*

「黄昏の雨を往く」著者: 池田洋子

あの日も雨だった。
二十代の学生だったわたしは、下宿先近くの深大寺の門前で、うまいと評判の蕎麦を食べていた。山形の蕎麦処出身で、蕎麦の味にはうるさい方だったが確かにそこの蕎麦は美味しかった。新蕎麦のふくよかな香りと蕎麦湯まで堪能し、すっかり満足して外に出た。ところが急に大粒の雨が降り出して、どうしたものかと立ち尽くしていると、白い割烹着をした店の女の人が傘を差し出して貸してくれた。
それが彼女との出会いだった。
すっかりその蕎麦屋が気に入ったわたしは、傘を返しに行った後も、何度も立ち寄るうちに、店の親父さんとも親しくなり、蕎麦談義に花を咲かせた。彼女はその店の看板娘で、母親とお兄さんと家族四人で経営していた。そのうち、彼女とは店仕舞いの後に食事に行ったり、休みの日に映画に行ったりして親しくなっていった。バーブラ・ストライサンドの『追憶』を何度見て、何度同じシーンで涙したことだろう。一枚のハンカチで足りない彼女のために、毎回もう一枚新しいハンカチを用意していった。あのせつない曲を聞くたびに映画とリンクして、彼女と初めて手を繋いだ雪の中での冷たい掌と指先の感触が蘇る。

深大寺本堂に参拝してから左手にある国宝釈迦如来像を拝観し、北門近くの開山堂に抜ける階段を上っていると、雨粒が傘に落ちる音がした。左側の石垣に絡まる蔦の葉っぱに目をやると、雨の雫が若芽の上で翠玉色の小さな雨粒になり転がり落ちていく。それが石垣の隙間に浸み込み湧き水に流れていくのだろう。開山堂近くの北門を出ると、東京で最大のバラ園がある都立神代植物公園に出る。そこから脇道を抜けて、しばらく歩くと特別養護老人ホーム〝風の杜〟がある。一階に事務所とデイサービスのフロアーがあり、二階と三階に十人でひとグループとするユニットが各四ユニット(東西南北)中庭を囲むようにあった。食事はユニットごとに台所のある食堂で提供され、各自の部屋は個室になっていて、洗面台とトイレが備わっていた。
わたしは施設の出入り口の傘立てに傘を置き、事務所で面会票を書くと二階の北ユニットへ向かった。菖蒲の花の絵とアヤメと書かれた部屋のドアをノックして引き戸を開けると、彼女は、お気に入りの淡い勿忘草色のカーディガンを羽織り、薄紅色のひざ掛けをして、窓に面した一人掛けのソファーに座って外を見ていた。部屋にはつけっぱなしのテレビから見もしない相撲中継が流れていた。彼女は、わたしを見て、にこりと笑った。
「あら、お帰り孝之、今日はもう仕事は終わりなの?」
孝之とは、彼女とわたしの息子の名前だ。五年前に出張先のビジネスホテルの一室で、くも膜下出血を発症して妻子を残してひとり静かに逝った。
思えば、あの日から、彼女は少しずつ壊れていった。

最初は物忘れが多くなった。ある日冷蔵庫をあけたら納豆が溢れていた。来る日も来る日も納豆汁が食卓に上った。そのうち、買い物に行って、帰り道がわからなくなり、交番から連絡が来た。そして、何より困ったのは風呂に入らなくなってしまったことだった。洗い方がわからなくなってしまっていた。今日出来たことが明日も出来るとは限らない。しばらくは、デイサービスに通うことで落ち着いたが、暮れに玄関先の段差でつまずいて転び、大腿骨骨折をして入退院を繰り返してからは、段々わたしのことも彼女の記憶の泉から零れていってしまった。
「久しぶりに深大寺に寄ってきたよ」
「深大寺……水車はまだあるのかしら」
おや、水車をまだ憶えているのかと少し驚いた。深大寺の蕎麦屋が連なる道に水車があり、いつもその前で待ち合わせをした。水が滔々とめぐり流れる音に故郷の最上川が思い出されて心落ち着いた。携帯電話など無い時代だから、講義のあと、友人と夢中になって論じていて、一時間近くも待たせたこともあった。怒って頬を膨らませた顔がまた可愛かった。大学を卒業して、就職先も調布市内だったため、デートコースはもっぱら、神代植物公園だった。春は桜を見に、五月には春のバラフェスタへ、秋には四メートルもある巨大なパンパスグラスをふたりして首が痛くなるまで見上げた。
付き合うようになって、三年が過ぎた頃、彼女が奥に着替えに引っ込んだ隙に、親父さんがやってきて話をした。
「君は……その、娘と結婚する気はあるのかい? 君はまだ若いが、あいつは来年三十になる。実はあの子に縁談がきてるのだが」
「え、ちょ、ちょっと待ってください。両親に話しますので」
「しかし、田舎のご両親は納得しないだろ? 娘は君より五歳も年上だ」
案の定、田舎のわたしの両親は難色を示した。山形の旧家で家柄にこだわる父親は、田舎出の息子が東京の女にたぶらかされたのではないかと、興信所を使って彼女のことを調べさせた。そこで判明したのは、彼女は蕎麦屋の親父さんの実の娘ではないということだった。
戦後、満州からの引き揚げ船で、乳飲み子を抱えた瀕死の母親から託された娘だった。母親は舞鶴港に着くと同時に息を引き取った。父親は、シベリアに連れて行かれたらしい。終戦当時、満州在住の民間邦人は推定百五十五万人。うち引き揚げたのは百二十七万人で軍民合わせて約二十四万五千人が命を落としていた。戦後ソ連に強制連行された日本の将兵らは、約六十万人いた。
そんな出自のわからない娘を嫁には出来ないと、父から大反対されるはめになってしまった。彼女は、養女であることは知っていたが、東京大空襲で亡くなった親戚の子と聞かされていたため、少なからずショックを受けたようだった。
半分、勘当同然で一緒になった。子供が出来てようやくというか渋々、親も認めざるを得なかった。紆余曲折あったので、数年後に子供を交えての結婚式では私の方が号泣してしまった。やっと掴んだ幸せだった。五十余年、二人三脚でやってきた。嘱託社員としての会社勤務も終えて、これからは、ふたりでゆっくり旅行を出来ると思っていたのだが、片翼では飛べそうもない。

「孝之、今日はもう仕事は終わりなの?」
何度目の問いになるだろうか。最初の頃は、何度も同じことを言うことに苛々したが、最近は慣れてしまって、あ、十回目だとクスっと数えている自分がいる。
わたしはベッドの隅に腰かけてソファーに座る彼女としばらくの間、キャッチボールが成り立たない頓珍漢な会話をしていた。それでも返球があるだけ、今日は調子がいい。調子が悪い時はうつろな目を漂わせて、返事も無い。もっと酷いとベッドから起き上がりもしないで背を向けていることすらあった。今日は顔色もいいようだ。
ふと、窓の外に目をやると、雨脚がひどくなりつつあった。
「じゃあ、また来るから。雨がひどくならないうちに帰るよ」
片手を挙げて挨拶し、わたしがドアに向かって歩き出そうとすると、彼女がゆっくり立ち上がり、部屋の隅に立てかけてあった何かを急いで持ってきた。いつだったか、わたしが置き忘れた傘だった。
「よかったら、どうぞ、この傘お持ちください」
はにかむように頬を紅潮させて、わたしの目を見る彼女の瞳は、まさしく五十年前の花江だった。胸の奥がとくんと脈打った。花江が戻ってきた。鼻の奥がツンとして、頭の中が熱く渦を巻く。抱きしめたら壊れてしまいそうで動くことも出来ずに、わたしはそのままいつまでも花江を見つめていた。

池田洋子(東京都調布市/66歳/女性/家事従事)