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<第8回公募・選外作品紹介>「縁結びの前に 」 著者:月出 里子

 新緑の鮮やかな季節だった。天気の好い土曜日の昼過ぎ、僕は彼女と一緒に、実家の最寄り駅である調布駅から深大寺に向かって歩いていた。
 今日、僕は彼女――先日プロポーズして晴れて婚約者になった彼女を、両親に紹介する。
 両親との約束は午後六時だったが、僕の生まれ育った町をよく知りたいという彼女の希望で、僕たちは、両親に会う前に深大寺周辺を観光することにしていた。
「とりあえず、昼飯にする?」
「うん! 深大寺そばがいい!」
 僕が問うと、彼女は元気よく答えた。どうやら彼女は事前にしっかり調布の観光情報を調べているらしい。僕の生まれ育った町を知りたいというのは口実で、彼女の真の目的は観光なのかもしれない。彼女は自分の好奇心に忠実だ。興味のあるものを見つけるとすぐに追いかけて行くから、これまでにも、彼女はデートの途中で度々迷子になった。そして僕はその度に彼女を探し回ってヘトヘトになる。我ながら愚かだと思いつつも、僕は彼女の無邪気な笑顔に文句一つ投げつけられない。
「お勧めのおそば屋さん、ある?」
 彼女が問うが、残念ながら、僕はあまりグルメではない。特に、実家住まいだった高校卒業までは、運動部に所属していたこともあって、質より量の食事をしていた。加えて、家族でレストランに出掛けて外食をするなどというお洒落な習慣も僕の家にはなかった。
「特には……。とりあえず深大寺まで行って、空いている店に入ればいいんじゃないかな。ここから少し距離あるけど、歩ける? バスもあるけど。」
「大丈夫! 隆宏君の育った町、色々見たいし。」
 一応、彼女は口実たる目的をまだ忘れてはいないらしい。
 T字路に突き当たり、彼女が左に曲がった。
「あ、深大寺に行くならここは右だよ。」
 僕が進言すると、彼女は振り返って僕の顔を見、しばし考えたようだが、
「でも、こっち!」
 と左に進んだ。お腹が空いたことを除けば、急いで深大寺へ向かわなければならない理由はない。僕は大人しく彼女に従った。
 その後も彼女の気まぐれに従って歩いていると、ふと、目の前の景色が懐かしい思い出と重なった。母校の高校の近くだった。
「めぇえん!」
「ゃぁあ!」
 奇声のような叫び声が響くのは、剣道場の裏手。この時期だから、新入部員の一年生が素振りと声出しの特訓を受けているのだろう。
「懐かしいな。」
 思わず漏らすと、一歩先を歩いていた彼女が振り返った。
「隆宏君、剣道部だったもんね。もしかして、この声は隆宏君の後輩かな。ちょっと覗いて先輩として指導してあげる?」
「いや、先輩って言っても、もう十年も前だから知ってる奴はいないよ。」
「でも、素振り王と呼ばれた偉大な先輩でしょ? きっと伝説として語り継がれてるよ。」
 彼女は真面目な顔で言うが、僕は決して校史に名を残すような優秀な剣道部員ではなかった。それどころか、あまりにも弱くて他の部員から練習相手にならないと言われ、道場の裏で独り素振りばかりしていた。それで付いたあだ名が素振り王。偉大な先輩などでは全くない。
 そもそも、なぜ彼女が僕のこのあだ名を知っているのだろう。酔って口走ったことがあったかもしれないが、できれば忘れていてほしかった。ましてや、後輩たちに伝説として語り継がれているなんて不名誉極まりない。
「練習の邪魔をすると悪いから。」
 気まぐれな彼女はそれで納得したのか、飽きたのか、くるりと回れ右をした。
「じゃあ、おそばに行こう!」
 深大寺を通り過ぎたことには、彼女も気付いていたらしい。僕は響く後輩の声を懐かしみながら、ゆっくりと彼女の後を追った。
 高校時代の僕は、雑草の茂る道場裏で、朝から晩までほとんど一人で竹刀を振り続けた。決して輝かしい青春ではなかったが、辛い過去というわけでもなかった。時々現れる野生のたぬきにおやつを分け与えながら竹刀を振った日々は、結構幸せだったように思える。
「今頃どうしてるかな、たぬ吉。」
「何? たぬ吉って?」
 前を歩いていた彼女が、振り返って僕の顔をのぞき込んだ。
「昔、よく道場の裏手に出て来たたぬきの名前。僕が勝手に付けたんだけど。」
「ふーん。」
 彼女はたぬきにはあまり興味がないのか、つまらなそうな返事を一つ返すと、再び僕の一歩先を歩き始めた。

 たぬ吉との出会いは、一年生の頃、五月の連休が明けて、自分が新入部員の中でも飛び抜けて弱いということを自覚した頃だった。
 その日、稽古が終わって、他の部員と共に深大寺の参道に寄り道しておやきを買った僕は、独り自主練をするために道場へ戻った。僕が道場の入り口の段差に腰掛けて高菜入りのおやきを頬張っていると、草の間から一匹のたぬきが顔を出した。
 僕がおやきを千切って放り投げると、たぬきはおやきの欠片に鼻を近付け、次の瞬間、それを前脚で払いのけた。
「なんだ、腹減ってないのか。」
 僕が呟くと、たぬきはこちらへ近づいて来た。たかがたぬきとは思いつつも、引っ掻かれて要らぬ怪我をするのも嫌だったので、僕は高菜入りおやきを手に立ち上がった。すると、たぬきは僕を警戒することもなく剣道場に入り込み、僕が入り口の脇に置いていた南瓜餡のおやきが入った袋に前脚を伸ばした。
 しまったと思った時には既に遅く、たぬきはおやきの入った袋をびりびりと破き、僕の目の前で堂々と南瓜餡のおやきを平らげた。
「高菜よりも南瓜餡が好きなのか?」
 僕の問い掛けが理解できたとは思わないが、おやきを完食したたぬきはちらりとこちらを見てから、悠々と剣道場を出て、背の高い雑草が伸びる茂みに姿を消した。
 たぬ吉はその後も度々現れて、必ず南瓜餡のおやきを奪って行った。つぶ餡や茄子のおやきを差し出してやったこともあったが、たぬ吉は南瓜餡しか食べない主義らしかった。

「ねえ。たぬ吉ってことはさ、そのたぬきは雄だったんだよね?」
 不意に彼女が振り返り、立ち止まった。
「え? いや、確かめてはいないけど。」
 僕の答えに、彼女は顔をしかめた。
「きっとたぬ吉は雌だよ。それでもって、隆宏君にたぬ吉なんて可愛くない名前を付けられたからがっかりしてるよ!」
 彼女は僕の目の前に人差し指を突き付け断言した。たぬ吉が雌だという確証がどこから得られたのかは分からないが、もし雌なら、確かにたぬ吉という名前はふさわしくない。
「たぬ子にした方が良かったかな。」
「隆宏君……。」
 彼女は大きなため息と共に俯き、僕の名前を呼んだ。
「な、何?」
 思わず僕が後ずさると、彼女は両手を腰に当て、仁王立ちで宣言した。
「……全っ然、センスない!」
「ご、ごめん。」
 僕は反射的に謝罪の言葉を口にした。
 彼女の指摘が事実であることを僕は十分自覚しているが、まさか、たぬきの名付けごときでこんな風に叱られるとは思わなかった。
「えっと……じゃあ、美幸なら、どんな名前を付ける?」
 独創的な彼女の趣味に合う名前を捻り出す自信がなく、僕は早々に彼女に正解を求めた。
「美幸!」
 彼女は即答した。自分の名前じゃないかと言い掛けて、僕は彼女の意図に気づいた。
「可愛い名前でしょ? 女の子らしくて。」
 彼女はにこりと笑うと、ワンピースの裾をふわりと翻し、僕に背を向けて歩き出す。
 彼女の主張によれば、雌であるはずのたぬきには女の子らしい可愛い名前を付けるべきで、女の子らしい可愛い名前とはすなわち、女の子らしくて可愛い彼女自身の名前である、というのが彼女の論理であり、僕に求められていた正しい答えだったに違いない。
「お腹も空いたし、早くおそばを食べて、深大寺にお参りしよう! 隆宏君との縁をぎゅうっと固結びしてもらわないとね!」
 彼女は、拳を握り締めて気合いを入れている。どうやら、僕の誤答に対する彼女の不機嫌は既に消え去っているらしい。
「それで、お参りが済んだら、おやきと深大寺名物のそばパンを食べるの! おやきは食べたことがあるけど、そばパンは食べたことがないから食べ比べるんだ! 餡はどっちも絶対に南瓜餡!」
 彼女は既におやつの計画に夢中だ。彼女が南瓜餡好きとは初耳だったが、なぜ南瓜餡なのだろう。僕の脳裏に、南瓜餡好きな青春時代の貴重な友の姿が浮かぶ。まさか……ね。
 彼女は僕を置き去りにして、スキップしながら数メートル先の曲がり角を曲がって行く。
 その時、一瞬、彼女のワンピースの裾から茶色いふさふさとしたしっぽのようなものが覗いたように見えたが、あれはたぶん、いや、きっと必ず、気のせいなのだと信じたい。
 「愛があれば年の差なんて!」はよくある台詞だが、「愛があれば種の違いなんて!」と言い切るには慎重な検討が必要だ。ただし、検討時間は、彼女が深沙大王に縁結びを願うまで! 僕は慌てて彼女を追い掛けた。


月出里子(東京都/女性)

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