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「再生」著者:古田江

 黒いダウンジャケットの襟をたぐり寄せた拓斗が、軒先に並んだ椅子から立ち上がって店内をのぞき、何度目かの深いため息をついたので、梨莉愛はあわてて「ごめん」と謝った。「やっぱり家で食べる?」
 拓斗は何も答えてくれず、仏頂面のまま座り直し、境内を歩く人々をにらみつけるように眺めている。
「べつに年越しだからって特別にする必要ないもんね。てゆうか外で待ってるのとか普通に寒いし。帰ろ? 私作るから。なんならカップ麺でもいいし」
「うるせえな」拓斗が舌打ちした。「余計いらつくから黙ってろよ」
 身を縮めてうつむく。反対隣に座っている二人組の若い女性が同情めいた目を向けてきたので、その視線から逃げるように、梨莉愛は体をひねって店内をのぞいた。家族連れから老夫婦まで、無事に一年を乗りきった人たちの、互いをねぎらうようなやわらかい笑顔にあふれ活気に満ちていた。年の瀬とはいえ、これだけ蕎麦屋がひしめいているのだから、お昼なら空いている店もあるだろうと踏んできたのだが、完全に見通しが甘かった。
「おーい、ティッシュ持ってこい」
 賑わう店内で、ひときわ大きな声が響いたので梨莉愛は端の座敷に目をやった。六十代くらいの、髪を短く刈りあげた男性が、畳に寝転がりそうなほどふんぞり返った姿勢でひらひら手を振っている。
「おい、ティッシュだよティッシュ」
 忙しく店内を駆け回る店員たちがすぐに対応できなかったことに苛立ったのか、いっそう尖った声でふたたび男性が呼びかけると、若い女性店員が「はい、ただいま」と小走りで駆け寄った。
「客に呼ばれたらすぐ来いよ」
 ぞんざいに吐き捨てた男性は、ふんだくるようにティッシュの箱を受け取ると、がさつに三枚引き抜いて口をぬぐった。丸めて小さくすることもせず、そのまま目の前にぽいと放り出す。正面に座る奥さんらしき女性が、眉間にしわを寄せて口を動かした。店内の喧騒にかき消されて内容は聞き取れなかったが、おそらく、汚いでしょとか、散らかさないでよとか、なにか咎める類のことを言ったのだろう。
「あえてだよ」
 男性はへらへら笑いながら答えた。「メジャーリーグ観たことないのか? あいつらわざとベンチでペっペつば吐くんだよ。なんでかわかるか? 清掃員に仕事与えてやってんだ」
 誇らしげに胸を張った男性に対し、女性はかすかに眉をひそめただけで、肩で小さく息をして静かにうつむいた。諦めているんだろうなと梨莉愛は察した。これ以上小言めいたことを口にしたら激昂するとわかっているから、黙って飲み込むしかないんだろうなと、女性の気持ちが手に取るように理解できてしまうことがむなしかった。
「俺やっぱ帰るわ」拓斗が静かにつぶやき、立ち上がって歩き出した。
「え、ちょっと」
 梨莉愛はあわてて後を追った。振り返ったら、隣に座っていた女性たちがこちらを一瞥して横にずれた。後ろの人たちもそれにならって列を詰めたので戻る場所がなくなった。
「ごめん。私が外で食べたいなんて言ったから。最初から家で済ませればよかったね」
 ようやく追いついたが拓斗は足を止めてくれず、大股でずんずん進んでいく。
 わたし来年三十三で厄年だからさぁ、という名目で、近所の深大寺に誘った。「お祓いなんて一人で行けよ」と渋る拓斗を「ちょっとお賽銭投げるだけだから。お願い」となかば強引に連れ出した。無事に参拝を済ませたあと、普段はそんなお願い絶対しないのに「せっかく来たんだから年越しそばでも食べていこうよ」と行列に並ぶことを提案した。そこでお腹が満たされて拓斗の機嫌が良さそうなら「ついでに拓斗も仕事見つかりますようにとかお願いしていったら?」なんて軽い調子で、少しでも機嫌を損ねそうな気配があれば「冗談、冗談」とすぐに引き下がれる態勢だけ整えつつ促すつもりだった。
「あっ、ねぇねぇ、植物園なんてあるよ。寄ってみない?」
 鬼太郎茶屋や案内所脇を素通りし、深大寺小学校方面へ歩いていたところで、石垣の塀に埋め込んである大理石に彫られた「水生植物園」という文字が見えた。植物なんてまったく興味はないし、拓斗に鑑賞させたところで機嫌を直してくれるわけはないのだが、とにかく足を止めてもらいたくて、目に飛び込んできたものをなんの考えもなく口走った。
「こんな真冬に花なんて咲いてねえだろ」
「でもせっかくだから……」
「せっかくせっかくうるせえよ」拓斗が切れ長の目で刺してきた。「お前が無理やり連れてきたんだろ。俺は最初から来たくなかったんだよ」と吐き捨て、歩く速度をさらにあげる。
「お昼どうする? 家で蕎麦茹でる?」梨莉愛は必死に追いすがった。
「駅前で適当に食うからいい」
「じゃあ立ち食い蕎麦にしようか。ああいうとこも意外とおいし……」
「ついてくんな」拓斗が怒鳴った。
「ごめんなさい」反射的に頭をかばう。
「パチンコ行くんだよ」
「あっ、パチンコ?」
 梨莉愛があわてて財布を取り出すと、拓斗が舌打ちをして立ち止まった。「ずっと思ってたんだけどさ」
「ん、なに?」梨莉愛は急いで口角を上げる。
「俺のことペットかなんかだと思ってる?」
「ペット?」首をかしげた。
「とりあえず金だけ与えとけば満足すると思ってなめてない?」
「そんなことない」ぶんぶん首を振る。
「前からむかついてたんだよな」
「ごめん。気をつける」
「もう遅えよ」
 開きかけた財布をふんだくり、去っていく背中を呆然と見つめる。横を通り過ぎた学生風のカップルがにやつきながら好奇の目を向けてきたので必死に平静を装った。拓斗を追うことはせず、さも最初からそうするつもりだったかのように、あえてのんびりした動作で右に折れ、ひとり植物園へ入っていく。
 入場は無料らしく、受付のようなものはなかった。敷地に入ってすぐのところに、園全体を一望できる小ぶりな見晴らし台があった。さすがにこの時期では色とりどりの花など拝めるはずもなく、他に見物客の姿はない。いくつかある小池は、枯れて短く刈りそろえられた株がわずかに頭をのぞかせているばかりだ。まるで生気を感じない、そのなんとも頼りない様が、ここ数年の自分の姿に重なってしまい、梨莉愛は力なく苦笑した。
 いつからだろう。仲間と会社を起ち上げると言って仕事を辞めたはずの拓斗が一向に動き出す気配を見せず、毎日パチンコに繰り出すようになっても笑顔で送り出していた頃か。それとも、付き合い出すのと同時に始めた同棲で、折半する約束だった家賃の支払いが割と早い段階で滞りはじめ、やんわり咎めたときに初めて殴られたときからだったか。いや、ひょっとしたら、三十歳を前に焦りから手を出したマッチングアプリで、当時バーテンダーをしていた拓斗と出会い、このひとを逃したらもう後がないという気持ちから、売上に貢献して気に入られようと、毎晩のように通い詰めていたときにはすでにそうだったのかもしれない。気がつけば、拓斗の顔色ばかりうかがって、自分の心からは目を逸らし続けてきた。捨てられないために、捨てたくないものばかり捨てるようになっていた。
 冷たく乾いた空気に身を縮めながら、梨莉愛は見晴らし台のベンチに座り、眼下の池をながめた。案内板にはハナショウブ園と書いてある。どんな植物かわからないのでスマホで検索した。五月下旬から六月にかけて見頃を迎える、紫色の花らしい。こんなに枯れ果てた株たちが、たった半年で満開になるなんて想像できなかった。でも、この状態から本当に、茎を伸ばし、蕾をつけ、新しい花を開くというなら、背中を押される思いがした。
 立ち上がり、手すりに身を乗り出した。半年後、また見に来よう。本当に咲くものかこの目でたしかめたい。そのときには、凛と咲き誇るハナショウブに、堂々と向き合える自分になれているだろうか。
 梨莉愛は視線をあげた。澄んだ青空が広がっていた。久しぶりに空を見た気がした。

古田江(東京都清瀬市/42歳/男性/会社員)