「はい、いらっしゃい!」
 今日も店に母の声が響く。
 父は厨房でもくもくと蕎麦を茹でている。
 私は、小上がりの座敷で宿題中。
 蕎麦の茹で上がる匂い、天ぷらの油の音を背中で感じつつ、私は算数の問題を解く。
 いつもの景色が私を温かく包んでいる。

 うちの蕎麦屋は深大寺の蕎麦屋には珍しく、夜遅くまで営業しているが、私は夜のお店が忙しくなる前に帰る事にしている。
 母はもしかしたら、直接家に帰って欲しいのかも知れない。父は......どうだろう。
 お店を空けると母に文句を言われるのに、図書館に行ってくれたり、買い物に連れて行ってくれたりする。私が両親との時間をもつために学校帰りにお店に寄るように、父も私との心の距離を縮めたいのかも知れない。
 距離なんて、父が思っている程、ないのに。

 年に一度二日間。私の居場所が奪われる。
「だるま市」だ。
 母に言わせれば「そんな大げさな」という事になるのだが、私にとっては大問題!
 宿題をする場所がない程に激しく混んだ店内で、いったいどこに居場所を見つけろと?
 母は何にも分かっていない!
 そう憤っても、母は笑うだけだ。

「明日みっちゃんと林檎飴食べいこっかな」
「お!林檎飴かー。お父さんも一緒に......」
「えー、やだ」
 思わずキツい口調で言ってしまって、すぐに後悔した。言っちゃいけなかったかも、と。
 しかし父は、気付かぬふりで、まるで外国人のように、両手を上げて母に愚痴る。
「はー、亜美ちゃんが遠いよ。」
「そんなもんよ。小学5年生なんて」
「一人で子離れかよ」
「なによ、それ。あなたがいつまでも......」
 ほっとこ。

 当日、厨房の影からそっと見つめる父を横目に、私はみっちゃんと深大寺に向かった。
みっちゃんは、2歳年下の小学3年生だ。
 何かというと「あみねー、あみねー」とまとわりついてくる。ちょっと照れくさくもあり、可愛くもあるが、一人っ子の私にとっては妹みたいなもんだ。

「ねぇねぇ、あみねーがさー」
 深大寺に向かう参道は、いつもの平日の昼間とは比べ物にならない位の混雑っぷりで、繋いだ手がじっとりと汗ばんでくる。
「産まれる前のパパママの事、知ってる?」
「あーそういえば聞いた事ってないかも」
「みーはね、昨日聞いたの!そしたら、なんかー、ママが照れてて、可愛かったよ!」
「なんで照れちゃったの?」
「んー、みーが思うには、その頃の超かっこよかったパパの事、思い出したから?」
「みっちゃんパパ、今でもかっこいいじゃん」
「えー!お腹がくまさんだよ!」
「いーじゃん、くまさん」
 私は微笑みながら、みっちゃんを見つめた。
「や!水泳選手みたいなのがいい!」
「お、みっちゃんはムキムキが好きなのかー」
「うん!ムキムキ!」
 そして二人でムキムキポーズをとりながら、人波を掻き分けて、りんご飴屋を目指した。

 その夜、キッチンで小説を読んでいる母に、
「ねぇ、パパとどこで初めて会ったの?」と聞いてみた。「亜美も年頃ねぇ」と呟きながら、母は、小説をパタンと閉じ、話し始めた。
「初めて会ったのは、深大寺」
 母は昔を思い出すように目を細めた。
「その頃も、深大寺は今と変わらなかったな。緑が濃くて、静かで。夏は蜩の声が恐い程だった。その頃、雑誌に深大寺の特集が載っててね、気分転換に、って......」
 母は何かを思い出したようだったが、頭をぷるっと振るってから、話を続けた。
「それで、お参りをしてたら、後ろからドンって、凄い勢いでぶつかってきた人がいてね」
「それがパパ?」
「そう。砂利で躓いたんだって。昔から変わらないの、パパって」
「今も何にもない所でこけてるもんね」
母はお腹を抱えて笑いながらも、目がとても優しかった。そんな父が大好きなんだろう。
「ぶつかられたママはね、持ってたバッグを落としちゃって。中のボタンが散乱して......」
「え?ボタン?集めてたの?」
「亜美、想像してみて。砂利とボタンがもう、どれがどれだか分かんなくて大騒ぎよ」
「でも一緒に拾ってくれたんでしょ?」
「そう。だってそこでプロポーズされたのよ」
「えー!何それー」
「ま、それはうそだけど」
 うそかい。でも憎めないんだなー、これが。
「でもね、それが出会いなのは本当。それから一週間位したらね、何と職場にパパから電話があったの」
「なんで?」
「名刺入れを落としてたみたいでね」
「それを、パパがこっそり拾って!」
「そうそう!電話をかけてきた、って訳」
 んふふと笑いながら席をたち、冷蔵庫のミルクティを3つのカップに注いでいく。
「ここから先はパパに聞いたら?今日は、かなりへそ曲がりよ。亜美がかまわないから」
「えー面倒くさい」
「そんな事言わないの。パパ、亜美が好きで好きで仕方ないんだもん。ママ嫉妬しちゃう」
 満面の笑みで言われても、まったく説得力がないんですけど、お母様。
 そんなへそ曲がり中の父から聞いた話。
 一目惚れ、だったと。どうしてももう一度会いたくて、電話してデートに誘うのに成功し、頑張って頑張って付き合う事に成功し、またまた頑張って頑張って結婚した、と。

 一気に話して喉が渇いたのか、ミルクティを、まるで生ビールのように飲み干してから話を続けた。しかも、ヒソヒソ声で......
「なぁ、亜美。実はママにも言ってない秘密があるんだ。お前、もう大人か?」
「それって、秘密を守れるかって事?」
 めちゃくちゃ真剣な顔で頷く父。
 私も真剣な顔で答えた。
「もちろん。亜美は大人だよ」
「よし。じゃあ、教える。明日、学校が終わってから、深大寺バス停に集合だ」

 バスから降りる人々の吐く息が、まるで霧のようになって辺りを漂っている中、かじかんだ手をこすり合わせつつ、ぴょんぴょん飛んでいたら、やっと父がやってきた。
「おーそーいー」
「ごめんごめん。ママをまくのに時間がかかって。それにしてもお前、うさぎみたいだな」
「大人の女に対して超失礼な発言だよ、それ」
「ごめん、亜美はもう大人か。昨日、約束したんだもんな」
「そうだよ、おっとなっだもーん」
「......あんまりアレだけどまいいか。行くぞ」

 私たちは参道を抜け、池の横の道を通り、深大寺の奥まで歩いた。
 ちょっと遠くない?と父に話しかけようと思った瞬間、目の前にそれは現れた。
 大きな大きな木、だった。
 こんなに大きな木を見落としていたなんて。ちょっとショックだった。
 でもそれは、「威厳」みたいな気を発していて、木の神様、って感じだった。
「この木?」
「アレ」と言いながら父が指す指の先をたどっていくと、うっすらと何かが光っていた。
「あ!あれ」
「そう。ボタンだ」
「何であんな所にボタンがあるの?あ......」
「パパがぶつかった時にぶちまけちゃったボタン。一番大きいのをね、そっとポケットにしまったんだ」
 父は、そのボタンを大きな木の幹の上の方にあった窪みに隠した。そしてそのまま、忘れてしまった。

 ある日、部屋に落ちていたボタンを掌の上に乗せて眺めていたら思い出した。
「あそこに、まだあったんだ」
「よく落ちなかったよね」
「本当に不思議だよ。絶対にもうないと思ってた。でも、あった事で決心したんだ」
「ママと私と生活する。パパになるって事?」
「とても勇気のいる事だった。でも、どうしても家族になりたかった。後押ししてくれたのが、あのボタンだ」
「パパ......ありがとう」
 父は、こっくりと頷いただけだったが、その目にうっすらと涙が滲んでいたような気がする。
「ねぇ!帰る前に、りんご飴食べよ!」
「夕飯前だから、二人で一つ、でもいいか?」
「......パパはいいの?」
「もちろん!」

 そんな訳で、今年のだるま市は、自分の居場所を見失うどころか、逆に自分のルーツを知る事が出来た日になった。

 深大寺はまだまだ喧騒に包まれている。
 そこここから聞こえる一本締めの音、子供達の歓声、屋台から流れてくる美味しそうなソースの匂い。
 そんな様子を眺めつつ、手を繋ぎ歩く参道。
 この景色を、この手の温もりを私はいつまでも忘れない。そう強く思った。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>

白土 真美子(東京都調布市/40歳/女性/調布市立中央図書館嘱託員)

 一人、神代植物公園に咲いているソメイヨシノの桜並木をながめていた。桜の花びらが、風に吹かれるたびに潔く散っていく。千佳への思いがつのるぼくにとって、その執着がないようにみえる桜の舞が、どこかうらやましくも思えた。少しでも華やかな気持ちになりたくてバラ園に入ると、家族や恋人たちの笑い声が聞こえてきた。バラの花は咲きはじめた頃のようだが、ぼくの心はまだ蕾のようなものだ。
 今日は千佳とこの公園で待ち合わせをする予定だった。ふたりとも、住宅地図の会社に勤めていて、新年会千佳と話が妙にもりあがり、つきあうようになった。ぼくが二十二歳。千佳が二十三歳だった。千佳と昼過ぎまで公園内を散歩してから、深大寺そばを食べ、深大寺に参詣する予定だった。その千佳とは三日前に、メールのことでケンカをしてしまった。千佳によれば、ぼくの返信するメールがいつもそっけなく感じるそうだ。ぼくは絵文字を使わないので、ぼくのメールがなんとなく冷たく感じられるらしい。その後、ぼくからメールや携帯に電話をかけても千佳は無視をしていた。休日に家にいても鬱々としてくるので、一人で公園にやってきたのだが、楽しげに公園を散歩している恋人達をみていると、よけいに気分が沈んでくるのだった。
 ぼくは退屈まぎれに、携帯でツィッターをはじめた。今までは、ぼくの書き込みに対してフォローしてくれた人はあまりいなかったが、ツィッターをしていると、なんとなく気がまぎれる。だから仕事帰りやなにもすることがないときなどに、ときおりほかの人の書き込みにも、ツィートと呼ばれる書き込みをするようになっていた。
 「一人で神代植物公園に来ています。家族連れや恋人たちが多くて、なんか辛いです」
 ぼくはツィッターに書き込んだ。すると、すぐにツィートしてくれた人が三人いた。
 「私は彼氏と神代植物園に来ています。売店でお茶してます」
 「今度は恋人と来られるようにがんばって!」
 「深大寺は縁結びのパワースポットだよ」
 彼女はいるが、ケンカをして一人で来ているなどと、なんとなく空しいので書き込まず、仲直りの願いをしようかと、深大寺に向かった。亀島弁財天池の静かな水面を眺めつつ、そばのお店もチェックした。そばのお店はあとで寄ることにして、歴史を感じさせる山門をくぐり、本堂に向かった。本堂の手前では、たくさんの参詣者が線香を焚き、煙を腕ごと招き寄せるようにしていた。そうすると厄払いになり、開運すると聞いたことがある。ぼくも真似をして、線香の煙を自分の体にこすりつけるようにしたあと、本堂で手をあわせた。それから深大寺のデートスポットとして有名だという深沙堂に向かった。このお堂には縁結びの神様がいるとのことだ。千佳はパワースポットが好きなので、ネットでいろいろと調べていたと話していた。なんでも深大寺の古い書物には深沙大王という神さまが、男女の仲を取り持った伝説が記されているのだという。ぼくとしても、困ったときの神頼み。深沙堂の神さまに真剣にお願いしてみることにしたのだ。
 五段の石段を登り、小さなお寺のような建物がみえてきた。木が少し、お社にかかりそうな感じで立っていた。十代か二十代くらいの女性が真剣に手をあわせているのがみえたので、ぼくは静かに石段を下りて、芭蕉句碑のあたりで時間をつぶすことにした。そういえば、男性も縁結びを願っている人は多いはずだが、神頼みをしている話はあまり聞かない。ぼくも一人で深沙堂にお参りすることになぜかためらいを感じてしまう。そんなことをつらつらと思い、ツィッターにそんな疑問を書き込むと、ダイレクトメッセージが入ってきた。ダイレクトメッセージは、送り手と受け手の二人しかみることができないようになっているので、メールと似たような使い方ができるのだ。いつのまにかフォロワーになってくれていた人のようで、@moomin1005というハンドルネームだった。
 「私も今日、一人で深大寺に来たんですよ。よかったら、一緒にお茶しません? 私には彼氏がいるからあくまでお茶だけね。それから、ダイレクトメッセージでやりとりしたいから、私をフォローして、相互フォローにしましょうね」
 まだ深沙堂にはお参りしていないのに、このご利益。ぼくも千佳のことが大好きなので、ほかの女性とつきあおうとは考えていない。でも、お茶を飲みながらちょっとお話するくらいならよいだろうと思った。ぼくはさっそく彼女をフォローした。
 「ありがとう。どこで待ち合わせする?」
 相互フォローになったので、こちらからもダイレクトメッセージを送れるようになった。ぼくの返事に、
 「少しゲームをしてみましょうよ。あなたが怖い人かどうか遠くからチェックしたいから、深大寺付近で私をみつけてみて」
 「おもしろいね。でも、携帯しながら歩いている人ってたくさんいるよ。どうやって見分けたらいいのかな?」
 「私の携帯は黒。白いマフラーを首に巻いているから目印にしてみて。じゃあ、今いる場所をメッセージしながら鬼ごっこね」
 沈んだ気持ちも、突然のゲームの誘いに、なんとなく花びらが大地に落ちずに、天空に舞いあがっていくような気分になってきた。それにしても、個性的な人だ。どんなことでも遊びにしてしまう千佳みたいな人だと思った。年齢もわからないけど、なんとなく気があいそうだと思えた。
 「今、五大尊池にいるわ」
 ぼくは早足で五大尊池に急ぎつつ、まわりのようすも見逃さないように歩いた。
 五大尊池がみえたが、一人きりの女性はいない。すでにどこかに移動したようだ。池では大きな錦鯉たちが群れていた。どうやら錦鯉たちも恋の季節なのだろうか。
 その後も、万霊塔や開山堂、元三大師堂、なんじゃもんじゃの木にいますというメッセージをもらって向かってはみたが、どうやっても彼女をみつけることができなかった。ぼくはしだいに誰かから、からかわれているのではないかと疑心暗鬼になってきた。冷静になって考えてみれば、見知らぬ男性と一緒にお茶を飲もうとする女性なんておかしな話だ。ぼくはつぎからつぎへと送られてくるメッセージを無視して、改めて深沙堂にお参りしてからそばを食べ、家に帰ることにした。
 石段を登り、社がみえてきたとき、白いマフラーを首に巻いた女性が立っているのがみえた。そしてよくみると、その女性は千佳ではないか。
 「ゴール! 鬼さんこちら。私が@moomin1005の千佳ちゃんよ」
 ぼくは一瞬唖然として立ち尽くしていたが、やがて事情が飲み込めてきて、顔がほころんできた。ぼくは千佳に近づき、「千佳!」と叫んだ。そういえば、以前、千佳にもぼくのツィッターのアドレスを教えたことがあったっけ。だけど、千佳はツィッターはしないかもっていたので、@moomin1005が千佳だとは思ってもいなかった。
 「私も家にいても楽しくないから、神代植物園の桜を見に来ていたんだ」
 ぼくがさらに近寄ると、
 「学。ほんとうに千佳じゃない人とお茶するつもりだったの?」
 と顔を少ししかめて訊いてきた。このあたりがぼくにはわからない千佳の繊細で複雑なところだ。ここはひとつ、お寺でもあるし、方便で答えることにした。それに、ひとつ千佳が話していたことを思いだしてもいた。
 「まさか。最初から千佳だってわかっていたさ。千佳は、子供の頃、ムーミンのアニメが好きだって話していたろう」
 「そっかー。そうだよね。学も知っていて知らないふりをしていたんだよね」
 二人の思いを現すかのように、深沙堂の木々が揺れ騒いでいた。
 「そうだよ。二人が仲直りできますようにって願いをかけるために、深沙堂にお参りしようと思って来たんだから」
 「ありがとう。じゃあ、一緒にお参りしよう」
 まだどこかぎこちない二人だけど、深沙堂のまえで目を閉じ、手をあわせていたら、気持ちもしだいに安らいできた。そして、神さまのまえではウソをついては罰当たりではないかと思い直し、
 「千佳、ごめん。ほんとうは千佳だってわからなかったんだ。お茶くらいならいいかなって思って。でも、仲直りの祈願をしに来たのはほんとうだよ」
 ぼくは頭をさげあやまった。
 「私のほうこそごめん。学を試すようなことをしてしまって」
 ぼくは千佳の手をとり、やさしく引き寄せ抱きしめた。すると、
 うえからなにかが二人の頭に落ちてきた。落ちてきたものをよくみてみると木の実だった。お社のまえで不謹慎だと、神さまからとがめられたような気がして、二人して大笑いをした。
 「神さまを怒らせちゃったかな」
 千佳がいたずらっ子のような顔をした。
 「いや、二人の熱々の抱擁にあてられて、神さまもイタズラをしてみたくなったんじゃない」
 ぼくの言った言葉がとてもおかしかったのか、千佳の笑いはなかなか鎮まらなかった。
 その千佳の笑いを吹き飛ばすかのように、突然、風が深沙堂を駆け抜けた。すると、千佳の頭についていたのか、桜の花びらが空に舞いあがった。
 「わあ、桜の花びらが!」
 ぼくの言葉に、千佳も空に浮かんだ花びらをみつけ、二人で花の舞をみつめた。やがて桜の花びらは、とっさに二人が重ねた両手のなかに、ゆっくりと落ちてきた。 

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
柴野 睦人(新潟県/自由業)

やはり彼に電話するべきなのだろうか。
そんなことを考えながら、重い足取りで門をくぐった。少し湿った土と、芽吹きだした緑の匂い。春から初夏へと向かう、この時期特有の香りがする。
 これは、私が謝るべきことなのだろうか。
 きっかけは些細なこと。週末の計画について電話していたときのことだ。週末は公園を散歩でもしないか、と言った私に彼は、公園にどうしても行きたいのか、と尋ねた。それよりも、海の方に行かないかと。
「え?」
私は少し動揺した。公園に行きたくないのかと、少しムッとしたりもした。
「何で海に行きたいの?」
ちょっとイライラした口調で、そう聞いてしまった。
「別に、何でとかって理由はないけど。この時期の海って気持ち良いかと思って。」
少しバツが悪そうに彼が言う。
「別に、公園でもいいし。公園を散歩しようか」
慌てて言い直した。なぜか、そんな彼に、更にムッとしてしまった。
「行きたくないのなら行かなくてもいいよ。海にしよう」
怒ったような口調でそう言った。
「行きたくない訳ではないんだよ。変なこと言っちゃったね、ごめん」
ごめんと言う彼に、またまたイラっとしてしまう。
「いいって。別に、無理に行かなくても」
またまた追い詰めるようなことを言ってしまう。
「無理じゃないって。公園にしよう。行きたいんでしょ?」
「そんなに行きたくないよ。別に、公園でなくてもいいし!」
電話の向こうで、困っている彼の様子が伝わってくる。
「じゃぁ、海にする?」
戸惑いながらそう言う彼に、
「やっぱり海に行きたかったんでしょ!そう言えばいいのに!」
更に怒りをぶつけてしまう。
「別に海に行きたい訳ではないんだよ!何で怒るんだよ!」
「怒ってないよ!海に行きたいのなら、初めから行きたいって言って欲しかっただけ!」
「だから、特に行きたい訳でもないし。公園に行きたいなら公園にしよう!」
「私も特に公園に行きたい訳でもないし。海でいいよ!」
「なんでだよ...」
電話の先で、困り果てた彼の姿が見えるよう。それでも、なぜかイライラが止められなく、結局、この週末は別々に過ごすことに決めた。
何でこうなったのだろうか。自分でもよく分からない。
 大体、何でイライラしたのだろうか。彼が私と同じ意見でないから?彼が私の意見に賛成しなかったから?彼が自分の意見を言ったから?だいたい、公園に行きたい私の気持を無視するなんて...。

 深大寺門から入り、自然林の中を歩く。私はここが大好きだ。見上げるくらいに大きな木々に囲まれると、その木1本1本の歴史を感じ、圧倒されてしまう。きっと何十年もここで、色々な人たちが歩く姿を見てきたのだろう。それに比べると、あの電話の日からの3日間なんて、笑っちゃうほど短い。あんな電話で落ち込むなんて、すごく小さい人間なのだ、私は。
 そしてまた、あの会話を思い出す。
やはり、彼に電話するべきなのだろうか...。
また、このフレーズへと舞い戻ってしまう。

そんなことを考えながら歩いていくと、突然に、濃密に甘く、切なくなるほどの強い香りが私の周りに漂い始めた。思わず胸いっぱいに空気を吸い込む。この香り。私は少し、足を速めた。
 目の前に広がるバラを見ると、一瞬ハッと息を呑んでしまう。あまりにも色彩豊かで、あまりにも多種多様で、あまりにも美しすぎる。ここ神代植物公園のバラ園には、400種以上のバラがあるという。何て素敵なのだろうか。そのバラたちの間を、縫うようにして歩いていった。
どのバラも、自分の主張をしつつ、他と饗宴しているように見える。確かに、1種類だけでも美しいのだろう。しかし、その美しさは、他のバラと一緒にいることで、更に輝きを増しているように見える。そのバラたちの、手で触れそうに密度の濃い香りの中へ、私はフワフワと導かれていった。
あまりの香りの強さに、私はバラの海を泳いでいるかのような感覚になる。なぜか、息ができないほどに胸が切なくなり、ここに1人でいることが信じられないほど辛いことのように感じてしまう。自己を主張しながらも、他とのバランスを保っているバラたちに、自分の主張しかできない私を笑われている気分になる。バラたちの香りが、あまりにも独りよがりな、あまりにも自分勝手な私を責めているようで、申し訳ない思いで胸がいっぱいになる。
私は彼と一緒にいたのに、自分のことしか考えていなかった。自分以外のものを受け入れるバラたちのように、広い心を持っていなかったのだ。
私は、バラの芳香に溺れてしまい、なんとか逃れようと必死になって進んでいった。それでも、後から後から追いかけてくる香りに、私は涙が出そうになる。彼を追い詰めた私のように、バラの香りが私を追い詰めていく。
何で彼を私に従わせようとしてしまうのか。彼は彼の考えがあるのが当たり前で、それを言う権利だってある。なのに私は、常に私に賛成する彼を望んでいたのだ。そんなこと、有り得ないことだと言うのに...。
 何処を歩いてもバラの香りが私を包む。どのバラからも、むせるように激しい香りが漂ってくる。彼の言葉に耳をかさない私を攻めるかのように、バラたちが、一斉に主張をしている。いつまでも、自分だけの世界でいいのかと。バラたちのように、色々な個性を持ち、一緒に生きていってこそ、素敵なものが生まれるのではないのかと。
私はもう、苦しくて呼吸すらまともにできない。彼に謝りたいのだけれど、その方法すら思いつかないでいる。バラの香りの海で、溺れそうになっていた。
 突然に携帯音が鳴り響いた。私はハッと我に返った。携帯がなり続ける。どうやら、私のバッグの中から聞こえてくる。私は、急いで携帯を探した。
「もしもし」
胸をドキドキさせながら、携帯に向かって話しかけた。
「もしもし、オレだけど。今、どこにいるの?」
彼の声だ。安心のあまり、足から力が抜けていく。近くのベンチに腰掛けた。
「もしもし?まだ怒ってる?ごめん」
いつもの優しい彼だ。優しすぎる彼だ。
「何も怒ってないよ。いま、植物公園を散歩していたの、1人で」
「そっか。オレも散歩したいと思ってさ。今から行こうかな、そこ」
そんな彼の言葉を聞くと、嬉しさでくすぐったくなる。彼の中では、常に私が最優先事項で、私のことをサラリとフォローしてくれる。だから、私の意見に賛成しなかったとき、違和感を覚え、イラッとしたのだ。でも、それは私が間違っていたということに気が付いた。一緒にいると言うことは、色々なことを受け入れるということなのだ。
「うん、待ってるよ。バラ園にいるから、探してね」
「はい。すぐ行くから」
そう言うと彼は、電話を切った。私はまた、バラの海に舞い戻った。今度はその濃密さに溺れずに、ゆったりと浸っていた。

「待った?ごめんね」
彼がきた。手にはバラのアイスを持って。
「すごい並んでた?ありがとね」
そう言いながらアイスをうけとる。
「パパ!何処にいるの?」
その後ろから、彼に良く似た息子が歩いてきた。やはり、手にはアイスを持っている。
「ここだよ!こっちにきな!」
笑顔で手を振る彼は、今ではとても良いパパだ。相変わらず、優しすぎるけど。
あれから、毎年バラの季節になると、この神代植物公園に来ている。ここに来ると、あの日のことが、鮮明に思い出される。
あの時、彼を待っている時に知ったのだが、バラは交配育種をして、品種改良をしていくらしい。バラとバラを掛け合わせると、新しい品種のバラが出来上がるのだ。
私たちの関係も、交配育種と似ていると思う。二人で一緒のときを過ごし、お互いの時間と意見を共有してこそ、ずっと一緒にいられる新しい関係が出来上がる。
 あの日、彼を待つ間、色々なことをバラたちから教えてもらった。そして、彼が来た後は、二人で深大寺にお参りに行った。自分勝手な自分を反省し、彼とずっと一緒にいられるように願ったのだ。
 深大寺が縁結びの神様だと知ったのは、彼と結婚してから後のことだ。
 あのときに、彼と海に行っていたら、今の二人の関係はなかったのかもしれない。今ここに、こうして一緒にいる不思議、彼と過ごした穏やかな時間を、心からありがたく感じている。あの時のバラたちに感謝している。溺れそうなほどに香っていたバラたちに。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
原 るりと(東京都府中市/37歳/女性/主婦)

 そろそろ秋も終わりに近づいたある夜。夕食の支度をする私の足元から、にゃーう、という甘えた声が聞こえた。脚にすりよるあたたかな感触。
「残念でした。今刻んでいるのはね、玉ねぎですよ、カミサマ。」
 食べますか?と一欠片鼻先に差し出すと、短く、にゃっと声をあげて、カミサマは顔をしかめた。
 
 私がカミサマと出会ったのは、二年と少し前のよく晴れた日、夏の始めの午後だった。
 その頃私が住んでいたのは、京王線国領駅近くの安アパート『メモリーハウス』で、近くを流れる野川のほとりを歩き、深大寺までは二十分程。その日はとても天気が良くて、散歩がてら散策してみることにしたのだ。いや、本当は、少し前に深大寺は縁結びの神様だと聞いたから、と言った方が正しい。
 
 私はとあるFMラジオ局の営業部で地味に事務員をやっていて、三十を手前に周りは次々嫁に行くと言うのに、素敵な出会いもこれといった趣味も無く職場と家を往復する毎日。『メモリーハウス』に住んでいても、素敵なメモリーが出来る気配は一向に感じられない。
 職場に週2日だけやって来る外部の制作スタッフで、笑顔が優しくて熊みたいな男の子。もしもあんな人が恋人だったら幸せだろうな、なんてぼんやり思っていた。ただ思うだけで、たまに言葉を交わす程度の連絡先すら知らない仲なのだけれど...。
 お賽銭を入れて手を合わせる。神様、できたら加藤くんが私のことを好きになってくれますように。いや、いきなり好きになるなんてあり得ないから...せめて、女として意識してくれますように。あ、そのためにもあと五キロ...百歩譲って三キロ痩せたら、もう少しくらい可愛くなると思うんです。どうかお願いします。お願いします...。
 私の祈りは軽く三分を越えた。よし!次はおみくじだ。願いと気合いを込めて、深く手を突っ込む。お、中吉。悪くないじゃん。取り急ぎ 『恋愛』の項目を見る。「思うだけでは駄目」
 ヴぇ、と思わず変な声が出てしまい、前にいたカップルが振り返る。わかってる、わかってるよ、思うだけじゃ駄目だって、わかってるけどさ...。
 気が付くと、私は暗闇の中にいた。あれ...?青木屋で蕎麦を食べて、おみくじに痛い所をつかれたせいもあり、ついついビールを二本空けた。だって、痩せますようにってちゃんとお願いしたし、これで体重が増えたら神様のせいだ。そのあと蕎麦饅頭を買って...ふらふらしながら、ちょっと休もうと思って池のほとりのベンチに座って...、ああ、そのまま寝ちゃったのか...。
 
「あんたねえ、お賽銭を入れて祈ったからって、神様が願いを叶えてくれるとか思ったら大間違いだよ。」
頭の上から声がした。うっすらと目を開けた私の顔を覗きこんでいたのは、一匹の白い猫だった。
 え...?猫が喋った!?驚く私を気にする様子も無く言葉は続く。
「祈って願いが叶うなら、誰も苦労しないんだよ。少しは努力ってもんをしてから色々悩みなさいよ。」
 うぅ。独り身の女友達と行ったパワースポット巡りに、占いにお守り。あの神社は駄目だ、この占いは当たらない、このパワーストーンは効果無し...そうやっていつも他力本願で、自分以外の何かのせいにしてきたんだ、私。
「あのね、お参りのコツを教えてあげる。具体的に、これをこうするように頑張りますから、どうか見ていて下さいねって、宣言するの。文句ばかり言うのじゃなく、今ある幸せに感謝して、頑張りますって言ってる人の背中はさ、押してあげたくなるでしょう?神様だって同じなのよ。」
 本当は、私だって気付いていた。だけど気付かない振りをして、上手くいかないのを何かのせいにしてずっと色んなことから逃げていたんだ。訪れないラブロマンス、代わり映えしない退屈な日常...。誰かが変えてくれるのを待っているだけじゃ、私はきっと一生このままだ。知らぬ間に、涙が溢れていた。そういえば、白い動物は神様の使いだって聞いたことがある。もしかして、私を見かねた深大寺の神様が猫になって私を叱りに来たんだろうか...。回らない頭でそんなことを考えた。
 どのくらい、そうして泣いていただろう。私はガバッと起き上がった。まだそこにいた猫が、一瞬ビクッと体を震わせる。
「申し訳ございません!自分で努力もせずに、何かのせいにしてずっと現実から目を背けていました!今日から心を入れ替えて、ダイエットも頑張ります!加藤くんに、好きになってもらえるような女性になる努力もします!だから!どうか、見ていて下さいッ!」
 泣きじゃくりながら猫に土下座をする私の横を「見ちゃだめよ」と母親に言われながら恐る恐る子供が通り過ぎる。顔を上げると、猫は袋から飛び出した蕎麦饅頭を凝視していた。
「こ、こちらの饅頭をご所望でございますか...?」 
 猫は小さく、にゃお、と鳴いた。すっかり、夜になっていた。
 
 「カミサマ、聞いて下さい!今日ね、加藤くんとメールアドレスを交換したんです!」
 あの日から、残業で遅くならない限り、ウォーキングがてら深大寺まで行くのが私の日課になっていた。白猫を、カミサマと呼ぶことにして、ダイエットや仕事の目標とその成果、加藤くんと話した内容などを報告した。
「この前、カミサマの写メ撮らせて頂いたじゃないですか?あれを見せたら、これよく撮れてるね、俺も欲しいな!って。加藤くん、どうやら猫が好きみたいなんですよ!」
 カミサマは、私が献上した猫缶から一度顔を上げて、小さく、にゃう、と仰った。
 あれ以来カミサマが人の言葉を話すことは無かったけれど、少しずつ自分の考え方も体も良い方向に変わって来ているような気がしていた。仕事でも、もっとこういう番組があればいいのに...と長年思っていたものを企画書にまとめて提出してみたりして、上司に驚かれている。何より、カミサマと会うことが私の楽しみになっていた。冬が、もう目の前までやって来ていた。
 
 珍しく東京に大雪が降った次の日の夜。私は深大寺までの道を、息を切らして走っていた。凍った道路に注意しながら、でも本当のことを言うと二回派手に転んだ。最近残業続きでしばらくカミサマに会いに行けていなかった。数日前からとても寒いし、カミサマは凍えていないだろうか、お腹を空かせてはいないだろうか。それに、今日はどうしてもカミサマに会いたかった。
 肩で息をしながら境内の中を探すと、初めて出会ったベンチの上で丸くなっているカミサマを見つけた。
「カミサマ!ここにいたんですか!今日はね、奮発して、なんと!中トロを買ってきたんですよ~。なぜかって言うと...」加藤くんが、俺もその白猫に会ってみたいから今度深大寺を案内してよ、って。これってつまり、デートですかね!?...だけどその部分は、言葉になって私の口から出ることは無かった。
 「カミサマ...?寝てるんですか...?」
 嫌な予感が胸を突いた。恐る恐るカミサマに触れる。猫ってあたたかいはずなのに、カミサマは冷たかった。 
 「カミサマ!カミサマ!!」
 私はコートのボタンを開けて、カミサマを中に抱き締めた。カミサマは、一度だけ目を開けて、小さく、にゃお、と鳴いて、また目を閉じた。こんなベンチの上で...もっと暖かい場所があっただろうに。もしかして、なかなか来ない私を、ここでずっと、待っていたんですか?カミサマ。
 
カミサマは、きっと神様なんかじゃない。あの時は酔っ払っていたけれど、後から冷静に考えれば、あの声は近くで私みたいなバカな誰かにに説教をする人の声だったのだと思う。だけどもう、カミサマが神様かどうかなんて関係無かった。カミサマのおかげで、少しずつ変わっていく自分を感じていた。私にとって、カミサマは神様なんだ。何より、私はカミサマが大好きだった。
「どうしよう!カミサマが死んじゃう!どうしよう、加藤くん...カミサマが...」
 気付いたら、私は泣きながら加藤くんに電話をかけていた。すぐに行くから、待ってて、調布の、深大寺だよね!そう言って電話は切れた。誰もいない雪の積もった境内で、私はカミサマを抱いて、声をあげてわんわん泣いた。
 
 刻んだ玉ねぎをバターで炒めていると、ガチャガチャと玄関の鍵を開ける音がする。
「もしかして、今日はハンバーグ?」
 当ったりー!と答えると、やったあ、と熊みたいに笑った彼が、出迎えたカミサマを抱き上げた。
 「ただいま帰りました、カミサマ。」
 あの大雪の日からもうすぐ二年。年が開けて、野川や深大寺の桜が咲く頃、私の苗字は加藤に変わる予定だ。
 加藤くんの腕の中で、カミサマが小さく、にゃお、と鳴いた。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
しらたま(東京都調布市/33歳/女性)

「それで?今日はどうだったの?」
「部活のこと?」
「そうだよ」
「どう、って......別になにも」
部活の練習が終わったあと、綾はグラウンドで同じく練習を終えた拓哉に偶然会った。からっからに晴れた夏の日で、練習開始の9時の時点ですでに汗がふきだしていた。練習があるときの化粧はいつも日焼け止めにマスカラだけなのを、今日は男子も同じグラウンドで練習していることを多少考慮して、落ちないようにさらにトップコートまで重ねてきたというのに、練習が終わったときにはすっかり汚く落ちてしまっているであろうことが鏡を見なくてもわかるくらい汗と泥で髪も顔もぐちゃぐちゃだった。だから拓哉に会ったとき、絶対からかわれると思ったのだ。いつもそうだ。女子ならいつもきれいにしておくべきだの、おまえは全然女っぽくないだの、特に部活の練習後に出くわしたときにはうるさく言ってくる。それが今日は違った。あ、おまえも練習終わったの?じゃあ昼食べに行こうよ。ちょっと待ってて。俺まだ片づけがあるからさー。綾はいささか面喰って、かろうじてうん、とだけ言い、続いて、自分もこのあとどうせ練習後のミーティングやらシャワーを浴びたりやらで時間がかかるのだということを言おうと思ったが、それはなぜか口から出てこなかった。結局2人が待ち合わせして大学を出たのはお昼ご飯を食べるには遅い時間だった。2人ともさんざん動いたあとだったのでおなかも充分すいていたが、綾が何気なく言った川に行こう、の一言で野川にそってしばらく歩くことにしたのだった。野川は大学の近くを流れており、比較的浅い川である。川沿いにはまだ紫陽花がところどころ残っていて、つやつやとした花の具合が陽にあたってよりはっきりとわかる。
「ならいいんだけどさ」
「......ね、川におりてみてもいい?」
「自転車はどうすんだよ」
「ちょっと脇に止めておけばいいよ。すぐだから」
正直なところ、今日の部活が順調だとは言い難かった。練習メニューの内容についてキャプテンと社会人のOGが軽い口論をはじめ、それから部内の空気は最悪だった。綾は1年生であり、部内をとりまとめる幹部のポジションではないのだが、所属している女子ラクロス部の中で綾のような経験者は貴重であり、当然周囲の大学からはじめた仲間たちよりも上手いので先輩たちから特に大事にされている。逆に言えば、なんとも中途半端なポジションに位置しており、1年生からも先輩からも愚痴や不満を受け止めるということを4月の入部当初から行っていた。綾自身、そういった現状に対して苛立ちを覚えるときがある。しかし、ほうぼうの事情を知ってしまっているだけにその捌け口をどこにぶつけたらいいのかわからないのだ。拓哉とは同じ授業をとっていることがきっかけで出会ったのだが、彼がたまたま男子ラクロス部に所属していることもあいまって、綾はときどき愚痴を並べる。拓哉は明るい性格で、まさしく健やかに育ったという言葉がぴったりの青年である。人当たりがよく、普段は軽口をたたきあう仲だが、綾がストレス発散に不満をもらすときだけは真剣に話を聞いてくれるのだった。綾は自転車を止めて川におりながら、もしかして今日声をかけてきて、こうして外に連れ出してくれたのはわたしがイライラしていたのを感じ取ったからなのだろうか、と考えていた。そんなに顔に出やすいのか、とも思ったが、よく考えれば男子ラクロス部は女子ラクロス部の隣で活動していたわけで、なんとなく女子部の空気の悪さを察知したからだったのかもしれなかった。まあいいんだけどね、と心の中で独りごちたつもりが声に出ていたらしく、拓哉が「なにが?」と聞いてきたので綾はどきりとした。
「別に。独り言」
「今日の綾はなんだか冷たいなあ」
「そんなことないよ。そういう拓哉こそへんに優しくて、きもちわるい」
「へんに、ってなんだよ。俺はいつも優しいじゃんか」
と、拓哉はへらへら笑いながら石を川に放ろうとしたが、鴨がいるのを見つけてあげた手をおろした。綾は川べりにぺたんと腰をおろし、そのままぼんやりと川と、川の中で何やらぱしゃぱしゃやっている拓哉を見つめていたが、拓哉がいい加減はらへった。何か食べに行こう、と言ったので、そのまま自転車で深大寺のほうへ移動してお蕎麦屋さんに入ることにした。そのお蕎麦屋には以前1回だけ2人で訪れたことがあり、そのときも綾が部活のことで落ち込んでいるときだった。拓哉は笑って言ったのだった。お蕎麦食べたい。この前先輩に連れていってもらったところがすごくおいしかったんだ。行こう、と。
「で?綾はなんで落ち込んでんのかな?」
「だから落ち込んでないってば。しつこいぞー」
「ウソだよ。だって落ち込んでなくて元気な綾がここまでつきあってくれるはずないもん」
「そんなこと」
そんなことないよ、と否定しようとして、綾は言葉につまった。
「そんなことないよ。それを言うんだったら、拓哉だってなんかおかしいよ。わたしが川に行こう、って言ったら随分素直に聞いてくれたもの。そっちの方が怪しいわ。何かあったの?」
「俺は本当に何もないよ」
「俺は、って......」
拓哉がにやにやしながら見つめてくるので、綾はすっかり参ってしまった。お手上げだ。拓哉はいつもこうなのだ。ふざけているようで、いつも真剣で、真摯な人なのだ。綾はそう思うとすっかり力が抜けてしまって、そうなったら止まらなかった。今日の練習で先輩たちとOGのあいだで練習メニューをめぐって口論があったこと、それがこうじて先輩たち同士の雰囲気も悪くなったこと、1年生がその空気の悪さに辟易としてしまい、部活後に綾へ活動中にいざこざを起こすのはやめてくれるようにやんわりと先輩たちへ促してくれないかと頼まれたこと、先輩たちには部内におけるOGの位置づけをどうしたらいいものか相談されたこと。どうだっていい。もうすべてがどうでもいい。それなのに、わたしはいつまでも宙ぶらりんのままだ。
綾が不満をあらかた吐き出したころ、注文したお蕎麦が届いた。前に来た時にくらべて、おしんこの数や量がだいぶ多い。お蕎麦を運んできたおばさんの目がほころびているのを見て、拓哉も綾もその理由を察した。涙目になっている綾を尻目に拓哉がありがとうございます、と言い、それに続いて綾もお礼を言うとおばさんは「いいのよ」と軽い調子で言った。その言葉の軽さに、綾はまた救われた気持ちになった。お蕎麦を一口すくい、口へ運ぶ。美味しい。ほっとする。
「なんだか本当にどうでもよかったね。うん」
「そう?」
「うん」
「すっきりした?」
「うん」
「ならよかった」
拓哉がにっこり笑ったのを見て、綾も微笑をうかべた。もしかすると、拓哉は本当にわたしの苛立ちを感じ取って、こうして外へ連れ出してきてくれたのかもしれない。違うかもしれない。でもそれも、どっちだっていい。
お会計をすませて外に出ると、そば饅頭を食べに行くよ、と拓哉が言った。それでシメなのだと。綾はおなかいっぱいだったが、でもそれくらい食べなきゃね、と自分で自分を励ました。なんだか意味のわからない励ましだな、と思い、つい笑ってしまうと、拓哉がなんだよ1人で、とつっこんできたのでなんでもない、とまた笑顔で返してやった。
「これで深大寺をお参りすればカンペキなんだよな」
拓哉がぽつりとつぶやいたので、綾は何を?と聞こうとしたが、やめた。聞いてみたかったが、なんだか今は聞かない方がいい気がした。代わりに、すっかり元気になっちゃった。いつもありがとう、と綾が言い、おまんじゅうおまんじゅう、とはしゃいでいると、拓哉はお前もやっぱり女なんだなあ、と目を細めるのだった。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
門馬 佐和子(千葉県木更津市/19歳/女性/学生)

 死んだ父さんがいってた。私には、一番美しくなれる場所があるって。「それはどこなの?」と訊ねると、父さんは空を見上げた。
 ――ここだよ。
 ここって、どこだったんだろう......。
1.
「ねえ、アカリ、アカリってば」
「あっ、ごめん」瞬きを二度すると、視界の歪みがとれ、幼なじみのレイの輪郭が浮かんだ。
「大丈夫? もう、そろそろ来るんじゃない」
「ほんと?! もうそんな時間?」
 私は腕時計の時刻が十七時を示していることを確認してから、窓の外へ目をやった。参道の向こうの、なんじゃもんじゃの木が、大きなカリフラワーのように映る。満開の白い花は、今週が一番の見どころのようだ。
 私たちは、深大寺の蕎麦屋にいた。空腹だというレイはせいろ蕎麦を、家で母が夕飯の仕度をしている私は、ぜんざいを注文した。放課後、自転車を走らせてやって来たのは、レイからある噂を聞いたからだった。
 ――ユウが深大寺でお祈りしているとこ、見た人がいるんだって。サッカー部の女子マネの先輩と一緒だったらしいわよ。
 確かめようよ、といったのはレイの方だった。私も同じ気持ちだったが、「何でよ」と引いた。「今日も来るか、分からないじゃない」
 すると、レイは鼻を鳴らした。
「それが、今週の月火水、目撃情報があるのよ。私の勘だと、ユウは今日もきっと来るわよ」
私は今日の日付を思い出す。五月一週目の木曜日だ。
「しかも、深大寺でお祈りってやばいでしょ」レイは興奮気味だった。
「どうして?」
「深大寺っていったら縁結び! ユウは恋しているのよ」レイは自信たっぷりに断言した。赤縁の眼鏡の奥で、スクープを見つけた記者のように好奇心に満ちた目が晃った。実際、レイは新聞部に所属している。パソコンにも詳しく、コンピューターグラフィックも学んでいるらしい。
 一方、私は気が気じゃなかった。ユウが恋している......。通学途中に大事な忘れ物に気がついたときのような、焦りに似た感覚をおぼえた。
 西陽が路面に薄らと夕影を作り始めた時、入口の方に見えた人影が、山門の方へ小走りで近づいてきた。その走り方を見て、私は即座にユウだとわかった。小さい頃から変わってない。
「来た来た!」レイは、はしゃぐような声を出してから、「夕焼け時を狙って、ユウが現れました」と、レポーター口調でいった。ユウの名前は「夕」と書くのだ。
 私たちは蕎麦屋を出て、ユウに気づかれないよう距離を保ちながら、彼の様子を伺った。
 ユウは本堂で賽銭し、手を合わせた。その、静かに祈る背中を眺めていると、胸が痛くなった。先輩との恋が成就するようにと、祈っているのだろうか。
 祈り終えると、ユウは辺りを見渡した。誰かを探しているようでもあったが、やがて、ベンチに腰掛けた。それから暫くの間、ユウはじっと座っていたが、夕闇が辺りを包み始めると、腰を上げ、どこか重い足取りで帰っていった。
 その後、私たちはユウの座っていたベンチに近づいて座った。
「ユウ、何を祈ってたんだろうね」レイがいった。
「さあ......」頭の中で、色々な言葉と想いが駆けずり回っていた。私は唇を結んで下を向いた。
 そのとき、レイの足下に、白い落し物があることに気がついた。カードのように見えた。
 拾ってみると、写真だった。裏返しにして、私は思わず息を呑んだ。自然と言葉が洩れた。
「わあ、綺麗な人」
 背中の半分程まで髪を伸ばした女性が、なんじゃもんじゃの木の下で微笑んでいる。雪のように白い頬と、涼やかな秋波に施された化粧が、大人の気品と色気を漂わせていた。
 どこかで見たことがあるような気もしたが、誰だかわからなかった。
 ――女子マネの先輩と一緒だったらしいわよ。
  嫌な想像が膨れ上がった。先輩ならば、私も校舎ですれ違ったこと位、あるのかもしれない。
「この写真、ユウが落としてったんだよね」私の手元を覗き込んだレイがいった。私も異議はなかった。
 ユウは、恋しているのだろうか。
2.
 その晩、私は部屋の机で、高一になって初めて知る、恋煩いの辛さに打ちひしがれていた。夕食時も、お風呂で髪を洗っている時も、気づけばユウのことを考えてしまっている。不意に、何故だか昔の写真が見たくなり、アルバムを開いた。
 幼い頃、毎日のようにレイと三人で遊んでいたユウを、異性として意識し始めたのは、中学二年生のときだ。
 サッカー部に入部したユウは、レギュラーは無論、試合に出させてすらもらえなかった。
 冬休みのある日、用事があって学校へ行くと、誰もいない校庭で、シュート練習をするユウを見つけた。声をかけようとして、息を止めた。
 細かい助走を刻んだ末、ユウの右足から放たれたシュートは、小さい頃、一緒にボール蹴りをして遊んだときとは違って、男の子の力強さを兼ね備えていた。
廊下ですれ違う度、ユウの身長を気にするようになったのも、それ以来のことだ。
 しかし今春、高校へ入学すると、ユウと話す機会が少なくなった。クラスも違っていたし、ユウは部活で忙しそうだった。けれど、たまに一緒になる帰り道は、私の一日をより明るく輝かせてくれた。
私にとって、ユウは一番の男友達だと思っていた。けれど、女子マネとの噂を聞いた時、ユウを取られたくない、と強く思う自分がいた。
 アルバムを捲っていると、ページの隙間から紙切れが一枚、落ちた。何だろうと拾い上げて、はっとした。十二歳の頃、ユウからもらったものだ。手紙とも呼べないそれには、小学生の男子らしい、少し乱雑な字で、こう書かれていた。
――高校生になったら、スノーフラワーの下で会いましょう。花が満開になる一週間、僕は毎日待っています――
胸の奥で記憶がざわめいた。もしかして......。
私はすぐにレイに電話をした。スノーフラワーの場所を知っているか問うと、「なんじゃもんじゃの木のことよ」と答えが返ってきた。「雪のように白い花を咲かせるからそう呼ばれているの」
 翌日の夕方、私は再び深大寺に向かった。風花のように花びらが舞う、なんじゃもんじゃの木の下で、ユウを待った。待っている時間が、やけに長く感じられた。でも、きっと来てくれる。そう信じていた。
 空が夕焼けに染まり始めた頃、境内の中央を歩いてくるユウを視界に捉えた。私に気づいたユウは、目を見開いたが、すぐに花笑みを向けた。
「覚えててくれたのか」
「ごめんね、ユウ。私、大切なこと忘れてた」
  ユウは優しく微笑んで首を振った。
「この場所――アカリが一番美しくなる場所で会いたかったんだ」
「私が一番、美しくなる場所?」
「覚えてない? 前に、アカリのお父さんが教えてくれたんだよ。スノーフラワーは「雪」と「花」、それにアカリが揃うと、美しい言葉になるって」
 脳裏の奥で、父さんの声が蘇った。
 ――大切な人を照らしてあげられる、迷っている人の道しるべになれる、そんな人になって欲しい。そんな願いを込めて、月(アカリ)ってつけたんだよ――
「雪月花......」私は小さく呟いた。
 ――美しい風景のことをそういうんだ。
 ユウは私の目を見て柔らかく笑い、薫風に花弁をなびかせる、なんじゃもんじゃの木を見上げた。あの時、父さんが見上げたのは空じゃなくて、この木だったんだ......。何年も前の風景がフラッシュバックして、胸が温かくなった。
 そっと差し出されたユウの手に、私は自分の手を添えた。茜色に染まった遠くの空に、夕月が浮かんでいた。月(アカリ)をひとりぼっちにしない、そんな風に夕空がいってくれているような気がした。――なんて、ただの惚気だろうか。
3.
「お惚気さん」
 最後にそういい、アカリとの電話を切ってから、レイはプリンターから印刷された写真を手に取った。たった今、アカリから送られてきた写真だ。そこには、なんじゃもんじゃの木の下で笑う、アカリとユウが写っている。
「まったく、世話の焼ける二人だわ」
  レイは伸びをし、その後で、机の引出しから別の写真を取り出した。なんじゃもんじゃの木の下で、レイ自身が写っている。
 アカリと深大寺へ行った時、ユウが座ったベンチの前で、こっそりとこれを落とした。奥手の二人には、少し刺激が必要だった。両想いなのにくっつかない二人を見続けるのは、歯がゆくて仕方ない。
 レイは、ユウからアカリへの想いを聞かされていた。「アカリは覚えてないかもしれない。けれど、俺はあの場所でアカリを待つんだ」ユウはそういって聞かなかった。そのことをアカリに教えることも出来たが、アカリには、自分で気持ちに気づかせたかった。ちょっとした悪戯心があったのも事実だが。
 レイは、自分の写真をパソコンで少々、修正した。眼鏡を外し、髪は背中くらいまで伸ばして明るめのブラウンを入れた。目元には化粧をし、頬のそばかすは目立たなくした。
  そして最後に、女子マネとユウとの噂をアカリに聞かせたのだ。もちろん、アカリにヤキモチを妬かせ、自分の気持ちに気づいてもらう為に。我ながらおせっかいだと思う。でも、今回のことで、レイ自身にも気持ちに変化があった。アカリは、写真の女性をレイだと気づかなかった。
 ――わぁ、綺麗な人。
 アカリの口からこぼれた言葉。それを聞いた時、レイは嬉しかった。恋愛なんて、自分とは無縁だと遠ざけていた。自信もなかったから。
 私が一番、美しくなれる場所――。
  今度はわたしが、探しに行く番だ。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
松井 司(東京都品川区/26歳/男性/会社員)

 請求書やダイレクトメールに埋もれて、一通手触りの良い封筒があった。差出人は、高校時代の同級生カップルだ。交際十年を経て結婚、と聞いていたが、いよいよ日取りが決まったらしい。
 行きつけの喫茶店に着くと、最近話すようになったアルバイトの大学生が注文をとりに来た。
「カフェオレで」
「はい。お待ちくださいね」
彼はここで働き始めて三ヶ月くらいだったと思う。家の方向が同じということが分かってから少し話すようになった。
私とは十も違うせいか、その若さが眩しくてつい目が行ってしまう。彼以外にもアルバイトの大学生はいて、最近入った女の子はさらに初々しい。仕事を覚えるのに一生懸命で、まだ慣れないのだけれど、それすら和んでしまうような女の子だ。
 歳をとったつもりはなかったはずなのに、いつの間にか私は若い者が可愛く見えるようになっていた。
 対して私は、日々のルーチンワークにうんざりしていたことも忘れ、ただ無難に日々が過ぎていくことを望むようになっていた。感情を出すような場所もなく、溜める場所ももうとっくに一杯になっているからか、心は少しずつ弾力を失ってきたと思う。最近は歌を聴いても自己陶酔な歌詞、と感じてしまうことも多いし、小説を読んでも現実の方が後味悪くて滑稽に思うようになっている。いつの間にか私は感動する、ということを忘れてしまったのだ。心を揺さぶられ、鼓動が高鳴る。そんなこと、もうどのくらい感じていないのかもわからなくなっていた。
 カフェオレを飲み終えると、自宅から持ってきた結婚式の返信葉書を出した。
 懐かしい人と会えば、少しは心躍るだろうか。そんな淡い期待をペン先に滲ませながら、出席、という返事を書いた。

 高校三年となる春休み、いい縁に恵まれますように、と春休みに友人たちと深大寺に行った。一緒に行ったのは、彼氏と別れた子、振られた子、好きな人すらいない私。それぞれが高校最後のこの一年にいい出会いといい恋ができるように、と願った。
 冗談半分のつもりが、私にとってはご利益があった。クラス替えで出会った彼は落ち着いていて、余裕があるように見えた。寡黙というわけではなく誰とでも気さくに話すが、さらりと人を褒めることができる人だった。
 ある日、日直だった私は日誌を書いていたら彼がぽつんと言った。
「字が綺麗なんだな。俺字汚いから憧れる。まして割りとどうでもいい日誌なのにさ。すごく丁寧だよね」
 私は幼い頃から書道と硬筆を習っていて、これまでコンクールなどで上位の賞をもらっていた。そのため、字がうまい、ということ自体が私に、みんなに当たり前になっていて、今更褒めてくれる人はいないに等しかった。
 そんな中で彼の言葉は私の中でひとつの柔らかな光となって心の中を優しく照らした。
 余計なことを言わない、すっと人を立てることができる彼を、私はまるで「できる奥様」のようだと思った。普段は黙って話を聞き、時折こちらがぐらりとするタイミングで褒められる。まるで自分が特別な存在になったような気がしてしまうのだった。一緒にいて気分がいいからもっと話していたくなる。私は彼にいろんな話をした。好きな本、好きな景色、家族のこと、将来のこと。
 まだ十七歳の私が恋をするのに時間はかからなかった。

 期末テストが終わったある日、彼から五つ年上の人が好きなことを打ち明けられた。そして告白しようか迷っていること、年下の男をどう思うか、と私に相談してきたのだった。
 私は信じられない思いでただ立ち尽くした。彼が恋をしていたなんて。そして、それが私とは全然違うであろう、五つ年上の女性......。その衝撃は今でも覚えている。どこで知り合ったのか、綺麗なのか、社会人で稼ぎがいいのか。オンナのカラダなのか。私にないものが全部その人にあるように思えた。
 私は頬が痙攣してうまく言葉が出てこないのに、彼は照れたり、困ったり、表情をころころ変えながら、無邪気にどれくらい彼女に恋焦がれているのかを話した。そしてそこにいたのは、私が知らない彼だった。
 私は動揺で思考が動かなかった。ただ、滾るように溢れた感情を言葉にするのがやっとだった。
「......気持ち悪い」
 掠れそうな声でそれだけ言うのが精一杯だった
 一瞬、彼が面食らったように見えた。それを見て言ってはいけない言葉だとすぐ気付いた。しかし取り繕うような都合のいいセリフも、器用な冗談も思い浮かばず、私は唇をきつく結んでその場から離れることしかできなかった。
 そのまま夏休みに入り、息苦しいほどまとわりつく湿度がさらに私を追い詰めた。なんとか彼に謝ろうとメールを打っては消して、を繰り返しているうちに冗談でやり過ごすにも、謝るにも時間が開きすぎてしまった。
 二学期になってからも彼は普通に接してくれたが、五つ年上の女の人の話は一切なかった。彼が失恋したのか、成就したのかも分からない。クラスメイトが冗談交じりで恋バナを振っても、好きな奴なんかいないし、と言うだけだった。
 そんな他愛無い日常も徐々に受験の灰色に染まって行き、私と彼はそれぞれ別の大学へと進学してから縁は切れた。
(深大寺で縁結びをお願いしたのに)
 そう神様に毒づいても、彼を遠ざけたのは紛れも無く私自身だ。彼は私の話を聞いてくれたのに、私は彼の話を聞かなかった。
 たとえそれが幼い嫉妬だとしても、今更なかったことには出来ない。
 私は、あの時人を傷つけてしまった。そしてそれが、恋しい人だった。後悔は時間が経てば経つほどにその色を濃くしていった。
 この気持ちが敗北感だと分かったのは、随分後になってからだった。完敗を認めた頃、私は五つ年上の女性の年齢をとうに追い越してしまっていた。

 ある時、喫茶店へ行くと、アルバイトの大学生と女の子の様子がおかしいことに気付いた。その微妙な距離感は何かあったことは明白だった。
「どうしたの?」
「......振られたんです。俺が」
 注文をとりに来た彼がふてくされた様子で話していった。勢いで告白してしまい、気まずくなってしまったことを悔やんでいた。
 気にすることないよ、と私は言った。大学生は苦笑いするだけだったが、私のように相手を傷つけた訳じゃない。勢いとはいえ、自分の気持ちを真摯に伝えたことは賞賛に値すると思った。
 その瑞々しさを私は随分昔に失っていることに気付いた。
 (告白、か......)
  色を忘れた心に小さな焔が灯った。告白、という言葉が私の何かを捕らえた。音も立てずにじっと燃えている。確かにそこにあるのに、なぜ今までそんなことすら気付かなかったのだろう。私にあるのは彼に対する懺悔ばかりになっていた。見失ってしまった恋心を、私はようやく気付くことができた。

 梅雨の合間の晴れやかな午後、鮮やかな葉々が光を湛えている。私は同級生カップルの結婚式に来ていた。
「相変わらず、字きれいだな」
 私がゲストブックに記帳している後ろから懐かしい声がする。その瞬間、私はあの頃のあの季節に戻った。
 色味を帯びた空気、少し低くなった声。高鳴る鼓動を抑え、ゆっくりとペンを置く。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「ひ、久しぶり!」
 声が上ずってしまい、彼はぷっ、と噴出した。恥ずかしさでいたたまれなくなったけれど、心が弾んでいるのが分かった。
「あの、私......」
 用意してきた言葉を全部話せるかは分からない。冗談として笑い飛ばされても構わない。
 私は今日、ようやく失恋できるのだから。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
波 ユカリ(千葉県)

四月の下旬、サクラからはがきが届いた。家の中もすっかり片付いたから、五月の連休に遊びに来てって。だから行くことにした。今のところ手帳にはなんの予定も入っていない・・・。仲良し五人組みも一人二人と嫁に行き、残ったのはサクラと私だけ。そのサクラもついに今年の四月、みんなに祝福され結婚した。そして私、山野もみじはいまだに独身、秋には三十五歳となる。
サクラは結婚して東京都調布市に住んでいる。二人のために彼の両親が、実家から歩いて十五分ほどの所に新居を買ってくれたからだ。彼女は結婚と同時に、家まで手に入れた幸せ者なのだ。
「ねえ、いい感じじゃない。このマンション」
「うん。日当たりもいいし、窓が大きくて明るいでしょ。ね、ほら、あっちの方に深大寺があるのよ。後で一緒に行こう、ね。縁結びで有名なんだから」
サクラがあんまりしつこく誘うので、とりあえず行ってみた。拝んでも、大して効果はないと思う・・・。私は昔からそういうものを信じない人間だ。けれど彼女の気持ちは十分に分かっている。私の幸せをただ願っているのだ。世間は未婚の女に冷たいものだ。名前もよく知らない人にさえ、それをとやかく言われて気分が落ち込む時がある。さすがに母親だけは最近何も言わなくなったが・・・。私が今も一人でいるのは、何も特別なこだわりがあるからではない。何度か人並みに恋もした。ただ結婚という形で終わらなかっただけ。いい縁に出会えなかったという事だろう。
 連休も終わり、いつものように慌しく出社した。勤めている会社は、二年前にこの新しいビルの七階へと移転した。いつものようにエレベーターを待っていた。扉が開くと中から急に男が飛び出してきた。その拍子に肩がぶつかって、私の鞄がフロアーに飛んだ。男は頭を下げて謝りながら、ポケットから出したハンカチで鞄を拭きそっと差し出した。そして私が受け取ると、また背を向け駆け出して行った。よほど急いでいたのに違いない。でもその時の笑顔に誠意を感じた。こんな感じのいい人に出会ったことあったかな。なんだか胸の奥あたりが少しざわめいた。こんな気持ち、ずいぶん久振りのような気がする。まさか・・・いや、違う。絶対違うと思う。
翌日、今度はエレベーターに、息を切らせて男が飛び込んで来た。
「あの、これ上に行きますが・・・」
「あ、はい。どうも親切にありがとう」
眼鏡を掛けた彼はそう優しく言うと、先にエレベーターから降りた。なんて優しい人なの、ありがとうだなんて。じんわり心が温かくなった。一ヶ月ほど前、同じような状況で私はひどく怒鳴られた。
「お節介な女だな。そんな事、分かってんだよ。いちいち言うな、おばさん」
五〇くらいの男がはき捨てるようにそう言った。あんな男に比べたら、なんて天使みたいな人なの。これって、ひょっとして深大寺?でも待って、立て続けにこんなにいい男達に出会ったのに、このビルに来て初めてのことなのに、私は二人の名前さえ知らない。これを出会いとは断じて言わないだろう。
「おーい、そこのおばさん。なにフラフラ歩いてる」
振り返るとサブだった。本名は中野三郎。でサブと呼んでいる。彼は小学校からの幼馴染だ。
「考え事なんかしないで、ちゃんと真っ直ぐ歩けよ。危ないからな」
どうやら、出前の途中らしい。彼の家は何代も続いた、近所では有名な蕎麦屋だ。サブはサラリーマンをしていた時期もあったが、今は家業を継いでいた。言葉使いは悪いけど、優しいとこがあるいい奴だ。あれからまだ、二人には会えずじまいだ。もしまた彼らに会えたのなら、それを人は縁と呼ぶのだろう。私はただその縁を待つしかないような気がする。よく言う赤い糸とかいう物をずーっと待っているのかもしれない。いつか私にもきっと来ると・・・。
昼休み、珍しく鞄の中を整理していた。ない、ないよ、大切な私の財布がない。慌てているところに電話が入った。
「あ、はい山野ですが」
「あのあなたの財布、うちのビルの前に落ちていて・・・僕、これから届けようと思うのですが」
神様のようなお声だった。すぐに一階に下りていくと、微笑みながら男が立っていた。切れ長の目がすがすがしい、とても感じの良い青年だ。なんだか今度は胸がときめいた。その人は隣のビルの三階で働いていた。名前を青山聡と名乗った。本当に助かった。ありがたい。現金にカード、名刺に・・・。そのまま無事に戻ったのだ。それに今度は名前まで教えてもらった。これってもしかして・・・。そうよ今度こそ間違いないわ。深大寺、深大寺。サクラに電話しなきゃ。
大学を出て十数年働いている。最近では責任というものも付いてきて、仕事に追われる毎日だ。ドラマのようなロマンスなんて夢のまた夢。あっと言う間に三十歳を超えてしまった。なのにこんなに短い間に素敵な男の人に次々と出会えるなんて、ほんと信じられない。あおやま、さとし・・・か。 
何かお礼をと考えながら下へ降りていくと、隣のビルからちょうど彼が出てくるのが見えた。声を掛けようと走り出すと、私の目の前を、風のように通り抜ける一人の女がいた。次の瞬間、彼女は青山の胸に飛び込んでいた。それを彼も微笑みながら受け止めていた。二人は手をつないで、やがて楽しそうに街角に消えていった。あんないい男に彼女がいないわけないよね。あーあー、なんて馬鹿なんだろうって、自分が情けなく思えた。その日はさすがに、寄り道しないで帰る気持ちにはならなかった。一人で寂しく食事をした。久しぶりにアルコールも少々。
駅に降りたとたん、小雨まで振り出してきた。襟を立て早足で歩きだすと、向こうから男がフラフラ近寄って来た。
「おい、姉ちゃん。人にぶつかって置いて謝りもしないのか。この不細工な女が、何様のつもりだ。それにもう若くないんだろ」
この男、相当酔ってると見える。聞こえない振りをして歩き出すと、いきなり私の手を掴んだ。
「おっさん、その手放せよ。この女のどこが不細工なんだ。よく見るとかわいい顔してるんだぞ。さっさと彼女に謝れ」
怒ったサブと酔っ払い男の喧嘩になった。私は酔いもすっかりさめて必死で叫んだ。
「警察よ、警察が来た」
男は振り上げていた手を下ろすと、急いで駅の方へ走り姿を消した。私は気がつくと、駆け寄ってサブを抱きしめていた。ほんとうに嬉しかったのだ。私のことをかばって守ってくれたのが。それに私のこと、かわいいだなんて・・・。彼も黙って、私の背中をそっとやさしく撫ぜてくれた。
「もう、あんたも若くないんだから、手出したらだめだよ。でも、でも・・・ありがとう」
そう言うのが精一杯。後は涙でサブがよく見えなくなった。
 世の中は何が起きるか分からないと思う。このことが縁で、私とサブは付き合うことになった。こんなに傍にいたのに、今まで彼を恋愛の対象とは見ていなかった。あいつも同じに違いない。二人はあまりにも近すぎたのだ。そして今、サブをとても愛しく思う自分がいる。彼にも結婚したい相手がいたが、破談になったとうわさで聞いた。相手の親に、蕎麦屋の嫁にしたくないと言われたらしい。その人のことは、きっと本気だったに違いない。それから後は、彼の浮いた話を聞いたことがないから。
最近、私はサブのお店を会社帰りに手伝っている。彼の父親がぎっくり腰になり、忙しそうにしているのを見兼ねたからだ。
「ねえ、おじさんの腰が治ったら、一緒に深大寺に行こう。あそこの蕎麦もなかなかだよ。それにあんたが大ファンのげげげの水木しげるの家もそこから近いんだって。絶対行くよね」
神など信じていなかった私にこんな縁を取り持ってくれた深大寺。なんだか心からお礼が言いたくなったのだ。私には見える。手をつないであの参道を仲良く歩いているサブと私の姿が。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>
夏衣 ひかる(神奈川県大和市/60歳/女性/主婦)

 新緑の鮮やかな季節だった。天気の好い土曜日の昼過ぎ、僕は彼女と一緒に、実家の最寄り駅である調布駅から深大寺に向かって歩いていた。
 今日、僕は彼女――先日プロポーズして晴れて婚約者になった彼女を、両親に紹介する。
 両親との約束は午後六時だったが、僕の生まれ育った町をよく知りたいという彼女の希望で、僕たちは、両親に会う前に深大寺周辺を観光することにしていた。
「とりあえず、昼飯にする?」
「うん! 深大寺そばがいい!」
 僕が問うと、彼女は元気よく答えた。どうやら彼女は事前にしっかり調布の観光情報を調べているらしい。僕の生まれ育った町を知りたいというのは口実で、彼女の真の目的は観光なのかもしれない。彼女は自分の好奇心に忠実だ。興味のあるものを見つけるとすぐに追いかけて行くから、これまでにも、彼女はデートの途中で度々迷子になった。そして僕はその度に彼女を探し回ってヘトヘトになる。我ながら愚かだと思いつつも、僕は彼女の無邪気な笑顔に文句一つ投げつけられない。
「お勧めのおそば屋さん、ある?」
 彼女が問うが、残念ながら、僕はあまりグルメではない。特に、実家住まいだった高校卒業までは、運動部に所属していたこともあって、質より量の食事をしていた。加えて、家族でレストランに出掛けて外食をするなどというお洒落な習慣も僕の家にはなかった。
「特には......。とりあえず深大寺まで行って、空いている店に入ればいいんじゃないかな。ここから少し距離あるけど、歩ける? バスもあるけど。」
「大丈夫! 隆宏君の育った町、色々見たいし。」
 一応、彼女は口実たる目的をまだ忘れてはいないらしい。
 T字路に突き当たり、彼女が左に曲がった。
「あ、深大寺に行くならここは右だよ。」
 僕が進言すると、彼女は振り返って僕の顔を見、しばし考えたようだが、
「でも、こっち!」
 と左に進んだ。お腹が空いたことを除けば、急いで深大寺へ向かわなければならない理由はない。僕は大人しく彼女に従った。
 その後も彼女の気まぐれに従って歩いていると、ふと、目の前の景色が懐かしい思い出と重なった。母校の高校の近くだった。
「めぇえん!」
「ゃぁあ!」
 奇声のような叫び声が響くのは、剣道場の裏手。この時期だから、新入部員の一年生が素振りと声出しの特訓を受けているのだろう。
「懐かしいな。」
 思わず漏らすと、一歩先を歩いていた彼女が振り返った。
「隆宏君、剣道部だったもんね。もしかして、この声は隆宏君の後輩かな。ちょっと覗いて先輩として指導してあげる?」
「いや、先輩って言っても、もう十年も前だから知ってる奴はいないよ。」
「でも、素振り王と呼ばれた偉大な先輩でしょ? きっと伝説として語り継がれてるよ。」
 彼女は真面目な顔で言うが、僕は決して校史に名を残すような優秀な剣道部員ではなかった。それどころか、あまりにも弱くて他の部員から練習相手にならないと言われ、道場の裏で独り素振りばかりしていた。それで付いたあだ名が素振り王。偉大な先輩などでは全くない。
 そもそも、なぜ彼女が僕のこのあだ名を知っているのだろう。酔って口走ったことがあったかもしれないが、できれば忘れていてほしかった。ましてや、後輩たちに伝説として語り継がれているなんて不名誉極まりない。
「練習の邪魔をすると悪いから。」
 気まぐれな彼女はそれで納得したのか、飽きたのか、くるりと回れ右をした。
「じゃあ、おそばに行こう!」
 深大寺を通り過ぎたことには、彼女も気付いていたらしい。僕は響く後輩の声を懐かしみながら、ゆっくりと彼女の後を追った。
 高校時代の僕は、雑草の茂る道場裏で、朝から晩までほとんど一人で竹刀を振り続けた。決して輝かしい青春ではなかったが、辛い過去というわけでもなかった。時々現れる野生のたぬきにおやつを分け与えながら竹刀を振った日々は、結構幸せだったように思える。
「今頃どうしてるかな、たぬ吉。」
「何? たぬ吉って?」
 前を歩いていた彼女が、振り返って僕の顔をのぞき込んだ。
「昔、よく道場の裏手に出て来たたぬきの名前。僕が勝手に付けたんだけど。」
「ふーん。」
 彼女はたぬきにはあまり興味がないのか、つまらなそうな返事を一つ返すと、再び僕の一歩先を歩き始めた。

 たぬ吉との出会いは、一年生の頃、五月の連休が明けて、自分が新入部員の中でも飛び抜けて弱いということを自覚した頃だった。
 その日、稽古が終わって、他の部員と共に深大寺の参道に寄り道しておやきを買った僕は、独り自主練をするために道場へ戻った。僕が道場の入り口の段差に腰掛けて高菜入りのおやきを頬張っていると、草の間から一匹のたぬきが顔を出した。
 僕がおやきを千切って放り投げると、たぬきはおやきの欠片に鼻を近付け、次の瞬間、それを前脚で払いのけた。
「なんだ、腹減ってないのか。」
 僕が呟くと、たぬきはこちらへ近づいて来た。たかがたぬきとは思いつつも、引っ掻かれて要らぬ怪我をするのも嫌だったので、僕は高菜入りおやきを手に立ち上がった。すると、たぬきは僕を警戒することもなく剣道場に入り込み、僕が入り口の脇に置いていた南瓜餡のおやきが入った袋に前脚を伸ばした。
 しまったと思った時には既に遅く、たぬきはおやきの入った袋をびりびりと破き、僕の目の前で堂々と南瓜餡のおやきを平らげた。
「高菜よりも南瓜餡が好きなのか?」
 僕の問い掛けが理解できたとは思わないが、おやきを完食したたぬきはちらりとこちらを見てから、悠々と剣道場を出て、背の高い雑草が伸びる茂みに姿を消した。
 たぬ吉はその後も度々現れて、必ず南瓜餡のおやきを奪って行った。つぶ餡や茄子のおやきを差し出してやったこともあったが、たぬ吉は南瓜餡しか食べない主義らしかった。

「ねえ。たぬ吉ってことはさ、そのたぬきは雄だったんだよね?」
 不意に彼女が振り返り、立ち止まった。
「え? いや、確かめてはいないけど。」
 僕の答えに、彼女は顔をしかめた。
「きっとたぬ吉は雌だよ。それでもって、隆宏君にたぬ吉なんて可愛くない名前を付けられたからがっかりしてるよ!」
 彼女は僕の目の前に人差し指を突き付け断言した。たぬ吉が雌だという確証がどこから得られたのかは分からないが、もし雌なら、確かにたぬ吉という名前はふさわしくない。
「たぬ子にした方が良かったかな。」
「隆宏君......。」
 彼女は大きなため息と共に俯き、僕の名前を呼んだ。
「な、何?」
 思わず僕が後ずさると、彼女は両手を腰に当て、仁王立ちで宣言した。
「......全っ然、センスない!」
「ご、ごめん。」
 僕は反射的に謝罪の言葉を口にした。
 彼女の指摘が事実であることを僕は十分自覚しているが、まさか、たぬきの名付けごときでこんな風に叱られるとは思わなかった。
「えっと......じゃあ、美幸なら、どんな名前を付ける?」
 独創的な彼女の趣味に合う名前を捻り出す自信がなく、僕は早々に彼女に正解を求めた。
「美幸!」
 彼女は即答した。自分の名前じゃないかと言い掛けて、僕は彼女の意図に気づいた。
「可愛い名前でしょ? 女の子らしくて。」
 彼女はにこりと笑うと、ワンピースの裾をふわりと翻し、僕に背を向けて歩き出す。
 彼女の主張によれば、雌であるはずのたぬきには女の子らしい可愛い名前を付けるべきで、女の子らしい可愛い名前とはすなわち、女の子らしくて可愛い彼女自身の名前である、というのが彼女の論理であり、僕に求められていた正しい答えだったに違いない。
「お腹も空いたし、早くおそばを食べて、深大寺にお参りしよう! 隆宏君との縁をぎゅうっと固結びしてもらわないとね!」
 彼女は、拳を握り締めて気合いを入れている。どうやら、僕の誤答に対する彼女の不機嫌は既に消え去っているらしい。
「それで、お参りが済んだら、おやきと深大寺名物のそばパンを食べるの! おやきは食べたことがあるけど、そばパンは食べたことがないから食べ比べるんだ! 餡はどっちも絶対に南瓜餡!」
 彼女は既におやつの計画に夢中だ。彼女が南瓜餡好きとは初耳だったが、なぜ南瓜餡なのだろう。僕の脳裏に、南瓜餡好きな青春時代の貴重な友の姿が浮かぶ。まさか......ね。
 彼女は僕を置き去りにして、スキップしながら数メートル先の曲がり角を曲がって行く。
 その時、一瞬、彼女のワンピースの裾から茶色いふさふさとしたしっぽのようなものが覗いたように見えたが、あれはたぶん、いや、きっと必ず、気のせいなのだと信じたい。
 「愛があれば年の差なんて!」はよくある台詞だが、「愛があれば種の違いなんて!」と言い切るには慎重な検討が必要だ。ただし、検討時間は、彼女が深沙大王に縁結びを願うまで! 僕は慌てて彼女を追い掛けた。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>

月出里子 (東京都/女性)

羽田まであと一時間。機内誌を手に取りパラパラめくると、深大寺の文字にぶつかった。思わず指が止まる。すぐに逃げるように目線を上げると、どこまでも続く雲海に視界が奪われた。目の前に広がる白い海はとても儚なくて、切なさだけが押し寄せてくる。
東京を訪れるのは八年ぶりだった。大学を卒業してからの六年間を、ひたむきに生きた街―東京。深大寺は、未来は無限に明るいと信じていた贅沢な日々と私を、よく知っている。
そして、そこにはいつも彼がいた。

「ねぇ、今度フカオオジに行ってみようよ。」
コロコロと弾む声に、とびきりの笑顔もつけて振り向いたのに、彼は無表情だった。あれ、おかしいな。こんな時はいつだって無邪気な笑顔を返してくれるのに。
「ねえってば、行こうよフカオオジ。おいしいお蕎麦屋さんもあるみたいだよ。お蕎麦、好きでしょ?」
開いていた情報誌の特集ページを指差しながら、もう一度言ってみた。すると、ふわっと溶けた彼の顔に目じりのシワがくっきりと浮かび上がった。それと同時に心にため息が漏れ、胸の奥がキュッとなる。私は彼の目じりのシワにめっぽう弱い。
「それ、ジンダイジだよ。深くて大きい寺って書いてジンダイジって読むの。」
笑いを含んだ穏やかな声とともに目じりのシワはどんどん近づいてきて、あっという間に目の前が真っ暗になった。ほんの一瞬、優しいキスが暗闇に紛れ込んだ。宇宙に漂うってこんな感じなのかな・・・なんてくだらないことを考えている脳ミソの上で、私の中心にすっと入り込む音が鳴る。
「うん。行こう、深大寺。」
彼の声は、私の琴線をふるわせる周波数にいつも調律されている。ずるいなって思うけれど、心地よいふるえを止めることはできない。顔を胸に押し付けられて体をすっぽり包み込まれる。
「ちょ、痛いよ。痛いってば。」
抗議のようでいてそうじゃない声に、ますます抱きしめる力は強くなった。息も出来ないくらい窮屈なはずなのに、体の内側がくすぐったくてしょうがない。
抜けるような青空、軽く汗ばむ日曜日の昼下がり。調布駅南口から徒歩十五分のふたりで借りたアパート。揺れるカーテンの向こうには、初めて育てたプチトマトが赤く色づいていた。
それからは、よくバスで深大寺へと向かった。昼食は決まって深大寺そば。本当のことを言うと、蕎麦よりうどんが好きだったけれど、おいしそうに蕎麦を頬張る彼がもっと好きだった。本当に蕎麦が大好きで、蕎麦屋を食べ比べては楽しそうに蕎麦談義を繰り広げた。そんな彼を蕎麦博士と言ってはからかい、大好物の目じりのシワをもぎ取った。
アパートのベランダには毎年プチトマトを植えた。何度も何度も実は赤く色づいた。それなりに友達もできたし、彼はいつも優しかった。けれど、いくらプチトマトが実ったところで、私の生活は何も変わらなかった。へんてこな通勤ラッシュ、賑やかすぎる街、背の高いビル、煙るスモッグ、いつまでたっても彼氏と彼女―。
あの日は少しだけ雪が積もっていた。何度も厚塗りを繰り返したようなグレーの空。
私は温かい深大寺そばを噛み砕く。
「友達が結婚するんだ。地元の福岡で。結婚式よばれたから行ってくるね。」
「ん。いつなの?」彼はズズッと一気に蕎麦を吸い込む。
「一月の後半。でね。ついでにしばらく実家にいようかと思って。」
「しばらくって?どのくらい?」
どんどん彼に吸い込まれてゆく蕎麦から目をそらす。私の蕎麦はまだたくさん残っている。
「―わかんない。」
「仕事はどうするの?」
「うん。―辞める。」
「え?辞めちゃうの?」
「ちょうどいいかなって思って。しばらく家にも帰ってなかったし。」
彼は黙ったままで全てを食べ尽くした。私はゆっくり、ゆっくり食べ続けた。それでも、あともう少しで食べ終わってしまう。
「―そうだね。親孝行しておいで。」
彼の声は、調律が少し狂ってしまった。冷たくなった最後の蕎麦が、喉に絡みつきながらねっとりと下っていく。店内には冷たい空気が入り込み、すっかり体は冷え切っていた。
 結局、私のしばらくは、ずっと続くことになった。彼の戸惑いは携帯越しに伝わってきたけれど、それ以上でもそれ以下でもなかった。彼だけを悪者にして、当然のように別れを告げた。それでも誕生日にはメールが届いた。ひとりになってからの月日がふたりで過ごした月日を追い越した頃、誕生日にもメールは届かなくなった。
 それからまたいくつかの季節が巡り、思いがけず彼と再会することになる。
 彼は目じりのシワをちょっとだけ増やして、テレビの中で微笑んでいた。
 何気なく見ていた情報番組で、深大寺にオープンした「深味(ふかみ)」という、手打ち蕎麦とハーブティの店を紹介していた。エンディングでは、その店のご主人と奥さんが笑顔で手を振っていた。その店主が、彼だった。
彼が私の知らない誰かと結婚する。それは至極当然の出来事だ。でも―。ドクドク波打つ心臓に頭も心も追いつけない。すぐにネットを覗く。驚くほど簡単に彼に近づけた。
―神代植物公園、正門横の細道。青い屋根に通路側は全面ガラス張り、緑のカーテンが茂るカフェのような店。蕎麦とハーブティの看板が出ていた。異色コンビに不安がよぎったが「手打ち蕎麦」の暖簾につられ入店。内装も古材風に塗装された白い板壁に、シンプルな家具が置かれたカフェ風。席は十席ほど。しかし、毎日ご主人が手打ちするという蕎麦は、なかなかの本格派。麺は太さに若干のバラつきがあるが、そこはこれからの上達に期待。香り豊かで、しっかりした食感、喉越しも申し分なし。
―★★★★★ 帰るときは、ご夫婦揃っての見送りつき(笑)アットホームなおそば屋さんです。奥さんの手作りケーキやお菓子もおいしかった。女子会にもお勧め。
ネット住人の言葉は十分すぎるほど彼の今を教えてくれた。一通り検索が済んでも、整理しがたい感情をもてあましていた。とにかく行かなければと思った。行かなければ―。行ってリアルを手に入れなければ―。
すぐに羽田行きのチケットを予約した。

久しぶりに足を踏み入れた東京は、相変わらずよそよそしく寄り添ってきた。羽田に着陸する瞬間に、どこか他人行儀な自分に変わる。私にとって、東京は彼そのものであり彼との未来だった。その未来が本物の幻想となった今、ますますこの街によりどころを探すのは難しかった。それでも、六年を過ごした街。他人行儀な自分も本当の私だ。京王線に揺られながら、ぼんやりそんなことを思う。
深大寺は、あの頃よりもさらに賑わいを増したようだった。彼の店は少し華やぎから遠ざかったところにあって、私は店のちょっと手前で立ち止まった。太陽は低くなり、影が頼もしく伸びていた。かすかに熱を帯びた風が、心地よい音を連れてくる。
「ありがとうございました。お気をつけて。」
胸の高鳴りに確信する。彼の声だ。足元に伸びる分身に目を落とし、相変わらず、ずるいと思った。その思いを振り切りたくて、勢いよく顔をあげた。
―彼は、微笑んでいた。
ちょっと離れていたけれど、少し増えた目じりのシワもはっきりとわかる。胸の奥に自分の温かな体温を感じる。それから大きく空気を吸い込むと、同じ分だけ自然と息が漏れた。目じりのシワは、隣に寄り添う女性に向けられていた。長めの前髪をきちんとピンで留め、ツヤのある胸までの黒髪を右耳の下でひとつに結んでいる。白シャツの裾は膝丈の黒いスカートにしっかり収まり、腰に巻いた茶色のカフェエプロンにもアイロンがかけられているようだった。切れ長の目元だったけれど不思議と柔らかな印象で、とても綺麗だと思った。彼は自分の肩より下にある頭に手を置くと、店の中に消えていった。彼女は頭を押さえながら、すぐに彼の後を追った。
残されたのは、店を覆う緑のカーテン。ところどころに赤い花が見える。ここから見ると、赤い花はプチトマトのようにも見えたけれど、それは名も知らぬ花だった。
「お蕎麦、めちゃくちゃおいしかったね。」
「ああ。俺、弟子入りしようかな。」
「うそぉ!ほんとに?」
「ちょ、たたくなって・・・」
じゃれ合いながら横を通り過ぎる男女に笑みがこぼれる。
私たちの未来は、いつしか限りあるものへと変わってしまったけれど、彼の手はずっと先の未来へと繋がっている。深大寺そばの歴史は古く、人から人の手に伝えられてきたものだ。彼の紡ぎ出す深大寺そばも、受け継がれていくはずだ。ずっとずっと、きっといつまでも。同じようにどんな想いも行いも、死という肉体の限界がやってきたとしても―繋がっていく。生き続ける。繋がった一番先にあるのが、現在(いま)なんだ。
帰ろう。私の街へ。
また少し伸びた分身を引き連れて、一歩を踏み出す。深大寺から、歩き始める。
赤い花は気持ちよさそうに風に揺れ、青い空は果てしなくどこまでも続いている。明日も明後日も、空はずっとそこにある。

----------------------------------------------------------------

<著者紹介>

echo. (長崎県南島原市/36歳/女性/講師)

1|234 次の10件>>

主催

深大寺短編恋愛小説実行委員会
深大寺恋物語公募ポスター

第13回公募、募集開始いたしました。皆さまからのご応募お待ちしております。
募集要項の内容が変わりましたので、作品を書き始める前、そして投稿前に必ずご確認ください。
→第13回公募 募集要項

Facebookはじめました

紹介作品について

ブログにて紹介させていただいております作品は、第一次審査を通過し、且つ、Wordや一太郎のデータにてご応募いただいた方の作品のみを掲載させていただいております。
掲載前には、直接メールでご連絡しております。
何卒ご了承ください。

著作権について

このブログに掲載されている文章、及び画像の無断使用、無断転載、無断流用を固く禁止します。
※作品の転載に関しては、ご本人様のみ可能です。
転載等に関してご質問がございましたら、事務局までご一報下さい。

深大寺周辺地域紹介

深大寺地域観光マップ

Facebook始めました

最近のトラックバック