の中、わざわざお参りに行ったのに、神様も非情だな」
 ようやく心の傷が癒え、三か月ぶりに梢と会話を交わした俺は、そんな愚痴をこぼした。
 梢は真顔で答えた。
「やっぱり開門してる時間じゃないとマズかったのかもね」

――エピローグ
 俺は高校を出たあと仙台の大学に入り、そのまま仙台の企業に就職した。
 この春で、二十七歳になった。
 祖母の見舞いに、久しぶりに帰省したついでに、十年ぶりに訪れた深大寺は、参拝客でごった返し、界隈にはそばを求める人々であちこちに行列ができていた。
 晴れ渡った空の下、店の軒先で、赤い布のかかった長椅子に座り食べる深大寺そばは、信じられないくらい美味かった。
 例の散々な思い出のことを話すと、そばをすすっていた妻は顔を上げて、
「あんた、そんな昔のこと、ずいぶんよく覚えてるねえ」と目を丸くした。
 どうやらここの神様は縁結びの相手を間違えたのかもしれないな、と考えて、俺は思わずふき出してしまった。

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<著者紹介>
旭川 今日子(東京都杉並区/30歳/女性/主婦)

 訪れるのは何年ぶりだろう。辰彦は改めて重ねられた年月を数えてみた。あえて避けてきた部分もある。辛いというより、切ない想い出の方が強いからだった。漸く気持ちも落ち着き、その気になった。
『むさし野深大寺窯』と書かれた焼き物の店の前に立ち、何気なく並べられた沢山の焼き物を見ていて、「おやっ」と思った。その一つに眼が吸い寄せられた。本焼きのほっそりした花瓶。真紅の薔薇一枝が描かれ、〈薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ〉という句が端正な文字で添えられ、「平成二十一年三月、凛子書く」とあった。句の作者は西尾榮子。
 この句を選んだとすれば、雨宮凛子の可能性が高い。彼女は三月にここに来ていたのだろうか?もし、そうだとしたら・・。
「この花瓶はどうしてここに・・?」
 辰彦が、応対に出てきた店の男性に聞いた。
「ああこれですか・・。本焼きにして欲しい、というので、焼いたのですが、未だ引き取りに来られないもので・・」
「取りに来ると・・?」
「ええ、楽焼だと二〇分ほどで焼き上がりますけど、本焼きにすると最短三日から一週間ほどかかります。宅急便でお送りすることが多いのですが、受け取りに来たい、というお客様のご希望でしたのでね」
「なるほど・・。でも、もう五月ですよ」
「ええ・・。二ヶ月近くというのは少し遅すぎるかなあ、と」
「連絡は取られたんですか?」
「ええ、受け付けのとき、住所と電話番号をお書き頂きますのでね」
「なるほど・・?」
「連絡したのですが、現在はそこに住まわれていないみたいで・・」
「連絡が取れない・・?」
「失礼ですが、あなたはこの絵付けをされた方にお心当たりでも・・?」
「確信があるわけではありませんが、かつて、俳画に堪能で、この句に心当たりのある女性がいましてね・・」
「じゃあ、その方かも・・。タウンファッションの似会う素敵な方でした。よく覚えているんですよ。普通だと、まず店に入るのに躊躇され、絵付けも、何を書くか迷われる方が多いのですが、その方はスッと店に来られて、迷うことなくこの花瓶を選ばれ、句も絵も何の躊躇いもなく描かれたので・・」
 相当な技量の持ち主と分かった。だから、取りあえず見本として飾らせて貰っているのだ、と。凛子に間違いない、と辰彦は思った。
「なるほど。その女性が書いた住所と電話番号、もし宜しかったら見せて頂けませんか?」
「通常はお見せ出来ないのですが、連絡つかないのでは隠す意味がありませんから・・」
 店の男性は、奥から受付の書類の綴りを持って来て、その部分を見せた。
「あっ」と辰彦は声を漏らした。
「何か・・?」
「連絡が取れないはずです」
「どういう意味でしょう?」
「これ、五年程前になりますが、私が住んでいたアパートのものですから」
「何ですって・・!」
 男性は目を丸くして辰彦を見た。
「やっぱり、私が思っていた人だったようです。消息を知りたい、と思っているのですが・・残念ながら、現在の住いも連絡先も知らないのです。」
「そうでしたか・・。品物を預かっている手前、何か手懸りでもあれば、と思ってお見せしたのですが・・」
「あくまで、私の推理ですが、この女性、必ずここに来ると思うのです」
 辰彦は、そう言い、「私も絵付けしたいのですが・・」と店に並んだ大皿の中から、ふっくら厚みのある一つを選び、〈あねいもと性異なれば香水も〉と吉屋信子の句を書き、小さな香水の壜の絵を添え、ラベルの部分に「paco」と書き入れ「本焼きでお願いします」と言った。パコラバンヌのメタルは凛子が愛用していた香水だった。
「やはり、受け取りは店で・・?」
 店の男性は苦笑いしながらそう言った。
「ええ・・。さ来週の日曜受け取りに来ます。出来れば、あの花瓶と、並べて展示しておいて頂ければ有難い。お代はいくら・・?」

 牧丘涼子から妹の凛子を紹介されたとき、辰彦と凛子は同時に「アッ」と声を挙げた。
「あなた方、姉妹だったんですか・・」
「あら、お知り合いだったの?」
「ええ、まあ・・」
 涼子から都心のホテルの和食処に誘われた。辰彦は気が進まなかったが、『断るのも悪いかな』と考え直し、仕方なく来た。
 男と女に真の友情は生まれない、とは先人の言葉だが、辰彦は、涼子に友情以上のものを感じたことは無かった。逆に、凛子とは、『人生を共に歩みたい』と考えていた。
 逆に涼子は辰彦に特別の感情を抱いていたのだろう。だから、家族紹介の積りで妹を誘い、食事に招いたに違いない。それが選りによって凛子だったとは。食事会は重い雰囲気に終始した。

 凛子とは、ある絶好の行楽日和の休日、深大寺の波郷の墓の前で偶然出会い、門前の蕎麦屋の混み合う店内で、また相席になり、親しくなった。互いに句帳を手にした初心者、というのもきっかけとしてあったと思う。そこで互いの句を見せ合ったのだから。
 辰彦はサラリーマン。ギスギスした世界に生きる反動として、潤いを求め俳句を始めた。
 凛子は中堅のグラフィックデザイナー、或るデザイン事務所に勤務していたが、プラスαを求め、俳句の世界に足を踏み入れた。
 知り合ってから交際は順調だった。偶の休日には、誘い合ってあちこち吟行に出かけ、その場で二人だけの句会を催した。
 その一つ、洗足池の勝海舟夫妻の墓所の近くの公園を散策しながら、辰彦は「一緒に暮らしませんか」とプロポーズした。凛子は「嬉しい」と短く答えた。
 涼子から食事の誘いがあったのは、それから間もなくのことだった。
 俳句は『座の文芸』と言われる。辰彦は住いの近くにあった『さがみ野句会』に参加。会の幹事が涼子だった。年齢は一つ下だが、俳句の世界では、面倒見のよい先輩だった。句会では、参加者が互選した句の講評を行う。
 不思議なことに、涼子はよく辰彦の、自分では初心で拙い、と思うような句を選び、辛辣だが、的確な評を下す場面が多くあった。
「いつも拙い句を選んで頂いて恐縮です。自分でもここが、という箇所を的確に指摘して頂くので有難い」と謝辞を述べると、「フィーリングが合うのかしらね」と笑った。そんなことが重なり、親しくなったが、辰彦には『俳句の世界』での先輩、という以上の意識はなかった。一方、涼子は辰彦を真剣に愛し始めていた。凛子が、そんな涼子の気持ちを知り、悩んだのは事実だった。
 辰彦の、凛子に対する想いに変わりはなく、それを今一度確かめ合う必要を感じていた。そこで、週末の土日を利用し、凛子を秩父への一泊旅行に誘った。
「一緒に暮らしたいのは君なんだ」
 長瀞のホテルから続く遊歩道の先の潅木の森の中で、辰彦は凛子をそっと抱き締め、柔らかく接吻した。凛子の眼から涙が零れた。
 そのときだった。ふと、背後に視線を感じ、辰彦は歩いて来た道に眼をやった。そこに信じられないものを見た。涼子が、哀しみとも、怒りともつかない複雑な表情で、呆然と立ち尽くしていたのだった。
 涼子が睡眠薬自殺を遂げたのは、それから一週間後だった。
〈姉とは、父親が違う姉妹、苗字も違ったけど、それ以上に、『負けたくない』という気持ちが強かったように思う。私が俳句を始めたのもそうだし、姉が皮肉にも恋人としてあなたを紹介したのも、そう。その姉が私とあなたの関係を知り、プライドを傷つけられ、悲観して自殺した。私は恋の勝利者になった。でも、あなたとこのまま、何の躊躇いもなく結ばれるのは、許されない気がする。気持ちの整理がつくまで、考える時間を貰えないだろうか〉
 凛子はそう言って辰彦の前から姿を消した。
 あれから五年あまりが経った。
 花瓶に認めたのは二人で過した秩父の夜、凛子が口ずさんだ句だった。その凛子が、二人が初めて出会った場所に来て、その句を書き、真っ赤な薔薇を描き添えた。その行動は、心に渦巻く姉への蟠りが解け始めた証拠なのではないだろうか。真紅の薔薇は辰彦が凛子の誕生日に、ささやかなプレゼントと共に届けた花だった・・。

「あなたの予想どおり、あれから間もなく、あの方、花瓶を受け取りに見えました。それで、あなたのお書きになった絵皿を見ると、思わずニッコリ頬笑んで、『やっぱり見えたのね。忘れていなかったんだわ』とおっしゃって。来られたとき、少し暗い顔つきだったのが、パッと明るい表情をされて・・」
 こないだと同じ男性店員が言い、飾ってあった辰彦の絵皿を、丁寧に箱に収めた。
「それはよかった」
「それで・・。あなたが見えたら、これを渡してください、と言われまして」
 男性は、辰彦に封筒を手渡した。
〈待って待ってわたしの洞を血が削る〉
 小ぶりなメモ用紙に、彼女が尊敬する上野千鶴子の無季の句が書かれ、「ご迷惑でなければ、次の日曜日、初めてお会いした時間、波郷のお墓の前でお目にかかれれば幸いに存じます」との言葉が添えられていた。


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<著者紹介>
相原 文生(神奈川県相模原市/70歳/男性/業界紙編集委員)

 雨。境内。緑。好きなだけ眺めている。感じている。彼は時間の感覚を無くす。在るとすれば、世界の境界も無くす。私を夢中にさせる。
遠慮がちに弱く優しい速さで落ちて来る水。その粒は透き通っていて、無言のくせに踊るよう。濡れて、潤う。色を縁取り、映るそれがより濃く見える。そして私は、しっかりと意識が在るはずなのに、温度が感じられなくなる。水路に流れる水の音。誰かが歩いて響く砂利の音。それと中学生だろう団体へ、何か説明をしている穏やかな声が聞こえた。
説明が終わったらしく、家に帰るまでが遠足です。と背の低い男子生徒が言っていた。

いつもこんなに鮮やかに過ごせてたらいいのに。

「そう、思ってるんでしょ?」康成の隣にしゃがみ、滴る葉を見つめながらそっと呟いた。
「何?いきなり?」
「...。」
詩的に描いた私のイメージは、康成のそっけない一言にあっさり砕け散った。雨だから出かけるのを渋った私に、「雨だから、雨の方がより一層きれいだから、雨の日じゃいないと味わえない雰囲気があるから」なんて言われて、必要以上に浮かれていた私は恥ずかしくなって腹が立った。そんな気持ちを知らない康成は続けやがった。
「あーもしかして、植物見つめる自分って素敵って思ってるかってこと?買い物とか、買った商品を使ってる自分想像して、その自分が素敵だと思うから買い物するって話。気にしてんのか?」
宣戦を布告しているのか、単に天然なのか、とにかくイラっとした。
「違うわよ。確かにその話は聞いた時イラってしたけど、そうじゃなくて...、そう...じゃなくて、なんで雨なのに来たのよ?あーそう言えば前に来た時も雨だった。」
どう違うかについて私は説明出来ないと悟って話しを変えた。それとなぜ夢の無いことばかり言う康成がお参りに誘ったのかも気になった。
「あー、雨だったねー。図書館閉まっていたときでしょ?」
そうだった。その時は先に図書館に行こうと誘われて、なんと図書館は定休日だった。一週間のうち一日しかない休みの日を引き当てる強運に感心した日。振り回すくせにまったく無計画!が、私の時間を振り回し始めた記念すべき日。
「雨なんて気にならないけどね。」
えっへん!と書いてある顔だった。
「いやいや、そこじゃないよ?定休日だったことが問題なんだって。それにいくら気にならないからって、天気予報くらいは見なさいよー。」
「おっなんだなんだー、乙女特有の昔のこともひっくるめて不機嫌になっちゃうぞーってやつかー?」
 まだ言いたいことがあったけれど、割り込まれてしまった。
「そうやって女ってそういう生き物なんだろ?って決めつける人、モテないわよ。」
「べっつに良いもん。モテたくてモテそうな性格にする人より、ワガママの方がモテるんだもん♪」
 いつもあー言えばこー言うで皮肉なんて通じない。それと結局はモテたいと言っているのか、考えるのが面倒になってきた。それに康成の予測通りに不機嫌になるのは、かなり嫌だ。
「そう言えば話変わるけど、そんな風に昔から気取らなかったわよね?康成は。ぜんっぜんっ可愛くないけど。それに普通彼女にモテないよって言われたら、『君以外に好かれる必要がないからー』とか『君ならそんな僕でも好きでいてくれるよね?』なんてセリフを言うところなんじゃないの?そのまったーく気取らない潔さは見習いたいと思うわ。」
結局いつもの様に、そんな康成が好きよって伝わって欲しいと思いながら言った。
「そうだ、実はさ、そのことなんだけど...。」
珍しく照れている?様子だった。
「さっきもごめんね。」
少し間を置いて康成が謝った。私は全く意味がわからなかった。そりゃ彼の言動はいつも予想外だけど、謝っている、何を?康成はいつもよりも少し優しい声で続けた。
「前に来た時の帰り際、覚えてる?」
「う、うん。そりゃ初めて...、手繋いだし、覚えてるよ?抱きしめてくれたことも...。」
当時と同じでなんだか恥ずかしくなった。
「ハンドとホールドのスペル、最後が同じDで面白かったよね。」
「うん、でも、それと謝ったわけがわからないんだけど...。」
なんだか不安になってきた私を他所に、あっさり答えくれた。
「実はさ、百合がさっき聞いた『そう、思ってるんでしょ?』だけど、実はさ...、なんて言うのか、その...よっ横顔があんまりきれいだったから、その...。素敵なこと考えてて、二人同じこと考えてたら素敵だなぁって思ってる気がして。でも誤魔化した。...気取らないんじゃないんだ。本当は恥ずかしいから、そうだなぁ...、隠してるだけなんだ。だからごめんね。」
 いきなり過ぎて、私はあまり意味がわからなかった。でも、精一杯照れ隠しをしている表情に恥ずかしくなった。
「そう、そうなんだ。でもこんな恥ずかしいこと言えるんだから、もう心配ないじゃない?でも、なんか...ありがとう。」
 康成は立ち上がった。
「ここは神様がいる所だから、皆いつも以上に素直になれると思うんだ。きっと。」
 私は濡れている葉っぱを見つめていた。
「私もそう思うよ。そうだっ、康成さっき神様には何をお願いしたの?」
今なら私も素直になれる気がする。
「うん?これからも、仲良く過ごせます様にって。前回も叶ったから、今回も叶うよ。」
「前に来た時のはもう叶ったんだ?」
「うん。あの時は帰り際にね。」
「えっ?なら、あの私にしたお願いって神様に願ったことだったの?」
「あ、ううん、ちょっと違うよ。勇気を下さいってお願いしたんだ。なかなか可愛いよね?俺も。」
 科学だって自分で実際に体験したことじゃないと完全には信じない、なんてことを言うくせに。
「なんか私よりロマンチックね。それにあの頃ここが縁結びのお寺だって知ってたんだ?...まぁ今回のお願いも叶えてあげるよ、神様と私で。また来ようね。雨でも良いよ、ここなら。」
 何かに頼るなんてことを嫌うこの背中が、神様に願ってくれること。それが嬉しかった。
 康成は手を差し伸べ私が出した手を強く掴むと、私が立ち上がるのを待たずに歩き出した。弱く優しい雨の中。
「おう。」
「でも...今度はお礼にね。自力でプロポーズした後で。」
 急いで立ち上がり、康成が濡れない様に傘を向けた。
「でも?なに、なにか言ったの?」
「うんん、なんでもないよ。」
「何よー。言いなさいよー、素直になれる所でしょう?」
もっともっとあなたの気持ちに触れたいんだから。

バスに乗り、私は駅に着くまで夢を見た。初めて来た頃の夢を。帰り際にしか素直になれないのは、今も変わらないなぁと少し笑って愛おしくなった。

「あのさ、お願いがあるのだけど...。」
「え、なに?神様じゃ叶えられないこと?...あっ朝ならちゃんと間に合う様にするよー。待ち合わせ遅れるのは悪いなって思っちゃいるんだから。」
「...それもそうなのだけど、宮川には無理でしょ?それじゃなくてさ...。」
「無理って言い切られると辛いなー。あっ俺もお願いあるよ!そう言えば。」
「え?そうなの?なになに?」
「あ、うんでもねー言わなくても良い様な、むしろ言うと変な様なぁ、うーんまだ良いや。で、樋口のお願いはなんだよ?」
「い、言わない。」
「なんだそれ?言ってくれなきゃ俺には叶えてやれないだろう?つーか気になるよ。」
「私も言わなくても良い事かもしれない...。」
「おーそうかぁ、その気持ち、よくわかるよー。で?でもなに?...そうだ、ヒントは?」
「ヒント?」
「そうヒント。俺のお願いも言うより気づいて欲しい感じするし、まぁヒントから言ってみーよ。」
「う、うん。ヒント...、あっ最後がDで終わる四文字だよ!」
「次のヒントは?」
「早っ、ヒントは終わりでーす。」
「えーそれだけじゃわからないよー。あっ、でも俺のお願いも最後Dで終わる四文字だ。Dで終わる四文字ってたくさんあるんだね。」
「そうなのかなぁ?たぶん違うと思うけど。」

 結局、私は最後まで答えを言わなかった。でも康成がホールドを白状し、抱きしめてくれた後、恥ずかしそうに言った『それじゃ、手繋いで帰ろう』に驚いた。
だからきっと、二人の願いは全て伝わるのだろう。

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<著者紹介>
當眞 嗣乃(東京都八王子市/24歳/男性/機械設計)

 僕がこずえと出会ったのは小学三年生のときだ。クラスで最初の席決めのときに右隣の席に座ったのがこずえだった。その頃は子供だったから「かわいい」とか「きれい」とかいった感情はなかったと思う。強いて言えば少女マンガみたいな女の子、かな。誰でもそうだと思うけど、子供は美醜の感覚がわからないのが普通だ。ただ「好き」という気持ちは持っていたと思う。だって一緒に下校するのがとってもうれしかったから。
 下校はいつも友だち五人で帰っていた。学校を出てから六分くらいすると一人の子がいなくなり、次の角を右に曲がって少し行くと一人減り、次の次の電信柱のところで一人減り、そして僕はこずえとふたりっきりになれた。それがうれしかったのを覚えている。
 まだ小学三年生だから「ふたりっきり」になったからといって別になにもあるわけではない。手を握り合ったりイチャついたりするはずもない。ただ二人だけで並んでいられることがうれしかったのだ。僕は下校時にいつも思っていた。...早くみんなの家に着きますように...。僕の日頃の行いがいいせいか、卒業するまで同級生だった。
 中学校に進学するとき、こずえは家族の人と揉めたみたいだった。特に母親は私立の進学校を受験することを希望していたようだ。僕はといえば、公立中しかあり得なかった。母子家庭の経済状況では私立に進学することなど考えるのも不謹慎だ。
 結局、こずえは中学校でも僕と同級生になった。
「フフ...、父親って娘の言うことはきいてくれるのよね」
 こずえは中学からの帰り道、自慢げに照れながら話した。こずえは普段はおとなしいけれど、いざというときは度胸があるというか肝っ玉が据わっている。僕がこずえを好きになったのもそういうところに惹かれたのだ。
 小学生の頃、僕は買い物もしなければいけなかった。僕は恥ずかしかった。特に恥ずかしかったのはネギだ。買い物袋からはみ出ているネギの緑色が「情けない」と子供心に感じていた。世の中とは不思議なもので一番会いたくないときに友だちに会ったりするものだ。案の定、僕は買い物袋からネギの緑をはみ出しながら歩いている姿を同級生に見られてしまった。翌日、学校に行くと早速男子たちから「ネギ男」とからかわれた。そのときに男子たちを怒ってくれたのがこずえだった。そして言った。
「あたしはネギを持ってる男子って尊敬するー!」
 中学校ではみんなで帰ることはなかったし、さすがにこずえと二人で並んで下校するのは憚れた。中学生という年齢では、男女の関係は微妙な問題だ。でも、一緒に帰りたい...。
 僕たちは週に二回くらい深大寺小学校の裏手で待ち合わせをした。中学生になってから、僕はこずえの容姿がほかの女子より優れてかわいいことがわかるようになっていた。なんかもったいぶった言い方だけど、それには理由がある。同じクラスの男子たちがこずえのことを「かわいい」と噂していたからだ。僕はそれまで「こずえ=かわいい」と考えたこともなかった。ただ一緒にいられてうれしいと思っていただけだ。そんな僕だったけど、こずえがほかの男子たちから褒められるのは心地よかった。
 いつものようにこずえと並んで歩いていた卒業を間近に控えたある日。こずえがかしこまった言い方をごまかすように深大寺の木々を見ながら言った。
「あたしたちもうすぐ別々の学校だね...」
 実は、僕もそれが寂しくてたまらなかった。でも、言い出せなかった。こずえは親に勧められた進学校に行くことに決まっていたし、僕は工業高校に進学が決まっていた。僕は中学を出たら働くつもりだったけれど、母の配慮で進学することになった。
 こずえは僕の反応を窺うように話を続けた。
「高校に行っても会おうか?」
 僕はとてもうれしかった。心の底からうれしかった。僕たちは毎週日曜に深大寺の山門の先にある深沙大王堂の裏のベンチで会う約束をした。それからあと一つ、決め事をした。二人だけのポストを作ったのだ。ベンチのうしろにある大きな木の幹にできていた直径二十センチほどの穴を勝手にポストに見立てただけだけれど...。もし、なにかの都合で来られないときはそのポストに手紙を入れておくことにした。僕たちは深大ポストと命名した。
 高校生になってから六月の半ば頃までは僕たちは毎週深大ポストの前で会っていた。けれど僕は次第に行くことが億劫になっていた。理由は僕の「気後れ」だ。
 こずえは会うたびに学校生活の楽しさを僕に話してくれた。けれど、こずえが楽しそうに話せば話すほど僕はこずえとの距離を感じていた。それに、こずえの学校は男女共学でこずえの口から男の名前が出てくるのが嫌だった。僕の学校は男子校だったから、僕の口から出てくる女の名前といったら国語のヨネ先生くらいしかいない。僕が一番距離感を感じたのはこずえが携帯電話を買ったときだ。僕には携帯電話を買う余裕なんかなかったからだ。こずえは「わたしたちには深大ポストがあるじゃない」と言ってくれたけど、九月頃にはもう全く行かなくなっていた。
 僕は、こずえと距離をおくようになったといっても「会いたくない」わけではなかった。いつもいつも会いたかった。新聞配達の途中では必ず十秒間こずえの窓を見つめていたし、お袋と喧嘩したときはこずえの部屋の明かりを見に行った...。それに毎週、曜日をずらして深大ポストを見に行っていた。そこにはこずえの手紙がいつも入っていた。僕はそっと取り出しコンビニまで歩きながら読み、そしてポストに戻していた。手紙の最後はいつも僕を励ます言葉で締めくくられていた。翌週には、必ず新しい手紙が入っていた。
 実際、僕の高校生活は忙しかった。アルバイトもやらなければいけなかったし、部活動は木工部に入ったので家具を製作する作業に追いまくられていた。このような生活で僕の高校三年間は過ぎていった。
 僕の学校では高校生活最後のイベントとしてバザーをやるのが恒例だった。僕はポストを作った。どこにも売ってないオリジナルのポストだ。ポストの前面上の箇所に「深大ポスト」と小さな文字でプレートをつけた。
 バザー当日、同じ中学から進学してきた昌男が照れながら言った。
「へへへ...今日、彼女呼んだんだ。」
 バザーは大盛況だった。僕たちのブースにもたくさんの人たちが立ち寄ってはくれた。けれど、僕のポストは売れ残ったままだった。僕は人通りが途切れたときに、しゃがみこみポストを磨いていた。すると頭の上から声がした。
「素敵なポストですね」
 僕は思わず顔を上げた。...こずえが立っていた。微笑みながらこずえが立っていた。他人行儀の口ぶりのこずえが立っていた。僕は一瞬声に詰まり「どうしたの?」と言うのが精一杯だった。「友だちに誘われて...」と昌男と話している女の子を指差した。
 こずえは僕のポストを端から端まで丹念に眺めながら褒めてくれた。そのときこずえの視線がプレートの文字で一瞬止まったのがわかった。けれどこずえはなにも言わなかった。もちろん僕も触れなかった。お互いに深大ポストの話を避けていた。大人ふうに言えば、世間話をしただけになる。けれど別れ際に一つだけ約束をした。今度の日曜日に会う約束だ。場所は、昔よく待ち合わせをした場所。
 日曜日の前の晩、僕は心に決めた。深大ポストに足を運ばなくなったことをきちんと謝ろう、と。
 当日、僕は机の中から紙の束を取り出し鞄に入れた。約束の時間より早めに着くように家を出た。深沙大王堂の階段を上がり、深大ポストのほうを見るとこずえの姿が見えた。
 僕が側まで行くとこずえは口を開いた。茶目っ気と深刻さが混じりあった口調で...。
「今日はありがと」
 僕は「うん」としか言えなかった。そのままうつむいていた。
「あたし...。来月から関西の大学に行くの。...最後に会いたいなって思って」
 僕は、どう反応していいかわからなかった。やはり「うん」としか答えられなかった。ただ、小さくなんどもうなづいた。そんな僕を見て、こずえはことさら明るく話を続けた。
「あのさ、高校入ったばっかりのころ、毎週ここで待ち合わせたよね。それから段々とお互い忙しくなって会えなくなったけど、手紙のやりとりもしたよね。あたし、とっても楽しかった...。ごめんね。あたし忙しくなっちゃって...。でも、たまぁにポスト見にきてたんだけど...」
 こずえが話す間、僕はうつむき、小さくなんどもうなづいていた。こずえが続けた。
「仕方ないよね。高校別々だったし。最初の頃は手紙も入れてたんだけどそのうち面倒になっちゃってさぼったりして...エヘ。ごめんねぇ」
 こずえが言い終わると、僕は鞄の中から紙の束を取り出し、こずえの前に差し出した。
 こずえは怪訝そうな表情で紙の束を受け取るとその中の一枚を広げた。女子高生らしいかわいい文字がコピーされた紙だ。紙を持っているこずえの手が少しずつ小刻みに震えだした。こずえはゆっくりと顔を上げ僕の目を見つめると、みるみるうちに涙が溢れてきた。そしてとうとう大声で泣きはじめた。
「ワァー...」
 抱きついてきたこずえを僕は優しく受け止めそっと囁いた。
「社会人になったら、携帯電話買うからね」

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<著者紹介>
いもとね(東京都狛江市/52歳/男性/自営業)

  門前の賑わいは、あの頃と全く変わっていない。二年振りに訪れた深大寺で、あの頃と違うのは、私の隣にタケルが居ないことぐらいだろう。
 私にとって、此処は思い出の詰まった大切な場所だ。何もかも、見るもの全てが懐かしい。タケルがこの深大寺の近くに住んでいたことから、私達はこの界隈を定番のデートコースにしていた。
 私が今日此処に来たのは、あの日の約束を果たす為だ。本当は、タケルとの約束だったからもう果たすことは叶わないのだけれど、せめて私だけでもと思い、一年遅れでやって来た次第である。
 何故今更?と訊かれたら、私の人生の新たな第一歩を此処から踏み出そうと決めたから、という事になる。あの果たせなかった約束がある限り、私はいつまでも思い出に、いやタケルに縛られ続けてしまうだろう。
 約束を果たしたところで、その気持ちから綺麗さっぱり足を洗えるかと言ったら、それは分からない。
 でも今は、兎に角やってみるしかないのだ。
 門前に立ち並ぶ店を素通りして、私は境内に入った。今日は、ゴールデンウィークの最終日ということもあり、程良く観光客がいる。
 私は、取り敢えず一般の参拝者同様に手を洗った。別にお参りするつもりはなかったが、折角此処まで来たんだし、深大寺は知る人ぞ知る、縁結びのご利益があるお寺だからお参りして損はない。ということで、私は約束を果たす前にお参りをした。
 ふと傍らに目をやると、護摩木が置いてある。私は、この護摩木にちょっとした思い出がある。それは、タケルとのちょっぴり切ない思い出だ。
 お参りを済ませた私は、タケルとの約束の場所であるナンジャモンジャの木に向かった。
 こんな奇妙な名前の木は、他では聞いたことがないが、本当の名前は「ヒトツバタゴ」というらしい。そして、このナンジャモンジャの花を見に来る事が私達の約束だった。
それは、6月初めのとても暑い日だった。
 私達は、野川公園を散歩していた。二人共、自然溢れるこの公園が大好きで、気候のいい時期には殆ど毎週のように行っていた。
 その日、深大寺に行く予定はなかったのだが、あまりの暑さにどうしても冷たい蕎麦が食べたくなった私達は、深大寺の門前にある蕎麦屋を目指して移動した。蕎麦を堪能した後、何となく流れで参拝しようということになり、この境内に上がってきた。護摩木の思い出も、この時の話だ。
 参拝ついでに、私達はこの護摩木に願い事を書いて奉納した。私はタケルが何を書いたのかが気になって、ちょっと覗き込んでみた。するとそこには、「美希子が幸せになれますように」と書かれていた。美希子というのは私の名前だが、タケルが何故私の幸せだけを願ったのか、それが心に引っかかった。普通なら「美希子と」と書くんじゃないのか。
 しかし、何故かと訊いてしまうと、私がタケルの護摩木を見た事がバレてしまうし、何となくその答えが怖いような気もしたので、結局真相は分からぬままその場を後にした。今思えば、タケルはこの時既に、私達の結末について覚悟を決めていたのかも知れない。
 私が心に蟠りを抱えた事など知らずに、タケルは私の手を取ると、境内をふらふら歩き始めた。その時、この「ナンジャモンジャ」という奇妙な名前の木に出くわしたのだ。名札を見た私達は、変な名前だと言って笑った。
 しかしこの木、名前は変だが深大寺の名物的な存在らしい。四月下旬から五月上旬にかけて白い可憐な花が咲くのだと、近くにいたおばさんが教えてくれた。
 「来年・・・ねえ、来年のゴールデンウィークに花、見に来ようよ。」
 蟠りはひとまず置いといて、私はタケルに来年の約束を提案した。
 「そうだね。何か気になるし。来年見に来ようか。」
 そのタケルの言葉で、私達の約束は成立した。それが果たされることのない約束になるとは、その時の私には知る由もなかった。
そして今、私はナンジャモンジャの木の前に立っている。あの日、タケルと手を繋いで立っていたこの場所に戻ってきたのだ。
 ナンジャモンジャの木は、白い小さな花で飾られていた。これが、タケルと見る筈だったナンジャモンジャの花だ。放射状に開いたその花は、まるで小さな子供が手を開いているかのようでもあり、小さな花火がパチンと開いたようでもあった。一つ一つはとても小さくて、決して綺麗と言えるものではないが、こうして集まって咲いていると、とても可愛らしい。私は携帯電話のカメラ機能で、一枚写真を撮った。
 まだ削除していないタケルのアドレスに、この写真を送ってあげようかとも思ったが、今更そんな事をしたって虚しいだけだ。私はそのまま携帯電話を鞄にしまった。
 その時だ。
 「美希子さん・・・?」
 不意に声を掛けられた。驚いて声のした方を見ると、見覚えのある女性が立っていた。
 「良かった。やっぱり美希子さんだったのね。」
 その人が、タケルのお母さんであることを思い出すのに、それ程時間はかからなかった。
 「久し振りねぇ。こんな所で会えるなんて・・・。どう?元気にしてる?」
 私は、タケルの母との遭遇を喜ぶことが出来なかった。タケルと別れた理由を考えれば、それは当然だろう。私は、タケルの母の無神経さにちょっと苛ついた。
 私がタケルと別れたのは、一昨年の暮れ、クリスマスを間近に控え、カップルが一年のうちで最も浮き足立っている頃だった。
 タケルは、お父さんと同じ会社に勤めていた。タケルのお父さんは、そこそこ名の知れた会社の役員だった。そのお父さんのコネで就職した訳だが、ある時、タケルに社長の姪御さんかなんかとの見合い話が持ち上がった。
 私という存在がありながら、お見合いなどする筈がないと思っていたのに、タケルは社長からの申し出だからと、それを承諾してしまった。そして、先方に気に入られ、あれよあれよという間に結婚が決まった、という何とも時代遅れな、まるで一昔前のドラマのような結末を迎えたのだった。
私には、全くもって理解も納得もできない話だった。タケルはひたすら謝るばかりだったが、そんな事より、私は彼の本心が知りたかった。本当に、私よりその人の方がいいのか、私への想いは冷めてしまったのか、それを聞いたからって何が変わるという訳でもないが、その時の私は、タケルの口から真実を聞かなければ、どうしても気が済まなかった。
でも、結局タケルは何も語ってはくれなかった。
「美希子さんも、この花を見に来たの?」
タケルの母は、私の苛立ちなど全く気付かない様子で話し掛けてきた。
「え?ええ・・・・まあ・・・。」
私は横浜に住んでいる。別れた男の家の近所までわざわざ来たのかと思われるのが嫌で、何となく煮え切らない返事をしてしまった。
「私もよ。タケルから、今ナンジャモンジャの花が咲いてるから、写真撮って送ってくれってメールが来てね。」
メール?タケルと一緒に住んでないのか。
「タケルさん、お元気ですか?」
私は探りを入れるつもりで訊いてみた。
「ええ、元気よ。今、仕事の関係で香港に住んでるの。来月子供が産まれるのよ。だから、私ももうすぐお婆ちゃん。」
そう言って、嬉しそうな笑顔を浮かべたタケルの母に、私も精一杯の笑顔を返したつもりだった。でも、タケルの幸せを心から喜ぶことができない私が、そんなにいい笑顔を作れる筈がない。私は自分の荒んだ心が情けなかった。
しかしその時、私はあることに気付いた。
タケルが、母親にナンジャモンジャの花の写真を送れと言ってきたことだ。これってひょっとして、私との約束を覚えていたからじゃないだろうか。
私は何だかちょっと嬉しくなった。と同時に、この約束を果たす方法を思い付いた。
「私、ちょうど今写真撮ったんですけど、すごく良く撮れたんで、良かったらこれ、タケルさんに送りませんか?」
断られるのを覚悟で申し出た。
「まあ本当?ありがとう。私、携帯電話で写真撮るの苦手なの。良かったわ、見せて。」
意外にも、タケルの母は喜んでくれた。私は鞄から携帯電話を取り出すと、さっき撮った写真を表示した。タケルの母は、画面を覗き込んだ。
「あら、美希子さん。本当、良く撮れてるじゃない。これ頂戴。タケルに送るわ。」
彼女の表情から、それがお世辞でないことが分かったので、私は赤外線通信のやり方を教えながら、写真を送信してあげた。
「タケルさんには、私に会った事は言わないでください。」
私がそう言うと、タケルの母は全て分かっているというような笑顔を浮かべて大きく頷いた。そして、写真をタケルに送信した。
今頃、タケルは私が撮ったナンジャモンジャの花を見ているのかな、なんて思いながら、私も自分が撮った写真を見た。
私達は今、同じ花を見ている。漸く二人は約束を果たす事ができた。
「護摩木なんかに私の幸せを託さないで、あんたが私を幸せにしてよ!」とずっと思ってきた。でも今は、タケルが願ってくれた私の幸せを、私自身の力で見つけていこうと思っている。

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<著者紹介>
革命詩人(千葉県市川市/39歳/女性)

今朝は久しぶりに気分がいい。ここ数日どうもすっきりしない日が続いていたのだけれど、秋晴れの天気のせいか・・・洗濯物を干している私に夫が声をかけた。
「神代植物園にバラを見に行ってみる?」
出不精の夫にしては珍しいこともあるものだと思ったけれど、そういえば電車の吊り広告で見たような気がしてでかけることにした。
 臨時駐車場に車を停め、落ち葉をさくさく踏みしめながら門へと向かう。犬を散歩させる人、どんぐりをひろう子供たち、
「日本は平和だ」
夫ののんびりしたつぶやきに思わず笑ってしまった。
 神代植物園のバラ園。ピンクやオレンジ、色とりどりのバラのあいだをぬけながら気を惹かれたバラのだけ説明を読む。大輪のみごとなバラ、可憐な房咲きのバラ、香りの強いバラ、ロイヤルファミリーのお名前がついたバラ・・・そしてメヌエット。
甘いバラの香りが忘れていた記憶を呼び覚ます。

「あー、腹へったなあ。このバラ、食えないかな。」
晃一は情けない顔つきでバラの花を眺めている。さっき深大寺の門前でお蕎麦を食べたばかりなのに、まったくあきれるほどの食欲だ。花より団子、ロマンチックな雰囲気とは程遠い。私は無視してどんどん先に歩いて行った。
 私の機嫌を損ねたと思ったのか、彼は後ろから声をかけた。
「お嬢さん、ちょっと振り向いてください」
はやっているシャンプーのコマーシャルみたいだ。振り向いた私を狙ってワンショット。
「そんなにすましてないで笑って笑って・・・」
愛用のキャノンのカメラで続けさまにシャッターをきる。いっぱしのカメラマン気取りだが、ピンボケだったりぶれていたり、実のところ彼の写真ときたらひどいものだ。このあいだだって私のコンサートで撮ってくれた写真にはひとつとして満足な出来のものが無かった。
「写真はいいからバラを見ようよ!」
そう言う私のうしろにあったバラをさして
「メヌエットだって・・・可愛いな」
そのバラはクリーム色の小さめのバラで、花びらの縁が濃いピンクで縁取られた可憐なバラだった。
「ね、この写真を撮って!」
それから私たちはバラ園をぐるりとまわって深大寺に向かったのだが、五月の明るい午後、植物園でゆっくりしすぎてしまったらしく本堂に行き着いた頃にはもう五時近くなっていた。そそくさと通り一遍の参拝をすませ、車に戻ると、行きつけのお店へと車を走らせた。
「あら、深大寺へ行ってきたの?」
顔なじみのママに声をかけられ、
「そう。今日は神代植物園でバラを見て、それから深大寺へお参りしてきたの。」
「深大寺って縁結びの神様なんですって」
手にしたパンフレットを広げてみると、なるほどそう書いてある。でも縁結びの神様は本堂ではなくて深沙大王堂にいらしたらしい。
「そこへは行かなかったわよね・・・」
相槌をうつでもなく、晃一は食べるのに夢中。
食欲旺盛な彼の食べっぷりを見ていると、なんだかどうでもいいような気になってきた。
 それから数日たって、
「このあいだの写真、できたよ」
とキャンパス近くのケーキ屋へ呼び出された。
五月晴れのいいお天気だったあの日、なんだかみんな白っぽく写っている。期待していなかったからざっと眺めていくと、あのメヌエットだけがとても素敵に撮れていた。
「どう、良く写ってるだろ?」
「本当。このバラきれいに撮れてる」
私はなんだかとても嬉しくなって、うちへ持って帰るとメヌエットの写真をピアノの上に飾った。
 片山先生の門下生のピアノの発表会。ドレスの裾をひっぱりながら、私は緊張して楽屋で出番を待っていた。今日は佳代子先輩がトリでその前が私だ。晃一も来ているはずなんだけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。さっきのリハーサルでのちょっとしたミスが気になって、もう一度楽譜を見直したり頭の中でフレーズを繰り返してみたり、そうこうしている内に私の番になった。ライトに照らされたステージに踏み出すと、もう時間の過ぎるのはあっという間。何百時間も練習してきた三十分足らずの曲はあっというまに終わってしまう。一度指先でつむぎだした音は間違えたら消すことができない。まあまあのできだったかな、と思いながらステージ中央で頭を下げるとバックステージへひっこんだ。
佳代子先輩は真っ赤なドレスでリストを華麗に弾きこなしている。舞台の袖で思わずため息が漏れた。
発表会が終わったあとの楽屋裏は緊張感もとけて騒々しい。着替えて楽屋口に出ると晃一が赤いバラの花束を持って待っていた。
「すっごく良かったよ。はい、これ」
「ありがとう」
私はちょっと晴れがましい気分で花束を受け取った。背が高くハンサムな晃一は人目をひく。母が「晃一くん、来てくださったの?どうもありがとう」とお礼を言い、他の友人たちと盛り上がっているところに佳代子先輩が出てきた。
「あらあユキちゃん、素敵な彼氏ね。紹介してよ」
大勢のおとりまきに囲まれながら、佳代子先輩は艶然と微笑む。今度はシックな黒のレースのスーツ姿だ。晃一も満面の笑みで
「いやあさっきのワルツ、素敵でした!」
結局みんなでホールを出てから吉祥寺で打ち上げをすることになったのだが、にこやかに微笑む佳代子先輩と調子を合わせる晃一を見て、バラのとげがちくっと胸にささったような気がした。

夏が来て片山先生の湖畔の別荘にほど近いペンションでの合宿が始まった。毎年恒例のこの合宿には、ピアノの生徒以外、管楽器や弦楽器の男の子たちも参加して、先生の別荘で近隣のかたがたをお招きしてのコンサートが催される。新宿西口から高速バスに乗ったときから遠足気分で、みんな盛り上がっていた中、私ひとりブルーな気分でぼんやりと晃一のことを考えていた。発表会以来、なんだかしっくりこない。新曲を仕上げられなくて結局発表会と同じ曲を弾くことにしたし、ちっとも練習に身がはいらなかった。晃一だって大学院の二年だし、研究室に残るにせよ忙しいんだろうと思いつつ、一抹の不安が胸をよぎる。さっき中央高速でみかけたのは晃一のジープじゃなかったか・・・。
「ねえねえ、佳代子先輩、今度はドビュッシーの花火弾くんだって!」
同級生の奏子(かなこ)の声にはっと我にかえって
「そう・・・夏にぴったりよね」
「それにね、またおひとりでホテルにご滞在」
「ふーん」
相槌をうったものの、さえない私に奏子は
「ユキ、バスに酔った?」
「ううん、大丈夫。」
ペンションから先生の別荘まで奏子と並んで歩きながら、これからの三日間、気持ちを切り替えて頑張ろうと心に決めた。
先生の別荘でのコンサートは二日目に開かれる。一日目の午後はリハーサル。二日目の午後のコンサートのあとには先生主催のバーベキューパーティーがあるし、これ目当てに参加する学生も少なくない。自由時間は湖でボートに乗ったり、自転車で湖畔を一周したり楽しく過ごす。ちょっとはめをはずして飲み過ぎたりもするが、ペンションに帰って寝るだけだし、三年生以上の特権だから私は誘われるままにホルンの山野先輩たちにくっついて近くのホテルのバーラウンジへとでかけていった。
ホテルの駐車場で晃一のジープを見つけたとき、私の疑いは確信へと変わった。ペンションへとってかえした私は翌朝、体調不良を理由にコンサートに出ることなくひとり東京へと引き返した。

「バラのソフトクリームだって。食べる?」
夫の呼びかけに現実に引き戻される。
「なにぼんやりしてるんだよ?」
そういえばこの人が初めてプレゼントしてくれたのは偶然あのメヌエットだった。くったくのない笑顔を見ていると、平凡なお見合い結婚だったけど、この人と結婚して良かったと思えてきた。あれからもう四半世紀・・・
「ねえ、深大寺に行こうよ!」
突然どんどん歩き出した私に面食らったようについてくる夫・・・
「なんで深大寺なの?」
「深大寺ってね、縁結びの神様なんですって」
「縁結び?」
バラ園を抜けて木漏れ日のきらきらした林を通って深大寺門から右手のほうに急ぐ。
「おいおい、本堂はあっちだよ・・・」
「いいの、いいの。」
私は案内図を頼りにまっすぐに深沙大王堂へと向かっていった。万霊塔の先を右に折れると右側に延命観音があった。そこも通り過ぎると目指す深沙大王堂・・・思ったより新しいお社だ。あのときは来られなかったお社。
私は横に並んだ夫と手を合わせると、
「この人との縁はしっかり結んでおけますように。」心からそうお願いした。曲のメヌエットみたいに、これからも変わらぬテンポで手をとりあっていこう。
「戻るときに延命観音にも寄って行こうね!」

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<著者紹介>
Cecil(東京都世田谷区/52歳/女性/主婦)

 六月の半ば、毎日雨が降っていた。テニスサークルの練習も中止ばかり。俺は思い切り暴れたくて、うずうずしていた。
 それに、気になることがあった。美紀の様子がおかしい。ジャーナリズム概論の講義に、三回連続して出て来なかった。いつも一番前の席で、熱心にノートを取っていたというのに。サークルの部室にも顔を出さない。学内のカフェテリアで見掛けた時も、隅のテーブルにひとりで座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。俺は「似合わねえな」と声を掛けたかったが、できなかった。
美紀はいつも友達の輪の中にいた。元気で、よく笑っていた。それが今は、ひとりにしてくれ、放っておいてくれ、という見えない壁を築いて、その中に閉じこもっている。

夏休み前の期末試験が近付いて、慌しくなった。美紀にまったく会わない日々が続いた。試験期間の最終日に、サークルの慰労会が吉祥寺の居酒屋で催され、久し振りに美紀は姿を見せたのだが、少し痩せて頬がこけ、顔色もすぐれなかった。試験やつれした、というのでもなさそうな気がした。
俺は少し離れたテーブルに座り、目の端で様子を窺った。美紀は時折グラスを手に持ったまま動かなかったり、「ねえ、美紀」と肩を叩かれて「えっ、何?」と聞き返し、「もう、聞いてないし」と呆れられたりしていた。酒が入って周りが盛り上がるにつれて、彼女だけが取り残され、沈み込んでいくように思えた。
「ちょっと美紀、飲みすぎだよ」
隣に座った春香が、グラスを取り上げようとした。俺は美紀の顔を、まじまじと見てしまった。あいつは目をそらせた。
二時間ほどで宴会はお開きになった。美紀は「帰ろうよ」と誘われても「もう少し飲んでいたい」と言い通した。もう一軒の居酒屋で二次会、ショットバーに移動して三次会。最後まで付き合った女子は、酒豪の鈴木先輩の他には美紀だけだった。
俺は彼女の隣に座って、好きな映画の話などをしたが、続かなかった。黙ってウィスキーのロックをちびちびと飲んだ。
「やばい、終電」と誰かが言い、店の外に出た。美紀は少しふらつきながら、駅とは反対方向に歩き始めた。俺は横に並んで「大丈夫かよ」と声を掛けた。あいつは、俺の腕をつかんだ。歩くのをやめ、俺の顔をじっと見つめた。それから、がくりと首を折り、こちらにもたれ掛かってきた。俺の腕を、しっかりと胸に抱き寄せている。
「酔ってるでしょ」
「酔ってるよ」
「家まで送る」
雨が、またパラついてきた。タクシーを止めようと大通りに歩きかけたが、美紀は俺の肩をつかんで「嫌だ、帰らない」と言った。

結局、俺は美紀を部屋に連れてきてしまった。なぜか今日に限って、掃除機を掛けてあった。ゴミも出したし、溜まっていた洗濯物も片付けてあった。内心ホッとしつつ、俺は先に立って中に入り、食卓であり勉強机でもあるテーブルの前に座った。
美紀は少してこずりながら靴を脱ぎ、ドサリ、という感じで俺の横に腰を下ろした。部屋を見回そうともせず、テーブルの一点を見つめていた。
「飲み直すか」
俺は本棚に置いてある、実家からくすねてきた、とっておきのスコッチウィスキーに手を伸ばした。
「それとも、麦茶か何か......」
「ごめん、やっぱり帰る」
美紀はバッグをつかんで、立ち上がろうとした。
「待てよ」
あいつの腕を引っ張っていた。美紀はよろけて、俺は背中を抱きとめたのだが、ハッとして、すぐに彼女から離れた。
「いや......帰るのは、いいんだけど。おかしいじゃない、最近。何、悩んでるんだよ」
美紀は唇を噛み、顔をそむけた。
「話、聞くって。俺でよかったら、話、聞くって」
そう言って、肩に手を置くと、彼女は泣き出した。泣きながら、俺の胸に頭を押し付けてきた。甘い香りがした。俺はそっと、肩を抱いた。
しばらくたって、美紀は泣き止んだ。俺は冷蔵庫から麦茶を出してきて、飲ませた。
「好きな人がいたの」
「えっ?」
「でも、彼は......私だけじゃなかったの」
相手は、フリーの報道カメラマンだった。新聞社でアルバイトをしていて、知り合ったのだという。恋愛の打ち明け話だなんて、最悪だ。それなのに俺は「うん、それで」なんて、言っていた。
男はだいぶ年上だったが、美紀は本気で好きになった。「大事にされて、勘違いしたの」と言った。しばらくして、男に、他にも女がいることに気付いた。それからは、男に会うのが辛くなった。「私、知ってるんだからね」と責め立てることも出来なかった。男から何度もメールが来たが、返事をしていない。もう二度と、同じ気持ちになれない......
土砂降りの雨が、屋根を叩いていた。美紀は毛布に包まって、静かに眠っていた。話し終えて、急に酒が回ったらしく、倒れ込むように横になったのだ。俺はひとり、ウィスキーをあおった。気を失うように、酔い潰れてしまえばいい。そう思って、飲み続けた。
自分のいびきが途切れて目が覚めた。部屋の中が明るかった。ぼやけた視界の中に、美紀の背中が見えた。音を消してテレビを見ていた。俺が起き上がると、あいつはテレビを消した。沈んだ声で「昨日はごめんなさい」と言った。
「酔っ払って、嫌な話、聞かせて......本当、迷惑かけちゃったね」
「迷惑だなんて、思ってねえよ。......嬉しかったよ、話してくれて」

それから、俺たちはバスに乗って出掛けた。雨は上がっていたし、気晴らしに、近くの深大寺を散歩しよう、と美紀を誘ったのだ。
バス停のすぐ横には、門前蕎麦屋が並んでいた。美紀は「おなか空いた。お蕎麦食べよう」と言って、俺の腕を引っ張った。
蕎麦は、ウィスキーでただれた胃にもやさしく、うまいと感じた。美紀はよくしゃべった。俺は専ら聞き役だったが、嫌ではなかった。二人だけで出掛けるのは初めてなのに、何度もこうして、テーブルを挟んで食事をしたことがあるように思えた。
美紀がその男に出会わなければよかった。せめて、聞かなければ、知らなければよかった。俺は蕎麦を、もくもくとすすった。
蕎麦屋を出て、参道を歩いた。空は厚い雲に覆われ、ひんやりとしていた。雨で落ちたのか、柳の葉が道一杯に敷き詰められていた。濡れた濃い緑の世界が、俺たちを囲んでいた。
藁葺屋根の山門をくぐり、深大寺の境内に入ると、太鼓と鐘の音が聞こえてきた。俺達は引き寄せられるように、本堂奥の大師堂へ歩いて行った。
階段を登って行くと、賽銭箱の前で、老夫婦が熱心に手を合わせていた。堂の中にも、数人の男女が正座をして、祈祷を受けていた。三人の僧が並んで経を読む祭壇の左手には、もうひとつ別の祭壇があって、白装束の僧が火を焚いていた。
「ああ、これが護摩だ」
「ごま?」
俺は賽銭箱の横に置かれた護摩木を手に取った。
「これに願い事を書いて、あそこで燃やしてもらう。煙が天に昇って、願いが叶う」
「へえ、詳しいね」
「教養科目『仏教の世界』。おととい試験だったからな」
祭壇の炎は赤々と燃えて、時折、高く火の粉を吹き上げていた。
「護摩には、心の中の煩悩とか業とかを、焼き払う、っていう意味もあるらしいぜ」
「煩悩......」
しまった。つい、調子に乗って、余計なことを言ってしまった。美紀は炎をじっと見つめ、それから目を閉じた。胸の前で手を合わせ、動かない。俺はその真剣な横顔を見ていられなくなって、その場を離れた。
境内を、ひとりで歩いた。沢山の絵馬が奉納されていた。そのいくつかを、なんとなく読んだ。俺は今、何を願うのだろう。美紀は、何を祈っているのだろう。
鯉の泳ぐ池の横を通り、また階段を登って戻って来た。美紀は堂の脇にしゃがんで、猫の背中を撫でていた。俺が近付くと、茶虎模様のその猫は、腹を見せて大きく伸びをした。
「あ、寝ちゃったよ、この子」
美紀は俺を見上げて笑った。
「なあ、植物園に行ってみないか。きっと、バラがきれいだぜ」
「うん」
彼女はそう答えて立ち上がった。まあ、ゆっくりいこうか、と俺は思った。

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<著者紹介>
吉田 大祐(東京都三鷹市/38歳/男性/会社員)

 深大寺の森で遊ぶ風が、ナンジャモンジャの白い花を揺らして山門を通り抜けたとき、黄色い帽子を被った小学生たちがちょうど学校から帰って来たところでした。参道に並んだ蕎麦屋の主人や土産物屋の奥さんたちが、おかえりなさいと声をかけています。子どもたちの黄色い帽子が道いっぱいに咲くたんぽぽみたいに見えて嬉しくなった風は少しはしゃいで、ついうっかり女の子の帽子をひとつ飛ばしてしまいました。そこへ、ひとりのおばあさんが通りかかりました。
「まあ、たいへん。帽子が落ちましたよ。」
深大寺でお参りをすませたばかりのかえさんです。あわてて追いかけようとしましたが、年をとって思うように動かなくなった足は杖をついて歩くのがやっとでした。そのとき、ひょろりと背の高いおじいさんが帽子を拾い上げました。三日にいっぺんは深大寺に散歩にやって来る清司さんです。清司さんは帽子に名前を見つけると、大きな声で女の子を呼びとめました。女の子はすぐ走って来て帽子を受け取ると、
「ありがとう。」
と言って、友だちのところへ戻って行きました。清司さんとかえさんは、やれやれといった顔でにっこり笑うと、どちらからともなくベンチに腰掛けました。風は、生まれたばかりのやわらかな木の葉をそっとゆらして、キラキラと輝く光の粒をふたりの上に降らせました。かえさんが、
「いいところですねえ、ここは。」
と言うと、清司さんも、
「いいところですよ。ここは。」
と答えました。気持ちのいい風に吹かれて、かえさんはゆっくりと話を始めました。
「ずっと田舎で暮らしていたんです。でも、ひとりになってしまったものですから、息子のいるこちらに越して来たんです。驚いたわ。ここにはね、私が生れ育った山に咲いていた花がたくさん咲いているんですもの。」
「ほう。その感じ、少しわかる気がしますなあ。私も昔、小さい兄弟たちを連れて田舎に疎開していましたからね。あれから、もう何十年になるやら。自分の年まで忘れそうなくらい年をとりましたなあ。」
頭をかきながら笑う清司さんの髪は白く、顔には深い皺が刻まれています。
「ええ、私も。」
口元をおさえて笑う、かえさんの手には長い間、家族の食卓を守りつづけてきた証のような色が滲んでいました。それから、かえさんは、さっき見てきたばかりの草花のことを、清司さんは植物園に咲く藤の甘い香りや温室に咲く睡蓮の花の話などをしました。やがて、話は家族のことになって、清司さんが疎開していた頃のこと、かえさんが暮らした山のことなど、時間が過ぎるのも忘れておしゃべりをしました。かえさんは息子の家族と一緒に暮らしていましたが、みんな働いていて忙しく、ゆっくり話をする時間もありませんでした。清司さんは娘の家族が近くに住んでいましたが、いつもはひとりで暮らしていましたから、誰とも話をしないで一日が終ることもありました。さっきまで知らなかった誰かと親しくおしゃべりするなんて、まるで若い頃のようだと、清司さんは胸の奥で眠っていた小さな種が、そっと芽を出したような不思議な気持ちになりました。かえさんがまだ植物園に行っていないことを知ると、清司さんは季節ごとに咲くたくさんの花を見せてあげたいと思いました。
「もうすぐ薔薇の花が咲いて、そりゃあみごとですよ。じきに蕎麦の種も蒔かれるし、水性植物園では田植えもしますよ。よかったら、ご案内しますよ。」
「まあ、楽しみ。私は足が丈夫でないものだから、少しずつ行ってみることにしましょ。」
太陽が西に傾いた頃、かえさんはふいに時計を見てあわてた様子で言いました。
「あら、もうこんな時間。帰らなくちゃ。」
かえさんは丁寧にお辞儀をすると杖をつきながら帰って行きました。清司さんはかえさんを見送った後で、大切なことを忘れていたことに気がつきました。植物園を案内してあげる約束をしたのに連絡先を伝えていなかったのです。清司さんはしまったなあと思いましたが、きっとまた会えるだろうと気をとり直したとき、ベンチの上に藤色の巾着袋を見つけました。手にとってみると紐が緩んで中から絵筆がころりと転がり出ました。袋の中には水彩色鉛筆と小さなノートが入っていました。ノートは花の絵でいっぱいでした。たんぽぽ、はこべ、シロツメクサにシャガの花。かえさんが描いた優しい色使いのきれいな花の絵を、清司さんはいつまでも眺めていたのでした。
 それから、植物園に薔薇の花が咲き、城跡の山に蕎麦の種が蒔かれ、水性植物園の水田に稲の苗が植えられ、紫陽花が咲く頃になっても、清司さんはかえさんに会うことができませんでした。清司さんはかえさんが忘れて行った巾着袋を持って何度も深大寺を散歩しましたが、七夕を過ぎてもかえさんを見つけることができませんでした。そして、暑すぎる夏と、ゲリラ豪雨が度々やって来て、清司さんは散歩に行けない日が多くなりました。夏バテをして体調がすぐれない日はかえさんの絵を眺めながら今度会えたらどんな話をしようかと考えました。
やがて萩の花が咲く頃、清司さんはいつものように散歩に出かけることができるようになって、深大寺に行く度お参りをしました。
「かえさんが元気でいますように。また会って、かえさんにこの絵を返すことができますように。」
元三大師堂には、るんびに様と呼ばれる仏像が人々の健康を願って座っておられます。痛いところを撫でると治ると言われています。清司さんは、るんびに様の膝を撫でて、かえさんがまた散歩に来ることができますようにと願いました。
 そんなある日のことす。秋の風が森を抜けて木の葉を落としていく午後のことです。遠足に出かけた帰りの小学生たちがリュックを背負って帰って来るところでした。ひとりの女の子が転んで泣いていると、ベンチにすわって休んでいたおばあさんが女の子に手を貸して、しゃくり上げる背中を優しく撫でてあげていました。女の子はおばあさんに何かを手渡すと、また友だちのところに駆けていきました。おばあさんは、かえさんでした。
「やっと、お会いできましたね。」
清司さんは、かえさんを見つけました。
「まあ。」
かえさんは嬉しそうに笑いました。
「女の子がね。これをくれたのですよ。」
おばあさんの乾いた手のひらにはどんぐりがひとつ、残されていました。
「すてきな贈り物ですね。それじゃあ、そのどんぐりも描かないといけませんね。」
清司さんは自分の小さな手提げ鞄から巾着袋を取り出すとかえさんに手渡しました。
「まあ、なんてことでしょう。」
おばあさんは何処で忘れて来てしまったかもわからなくて、すっかりあきらめていた巾着袋に驚きました。
「ずっと持ち歩いていたのですよ。お返しできてよかった。ですが、ひとつ謝らなければならないことがあるのです。実は、その中身を見てしまったのです。すいません。」
「まあ、恥ずかしい。でも、大切にとっておいてくださったのね。どうもありがとう。」
それから、清司さんはかえさんのことを心配しながら過ごした季節の話をしました。かえさんは体を壊して入院していた話をしました。入院している間、送る宛ても無いはがきに絵を描いて、それがたくさんになってしまったことも話しました。
「もったいないことですな。私もそんな便りを貰ってみたいものです。」
清司さんが小さくつぶやくと、かえさんは、もっと小さな声で言いました。
「貰っていただけますか?」
「もちろんですとも。」
清司さんは嬉しそうに頷きました。
「だれかに貰ってもらえるなんて、なんて嬉しいことでしょう。」
かえさんはまるで少女のように笑いました。
「道の途中できれいな花をみつけたみたいに嬉しいことが、元気でいたら、まだまだあるものなのね。」
「ええ、ありますとも。まだまだ、道の途中ですからな。そう言えば、いつか話した田んぼにご案内しましょう。稲刈りがすんだ頃だと思いますよ。足の具合はいかがですか。」
「おかげさまで、この頃は調子がいいのですよ。ですから今日は杖も持たず来たのです。」
 清司さんはかえさんを気づかいながらゆっくりと歩きました。水性植物園の田んぼの脇には、高くて大きな梯子のように組まれた木に、刈り取られた稲がかけられていました。
「懐かしいわ。山の家に帰ったようだわ。」
かえさんは稲に顔をつけると、人生のほとんどを一緒に過ごしたその匂いを吸い込みました。数えることも面倒になるくらい、いくつもの季節を生きてきたのです。何か大切なものを胸に抱きしめるようなかえさんに、清司さんは何も聞かず、静かに言いました。
「春になったら、蕎麦といっしょに山菜のてんぷらを食べさせてくれるところがあるんですよ。お互いに冬を元気に越えて、春にはきっと一緒に行きましょう。」
「ええ。それは、楽しみだわ。」
かえさんはもう誰もいない故郷につづく空を見上げました。遠い昨日と今日を結ぶように空はどこまでも広く高く澄んでいました。風がふたりの肩を優しく撫でて吹いて行きます。ススキの穂が揺れて、足下では虫たちが唄い、アキアカネがふたりの散歩道を静かに飛んで行くのでした。

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<著者紹介>
弥山 浩子(東京都西東京市/45歳/女性/主婦)

 暮れもさし迫った、とある日のことである。
「初詣は、いつもどこに行くの?」
 赤坂にあるビルの三十八階の窓から、眼下の首都高速を眺めながら緑川祐次は、そう由希子に訊ねた。あと十数分たらずで昼休みが終わろうとしている時だった。
「小さい頃は、明治神宮や門前仲町の富岡八幡宮とかに行ってましたけど、ある年から深大寺に行きはじめて、それからずっと深大寺なんです」
「深大寺か......」
 コーヒーカップを持ったまま緑川は感慨深げにそういった。
「自宅から近いの?」
「近いといえば近いかも。世田谷通りから甲州街道に抜け、三十分足らずで行けますから」
「車で行ってるんだ」
「ええ」
 初詣はいつもどこも混んでいる。深大寺は面倒くさがり屋の父、光雄が、車で乗りつけられる唯一都合の良い場所だった。元旦、おせちを食べながら年賀状に目を通し、前の年に買ったお札や破魔矢をあちこちから集め、それからのろのろと出かけて行くのだ。深大寺につく頃には辺りはすでに暮れはじめている。どこから湧いてきたかと思うほどの沿道を歩く参拝客を尻目に、助手席の母、幸子が必死になって駐車場を探すのだ。お参りを終え破魔矢を手にして帰る人々を後部座席から眺めながら、今年もまた父は、お参りを終えた後いつもの蕎麦屋に入るんだろうな......と、由希子は想像する。誰が決めたわけでもないのに、そういう何でもない慣わしがその家の歴史みたいになるのかもしれない。本堂の前でたくさんの参拝者に押されながら、真剣に手を合わせる母の願いごとは、家内安全はもとより、子どもの受験や就職祈願だったり、そして、ここ数年は適齢期を少し過ぎた由希子の良縁祈願へと移行していた。
「深大寺って、どうやら縁結びのお寺として有名みたいよ」
 本当かどうかは知らないが、深大寺に伝わる「縁起絵巻」というのに記されてあるそうな。由希子が結婚しないかぎり、母の願いごとはこの先もずっと由希子の良縁祈願につきるのだろう。たまったものじゃないと由希子は思っている。
「実は、以前、僕もよく深大寺に行ってたよ」
「そういえば、お住まいは吉祥寺でしたね」
「ああ。学生時代からずっと住んでたから、それこそ初詣はいつも深大寺だった。でも三年前に所沢に引っ越してからは、とんとご無沙汰でね」
 既婚の緑川が、妻と離婚して吉祥寺のマンションを引き払ったというのをいつか誰かから耳にしたことがあった。三十五歳、バツイチ独身。

 入社して初めて緑川に会った時のことを由希子はよくおぼえている。仕事のことで頭がいっぱいだったのか、新入社員の若い娘のことなんてまるで興味がないといわんばかりに、素っ気ない態度だった。会社は外資系の機器メーカーだけあって、社員の誰もがパソコンの技術は高かったし、逐一なににつけても合理的であった。社員はみな社員証とピッチを首にぶら下げている。外部から電話が入るとオフィスの窓側のスピーカーから着信音が鳴り、誰かがピッチにでて対応する。つまり、内線というものがなく電話交換手がいないのだ。何もかもがはじめての経験の由希子にとって、ピッチで外部と対応することさえも戸惑いと不安がつきまとった。そんな時、緑川は何も言わずにさり気なく由希子を助けてくれた。ピッチを持って言いよどむ由希子に代わって、素早く対応してくれたのは一度や二度ではない。新入社員というだけでちやほやする他の男性社員とは違って、緑川は甘やかすことも叱咤もしないかわりに興味も示さなかった。自分を見せないばかりか他人の心の中にずけずけと入ってこない。そんなクールな距離を保ちながら六年の月日が過ぎていた。由希子には淡々と過ぎていった六年だが、人によっては子どもが生まれてから小学生になるくらいの年月である。緑川にしてみても離婚も含めてさまざまな生活の変化はあったはずである。その緑川が、ほとんどの社員が外に食事に行っている昼休みに、どういう風の吹きまわしなのか、珍しくそんなふうに由希子に話しかけてきたのだ。しかもこんな提案までしてきた。
「こういうゲームしてみないか? とにかく初詣は深大寺と決め、時間も場所も決めずに、そこで偶然会えるものなのかどうか、試してみない?」
「あら、面白そうですね。で、もし偶然会えたとしたら?」
「そうだな。僕の嫁さんにでもなるか?」
 紙コップのコーヒーを飲みながら、緑川は冗談とも本当とも思えるそんな言葉を口にして笑い飛ばした。しかし、由希子にとってそれはまんざらでもなかった。

 やがて年が明けた。いつものように父や母、そして弟の四人で深大寺に向かう。
「まったくもう......。今年こそは家族がもう一人増えているかと期待していたのに、飽きもせずまたこの顔ぶれね」
 そう母がいうと、弟の和也は眠たそうな顔で、「今年こそ、最後かもよ」といった。由希子とて今まで一度も恋人がいなかったわけではない。それなりに何度か恋愛を経験している。ただし、いつも一年と続かず、春から夏にかけて付き合い秋に別れるパターンが多かった。だからクリスマスもお正月も女友達か家族とすごすのが恒例になってしまっている。
茅葺の山門をくぐり、本堂の前でお参りをすませ、元三大師堂に向かって歩き始めたその時だった。「なんじゃもんじゃの木」の下にいる一人の男に由希子は目をとめた。その人はブルゾンにジーンズ、それにトレッキングシューズを履き、いたってラフな格好だ。しかも由希子と目が合うと笑いかけてきた。   
「緑川......さん?」
 由希子は茫然と立ち尽くして、見慣れない普段着姿の緑川をじろじろ眺めた。本堂の前で参拝者にもみくちゃにされていた母がやっと人垣から抜け出したところである。父はすでにいつもどおり、お札やお御籤を買うために売場に並んでいる。そんな二人をそれぞれに目で追いながら、由希子は緑川と「明けましておめでとうございます」と、新年の挨拶を交わした。いつも同じ職場でいやっというほど顔を突き合わせているのに、何故か妙に気恥ずかしい。これはいったいどういうことなのだろう。 
「偶然ですね」
「いや、本当。奇遇だ」
 都心のオフィスビルで寡黙に仕事をする緑川とはまるで別人のようだ。彼は、いつも自分を縛り続けている全てのものから開放されているとばかりに、実に穏やかで良い表情をしている。気がつくと母が後ろから由希子のコートを引っぱっているが、由希子はそれどころではない。もしも偶然に出会えたのなら、お嫁さんにしてくれると彼はいっていた。しかし、よく考えてみると、本堂のお参りをすませたあとは、誰もが必ずこの「なんじゃもんじゃの木」の下を通る。時間さえ違わなかったら、会える可能性はかなり高かったはずだ。お神籤を手に戻ってきた父に、母がひそひそと囁いているのが聴こえた。
「今年は、ご利益が早かったみたいよ」
「いやはや、俺の今年のお御籤も、待ち人来たる、だ」
 暮れかかる境内には、冬の夕ぐれの凛とした冷気が漂いはじめている。由起子が家族に緑川を会社の上司であることを紹介すると、母は気を利かしたつもりなのか、父と弟をいつもの蕎麦屋に引きずっていった。
「どうやら、君のご家族に何か感ちがいをされたみたいだね」
 緑川が笑いながら由希子にそういった。
「だって、毎年ここで娘の良縁願いをしてるんですよ」
「そうだったんだ。じゃ、やっぱり僕のお嫁さんになる? いや、なってくれないかな?」
 神様仏様の前だ。その言葉に嘘はないだろう。彼のことは嫌いではなかった。それどころかむしろ好きだった。しかし、緑川はいつも仕事に熱中していて異性のことなどにはまったく眼中にはないという感じであった。この人を振り向かせるのは至難の業だろうと由紀子は諦めていたのだ。それが突然、つき合いもなしに求婚されている。由希子は、戸惑いながらも「はい」と返事をしていた。
 これぞまさしく、母の長年の良縁祈願のご利益かもしれない。由希子は緑川と境内を歩きながらそう確信していた。

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<著者紹介>
北沢 まどか(東京都世田谷区/52歳/女性/主婦)

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主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

8月1日13時を持ちまして、公募を締め切りました。多数のご応募、有り難うございました。

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紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

著作権について

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