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「カラスの恋」著者:永田つむぎ

 蕎麦の喉越しを堪能しながら、多川実久は思い直した。気のせいだったに違いない。
 野草の天ぷらに箸を伸ばし、サクサクした心地よい歯ざわりに思わず目を細める。
 先日、実久は三十八歳になった。気ままな一人暮らしを謳歌している。好きなものを食べ、行きたい場所に行き、寝たいときに寝る生活だ。仕事もそれなりに順調で、とびきりの贅沢はできないが、気の合う友人と食事を楽しんだり、専門店で少々値が張ってもお気に入りのコーヒー豆を買ったりするぐらいの余裕はある。三年前に別れて以来恋人はいないが、今更、この満ち足りた生活に他人を入り込ませることが億劫で、新しい出会いを探す気にはなれないでいた。
 ところが、半年前から同僚になった柳田幸子は、独り身の実久を放っておいてはくれなかった。柳田は、大学生の息子と高校生の娘がいるアラフィフで、結婚、出産こそが女の幸せと信じ込んでいる。実久に伴侶を見つけることを自分の使命と感じているようで、ふくよかな体を揺らしながら職場を歩き回り、実久と誰かをくっつけることにご執心だ。柳田がどんな話をしたか知らないが、先日は顔見知り程度の年上社員から突然交際を申し込まれた。丁重にお断りしつつも、実久は随分気まずい思いをした。
 実久は柳田に何度か、今は誰とも付き合う気がないし、結婚する気もないことをはっきり伝えた。ところが、柳田は意に介さない。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよって言うでしょ」
 そういってにっこり笑う柳田は、しかし、すぐに真面目な顔でこう言った。
「後悔したときじゃ遅いのよ」
 そんな柳田は、仕事が早く面倒な雑務も率先して引き受けてくれるので、職場にとっては、ありがたい存在だ。気配り上手で、実久が青白い顔で生理痛に苦しんでいた時には、そっと鎮痛剤とカイロをくれて仕事を手伝ってくれた。実久は柳田の優しさに感謝している分、そのお節介を強く止められないでいる。

 柳田のことを考えながらも、天ぷらと蕎麦を食べ終えて、実久は満足げな溜息をついた。悩み事があったって、おいしいものはやっぱりおいしい。
 深大寺に来ることは、今朝思いついた。京王線笹塚駅近くのマンションで起き抜けのコーヒーをすすりながら、窓から差し込む明るい日差しに無性にどこかに出かけたくなったのだ。せっかくの新緑の季節である。できれば自然の多いところに出かけたい。
 思い立ったら即行動。とはいえ、今日は実家に顔を出す予定があった。
 実久の実家では七十歳目前の両親が二人で暮らしている。両親は、趣味と市民農園に忙しく、実久は二人が元気でいると安心しきっていた。ところが、でき合いのお節料理を囲んだ今年の正月、両親から同じ話を三度聞いた後、冷蔵庫に賞味期限切れの食品を大量に発見して、実久は不安に襲われた。思えば料理好きの母親が、お節料理を作らなかった初めての正月でもあった。
 その正月以来この五月に至るまで、二週間に一度、実久は手土産を持って実家を訪れては、両親の生活に異変がないかをチェックしている。今日はその訪問日に当たるため、出かける先は実家から遠すぎないところが望ましい。
 そこで思いついたのが深大寺だった。笹塚駅から調布駅まで電車で十数分。調布駅からバスに乗れば、深大寺はすぐだ。実久の実家がある国領駅も近い。深大寺で参拝して、名物の蕎麦を昼食にすることを決め、実久は一人暮らしの部屋を出た。
 そして、マンションのエントランスを出てすぐ顔なじみに会った。

 この顔なじみというのはカラスだ。三か月ほど前の明け方、徹夜仕事で疲れ切った実久がマンション前でタクシーを降りた時に出会った。カラスは、他に人通りのない道端でゴミ袋を漁っていた。ゴミは、ビニール袋や紙くずが大半で、カラスの食べ物になりそうなものはなかった。それでもひたむきにゴミをつついてはひっくり返す姿が哀れで、実久は、間食用に持ち歩いていたクルミをあげることにした。
 実久がカラスに近づいて道路にクルミを置くと、警戒しながらもカラスは寄ってきて、つついて食べた。そして、思慮深げな眼差しで実久の顔を見つめた。
 翌日から、実久が出勤するタイミングを見計らうかのように、毎朝、カラスが現れるようになった。実久は、安易に餌を与えたことを後悔しつつも情がわいて無碍にはできなかった。人目を避けながら、会うたびにクルミを与える日々が始まった。
 そのうち、カラスはクルミを食べ終えると、お礼のつもりか曲芸飛行を見せるようになった。急上昇に急降下。自由に空を駆ける様子は、柳田の扱いと両親の老いに悩む実久の心を和ませた。そして、実久のカバンには、カラスのためのクルミが常備されるようになった。

 会計を済ませて蕎麦屋を出て、念のために辺りを見回す。途端に、見覚えのあるアクロバティックな飛行が目に飛び込んできて、実久はぎょっとした。蕎麦屋に入る前に、向かいの木に見覚えのあるカラスを見たのは、気のせいではなかったのだ。
 派手に飛ぶカラスは目立ちすぎる。実久は、眼前で急上昇して見せるカラスが、深大寺に住まうカラスの怒りを買わないかが心配になった。得意げに飛び回るカラスが他のカラスに襲われる予感におののいて、実久は目についた店で素早く蕎麦饅頭を買い、足早に調布駅行きのバス停を目指した。

 バスから電車に乗り継いで国領駅に着く頃には、実久の気持ちはずいぶん落ち着いていた。少なくとも実久が知る限りは、深大寺でカラスの喧嘩は起きていなかった。
 出会い、毎朝の曲芸飛行、深大寺での遭遇。野川沿いの実家に向かって歩きながら、実久はつらつらとカラスのことを考える。その思考を中断させるように、すいーっと件のカラスが眼前に降り立った。実久は驚きつつも、周りに人がいないことを確認した。
「随分遠くまでついて来たんだね。ちゃんと帰れるの」
 尋ねる実久の顔をカラスは熱心に見つめてくる。お腹がすいているのかと考えて、実久はカラスの足元にクルミを置いてやった。すると、お返しと言わんばかりに、カラスが実久の足元にきらきら光る何かを置いた。 そして、じっと実久を見つめたかと思うとクルミを食べずに飛び立ってしまった。
 いつものように曲芸飛行をするカラスを見送ってから、実久はかがんで残されたクルミを片付け、カラスの置き土産を拾い上げた。角がなく、すべすべとした小石のようだ。薄緑色の半透明でひんやりとしたそれは、確かに美しかった。

 実家の玄関に入ると母親の咲子が出迎えてくれた。手土産の蕎麦饅頭を渡せば、予想以上に喜んでくれる。実久は、洗面所で手を洗うついでに、カラスの置き土産をハンドソープで洗った。そして、ティッシュでくるんでポケットにしまった。

 笹塚の部屋に帰ってから、実久は、ポケットからカラスの置き土産を取り出した。正体を知りたくて、ノートパソコンを開き、インターネットで調べることにする。何度か試した後、「ガラス 角がない 自然」で検索して、シーグラスという存在に行き当たった。ガラスが長い間波にもまれて角が取れ、浜辺で見つかることがあるそうだ。検索結果の画像と見比べても、実久の手のひらに乗るそれはシーグラスのようだった。
 実久は、ついでにカラスの生態について検索した。いくつかのページをたどるうちに求愛行動の情報に行き当たる。意中の相手の前で、急降下や急上昇をして見せたり、プレゼントを贈ったりすることがあるそうだ。実久は、自分をひたむきに見つめるカラスの顔を思い出した。シーグラスを見つけて、実久の元まで運んでくれたカラスの健気さを思うと、切なくも、なんともいえないあたたかい気持ちになった。
 そして、ふと思いついた。このシーグラスをアクセサリーにしよう。カラスに嫁ぐことはできないが、せめてその想いを身に着けておきたい。実久は、さらに考えた。シーグラスを指輪にして、以前からの知り合いと 付き合うことになったと、柳田に見せたらどうだろうか。柳田なら、きっと心から喜んで安心してくれるに違いない。
 実久は思わず笑みをこぼした。そして、シーグラスを指輪にする方法をインターネットで探し始めた。

永田つむぎ(神奈川県)