「化石の目」著者:小森真由
私の手の中にある、一冊のアルバム。手のひらほどの大きさの群青色の表紙をめくると、最初の写真の日付は五年前の六月になっていて、若い私や、その当時よく行っていた深大寺の風景が写っている。見慣れた参道の景色、太く大きな木々の間から降る木漏れ日、水面に垂らされた絵の具のような池の鯉たち。幾度も開いて紙が波打ったページを、今日もまた開く。いまはないあの人の視線を私はそのたび、思い出す。
珍しい小説をたくさん持っているから、と言われてゼミの高田先輩に引き連れられて行ったスイさんのアパートは深大寺の近くにあった。横浜に住み、大学進学を機に東京へ通学するようになった私にとっては、初めて名前を聞き、訪れる地であったから、彼と初めて会った時の思い出は深大寺に初めて訪れた思い出に重なっている。冬の終わりで、まだ冷たい風が吹く日だった。調布駅からバスに乗りこみ訪れた深大寺は、近代的な住宅街と、古刹の名にふさわしい地域の重心のような寺が、合間に芽吹く木々と水路からながれる水の音の中に、静かに、でもどこか独特の趣をもってたたずむ地域だった。スイさんは、大学入学を機に一人暮らしを始めた同級生たちとは異なり、古い日本家屋に住んでいた。知り合って間もなく、広い家に一人で住んでいるのだと知った。高田先輩と訪れたとき、先輩はすごい家だよなあと言いながらチャイムも押さず、がらがらと曇りガラスの引き戸を開けた。勝手知ったるという風情で、きたぞー、あがるぞー、と声を上げ、暗いこげ茶色の板張りの廊下の奥へ進んでいく後を、早足で急ぎ、先輩と同じドアを開けた。そこは、小さな書庫のような場所だった。壁は天井近くまである高さの本棚に覆われ、どこもびっしりと本が詰まっている。そこにも収まらないらしく、部屋のそこかしこに本やら、雑誌やらが重ねて置かれ、高い天井にふさわしい大きな窓ガラスからは、太陽の光が一番高い場所にある本の背表紙も明るく照らしていた。部屋の主は窓際の壁にもたれてこちらを見ていた。よお。と先輩に手を上げ、次に私を見たので、軽く頭を下げて、おじゃまします、と言い、先輩に続けて部屋に入っていった。
「また本増えたんじゃないか?」
「本が減ることは基本的にないだろ。増える一方だよ」
「それはそうだけどなあ。おれは生活スペースを侵食するほど本は増やしたくないよ。洗面所の床、なんであんなに本が積まれてるんだ。床材がかびるぞ。ああ、紹介するよ、1年の澄さん。水野と気が合いそうな気がしたから連れてきた」それが私たちの出会いだった。
それから三回、高田先輩と一緒にスイさんの家を訪ね、四回目からは一人でも訪れるようになった。スイさんは当時休学中で、基本的にいつも家にいた。持ってきた本を読んだり、スイさんの家にあった全集を開いたり、課題をしたり、その合間に様々な話をした。私と同じ国文科なこと、一年ほど休学していること、家にある本はこの書斎か風呂場で読むのが好きで、トイレや台所といった生活に必要な部屋を除くと、ほかのいくつもの部屋を閉め切って生活していることを知った。閉め切った部屋に何があるのかはわかなかったが、スイさんは明らかに広すぎるその家をもてあましていた。
その日も大学の終わりに電車とバスを乗り継いで深大寺に来て、参道の店で草餅を四つ買い、一つを食べながと住宅街を抜けてスイさんの家に向かっていた。水の音が環境音としてずっと流れていて、だんだんと蒸し暑くなってきた空気が少し涼しく感じられた。水路をのぞくと、昨日の雨のせいか思いのほか勢いよく水は流れていて、小さな川のようだった。同じ川に二度と入ることはできない、という古代ギリシアの哲学者の言葉をふと思い出す。時間はどんどん流れていく。慣れ親しんだこの道を歩く若干の退屈も、本を読むのに飽きてスイさんのお腹と腕の間にもぐりこむ安心感も、理由もなく、ただ同じように流れていくのだと思った。
遠くから名前を呼ばれて前を向くと、家へ続く坂の入り口にスイさんが立っていた。彼は首にかけたカメラを私に向けて、何も言わずにシャッターを切った。その場で写真を確認する彼に近づいていく。
「どうしたの、カメラなんて持ってたんだ」
「高田からもらったんだよ。就職祝いに新しいものを親に買ってもらえるようになったからって。……ほんとに動作が怪しいな。さっき充電したばかりなのに、もうバッテリーが半分くらいしかない」
「燃費が悪いカメラだね」
「バッテリーそのものがだめなんだろうな、もう」ふと私はふと思いつき、提案した。
「今日はこのまま写真撮りにいかない?このカメラで」
スイさんは私を見て少し固まった。私たちは、コンビニやスーパーを除けば、徒歩十分圏内にある深大寺にすら一緒に行ったことはなかった。スイさんは人が怖いのだと高田先輩は言っていた。ひどいことがあったのだと先輩は言い、私はそのことについて先輩にも、スイさんにも聞こうとはしなかった。噂話は聞いたことがあった。ある名物教授の買春疑惑を内部告発した男子学生の話。その学生の告発で教授は退職を余儀なくされてその後行方不明となり、告発者の学生も実はその買春グループの一員で、今は休学をして東南アジアで組織的犯罪に携わっているとかの。その噂話の響きは、どこの小学校でも一度は流行るであろう、三階の女子トイレの奥から二番目の個室に呼び掛けると花子さんが返事をするとかの類のものが、大学生に親和性の高い話題や登場人物に置き換わっただけのものに聞こえた。聞くたびに細部が変化するその話には真実味を求める方がばからしくて、私はそれを無視していた。
「せっかく気候もちょうどいいし、ね、散歩がてら。どうかな」
スイさんは、そこまで乗り気ではなさそうだったが、拒むこともなく、二人でさっき通ってきた道を境内のほうへ戻っていた。顔ほどの大きさのアジサイの横を通って参道に向かうと、菓子を売っている店の前に出る。手に持っているビニール袋は気にしないことにして、鉄板で焼かれた温かい草餅を二つ買った。スイさんは店の写真を撮った。熱い、と歯を見せて食べるスイさんを見る。その歯を見て、私はこの人のことを全然知らないのだと思った。週の半分以上は一緒にいて、ご飯も一緒に食べて、体を寄せ合っても。日々時間は流れて、流れた時間の分だけ、私たちは必ず変わっていくのだと、とても当たり前のことを、初めてみる表情に思った。境内に入ってお参りをする。おみくじを引くと、二人とも「凶」を引き当ててしまった。
「凶は吉に転じる力があるって言われてるんだよ」とっさに早口で口走ると、スイさんは笑って、私たちのおみくじを写真に撮った。
「許してくれてないのかもなあ」スイさんが空を仰いでつぶやく。
「なんで?悪いことをしたの?」私は、どきどきしながら、ちょっとふざけた風に聞いた。
「悪いことだとは思ってない。きっと何度でも同じことをやったと思う。でも、それとは別に、もう少し長く傍にいれたはずだと思うことはよくある」スイさんは上を見上げたまま、そう答えた。
そのまま釈迦如来像を見て、湧き水の池に行った。たくさんの鯉が、人が近づくとばくばくと口を開けてくる。スイさんは鯉の写真も撮る。「澄」と名前を呼ばれたので、顔をスイさんに向けると、そこにはスイさんでなくてカメラのレンズがあって、ぴぴっ、とシャッターが鳴る音が聞こえた。カメラを確認し、あ、とつぶやく。覗き込むと、液晶の画面は真っ暗で、電源ボタンを押しても何も反応しなくなっていた。古い、数枚の写真を撮れば電源が落ちてしまうようなおんぼろカメラを持って、それから私たちは小旅行のようなものをするようになった。そのたびにカメラの電源がぷつんと切れるまで、写真を撮った。私がそれをアルバムにすると、スイさんは面白がって、また写真を撮った。初めて写真を撮った初夏から二年後、彼が敬愛する教授の後を追うまで、ずっと。
ほとんど肉親のいないスイさんの荷物は、遠い親戚という年配の男性が、家ごと処分する予定だということを高田先輩に聞き、私はこっそりスイさんの家からカメラを持ち出した。最後の写真は近所の神代植物園にバラを見に行った時のもので、明るく、白いバラ園ではしゃぐ私の姿や、今も名前がわからない大温室の植物などが写っている。スイさんの家は取り壊され、私は大学を卒業し、新しい街で仕事をなんとかこなし、たまにスイさんのことを思い出して、このアルバムを開いた。もう隣にいることができなくても、交わした言葉を少しずつ忘れていっても、いつかスイさんの顔を思い出せなくなるときも、このアルバムはあのときのスイさんが見ていたものを、いつまでも、ただ写し出す。
小森真由(神奈川県川崎市/27歳/女性/公務員)
