「あめのしずく」著者:谷岡膳
神代植物公園には朝方に降った雨の余韻が残っていた。ばらの棘にからまるように透明なしずくが膨らみ続けている。わたしは一眼レフカメラを構えた。ピントを合わせ、シャッターに指をかけると、湛えきれないほど大きくなったしずくはファインダーの外へと消えていった。タイミングを逃し、大きなため息をつく。ふいに小さな手がわたしの腕を掴んだ。隣でばらを見ていた娘の涼音が不安げな表情を浮かべている。カメラをバッグに押し込み涼音を抱き上げると、背後に気配を感じた。振り向くとシャツにジーンズ姿の樹が立っていて「あめ」とわたしの名を呼んだ。甘い戸惑いが胸の中に広がった。樹は「こんにちは。久しぶりだね」と涼音の頭に手を伸ばした。私の肩に涼音が顔を埋めた。「覚えてないか」と樹は肩をすくめると黒いボディバッグから動物の形をしたビスケットの袋を取り出した。乾いた音がした。涼音はわたしの顔を覗き込む。小さくうなずくと涼音は差し出された袋を受け取って「ありがとう」とはにかんだ。「ありがとう、言えるんだね。えらいね」と樹は涼音の頭をなで、笑みを浮かべた。
7年前、造園関係の団体に転職したわたしは協会誌に掲載する写真の撮影や記事を書く仕事をしていた。風が冷たさを増してきたころ、わたしは取材で都内の古い寺院を訪ねた。本堂の裏手にある日本庭園では数人の庭師が脚立に足をかけ赤松の剪定をしていた。ハサミの小気味いい音が響く中、一人だけ素手で松葉をすく男に目が止まった。水谷樹だと直ぐに分かった。国内で最も権威がある賞を授与された若手造園家で業界ではかなり知られた人物だったからだ。
わたしはカメラのレンズを樹に向けた。輪郭がすっきりとしていて、程よく鼻筋が通っている。小さな顔にしては少し不釣り合いにも見える大きな目で松葉を捉え、独特のリズムで両手を動かし続けていた。人差し指と中指の間に針のような葉を挟み、摘み取る部分だけを親指と人差し指の間に滑らせ、もう片方の手で葉をすいていく。何度かシャッターを切ると、葉を操るように動いていた指が止まった。ファインダーから目を離すと樹がわたしをじっと見つめている。樹は「広報の人?」と少し大きな声を出した。「はい、西野あめです。よろしくお願いします」と私が会釈をすると「もう少し待ってて」と言ってまた手を動かし始めた。
わたしは本堂の濡れ縁に腰を下ろし、樹を待つことにした。目の前に広がる庭園には山に見立てた大きな石があり、たくさんの白い小石が緩やかな曲線を描くようにその周りを取り囲んでいる。左右に立ち並ぶ赤松は手前から奥へと向かって葉の色が深くなり、中央の紅葉が庭園に鮮やかな色を添えていた。
しばらくして樹が脚立から降りてきた。「悪いけど、仕上げに時間をかけたいから話は手短にして欲しい」と言って作業着に付いていた松葉を手で払いのけた。わたしは樹に歩み寄り、あらかじめ用意していた簡単な質問だけをした。
メモを取り終えて、顔を上げると赤松が目に入った。「松葉の色の濃さって違うんですね」とわたしが口にすると樹はその通りだと感心したかのように頷き、松葉のすき具合いを意図的に変えることで色合いを調整していると教えてくれた。
日が傾き始めると作業を終えた順に庭師たちが樹に挨拶をして庭園から出て行った。わたしも写真を撮り終えて帰ろうとすると樹に呼び止められた。「今から特別な儀式をするけど一緒にどうかな?」樹は頭に巻いた手ぬぐいを取って首筋に浮かぶ汗を拭いた。
庭園は夕日に照らされ焔に包まれたように赤く染まった。樹は袋から四合瓶を取り出すと砂紋に沿って日本酒を撒いた。わたしが咄嗟にカメラを構えると樹はそれを手で制し、小さく頷いた。袋の中から漆塗りの盃を取り出し、酒を注ぐと一口で飲み干した。「仕上げの日は庭と盃を交わすんだ。庭と人間の魂を繋げるんだよ。まあ、俺しかやらない儀式だけどね」と言って空になった盃に酒を注ぎ、わたしに差し出した。手を伸ばすと樹の無骨な指先がわたしの指腹に触れた。落ちきれずに残る陽は樹の顔に濃い影を作った。胸が疼いた。その感覚をかき消したくて、盃に注がれた飲めない酒をあおった。体の中に熱がゆっくりと落ちていった。
樹とは調布市内で会うことが多かった。天神通りを歩きながら、今川焼を半分にして食べ、漫画のキャラクターのオブジェを眺めた。深大寺に参拝して、神代植物公園にも必ず立ち寄った。わたしはいつもカメラを肩に掛けて歩いた。時折、立ち止まってシャッターを切るわたしを見て樹は「何かの儀式みたいだ」と言って笑った。
わたしはプロの写真家を目指していた。都内のフォトスタジオでアシスタントをしながら暇を見つけては街に出て写真を撮った。夕日に向かって飛び去る燕。傘の花が咲く交差点。朝靄に煙る甲州街道。シャッターを切れば、世界は一瞬で動きを止めた。自分が捉えた瞬間の価値を疑いもしなかった。
ある日、わたしは美術館で開かれていた写真展に足を運んだ。そこで一枚の写真に目を奪われた。夜空に打ち上げられた花火。それを見上げる少年の後ろ姿が赤く燃える光の中に浮かんでいる。いくらシャッターを切っても辿り着くことができなかった境地を目の当たりにしたわたしは写真の前から動けなくなった。
深大寺の西門を出て坂を上がり、神代植物公園に向って歩きながら、わたしは花火と少年の写真の話をした。「その後すぐかな、フォトスタジオを辞めたのは」と口にして晴れた空を見上げた。「あめだけの一瞬、いつか撮れるよ」そう言って樹はわたしの肩をそっと抱き寄せた。こんな時間がずっと続くと思っていた。
樹と出会って二度ほど季節が巡ったころ、多摩川の沿いにあるわたしのアパートを女が訪ねてきた。玄関口に立ち、ひどく狼狽した様子で水谷恵美と名乗った。それは樹の妻だった。恵美は玄関先でわたしの隠せなくなったお腹を見て泣き崩れ「ごめんなさいね」と何度も頭を下げてからわたしの頬を一度だけ強く叩いた。そして樹と会うことができなくなった。
ばら園のテラスでは演奏会が始まった。魔女の子どもが出てくるアニメーション映画の曲が流れると、涼音は歌を口ずさみながら体を大きく揺らし始めた。「俺もこの曲、好きなんだ」と樹も音楽に身を委ねる。わたしは反射的にカメラを取り出した。奪い取ってしまいたいほど欲しかった光景がファインダーの中で揺れている。胸の痛みと強いめまいが襲ってきた。体を伝うように響く金管楽器の音色。微かに漂うばらの香り。感覚にすがることでしか自分を現実に繋ぎ止められなかった。
演奏が終わると二人は満足そうに顔を見合わせて笑った。私はカメラを下ろし、涼音に「何が食べたい?」と声をかけた。涼音は持っていたお菓子の袋を私のバッグに押し込み、「そばパン」と答えた。
わたしたちは神代植物公園を出て坂道を下り、深大寺の西門にさしかかった。樹が歩を緩めながら「アメリカで仕事をしようと思う」と言った。わたしは思わす足を止めた。樹も立ち止まり海外でも評価され造園を任される事になったと説明した。少しの沈黙の後「一緒に行かないか」と樹は声を絞り出だした。わたしは少し先を歩く涼音の後ろ姿を見つめた。そして首を横に振った。「このまま、さよならになってもいいのか?」と樹が口にした時、坂道の途中で涼音が急に駆けだした。樹を置き去りにしてわたしは後を追う。激しく揺れるバッグの中でビスケットが砕ける音がした。坂を下りきったところで追いつき小さな手を取ると涼音はわたしを仰ぎ見た。その眼には今のわたしが映っていた。涼音を抱き寄せ、わたしは振り向いた。樹の姿はもうどこにもなかった。
参道には参拝客が幾重にも連なり、すれ違い、流れていく。立ち並ぶ店からは呼び込みの声が響いていた。どこか華やかな喧噪に包まれながら、ばらの棘から音もなく落ちていった雨のしずくをわたしはそっと心に浮かべた。
谷岡膳(埼玉県)
