「蕎麦屋の女神」著者:塩野薫
増田芳夫の蕎麦好きを、会社の同僚で知らぬものはなかった。
会社にいた頃は、勤務先のある日本橋界隈の蕎麦屋に通っていたが、一年前に退職してからは、もっぱら車で三十分ほどの、深大寺にあるHという店に通うようになった。
車を駐車場に停め、辺りに咲き誇る紫陽花を愛でながら、樹々に囲まれた風情ある店の暖簾をくぐると、こじんまりした二人掛けテーブルが四つ、正面奥には調理場、左奥には小上がりがあり、どうにか大人四人が座れる座卓が二つ置かれている。
蕎麦を打っているのは、八十がらみの頑固そうな親父だが、客の前にまず顔を見せることはない。客あしらいの全てを行なっているのは、親父の娘か、それとも単なる従業員か、四十前半と思しきひとりの女性である。
彼女は、客の注文や支払い、膳の上げ下げなどを、スピーディにそつなくこなすだけでなく、立ち居振る舞いに隙がないせいか、動きに優雅なゆとりが感じられた。さらには、くっきりと刻まれた二重の、切れ長の目元の小皺に、愛くるしい慈愛をのぞかせ、白い割烹着の上からでもそれと分かる胸の張りや、すぼまった腰にかけてのS字曲線が、成熟した女の色香を匂い立たせている。
芳夫は、蕎麦を啜りながら、何気なく彼女に視線を向けてしまうのが常だったが、その視線を感じるのか、時折、彼女の方も芳夫に目を向け、視線が合うと目を小さく伏せ、どこか気恥ずかしそうな素振りをする。一度や二度ならともかく、何度も重なれば、何やら二人だけの秘密のやり取りのようにも思えて、いい歳をした芳夫といえど、平常心ではいられないのである。
蕎麦屋の後には、必ずジムに寄る。年齢もジム歴も、数年先輩となる村上は、今日も汗を流していた。芳夫は、村上の隣のランニングマシンに乗り、ゆっくりと歩き出す。
「ちゃんと指輪は確認しましたか」
「ええ、してませんでした」
「ほう。それなら次は行動あるのみですね」
「いやあ、歳も随分離れてますから」
「画家のピカソが、七十一歳で二十六歳のジャクリーヌをものにしたのは有名な話ですが、彼はこう言っています。女性には二種類しかない。女神か、都合のいい女のどちらかだって。男として生まれたからには、幸運にも女神を得ることができたなら、出世や金や名誉なんかよりよっぽど人生の成功者じゃないかと僕なんかは思うんです」
「そういうもんですか」
「そういうもんです」
芳夫が、なるほどと言うと、村上はさらにこう言った。
「増田さん、ここはダメもとで動いてみたらどうです? 四十代の女性の知り合いなら何人かいますから今度四人で食事にでも行こうじゃありませんか。グループなら彼女も安心だろうし、案外すんなりOKすると思いますよ」
苦笑いをして、諾否を曖昧なままにしたが、芳夫の心は波打っていた。
車のフロントガラスに、ぽつんと雨粒が当たったかと思うと、本格的に降り出した。
梅雨のこの時期、関東地方は、今晩から明日の午後にかけて、大荒れの天気になる見通しだと車のラジオは告げていた。
家に帰ると、妻の聡子が、せっせとトイレの掃除をしている。
十年前に、芳夫が早期大腸がんの手術をしてから、聡子はトイレ掃除を欠かさなくなった。本で読んだか、テレビで見たか、友人から言われたかは忘れたが、トイレが汚れていると、気の巡りが悪くなって、お金ばかりか、健康も害すと思い込んでいる。
聡子には、信じると一切疑わない、そういう一本気なところが昔からあった。
待ち合わせに遅れても、何時間も平気で待っていて、責めるどころか、遅れた理由さえ聞かない。役職をおろされ、給料が大きく減った時も、気づいていないのかと思うほど、口にも態度にも出さず、パートで働き始めた。
夕食を終え、自室にこもった芳夫は、パソコンで六十代イケオジファッションと打ち込んだ。夏には濃紺のポロシャツに白いチノパンが定番とある。
タンスの奥を探ると、古い紺色のポロシャツが見つかった。無理をすれば着て着られないことはない。次に白いチノパンである。チノなのかどうかわからないが、白い綿パンはあった。履いてみるがとてもじゃないが前が閉まらない。しょうがないので、脱ごうとしたところへドアが開き、聡子が顔を覗かせた。
ぴちぴちのポロシャツに、綿パンの前がだらしなくはだけたままの芳夫に、
「なにしてんの?」と聞いた。
「いや、ジム仲間の人から食事に誘われててさ。何を着て行こうかと思って」
聡子は、芳夫の上から下までを、なめ回すように見た後、
「ふうん、お風呂どうぞ」と言ってドアを閉めた。
芳夫は熱い湯につかり、小さなため息を何度もつき、その度に顔にお湯を掛けた。村上の言葉が頭から離れないのである。
風呂から上がると、聡子が言った。
「明日、ひどい天気みたいなんだけど、車で新宿連れてってくれない?」
聡子は車の免許を持っていない。芳夫は、急になぜと聞き返した。
「仕事がないから。買いたいものがあるんだけど、今度いつ行けるかわかんないし」
派遣でパートの仕事をしている聡子の休みは不定期だった。出かける用事があると言うと、聡子は、いともあっさりと受け入れた。
翌日、白くけぶるような雨が地面を叩き続けていた。その中を、身を縮め、傘に隠れるようにして聡子が出かけて行くのを、芳夫は窓の外に見送った。
すぐさま自室へと入り、メモ用紙に氏名と連絡先を書き込み、四つ折りにして財布にしまうと、決然と立ち上がり、車の鍵を握り締め、家を出た。
横殴りの雨は勢いを増し、ワイパーを最速にしても、前がよく見えないほどになっている。そのせいか道路はひどく混んでいて、遅々として進まない。
それでもどうにか昼の営業時間内には到着し、駐車場に車を停めると、傘をさすのももどかしく小走りに駆け、雨に濡れて店に入った。想定通り客は少なく、若い男女の語らい合う姿だけが、小上がりにあった。
彼女はおしぼりを二本持ってきてくれ、手際よくぽんぽんと開けると、一本を芳夫に渡し、芳夫がそれで顔を拭く間、もう一本で芳夫の雨に濡れた首の後ろを優しく拭いてくれ、思わず芳夫はしばし陶然とした。
蕎麦を頼んでしばらくして、男女が店を後にし、店内が静寂に包まれた。
彼女は、手持ち無沙汰のようにして配膳口辺りに立っている。するといつもとは違う、しんと静まり返った店内に、ほらよと奥から野太い声が響いた。その声色の中に潜む、独特の親密さにふと芳夫は気づいた。
あのう……と、恐る恐る芳夫は声を掛け、彼女が、はいと言った。
「蕎麦を打っておられるのはもしかすると……」
一瞬、戸惑った表情の彼女は、こう言った。
「あ、主人です。歳が離れているので、娘とよく間違われるんですけど」
「やっぱりそうですよね。似てないですもんね」
芳夫は、普段通り、さっと蕎麦を食べ終えると、蕎麦湯を待つことなく、手早く勘定を済ませ、雨の中を駐車場へと走った。
しばらくフロントガラスを叩く雨を見ていた芳夫は、堪え切れないかのように、くすくすと笑い始めた。笑いながら、財布の中にあったメモ用紙を取り出して細切れに破り、窓から外へ放り投げた。小さな紙片は、芳夫の笑い声とともに、降りしきる雨へとまるで吸い込まれるように消えていった。
家に帰ると、聡子はすでに戻っていて、トイレ掃除をしていたために、芳夫の帰宅に気がつかないようだった。その丸まった背中に、「帰ったよ」と声を掛けると、振り返ることなく、「お帰りなさい」と聡子が言った。
自室へと入った芳夫の目に、ところどころ雨で濡れた跡がそれとわかる、有名デパートの紙袋が留まった。
中には、濃紺のポロシャツと、チノかどうか分からないが、白いパンツが入っていた。
着てみるとサイズはぴったりだった。
塩野 薫(東京都杉並区/64歳/男性)
