「三度目」著者:東出時雨
「ぼくが亀だった頃の話だけど」
「亀、ですか」
森川さんは「うん」と頷くと、先立って歩き始めた。
お蕎麦を食べて、食後に珈琲まで頂いていたら、すっかり十五時を過ぎていた。
どうしても見てもらいたいから、と言う森川さんに連れられて、深沙堂に向かっている。参道を歩く人は、心なしかまばらに見えた。
「毛虫だったこともあるんだけどね」
私はしばらく黙っていたが、「どういった種類の毛虫ですか」と訊ねた。
森川さんは淀むことなく「桜の木にいるやつですよ。さくらけむし。もんしろしゃちほこともいうけどね」と答えた。「食べると美味しいんですよ。桜の濃厚な香りと旨味があって。あれは珍味というやつかもしれないね」と、付け加えもした。
しばらく黙って歩いたあと、「ともあれ」森川さんがまた口を開く。
「これで三度目なんだ」
と、彼がきっぱりと言った。
「人間が一番難しいんです。言葉があるでしょう? それでなおさら事態がややこしくなる」
私を振り返る森川さんの眼鏡の奥はよく見えなかった。
そうこうしているうちに深沙堂の屋根が見えてきた。お堂を取り巻く古い木々たちがそよいでいる。
森川さんが「あれですよ」と指差すと、太陽がさっと雲に覆われ、暗がりでカラスが、かあ、と鳴いた。
「なんだか日蝕みたいですね」
私が言うと、森川さんが下を向いたまま、「色々、あったからね」と呟いた。
お堂の前で、二人で手を合わせる。
「さっきの話だけど」
森川さんが再び口火を切る。
「君は覚えているかと思って」
「何のことですか」
「亀だったことを、ですよ」
なんと言っていいか分からずにいると、森川さんは深い嘆息をつき、そばの階段に腰かけた。
私も必然的に隣に腰掛けることになった。夕暮れはまだ先でも、風には少しずつ冷たさが混じっている。
「懐かしいなあ。ここの土地の息子を、ぼくの甲羅に乗せてね、湖の真ん中に浮かぶ島まで泳いだんだ。そこに彼の妻になるお姫様が幽閉されていてね。今はもう湖はなくなってしまったけど、ほら、あの木はまだそこにあるね。あの日からずっと立っているじゃないか」
彼の言う通り、立派な胴回りの古い木が、お堂のそばに立っていた。
「ロマンチックなエピソードですね」
私が言うと、森川さんが、
「そんな話は滅多になくなってしまったからなあ」
と、切なそうに空を見上げた。
「このお堂はあの二人の恋が建てたようなものですから。彼が水神様に誓いを立てるのを、ずっと隣で聞いていたなあ。彼女を妻に出来るなら、ここに千年続く寺社を建てて、お祀りするってね。すると、ぼくの体に不思議な力が湧いて、湖を渡ることが出来たんだ。あの時、君もぼくのそばで彼の誓いを聞いていたじゃないか」
今度は咎めるような目で隣に座った私を見つめる。逃れるように見上げた空を、一羽の鷹が横切っていった。
「そういえば、高木課長と村田君の話、聞きましたか?」
私が話題を変えると、「ううん。どうなったの?」と森川さんが身を乗り出した。
転属して来たばかりの新人、村田君が二十歳も年の離れた高木課長に恋をしてしまったことが、始まりだった。まず村田君が森川さんに相談し、次に森川さんから私が打診されて、高木課長を誘って四人で飲んだ。そこまでは良かったのだが、「課長とどうしても二人きりになれない」と、村田君が森川さんに泣きついて、私を含めた三人でまた飲むことになった。
いつの間にか「村田君の会」と名付けられた三人の集会は、結局五度も開催され、無碍に断ることも出来ず恋の相談を受けるうちに、すっかり私も巻き込まれてしまっていた。
私は課長が五年前に恋人と別れて以来、独身を貫いていることを知っていた。
赤提灯を二軒飲み歩き、課長に切り込んだ。
「村田君のこと、どう思うんですか?」
「どうって、二十歳も年の離れた部下だよ」
はははっと笑って済ませた課長の横顔を見た時、村田君に勝ち目はないな、と思ったものだった。
「あの二人、付き合うことになりましたよ」
「なんだって?」
一筆書きで描いたような表情の森川さんを見て、思わず吹き出す。
「一体どこから、どうしてそうなったの?」
勝ち目はないのに諦められないのだから、最大の出力で倒してみれば?
そう言って焚きつけたのは私だが、間に受けた村田君は、高木課長にプロポーズしたのだ。
指輪を買い、自分の親を説得し、外堀を埋めてから行動に起こす、という徹底ぶりだった。面食らった高木課長は有効な反撃が出来なかったのだろう。
男が本気になると、こうも恐ろしい。そういえば父も母と結婚するために、それまでミュージシャンになると息巻いていたのに正社員として就職したのだし。好きな女と一緒になるためなら、男はなんだってやるのだ。まさか村田君までそうなるとは、思っていなかったのだけれど。
「半年後に入籍するって」
森川さんはゆっくり空を仰ぎ、「奇跡じゃないか」と言った。
そう、ほとんど奇跡のような展開だった。
深大寺そばでも食べに行きませんか、と森川さんに誘われたのは、「村田君の会」に巻き込んでしまったことへの、お詫びとお礼が理由だった。
森川さんが一層感慨深げに呟く。
「思い出すなあ。湖を横切ってね、ぼくが新郎を背中に乗せてね。あの時、君はずっとぼくの隣を泳いでくれていたけれど」
今回は、君が主役だったね。そう言って、はは、と笑った。
薄暗くなってきていた。森川さんはさっきからどこかもじもじしている。
「もう帰りましょうか」
と声をかけるのだけど、「うん、そうだね」と言ったきり、腰を上げようとはしない。
「あ」
ほっぺたにゴミがついていますよ、とウソをついて森川さんの右頬に触れたら、彼がその手をぎゅっと握った。
「だから」
森川さんが私を見た。
「ぼくともう一度一緒になってください。ぼくたち、これで三度目なんだ」
君はどうせ覚えていないだろうけど、と森川さんが付け加える。
本当は覚えていた。亀だった時も、毛虫だった時のことも、私はしっかりと覚えている。
告白するのに二時間かかるあなたは、人間が一番難しいと言うけれど、亀の時もとても難しかった。亀でも、いや亀らしく、やっぱりぐずぐずしていたではないか。あの時も私は業を煮やした。早くしないと姫様の気持ちが切れてしまうと急かすのに、あなたは出発が遅くて。どうせ覚えていないだろうけど。思い余って言ってやろうかと思ったが、私も亀だった頃の性質がまだ残っているのか、なんとなく遠慮してしまって。
「はい」
あの日の古い木が揺れ、二つ返事で、三度目のあなたを受け入れるのだ。
東出時雨(神奈川県川崎市)