「恋バナと棘とアラ還女と」著者:八木真由美
「智子の墓参りついでに、久しぶりにお茶でもしない?」と、唐突に誘ってきたのは、仁美の方だった。葉月はスマホを手に、すぐさま断る口実を頭の中で巡らせていた。
どちらかが誘っても、どちらかが断り、どことなく互いに避け合って、かれこれ十数年。仲違いしていたわけではないが、雑多な日々に追われ、学生時代の気安さで、バツイチ女のお粗末な恋愛話に付き合わされることほど空虚なものはないと、互いに感じていたのだろう。
いささか億劫ではあったが、智子が眠る墓所が調布にあると聞いて、「いいわよ」と、返答したのは、調布という場所に縁もゆかりもなかったからだ。知人がいるでもなく、ましてやデートで訪れたこともない、葉月の恋多き人生の中で、手垢の付いていない場所というのは、無駄な感傷に浸ることもなければ、不名誉な傷が疼くこともない。
厭な想いをすることからは逃げる、結末が想像できるような冒険は敢えてしない。
それが女独りで生きると決めた、六十前の女の処世術だと、葉月は頑なに心に刻み、そんな生き方を選んで十年が過ぎようとしていた。
調布駅に現れた仁美は、呂の着物を粋に着こなし、髪や指先にまで品のいい洒落が纏わりついて、還暦近いとは言え、血の一滴まで女であることを存分に楽しんでいるのだろう。
いい歳の取り方をしていると、葉月は思った。十年前に離婚をし、その後すぐにパートナーが出来たと聞いてはいたが、恐らくいい恋愛をしているのだろう。仁美を眩しく感じながらも、葉月は洒落っ気のない自分を別段卑下する事もなかった。見栄を捨てたことで得られる自由を味わい、仁美とは違う生き方をしているのだ。だから、こめかみの白髪すら隠そうともせず、趣味のバラ栽培で出来た傷だらけの指先も気にならない。
仁美も葉月も対照的ではあったが、互いに自分にないものを認め合い、よく恋愛をし、恋バナを咲かせていた。そしてそんな二人の間で中心的だったのが、智子だった。
誰からも愛され、葉月や仁美ほど恋愛には積極的ではなく、交際は堅実で、傍から見てもそれは清らかで、特に男運のない、ただ男に夢中になるだけで、散々な結末を迎えざるおえなかった葉月にとって、男に愛されるタイプの智子は憧れの存在だった。
その智子が子宮癌を患って、胎児を腹に宿したまま三十一の若さで亡くなったのだ。
葉月が丁度、短い結婚生活に終止符を打った翌月のことだった。
「とうとう、私達、彼女の人生の倍近く生きたのね」
智子の墓前で合掌しながら、感慨深げに葉月が言うと、「やっぱり、三十一で死ぬなんて、若かったわね」と、仁美も寂し気に顔を曇らせた。
だが恋愛に絶望し、その実、愛されたいと渇望しながらも、恋愛を棄てた自分に較べたら、愛に失望することなく、最後の最後まで独りの男に愛された智子の方が、女として、どれほど自分より幸せだろうかと、葉月は曇天の空を仰いだ。
「月命日だって言うのに、花がないのね」仁美の言葉に、葉月も同じことを思ったが、
「旦那さんも、きっと忙しいのよ」と、答えるにとどめた。
「そうならいいんだけど。通夜じゃ、人目も憚らずにお棺にしがみついて、べんべん泣いていたのに……」
「人の心なんて、変わるわよ、ましてや相手がもう、この世にいないとなれば」
智子の旦那が、後妻を貰ったという話は聞いていない。亡き妻を忍んで、今でも泣き暮らしていようが、日々の暮らしに追われて、妻の月命日を忘れようが、葉月にはどうでもいいことだった。墓の下で眠る智子は、初めて交際した男と結ばれ、たった独りの男と交わした愛を全うしたのだ。自分が死んだ後も、それが永遠に続くと信じて、安らかに旅立って逝けたのなら、女冥利に尽きるではないか。
「深大寺で、お蕎麦でも食べていかない?」仁美の誘いに、ここまできて無下に断る理由もないと、葉月は頷いた。二人して深大寺へと歩く道すがら、「私ね、来月、入籍するの」仁美の言葉に、葉月は驚いたものの、仁美の体から色気とは違う、穏やかな波動を感じ取って、「そう、おめでとう」と、心底喜んだ。独りでいることに慣れてしまった葉月である。仁美を羨むどころか、むしろ、男と暮らす煩わしさを苦痛とも感じない、そんな仁美の逞しさに、ひどく感心してしまったのだ。
「今日、智子の墓参りに来たのは、そんな自分の気持ちを確かめたかったからなのよ」
「確かめるって、何を?」
「智子の旦那さんに連絡取ろうと思ったの、今でも智子のことを愛していて、独りでいるのかどうか、もし、独りでいるのなら、寂しくないのかなって思って」
智子の旦那の気持ちなど、葉月には計りようもない。男なんていうものは、独りでは生きていけない生き物なのだ。その寂しさを埋めるために、どれだけ自分が利用されてきたか。
「なんか、智子の旦那さんと、彼氏の姿が重なっちゃって。ふと思ったの、年老いた男が独りでいるなんて、女が独りでいるよりも、惨めなものなんだろうなって」
女独り、肩肘張って生きている葉月に遠慮しているのか、それとも、男なしでは生きていけない自分を弁解しているのか、はたまた、心底、年老いた男寡を憐れんでなのか、葉月にはどうにも判別できない表情の仁美だった。だが、心の底からパートナーを信頼しているのだろう。あるいは、男と女を超越した関係を築けているのだろう。
葉月はただ苦笑するだけで、先刻来、ずっと人差し指に走る鈍痛を不快に感じていた。
「葉月、貴女はどうなの?」
「私は、恋愛は棄てたの。自分には男運がないって判ったし。だからあれこれ、もがくのは止めて、天命を受け入れようって決めたのよ」
強がりではなく、本心からだったが、果たして嫌味に聞こえなかっただろうかと、葉月は仁美の表情を窺った。だが仁美は、意に介さない様子で「ここよ」と言って、「深大寺入口」の標識を指し示した。一直線に続く石畳の両脇には、小さな店が軒を連ね、短い階段を上がると、橙だい色のほうづきを飾った山門が控えていた。けして優美ではないが、鉛色した空で見る深大寺は、古刹としての風情が漂っていた。とりわけ、お堂を繋ぐ池の上の渡り廊下は雅で、葉月は、どんな恋バナでもあの場所でなら和歌になるだろうと思った。
山門下の竜の滝口から流れ落ちる水を、葉月が穏やかな顔で眺めていると、「深大寺さんは、縁結びの神様なの、お蕎麦食べたら、深沙堂にも行ってみましょうよ」と、何度も来ているらしく、仁美は馴染みの蕎麦屋へと葉月を案内した。
「縁結びなんて、興味ないわよ」と、池が見える窓辺の席に着くなり、葉月は迷惑そうに言って苦笑する。人差し指に刺さったバラの棘が、今頃になってジンジン痛む。
「ねえ、さっきからずっと指、気にしてるけど、どうかしたの?」
「庭でバラの手入れをしていたらバラの棘が刺さって、なかなか取れないのよ」と葉月は、眼を細めながら、必死で人差し指に刺さった棘を取ろうとしていた。
「ちょっと、見せて」と仁美も、葉月の指をやはり目を細めて凝視する。
「棘を取ってくれる人、傍に居てもいいんじゃない?」仁美の言葉に、眉間に皺を寄せながら、葉月は大きく被りを振る。この年になってもまだ、学生時代のように仁美と恋バナをするのかと思うと、どうにも可笑しさが込み上げてきて、少女のように葉月は笑った。
あの頃は、「恋をしている!」と素直に言えた。意中の男性に告白しようかどうしようかと悩み、体よく断られ、切なさと不甲斐なさに号泣し、それでも素敵な恋がしたいと胸躍らせ、互いに励まし合い、互いに数えきれないほどの恋をしてきた。
「なかなか取れないわねえ」と、棘抜きに悪戦苦闘している仁美に、「いいわよ、どうせそのうち傷口が盛り上がって、ぽろっと皮ごと取れるから」と、投げやりに葉月は言うが、仁美は諦めようとしない。葉月が、「大丈夫だって、こんなことしょっちゅうだから」と言っても、仁美は尚更、棘抜きに躍起になった。
「あ、取れた、見て、こんな小さな」と、仁美は驚嘆した顔で、1ミリほどの棘を、葉月に見せながら、「こんな小さな異物が入っただけでも痛いなんて、人の体って……」
しみじみと言う仁美の言葉に、葉月は今更ながら困惑した。
自分の心に澱のように溜まった失意や敗北感は、どれほどの大きさなのだろうか。胸の奥底で未だに疼くものの正体を見た思いで、葉月は思わず、苦悶の表情を浮かべた。
だがいたずらに怖れ、委縮した魂を抱えたままでいるのも、ひどく馬鹿らしい。
「良い所ね、また来ようかしら」葉月は言って、「縁結びかあ」と小さく呟いた。
小雨が降り出し、池の水面に映る木々の蒼さが幾つもの波紋を描き、清らかな旋律さえ聞こえてきそうだ。その光景を見つめる葉月もまた、体の奥深い所から湧き上がる女の性を感じながら、その表情には恋に恋した少女の頃の面影を忍ばせていた。
八木真由美(神奈川県相模原市/57歳)