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「紫陽花」著者:桜坂あきら

 紫陽花を見た後は蕎麦の予定であったから、立ち並ぶ蕎麦屋に程近い、深大寺南側の駐車場に車を入れた。深大寺の山門に向かって歩を進めると、参道の入口で、天蓋を覆うがごとく茂る青もみじが二人を迎えた。
 山門へと続く短い参道の左右には土産物店や茶屋が並んでいる。参道のかかりで雑貨を見ていた美香は、鬼太郎柄の小さな青いメモ帳を一つ買って店を出ると、ノースリーブのワンピースから惜しげもなく出した細い右腕を私の腕に絡めて、白い日傘はたたんだまま左手に持った。平日の午前中であれば、門前にはひと影もまばらであった。
 いかにも古刹らしき山門をくぐり、静かな境内に入った私たちの正面に本堂があった。
 形どおりに手を合わせはしたが、なんら感謝も願い事もせず、かといって懺悔することもなく顔をあげた私の横で、美香はまだ何か一心に祈っていた。
 案内板を見ると、元三大師堂の裏手から神代植物公園へ向かうことが出来るとあり、それに従うと階段を上った先に寺の北門があり、そこを出るとすぐ公園の入口であった。
 公園の中は静かな雑木林が広がっており、時折、鳥のさえずりが心地よく耳に届いた。
 美香の手のぬくもりを左腕に感じながらゆっくりと歩いた私は、もう随分と長く忘れていた肌がざわつくような高ぶりと、深い安らぎのようなものを、同時に感じていた。
 薄曇りの空から優しく降り注ぐ光が木々の枝葉に戯れたあと、目の前の道を明るくした。ばら園の手前を右に折れると、湧水を囲むように紫陽花が姿を見せ、その先へ誘った。
 あじさい園では、数え切れぬ紫陽花が、その色と美しさを競うように咲き誇っていた。
「すごくきれい。素敵ね」
 感嘆の声をあげた美香は、スマホを取り出し、私のことなど忘れたように写真を撮った。
 紫陽花の見事さに感動を覚えたのはもとより私も同じだったが、私はそれよりも、スマホを構え、一心に撮影している美香の横顔にこそ目を奪われた。
 控えめなブラウンに染めた美しい髪が肩先まで伸び、風に靡いた髪の間から白いうなじが見える。紺のワンピースに隠された胸がほどよい豊かさであることも、横から見ればなお一層よくわかり、私の脳裏に艶めかしい妄想を呼んだ。
 その髪に触れたくなり手を伸ばすと、ふいに美香が顔をあげたので、目が合った。
「紫陽花は見ないの? なに? いやだ、そんなに見ないでよ」
 美香はそう言うと、私の腕を抱くようにして身体を寄せた。
 美香とはもう三年も前に知り合っていたが、週に一度、他の大勢と同じように挨拶を交わし、時に他愛無い冗談を言い合う程度の関係でしかなかった。
 先週、偶然に本屋で会い、流れで喫茶店へ行った。二人きりでゆっくり話したのはそれが初めてであった。屈託ない笑顔を見せて楽しそうに話す美香を前にして私は、ずっと前から美香に対して秘かに抱いていた気持ちは、恋だったのだと気付いた。
 別れ際、ゆっくりどこかへ行かないかと誘った私に、水曜ならと美香は応えた。
 紫陽花を見ると美香はもうすっかり満足した様子で「次は、お蕎麦ね」と言った。
 来た道を戻りながら、深大寺の中を通り、美香が事前にネットで調べていた蕎麦屋に向かった。歩きながら、昼時の混雑を案じる話をしていたが、運良く待たずに座敷席に座ることが出来た。美香は、落ち着いた風情の店内を興味深そうに見た。
「このお店がよかったのよ。すごく評判がいいの」
 天もりを二つ頼んだ。
 旨い蕎麦だった。なめらかでありながら、風味がしっかりしていた。岩塩で食べた天ぷらも、さくっとした気持ちのよい歯触りが、素材の旨さを引き出していた。
「すごく美味しいわ。今まで食べたお蕎麦の中で、一番」
 満足そうにそう言いながら食べる美香の、箸づかいがとてもきれいであることに、私は感動した。むろん蕎麦は文句なく旨かったが、私は、食べ物の味は、何を食べるかではなく、誰と食べるかでも変わるのだと、今更のように思いながら、最後の蕎麦湯を味わった。

「今日は、七時くらいまでに帰れたらいいの」
 今朝、私の車に乗り込んだ美香は最初にそう言った。深大寺の後は、夕方までゆっくり過ごす約束だった。車を調布方面へ走らせ、あらかじめ調べてあったホテルに車を入れた。
「前にも誰かと来たことがあるの?」
 ナビも使わずにたどり着いた私に、美香が訊ねた。
「違うよ。調べておいたんだよ」
 私がちょっと焦ってそう説明すると、美香はさも可笑しそうに笑った。
部屋に入りドアを閉めた途端、私は夢中で美香を抱きしめた。
 立ったままひとしきりキスを交わした後、私はようやく腕の力を緩めて美香を開放し、ソファーに座った。
 美香は私の隣に腰かけると部屋中を見渡して、「来ちゃったね」と言った。
 私は先にシャワーを浴びて美香を待った。やがてバスタオルを巻いてベッドへ来た美香は、そっと私の隣に身体を横たえた。
「明かりは?」と尋ねた私に「どっちでも」と応えた美香は、自らバスタオルを取り、明かりも消さずに私の胸に頭を預けた。
 離婚後の三年間、誰にも触れさせることのなかったというその身体は、無条件に美しかった。私たちは、互いの快感をより高みへと昇華させることだけを求めた。
 美香は何度も昇り詰め、最後にひときわ大きく震えた。
 余韻の中に身を置くようにじっと目を閉じている美香の重みを左の腕に感じながら、何故だか私は、水辺に咲いていた薄紫の額紫陽花を思い出していた。
 触れることがためらわれるほどに可憐な花であったが、どこか蠱惑的でもあった。
 私は右の掌で汗ばんだ美香の乳房をそっと包んだ。刹那、ぴくりと身体を震わせた美香は、静まりかけていた快感がまた呼び戻されたと見えて、小さな甘い吐息を吐いた。
 五時過ぎにホテルを出て、小一時間で私たちの街に帰り着いた。最寄り駅の隣の駅で車を降りた美香は、そのままロータリーのタクシー乗り場へ向かった。
 タクシーの中から送ったのであろうメールが、私のスマホに届いた。
「楽しかったわ。ありがとう」
「気を付けて」
 そう返信した私は、その指で送受信両方の履歴を消した。帰り道のコンビニに車をつけた私は、コンソールボックスから粘着クリーナを取り出し、助手席を中心に車内を丁寧に掃除し、全てのごみをコンビニのごみ箱に捨て、珈琲を一つ買って車を出した。
 これから私は、毎週のようにこうして美香との時間を作るだろう。先のことなどまだ考えられないが、私と美香の休みが同じ水曜であるということは、悪魔的な偶然であった。
 四日後、日曜。
 私は、六年生になる息子の少年野球チームのコーチとしてグラウンドに立っていた。
 進学を考慮し、日曜にしか練習をしないチームであるにも関わらず、かなりの強豪チームに育っていた。特に高学年は7月に始まる大会での優勝を視野に入れているだけに、練習にも力が入っていた。
 朝から私は守備強化のためのノックを行い、息子をはじめ投手陣には、投球練習を中心とした別メニューを与えていた。投手の指導は、このチームの出身で高校野球まで強豪校で投手として活躍し、今は、大学三回生になっている隼人に任せていた。
 一時間毎の水分補給の休憩になった。グラウンドの外で練習を見守っていた私の妻は、子供達にスポーツドリンクを与えると、隼人にもスポーツドリンクを手渡した。
 二人が何か会話を交わしているのが遠目に見え、笑った隼人の白い歯が眩しく輝いた。
 練習中、妻の視線はいつも、息子と隼人に注がれている。
 隼人と妻が時折、意味ありげな視線を送り合い、二人だけにわかる物言わぬ会話をしていることは、もう随分前から気付いていた。
 数か月前から少しずつ妻の服装が若返ったことや、土曜日ごとにどこかへ出かけていることにも気づいているが、だからと言って私はそのことに何の感情も抱いてはいない。
 昼前になれば、午後の給水当番として、四年生の選手の母親である美香が、他の母親たちと一緒にグラウンドの外に姿を現し、今までと変わらず私の妻とも談笑するのだろう。
 紫陽花の花言葉の一つに、「移り気」があることは、あの日、美香がベッドの中で教えてくれた。

桜坂あきら(大阪府堺市西区/男性/会社員)