「拭いきれない」著者:脆衣はがね
バスの窓から見える光景が、いつも鍵をかけたインスタグラムのアカウントからこっそりと覗いている彼女の投稿と重なり、心臓の端が炙られたように痛んだ。バスのアナウンスで、ここが神代植物公園なことを知る。ぼうぼうと生えた背の高い雑草の隙間から、時折芝生のような開けた緑色の空間が見えた。
「東京のバスから見る景色の中で一番好き。次は神代植物公園にも行けたらいいな。」
三ヶ月前の投稿で彼女が言っていたのはここのことだったのか。
バスが深大寺に停まる。ありがとうございました、と運転手に軽く頭を下げてからバスを降りる。靴裏がかちゃりと砂利を踏んだ。木々は豊かに全身についた葉を揺らしている。深い緑、淡い緑、鮮やかな緑が頭上で混ざりあうように風に踊る。団地やマンションが立ち並ぶ、都会より明らかに遊ぶ場所は少ないけれど、田舎と呼べるほどの自然もないベッドタウンで生まれ育った私には、はっきり言って馴染みがない光景だ。三宅は当たり前のようにこの空間に囲まれて生きてきたのだろうか、と思う。
幼馴染の、同い年の女の子がいるということは、三宅と付き合う前から知っていた。初めて二人きりで出かけようという話になったときに、三宅が「床が鏡張りの空間があるらしいから、短いスカートは履いて行かない方がいいらしいよ」と言ってきて、女の子の影があることに胸がざわついた。
その幼馴染の子とは、大学進学を機に一緒に栃木から上京してきたのだという話は二回目のデートのときに聞いた。
「上京してすぐの頃は、お互い知り合いが一人もいなかったからさ。あいつの家は電車で三十分くらい行ったところにあるんだけど、よく一緒に晩ごはんを食べたりしてたな」
私が三宅に出会ったとき、彼はすっかり方言がとれて(もともと栃木の若者はほとんど訛りもないと彼は主張する)、新宿駅の乗り換えなんかは私よりも詳しかった。私がもう今からでは彼と共有できないものを、その子は共に味わっていた。
付き合っていた過去はおろか、お互いに一度も恋愛的な意味で相手を意識したことがないと三宅は言っていた。赤子の頃から知っているやつのことをそういうふうに見られないよ、とも。
「三宅の方はそうかもしれないけれど、相手の方はわからないじゃん。三宅に言ってないだけで、三宅のことが好きだった時期があるかも」
今この瞬間も、という言葉は気管が狭まり、喉を通過してこなかった。三宅は乾いた声で笑い、「都会っ子だなあ」と感心したように呟いた。
妖怪がひょっこりと屋根から顔を出している、趣のある茶屋の横を抜ける。がびがびした音質の聞き慣れたテーマソングが遠くに聞こえる。朝方に軽く雨が降ったのだろうか。石畳の上には、ところどころ濡れた泥が付着していた。
やけに蕎麦屋が多いことには、参道を歩きながら気がついた。彼女の投稿にもお昼ごはんに食べたのであろう蕎麦の写真は載っていたけれど、お寺だしそういう和食のお店があるのだろうくらいにしか思っていなかった。
千葉の自宅から調布までは電車で片道二時間。時間だけで見ればちょっとした旅行のようなものだけれど、深大寺の下調べはほとんどしてこなかった。ただ、彼女がインスタグラムでここの写真を載せていたから来ただけ。「じんだいじ」という読み方だって、彼女が投稿につけた「jindaiji」の文字を見るまでずっと「しんだいじ」だと思っていた。
いくつかの蕎麦屋を覗き、奥の方にあった比較的客足が落ち着いているお店に入った。自分と同じくらいの歳の女性店員に案内されて、奥の座敷に通される。先月買ったばかりのサンダルは、いちいちフックを外さなくてはいけなくて脱ぐのに時間がかかった。つま先が、少しだけ泥で汚れている。指先で拭うと、まだ土が水分を含んでいたからか上手く取ることができずに、ベージュのフェイクレザーの上に薄い茶色が広がった。豊かな自然の中で育った三宅の幼馴染だったら、こうなることを見越して運動靴を履いてきたのだろうかと思ったら、蕎麦を食べる気分ではなくなった。
幸いにもそのお店は、蕎麦以外にかき氷のメニュー表が置かれていた。少しだけベタついたそれをメニュー立てから抜き取る。ベリーや杏仁豆腐といった珍しい味もたくさんあったけれど、結局ブルーハワイのかき氷を頼んだ。
綾瀬が嫌だったらもうあいつと会わない、と付き合うことになってすぐ、三宅は言ってくれた。お互いの呼び方を決めるのよりも先だった。付き合ってほしいと言ってきたときと同じくらい真剣に見えた彼の表情で、この人はこれまでに幼馴染の話をするたびに私が小さな炎に虐められっていたこと気づいていたのだろうかと思った。
「年末とかに地元のみんなで集まろうってことになったら話は別だけど、それ以外は極力」
「いいよ、そこまで気を遣わないで」
三宅の優しさから紡がれた言葉をちょっとだけ馬鹿にしたように笑いながら、ストローでアイスティーをかき混ぜた。私を見る、彼の何かを言いたげな瞳を今も覚えている。
そんな目をするんだから、本当に彼にとってその子は幼馴染以外の何ものでもないのだろう。幼馴染。恋人よりも深い場所にある存在。私がこれからどう転んだってなることできない存在。
三宅と私を結ぶ関係性が友だちから恋人に切り替わったことによる、最初の変化は痛みだった。今までのじりじりと、真夏のグラウンドに腰を下ろしたときみたいな小さくて細かい痛みの連鎖ではない。ぎゅっと心臓ごと絞られるかような痛み。潰された分、感情が体から一気に押し出されそうになる。しっかりとこの関係性を「恋人」という名前で保証されたなら、楽になれると思ったのに。現実はそんなに単純ではなかった。
「別に気にならないから、これまでどおりその子とも会ったりしてよ」
彼は最初から誠実であろうとしてくれた。その手を振り払い、強がって見せたのは私だ。
三宅の幼馴染のアカウントは、彼と付き合いはじめて一ヶ月も経たずに見つけた。三宅が高校生のときに載せたであろう投稿に「いいね!」をしているのが彼女だけだったから。アイドルとか話題のカフェとかを保存するために使っていた、フォロワーが一人もいない鍵付きのアカウントで、ひっそりと彼女の投稿を覗くようになった。
二週間前の祝日、海の日の夜。彼女のアカウントに、深大寺を訪れたという写真が新しく投稿された。二つ並んだ蕎麦のお皿。「小吉だった」という彼女の、水色に染まった爪が持つおみくじの横で、凶のおみくじを握っている骨ばった手。ああ、三宅だ。すぐにわかった。わかったら、もう実際に自分もそこを訪れないと気が済まなかった。
かき氷で心なしか体温の下がった体を引き摺り、石段を十数段上る。ホオヅキで作られたアーチと山門をくぐると、すぐ正面にどっしりと構える本堂が目に入った。
「東京っていつもせかせかしてて落ち着かない。上京してすぐの頃は、そんな東京が大嫌いで毎晩毎晩泣いてた。そんなときに、親友が深大寺のことを教えてくれて、今度一緒に行こうって誘ってくれた。二人で一緒に深大寺に行ったとき、初めて東京もいいかもなと思えた。ゆったりと穏やかに時間が流れる気がする。地元が懐かしくなって寂しくなっても、都会の冷たさに辛くなってしまっても、ここに来ればきっと私は大丈夫だと思った。全てが懐かしい。今ではもう東京のことも好きだなと思えるし、怖くない。久しぶりに親友と一緒に訪れた深大寺。大切な懐かしい記憶を思い出させてくれた。」
本堂で拝礼をした後で、山門の近くにおみくじがあることに気づいた。三つ種類があったけれど、だるまとかお守りとかが手元に残るものではなく、紙だけのおみくじを選んだ。引いた後で向こうのおみくじかけに結んで、何も持たずに帰りたかった。罰当たりな考えだという自覚はあったけれど、何かを持って帰るにはこの場所は私にとって痛すぎた。
月日の経過を感じさせる板に僅かに空いた穴へ百円玉を入れる。横にあった筒を回すと、中から一本の棒がちらりと顔を覗かせた。棒に記された番号を確認する。同じ番号の引き出しを開け、中から一枚おみくじを抜き取った。少しだけうるさい心臓の音を感じながら紙をひっくり返して、そこに書かれた文字を追う。人差し指の腹に触れる、ざらりとしているものの優しい和紙の質感。第三十七凶。凶。凶。白い紙の上に浮かび上がる漆黒の文字を心の中で繰り返す。じんわりと波紋のように、ほのかに温かく穏やかな何かが胸に広がっていくけれど、こんなもの、炎が来ればすぐに崩れる一時の救命でしかない。
脆衣はがね(千葉県)