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<第5回応募作品>「蕎麦湯の湯気」 著者: 鈴木 涼一

 ここへ来たのは久しぶりだ。最後の記憶は、高校一年生の時に初めて出来た彼氏の一歩後ろをついて歩く光景だった。しかしその彼の顔は頭の中でぼやけてよく思い出せないし、何をしに来たのか、どんな話をしたのかといった肝心な事は全く思い出せなかった。ただ少し色が薄めの髪に覆われた彼の後頭部と、思春期特有の甘酸っぱい気持ちと、木や土の香りだけが印象深く記憶に残っていた。
 ともかくその記憶から逆算すると、ここへ来たのは実に四年振りという事になる。
 そこへ突然男の声が乱入してきた。
「いいよ、自然だよ。」
 その時私は道端のベンチに座って足を組み、幼い頃によく見かけた名前も知らない米粒程の黒い虫を目で追っていた。
 頭を上げると、道を挟んで向こう側に見知らぬ男が立っていた。甚平姿にサンダルという姿でスケッチブックに鉛筆を走らせながら、手元と私との間で首を頷くように上げ下げしている。端整な顔立ちが犬猫でも可愛がるような笑顔に解れ、いたずらっぽさの残る高校生にも、二十代後半の頼れるお兄さんのようにも見えた。しかし後者に見える理由は、手元を向いた時に光の反射で眼を覆い隠してしまう黒ぶちメガネのせいのように感じた。
「ごめん、自然に集中して。いや、集中したらだめ、あくまでも自然に。後少しで完成だからね。」
 私を描いているようだ。この状況とへんてこな無理難題に戸惑い、一瞬目が泳ぐ。しかし彼の笑顔と、後少しという言葉に背中を押され、再び目線を下げてやった。彼の注文である自然がよく分からず、せめて先程と同じ状態を作ろうとあの虫を探してみたが、見つける事が出来なかった。仕方がないので視界の範囲に想像上の虫を創り、目で追ってみる。前方からシャッシャッという鉛筆の小気味良い音と、遠くから初夏によく聞く鳥の鳴き声だけが聞こえる。この明らかに不自然な状況と、人の良すぎる私自身への情けなさとで、どんどん体が窮屈に小さくなっていく感じがする。早く描き終えてくれる事を願った。「はい、完成。いいよ、なかなか。見る?」
 彼がスケッチブックを右手で差し出しながら近づいて来る。私はおずおずとベンチから腰を上げ、両手でそれを受け取った。
「あ、うまい……。」
 素直に声に出していた。少しうつむきがちにベンチへ座る女性。その表情には喜怒哀楽のどの感情が突出しているでもなく、何か透明感を感じる印象があった。顔自体は自分で思うよりもだいぶ美しくデフォルメされ、照れ臭いながらも悪い気はしなかった。
「うまいね。」
 私は同じ言葉をもう一度繰り返し、幼い子の描いた絵を褒めるようなつもりで笑顔を作り、彼にスケッチブックを返した。
「僕の絵のテーマは自然でね、それは木や花といった言葉通りの自然も含めて、あらゆるモノの自然な姿なんだ。」
 聞いてもいない事を無垢な目で話し出す。仕方がないので私は、お姉さんのようなつもりで話に乗ってやる。
「私が自然だったから描いてくれたの?」
「そうそう、さっきの君は自然そのものでさ、放っておけなかったんだよ。」
「ふーん。でも自然がテーマなら、もっと山とか川とかの方がいいんじゃない? 確かにここも自然が豊富だけど。」
「ここに来る人はね、みんな自然な顔をよく見せてくれるんだ。山や川の自然もいいけど、人の自然な顔ってそれ以上に素敵だし、自然そのものだと思わないかい?」
 そんな話をしながら、気付けば結構な距離を彼と歩いて来ている事に気が付いた。
「ところで君はなんで今日ここに来たの?」
 初めて彼が私の事を聞いてきた。そういえばなんで来たのだろう。大学の友達関係のストレス発散とか、そんな小さな理由があった気もするが、さっきのベンチへ置き忘れてきた。要するにどうでもよくなっていた。
「えと、まぁ、……自然に?」
そう言ってみた。すると彼は途端に、偉人の名言でも聞いたかのような真剣な表情になり、なるほどと何度か頷きながら遠くを見つめた。一応おどけてみたつもりで言ったのだが、予想とは正反対の彼の反応に、逆に私が笑いをこらえる事になった。

 いつの間にか一軒の蕎麦屋にいた。彼が絵のお礼にご馳走してくれるらしい。悪いからと断ったが、「ここの名物の蕎麦を食べないで帰るなんて、自然じゃないよ!」と訳の分からぬ理屈に負かされてしまった。
 彼が早いのか私が遅いのか、随分と食べる速さが違う。私が丁寧に薬味をつゆに入れ、蕎麦を二すすりした間に、彼はもう蕎麦湯を汁碗へ注いでいた。
「随分と丁寧に食べるんだねぇ。」
「こうやってつゆにちょんと付けて食べるのが、正しい江戸の作法なのよ。」
「江戸じゃなくて多摩流だよ。つゆにべちゃってつけた方がおいしいし、自然だよ。」
私はそれが自然かどうかについてはいささか疑問を感じたが、彼の視線に耐えかね、一回だけのつもりで口に運びかけた蕎麦をつゆへたっぷり浸し直した。彼に一瞬視線を向けた後、静かに蕎麦をすすり上げる。
「おいしい……。」
 本日二度目の素直な声を漏らしてしまった。
「でしょ? あ! その顔いただき。」
 汁椀を置き、スケッチブック取り出す彼。
「ちょっと、食べているところは嫌よ。」
「いいからいいから、ね?」
 返事を聞くまでもなく、彼は鉛筆を走らせ始める。止めさせようと思ったが、子供から玩具を取り上げるような罪悪感に襲われ、仕方なく箸を進める。恥ずかしさですっかり不満気な顔をしていたと思うが、たっぷりとつゆに浸した蕎麦は悔しい程美味しかった。
 やがて食べ終わり、私も蕎麦湯を椀へ注ぎかけている所で、絵が完成した。
「できた。ここ最近で一番の傑作だよ!」
 そう言って、スケッチブックを私の見える向きにテーブルへ置く。
 さっきの絵とは、随分と印象の違う絵だった。さっきの絵の中の透明感のあった女性が、目尻をたっぷりと下げて蕎麦を頬張っている。お世辞にも透明感などなく、その代わりに蕎麦湯の湯気のほっこり感が彼女を包んでいる。いや、そのほっこり感は彼女自身から滲み出ているようにも見えた。
「えー、私こんなにニヤニヤしてないし、蕎麦ももっと丁寧に食べていたよー。」
「僕にはそう見えただけだって。」
 絵に視線を向けたまま、彼が答える
「さっきの絵の方がいいなぁ。」
「そう? それじゃさっきの絵は記念にあげるよ。傑作が出来たしね。」
そういうと彼は、先程の絵を丁寧にスケッチブックから切り離し、私へ渡した。
「ありがとう。」
「いえいえ、こちらこそ。」
 そう言うと彼は、蕎麦女の絵を手元に引き寄せ、彼女と同じように目尻を下げて絵を大事そうに撫でた。
 そんな彼の様子を見ているうちに、なんだか私はそっちの絵の方が欲しくなっていた。その素直な気持ちは口から少し出かかったが、結局は出せなかった。私はその口を彼に分からないようにすぼめながら、絵を優しく折ってハンドバッグへしまった。

 陽も少しずつ傾き、どちらから言うでもなく帰路に付いていた。私は彼の一歩後ろを歩き、彼の綺麗に整えられた襟足を見ていた。
(変な人。)
 心の中で彼に呼びかけてみると、涼しくなってきた風が通り抜けた。風は彼のつむじ付近の跳ねっ毛をピロピロと揺り動かし、同時に懐かしい土や木の香りを残していった。
 すると彼が肩を少し震わせながらぷっと吹き出し、こちらを振り向いた。
「僕ってさ、なんか変な人っぽいよね。」
「そう? そんな事ないと思うけど。」
 真顔を取り繕って、首をかしげる私。
 そうだよ、君は変な人だよ。

 やがて入口の観光案内所を通り抜け、外の通りへ出た。
「あ、私バスだから。」
 私は立ち止まって、すぐ右手のバス停に視線を向ける。
「そうか、僕は徒歩なんだ。それじゃあね。」
 スケッチブックを私に向かって振り、通りの歩道を右へ歩き出して行く。
「あの……。」
 そう言いかけた時、彼がこちらへ振返り、私の言葉を遮るように言った。
「僕は授業が無い時は、ほとんどここに来ているよ。君もまた自然にここへ来るよね?」
「うん。そしたらまた自然に会えるね。」
 二人ともほぼ同時に吹き出した。彼の顔は、夕陽の眩しさでよく見えなかった。
 彼は授業と言っていた。私とそれ程歳の変わらない大学生なのであろうか。そういえば彼自身の事を何も知らないままだった。名前や年齢すら聞いていない。そんな事を考えながら彼の後ろ姿を見送っていたが、通りの急カーブにあっという間に消えてしまった。
 私はプツリと切れてしまった視線を今来た道へ向け、そのまま人で活気付いた観光案内所の辺りを見渡してみた。
 ……そうか思い出した、四年前に彼氏とここへ来た理由。あれ? という事は効果無いじゃん。いや、そうでもないのかな。
 私はここの名物である縁結びのお守りを買うために、バス停を通過し観光案内所の売店へ戻った。

鈴木 涼一(東京都多摩市/31歳/男性/会社員)

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