「空腹のみたしかた」著者:有賀れい
眠りにつこうとすると、胃がぎゅっと縮こまった。空腹――。どうしてこんなにみじめな思いをしているんだろう?
今夜は、ひと月ぶりにマサトと会う約束をしていた。
「こないだの埋め合わせに、カナの食べたいものおごるよ」と、彼の方から誘ってきた。
浮かれて、大学時代からの親友のミユにメッセージを送った。すぐに「やっと仲直りだね〜」と返事が来た。直後に、「でもマサトをこれ以上甘やかしちゃだめだよー」とも言われた。うん、そうだよね――。
約束の夕方六時、新宿。……マサトは来ない。連絡もない。握りしめたスマホの画面を一分おきに見つめ、小さな溜息とともに、駅ビル内をあてどなく歩いていく。きらびやかなショーウィンドウに映る自分の姿は、うつろな影のようだった。今夜は、フェミニンなワンピースにトレンチコートでおしゃれしたのに。
待ちくたびれて外に出ると、色とりどりのネオンがまぶしい。彼岸桜の可憐な花びらが春の突風に舞い、ゆるく巻いた髪に薄い紅色が絡んだ。何組ものカップルが幸せオーラを放ちながら寄り添うのを横目に、私は大きなため息をもらした。もう、帰ろう。パンプスのかかとも悲鳴をあげている。
調布行きの電車は帰宅する乗客で混雑していた。吊り革に力なくもたれ窓外を眺める。今までは、せいぜいドタキャンだった。次に会うと私は、「もぉ、いつもいつも〜」とむくれた。するとマサトは叱られた仔犬のような目つきをして謝ってきて、「カナのこと大切に思っているから」と抱きしめてくれる。それがうれしくてつい許してしまう……を繰り返していた。一度ふと「最近あんまり会えないね」とつぶやいたら、マサトは「オレは縛られたくない」とぶっきらぼうに言い放った。私は戸惑い、何も聞こえなかったふりをした。つきあいはじめて三年、奔放で気分屋、何事もマイペースで束縛を嫌う、そんなマサトの地雷を踏んでしまうのが怖かった。
今日は連絡すらない。きっと私が甘いからだ。ミユの言うとおりかもしれない。
調布からバスに揺られ、深大寺近くのアパートに帰り着く。鍵を取りだした瞬間、スマホが鳴った。
「ごめんごめん、仕事の打ち合わせが長引いちゃってさ。今どこ? 家? これから行くよ」マサトの声に、曇った気分が一気に晴れた。
「九時には行くから」マサトはそう言った。夕飯をどうしよう? 昨日のシチューを温めればいいか。買い置きのフランスパンもある。マサトの好きな深大寺ビールも冷えている。
――が、彼は来ない。せめてメッセージが届くのを待った。しかし十一時を過ぎても、テーブル上のスマホは寂しげに灯かりを落としたままだった。
もう夕飯はパスして寝よう。シャワーを浴びると、すりむけたかかとにお湯がしみた。そして静かにベッドに入った。その日は私の誕生日だった。
あの夜を境に、マサトとは連絡を交わしていない。いつかマサトが「ごめんな」と謝ってくると思っていた。でも、待てど暮らせど、なんの音沙汰もない。私は頑なになっていた。
ミユは会うといつも「ねぇ、ほんとにこのままでいいの?」と心配してくれた。でも、私は伏し目がちに「うーん……」と言葉を濁すばかりだった。
ある晩、帰宅後にふとSNSを開くと、マサトが見知らぬ街角で誰かと笑っている写真が目に留まった。異国のネオン街。まるで別世界の人。「元気そうで、よかった」そうメッセージを打ちかけて、指が止まる。「こっちは、全然よくないよ!」そう書いた下書きが画面にぽつんと浮かぶ。そして、駅で待ちぼうけたあの夜、「縛られたくない」と冷たく言い放った彼の声がよみがえった。私は静かにスマホを伏せた。
吐く息が白くなり始めた頃、ミユが唐突に言った。「マサト、海外転勤になったらしいよ。上海なんだって」共通の友人がそう話していたという。
――そういうことなんだ……。一体、私はマサトの何だったの?
答えの見つからない問いが頭の中でループし続けた。
くやしかった。でも、憎めない。だって一緒に過ごした日々は、濃密で楽しすぎたから。年越しの深大寺そばにハマり近隣のそば屋を全部巡ったお正月、盆踊りの輪に手を引かれ飛び込んだ暑い夏の日、高尾キャンプ場の澄んだ秋の夜空に瞬く星々。彼は私の知らない世界の扉をたくさん開けてくれた。心から笑い、楽しむことを教えてくれた。あの頃に戻れるのなら、何を差し出してもいい。本気でそう思っていた。
あの日からちょうど一年、今日は私の二十代最後の誕生日。祝福メッセージがあふれ、夜は盛大なパーティ、なんてことはなかった。約束なんて、何もない。
ミユは、「Happy Birthday カナ♡ 忙しいだろうけど自分にごほうびをね。また焼肉ランチ行こ!」と朝の電車の中でメッセージをくれた。返信をして、しばらく画面を見つめた。
「ごほうびかぁ……」スイーツ、エステ、温泉、思いついたものはどれも何か違う気がした。
仕事は残業続きだった。マサトのことを考えたくない一心で、自分を忙しくさせていた。
そして今日、二ヶ月かけて準備した展示会企画の社内プレゼンが成功裡に終わった。手伝ってくれた森田君は「カナさんのプレゼン、めちゃ熱量感じました!」と興奮気味だったし、ふだん寡黙な部長も「よくやった」と労ってくれた。自然と感謝の涙があふれた。私は解放感を味わいたくて、思い切ってフレックスタイムを使い午後三時に会社を出た。
帰宅して玄関のドアを開け、何気なく「ただいま」とつぶやく。もちろん返事はない。張り詰めていたテンションが緩み、そのままソファに倒れ込んだ。意識は瞬時に遠のいた。
目覚めると、もう日が暮れていた。立ち上がって着替え、小さなキッチンに立つ。冷蔵庫の中をざっとながめて、決めた! ちゃんと料理して自分の誕生日を祝おう。
――今夜も空腹。でも一年前のように誰かを待っている訳じゃない。そんなことが頭をよぎりながら、玉ねぎを軽やかに刻む。ベーコンと一緒に鍋で香ばしく炒めると、お腹がぐうと鳴った。ブイヨンを注ぎ、ごろっと切ったジャガイモを加え、静かに煮込む。色鮮やかなブロッコリを追加し最後に牛乳を加えると、シチューはやさしいクリーム色に変化した。
急いで近所のパン屋に駆け込み、ふちがパリッと焦げたバゲットと、奮発して発酵バターを一缶買い求めた。「よかったらどうぞ」と、店主が新作のクルミパンの小袋を手渡してくれた。気分よくパン屋を後にして夜空を見上げると、雲間から月が少しのぞいた。
家に戻りテーブルを調える。シャンパンのコルクを綺麗に抜き、冷やしておいたグラスに静かに注ぐ。泡の弾ける音が、鳴り止まない小さな拍手のようで気分が華やいだ。
ふと、スマホが鳴った。見知らぬ番号だ。
「もしも……?」「カナ、久しぶり!」かぶさるように、弾んだ声が耳元に響くと、心臓が大きく一つ跳ね上がった。「マサト……」喉が詰まる。
「知ってると思うけどオレ、上海に転勤になっててさ。でも、いま一時帰国中なんだ。今日カナの誕生日だよね? 久々の日本だし、今からメシ行こうよ」いつもの彼がいた。
一瞬、あの楽しい日々が目の前によみがえった。今「うん」と答えればこのまま戻れる。そんな気持ちとは裏腹に、私は、せり上がってくる激しい思いを止められなかった。
「ねぇ、なんであの日、私をほったらかしたの? なんで一年もそのままにしたの?」
「えっ?」彼は黙った。私は、自分のために言葉を継いでいった。
「縛られたくないって言ってたよね。そう言っていなくなったマサトに、私はずっと縛られてた。戻れるって信じて、待ってたのに。一年も。でももう、こんなのイヤ……」
手の中のスマホが重たい。画面の向こう側にいる彼の存在を強く感じながら、彼が何か言いかける前に、静かに電話を切りスマホの電源を落とした。大きく息を吐くと、涙がこぼれ落ちた。手で顔をおおい声をあげて泣いた。前から分かっていた。だけど……。
どのくらい時間が経ったのだろう。私は顔を上げた。さっきまでの張りつめた感情は消えていた。流した涙の分、前から胸の奥にあった重たいかたまりが、ほどけたように感じた。
深呼吸して窓を開けると、春の風がやさしくほほを撫でた。泣きはらした目をこすり、見上げた月は、薄くまとった雲をゆっくりと脱ぎ捨てながら静かな輝きを放っていた。これでよかったんだ、たぶん。
グラスについだシャンパンは気が抜け、時折、思い出したようにぽつんと泡をはじき出した。そのシャパンをひとくち含む。ちょっとしょっぱい味がして苦笑いした。温め直したシチューを口に運ぶと、やさしい味わいに頬がゆるむ。バゲットにバターをたっぷり塗ってゆっくり噛みしめる。香ばしさが口の中に広がった。私は、満たされた。
有賀れい(東京都世田谷区/女性)
