「裸電球とソファと古着」著者:春野礼奈
大雨の金曜日、夫が連れ帰ってきたのは、青い達磨だった。
「すぐそこの公園に捨てられていて」
夫はそう言って、タオルで達磨の体を拭った。私は緑茶を淹れ、机の上に置いた。
「引っ越しのどさくさに紛れて捨てられてしまったのです。あまりに突然のことで、放心状態のまま動けずにおりました。助けていただき、感謝感激雨あられです」
達磨は器用に体を傾けて緑茶を一口飲むと、落ち着いた声でそう言った。
「ひどい話ですね。きちんとお焚き上げもしないで」
私は達磨の主に憤慨した。
「産まれは深大寺ですか」
達磨の顔を覗き込んで夫が尋ねると、達磨はゆっくりと頷いて、
「おわかりになりましたか」
「ええ。深大寺の達磨、特有の目ですからね」
見ると、達磨の左目には黒い丸ではなく、梵字の「阿」が入れられ、右目は白地のままだった。深大寺には達磨の左目に「阿」を入れて願掛けし、成就した暁には右目に「吽」を入れる風習があることを、だるま市に足を運んだことがある私たちはよく知っていた。
「思えば、深大寺で主と出会った日が幸せのピークでした。もう遠い過去の話ですが」
達磨は肩を落として話を続ける。
「住む家を失くしたことも問題なのですが、実はもう一つ、大問題が。今度の日曜の昼に、大切な会食の約束がありまして。なんとしても、出向かなければいけないのです」
私は夫と顔を見合わせてから、「どなた様とですか?」と尋ねる。達磨は躊躇いがちに、
「私、婚活中でして。知人の紹介で、ある女性と初めてお会いすることになったのです」
「あら、縁談でしたか。場所はどちらなんですか?」
「深大寺にほど近いイタリアン・カフェで」
私たちは西調布に住んでいる。深大寺までは車で十五分ほどだ。
「うちからすぐですよ。お連れします。よろしければうちに泊まっていきませんか」
達磨は体の何倍もの高さに跳びはねて喜び、舌が擦り切れそうなほど礼を言った。
当日は待ち合わせの五分前に達磨をカフェに送り届けた。住宅街の細道を何本か入ったところにある、隠れ家カフェだった。木製の重い扉を開くなり、若い女性店員が「お待ちしておりました」と満面の笑みで出迎え、達磨を抱きかかえて席まで連れて行った。私と夫は相手の女性の姿を一目見てみたくて、窓の陰からこっそり見守ることにした。
数分と経たずに、白いトレンチコートをさらりと羽織り、黒く艶やかな長い髪をうしろでしっかりとひとまとめにした、三十歳前後の女性が現れ、颯爽と店に入っていった。
店員に誘導された彼女が達磨の目の前に着席し、達磨の頬がほんのりと赤く染まったのを見届けると、私たちはその場をあとにした。
「たまに、達磨職人がうっかりなのか出来心なのか、達磨に魂を吹き込むことがあるっていうのはよく聞く話だけどさ。うちの近所にもいたんだ、と思うとびっくりよね」
ハンドルを切りながら、後部座席の夫に話す。夫は窓の外のどこか遠くを見つめていて、返事はない。バックミラー越しにその横顔を盗み見ながら、私は夫と出会った日のことを、冷たい池の底から浮かび上がる泡沫を掬い上げるような繊細さで、思い出していく。
夫との出会いはもう十年も前。当時、下北沢の裏路地にあった古着屋の常連客だった私は、ある時、店主と話し込んでいて、「彼、実はもうずいぶん長いことうちにいるんだよね」と、住み込みで倉庫の整理を手伝っているという夫を紹介された。店主の脇にぼうっと立ち尽くす夫は、よく風の通る夏の和室の隅の暗がりみたいにひっそりとしていて、目を離したら簡単に消えてしまいそうだった。夫の右目は白い眼帯で覆われていて見えなかったけれど、左目はそれまでに出会った誰とも異なる深い色をしていて、見つめるだけで網膜が焦げつきそうな、強烈な熱を帯びていた。
「お二人さん、きっと仲良くなれると思うんだけど、どう?」
店主はいたずらっぽく笑って、ちょっと休憩、と言いながら店から出て行った。取り残された私たちは互いに一言も発することなく、橙色の裸電球がところどころ吊るされた薄暗い店内で、埃っぽいヴィンテージ・ソファの右側と左側に腰掛け、床から天井までひしめき合う古着たちをじっと見つめながら、店主の帰りを待った。外では雨が降っていて、お客は全然来なかった。沈黙は深く長く途切れることなく続いた。けれども、そうなることが初めから決まっていたように、一片の気まずさも感じなかった。初めての感覚だった。
それから店を訪ねるたびに店主の計らいで、私たちには二人きりの時間が与えられた。私たちが何か言葉を交わすことは非常に稀だった。けれども次第に夫は、言葉ではない形で私に働きかけるようになっていった。寒い日には、いつも私が座る右側の席に、温められた座布団が敷かれていたり、暑い日には、私が訪ねるやいなや、その年の梅仕事で作った梅ソーダを裏から出してきて、飲ませてくれたりした。
そんな関わりが長く続き、まだ乾く前の染めたての布を重ね、互いの染料が滲み出てやがて混ざり合い、最後には同じ色になるように、私たちの関係は静かに醸成されていった。
数年が経ち、古着屋が閉店したことをきっかけに、私たちはどちらからともなく同棲を始め、五年目の春、結婚した。
カフェを出て一時間半が経ったところで、達磨を迎えに行った。ボトルワインを昼から一本空けたようで、達磨はすっかり酔って、体の色は青から赤に変わっていた。
「不思議と初めてお会いした感じがしなくて。馬が合うと申しますか、何をお話しても、ぴたりとちょうどいい言葉が返ってきて、本当に愉しい時間でした」
彼女はにこやかにそう言って、車が見えなくなるまでずっと手を振り続けてくれた。
「次は深大寺だるま市でお会いすることになりました」
助手席で達磨は喜びを隠しきれない様子で言った。
「素敵じゃないですか。でも彼女、他の達磨に目移りしないか心配ですね?」
達磨は真に受けて焦り、真っ青になった。
「なぁんて、冗談ですよ、愉しみですね」
車を南へ向かって走らせ、ほどなくして家に辿り着いた。夫は黙ったままだった。
夕食を終え、達磨が客間で眠る頃、私たちも寝室のダブルベッドで横になった。
「達磨を見ていると、出会った頃を思い出すな」
私に背を向けている夫が、暗闇にぽつりと言葉を放った。
「達磨と違って、あなたは全然喋らなかったじゃない」
「君こそね」
月明かりに照らされて鈍く光る、丸いフォルムをした夫の背中に手を伸ばし、指先でそっと撫でる。ところどころ赤い塗料が剥げているけれど、十年の間に刻み込まれた傷のひとつひとつすら愛しい。
「なんで喋らなかったの」
「これが、阿吽の呼吸か、と初めて思ったから」
「何それ」
夫はしばらく黙ってから、
「裸電球とソファと古着、僕らにはそれだけあれば、あとは何もいらなかったんだよ」
夫がくるりと体を回転させ、私と向き合う。横になったまま、目が合う。遠い昔、私の知らない誰かが何かを願って書き入れた左目の「阿」の字と、結婚を決めた日の夜、震える手で私が右目に書き入れた「吽」の字が、黒光りしている。
「ふぅん?」
私は気の抜けた返事をする。
夫が古着屋に棲みつくまでの間、誰とどういう風に生きていたのか、私は何一つ知らない。彼から語られないから、私から聞くこともない。それでも手に取るようにわかってしまうのだ。彼のずんぐりとした体の中いっぱいに詰まった、決して語られないものたちのことが。何度転んでも絶対に起き上がる、その生き様が。
すっかり眠ってしまった夫の顔を覗き込む。口は「阿」の形に開いていて、規則的な寝息を立てている。私は隣で何か大切なことを確かめるみたいに、口を「吽」の形に、しっかりと結んでみる。
春野礼奈(東京都)