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「君に見せたい」著者:識織織

 十九時の少し前、私たちは夕と夜の間に立った。夜が滲み、濃紺の空の西の端だけが、じんわりと燃えている。『神代植物公園』と書かれた正門をくぐった。普段は十七時で閉園になる植物公園。こんな時間に中に入ることができるのは、今日が特別な日だからだ。正門横にポスターが貼られている。『大温室 夜間公開』。
 高校最後の夏休みが昨日から始まったが、今日の日中、私と草太(そうた)は学校に居た。一学期末テストの出来が芳しくなかった私たち二人は、揃って夏休み補習のメンバー入りを果たしたのだ。陽が落ち始めた補習終わりの帰り道、じゃんけんに負けた私に奢らせたチョコアイスを五口で完食した草太が言った。
「『夏の夜の神秘の花に出会う』」
私が「ん?」と聞き返すと、草太が「ん、」とスマホ画面をこちらに向けて、「これ、今から三人で行こうぜ!」と突然言いだしたのだった。

 薄暗い園内の足元には、暖かい色合いのランタン照明が数メートル間隔で並べられていた。眠たそうなランタンたちが地面をぼうっと照らし、無言で順路を示している。
「今日花(きょうか)が来られないなら、また今度でも良かったのに」空虚な言葉が、お気に入りのリップで艶めかせた唇からふぅっと出て、所在無げに宙ぶらりん、私の目の前にゆらりと浮かんだ。
「なぁに言ってんだよ、駄目駄目。植物園の夜間公開は昨日と今日だけだって、言っただろ?」草太は仰々しく眉間に皺を寄せて、不服そうな表情を作った。くるくる変わる表情。万華鏡のように目を奪う。いつも、ずっと前から。
「いや、それは聞いたけど……」――私と二人でいいの? 続きは喉の奥に押しこんだ。
「九月にもまた夜間公開があるみたいだし、その時でも」
「やだね。俺は今、夏を生きてるの。秋にも来たかったら秋にまた来たらいい。ただそれよりも、今日は夏。夏に行きたい場所に、俺は、行く!」そう言って草太は数歩先にある次のランタンまでひょいっと身軽にジャンプし、片足で着地、得意げにポーズを決めた。
 草太と私は、小学一年からの幼馴染だ。私たちは、同じ小中学校に通った。家が近いからだ。だけど、高校が一緒だったのは偶然ではない。草太が難関校を志望するような成績優秀者でなくて良かった、と安堵したことを覚えている。
 今日花はその高校一年のクラスでできた最初の、そして一番の友達だ。明るく裏表の無い今日花は、別のクラスだった草太ともすぐに仲良くなった。私と草太が話している時に今日花に会ったり、私が今日花と居る時に草太が話しかけてきたり、そうしているうちに、いつの間にか三人で集まることが多くなった。私が草太と会う時は、必ず隣に今日花が居た。だから、逆もそうだと、私は勝手に思っていたのだ。今日花と草太が会う時も、横に私が居ると。
 三人で話していて、私だけが知らない話題があり、そのさらに続きの話が展開されていることが何度かあった。ほんの少しの違和感。でも、わざわざ訊ねるほどでもない違和感。
――その少し後、先週のことだった。今日花から、草太を好きだと聞いたのは。
 私はドクンと脈打った身体に気づかれないよう、「そうなんだ!」と目を丸くして見せ、口角を上げた。
「でもどうかなぁ、草太って恋愛とか、女の子とか、興味あるのかな。そういう話聞いたことないよね」上手く演れているだろうかと臆する気持ちを隠し、自然な女子トークの空気を醸し出した。
 今日花は、「……あー」と低く呟き、言葉を探しているようだった。そして、何てことはないけどどうしたのという顔を貼り付けた私に言った。
「あのね、――草太と、付き合うことになったの」

 ランタンに沿って歩いていくと、突然ひらけた場所に出た。巨大なランタンのように暖かく発光する大温室が現れる。その背景には、今まさに夜に飲まれんとしている夕焼けの燃え残りが揺らめいていた。その美しさに私ははっと息を飲む。隣の草太が「すげぇ」と小さく呟いた。
「綺麗だな。――幻想的、ってやつ?」草太はポケットからスマホを取り出し、写真を撮った。カシャ。
 植物園の中は、まさに夜の森だった。生命を照らす、真夜中の月のような仄明るい照明。草花たちにきっと耳は無いのに、思わず小声になってしまう。
 『シクンシ』。草太が赤い花の前で立ち止まった。細長い花びらは、イチゴジャムに練乳をぽたりと垂らしたような眠たい赤色をしていた。無数の小さな花々が身を寄せ合い、下を向いて咲いている。その様は、大切な誰かに渡す直前、真下に向けてそっと後ろに隠した花束に似ている気がした。
「夜になると強い香りを放つ花、だって」草太は大きく香りを吸い込んだ。
「あ、桃の缶詰のシロップをキンキンに冷やして、それを風呂上がりにググッと一気飲みしてる! みたいな匂い」草太が輝かせた瞳に、橙色の照明が反射してきらりと揺れる。私の心は、きゅっと軋んだ。
 また少し進むと、今度は暑さで溶けたバニラアイスのような甘い香りが漂ってきた。私たちは誘き寄せられるようにその香りの元へ向かう。
 『サガリバナ』。陽が落ちた後に咲き、夜明け前にはポトンと落ちてしまう儚い花なのだという。細長い花穂に細長い無数のおしべが房のごとく垂れ下がる、個性的な美しさ。隣では草太が、「刺身のツマに似てる」とか、「こういう形のヘアブラシ、母さんが持ってる」とか、情緒もへったくれもない感想ばかりを並べ立てていた。でも、「綺麗だね」「凄いね」しか感想の出てこない私には、そういう草太の感性は何だかとても眩しく見える。草太は興味深そうにしげしげと花を見上げたり、見下ろしたりした後、右手に握りしめたスマホで写真を撮った。カシャ。
「あっちも見ようか」そう言いながら草太が奥のほうへ歩き出す。
 草太の後を追いかけた時、草太の手元のスマホ画面がちらりと見えた。否、覗いた。ラインのトーク画面には、夕焼け色に光る大温室の写真と、たった今撮ったサガリバナの写真が並んでいた。一枚目の写真の後には、一度返信が届いている。
『幻想的だね!』—――そのアイコンには見覚えがあった。

 植物園から外に出ると、夕闇の気配は消えていた。大温室前の広場、バラ園の中央に人だかりができている。目を凝らすと、すっかり濃紺に塗り替わった夜空を背景に、無数のシャボン玉と大きな噴水がライトアップされ、色鮮やかに光り輝いていた。
「行ってみるか」黄色に照らされていたシャボン玉と噴水は、近づいていくうちに青に変わり、次に緑、ついにシャボン玉を真上に見上げるほどの位置に来た頃には、桃色に移り変わっていた。
「うわぁ、綺麗」視界いっぱいの輝きに、思わず見とれる。
「……あのね。私、
カシャカシャカシャカシャ
「ごめん、俺だ。連写になっちゃった!」あぁ、うん大丈夫、と答えた私に、草太は「ん、何か言った?」と訊いた。
「あ、えっと」静かな音楽と、噴水の水が飛ぶ音、落ちる音、周囲の観客たちのざわめき、耳では拾えないシャボン玉の弾ける音。すべてが溶け合い、夜の静寂と混ざる時。
「……好きだなぁ、って」私は、光を受けて輝く水飛沫とシャボン玉、その向こうの見えない星空を見上げた。
「あぁ、分かる。俺も好き」草太は目を細め、きらきら光る夜空を愛おしそうに眺めた。「いいよな、この場所」

 その時、胸の前の草太の右手が眩しく光り、私は思わず目を逸らした。
 草太は右手のスマホ画面に目を落としている。眩んだ瞳を光に向けると、私の目の前に広がるこの景色が、遠く遠く、飛んでいくところだった。
「今日花にも、見せたいな」 
 草太の声が煌めいた。

識織織(東京都調布市)