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「末永い幸せを、心よりお祈りしています」著者:潮崎せんり

 深大寺と言えば蕎麦だよね、と意気揚々と入った蕎麦屋で、散々悩んだ挙句に天丼を注文するようなところが好きだ。
「翼が頼んだ蕎麦も、一口もらっていい……?」
 首を傾げるその角度も好きだ。「もちろん」とうなずくと、「ありがとう、あたしのもあげるね」と微笑んでくれた。
 注文の品を待ちながら、彼女――綾子はご機嫌そうに頬杖をついた。
「植物園のサボテン、可愛かったな。大きくて生命力があって……ふふ、ちょっと小さめのふわふわに見えるやつとかも可愛かった。名前もいいよね、『アザラシ』ってさぁ」
 花々でも鮮やかな新緑でもなく、サボテンの可愛さを語るところも好きだった。綾子が綾子であればもはや何だって好きなのだから、本当なら好きなところを並べ立てる必要もない。けれど心が勝手に、好きだと思ってしまう。
 深大寺に行こうと言い出したのは、綾子のほうからだった。彼女はお寺や神社が昔から好きだった。吉祥寺に気になるカフェがあるから、ついでにその前に深大寺にも行こうよ、と誘われたのだ。正直こちらとしては、バスで三十分は『ついで』の距離ではない。それでも彼女からのデートの誘いを断るという選択肢はなかった。
 深大寺と神代植物公園をじっくりと見て回り、この古民家風の蕎麦屋で少し遅めのお昼を取ることとなった。この後は吉祥寺に向かい、ショッピングで時間を潰した後、予約したカフェに行く予定である。
「翼はヒスイカズラ気に入ってたよね。あれもファンタジックな見た目で可愛かったな、初めて見た」
「ああいうのが自然界にあるって、なんかすごいよね」
 だよねぇ、と綾子はくすくす笑った。
 ヒスイカズラはその名のとおり、翡翠色の花だ。藤の花のように下に垂れる形で咲いていて、房になっている。がくなのか何なのか、薄紫色をした部分もあって、神秘的な色合いの植物だった。確かに今回見た植物の中では一番気に入ったものだったが、特段大きな反応をした覚えはない。それでも気づいてくれたんだ、と思うと頬が緩んだ。
 届いた蕎麦と天丼を、一口ずつ交換してから食べる。正直なところ、普通の蕎麦のほうが好みだと感じた。綾子と同じように天丼を頼めばよかったかもしれない。そんな内心を見透かしたように、綾子が少し笑って天丼を差し出してきた。
「もう一口あげよっか」
「……ありがたくいただきます。こっちももう一口いる?」
「うん、あたしはその蕎麦も好きだったし」
 綾子が好きだと言ったからか、もう一度交換し終えてから食べた蕎麦は、非常においしく感じられた。細めの麺はのど越しがよく、風味も格別である。我ながら単純だった。
 そこからも雑談を交えながら食べきり、「ごちそうさまでした」と二人して手を合わせた。綾子の左手の薬指につけられた指輪が、きらりと光る。婚約指輪だ。――私の気分は、一気に地の底まで落ちた。
 ああ、せっかく視界に入れないようにしていたのに。楽しくてつい気を緩めてしまった。
 わかっている。これをデートだと思っているのは私だけだ。でもいいでしょう、思うくらい。女同士で出かけることをデートと呼ぶのは、そうおかしなことでもないのだから。
「はー、お腹いっぱい。ちょっとゆっくりしたいけど、並んでる人いるし早めに出よっか」
「……うん」
「あれ、どうしたの、急に元気ないじゃん」
「元気だよ」
「えー? まあ、そういうことにしといてあげる。どうせ翼、あたしとしばらく話してれば元気になるしね!」
 私の感情変化はすぐに察するくせに、私に恋をされているとは夢にも思っていないところは――そこだけは少し、本当に少しだけ、嫌い、かもしれない。
 食券制だったから、会計はもう済んでいた。店員さんにごちそうさまでしたと伝えて、私たちは店を後にした。日に輝く新緑が眩しくて、思わず目を細める。嫌になるくらい快晴だ。
 私と綾子は幼馴染だった。同じマンションのお隣さん。幼稚園から中学校までずっと一緒で、学校が離れた高校以降も頻繁に遊んでいた。社会人になってお互いに一人暮らしを始めてからも、月に一、二度は必ず会っていた。
 いつ好きになったのかはわからない。気づいたら好きだった。はっきりと自覚したのは中学生のときで、そこからは必死に気持ちを隠してきた。
 そうして大学生になって、綾子に初めて彼氏ができた。照れくさそうに報告してきた彼女に、私は上手におめでとうと言えたと思う。そんなふうに報告をされる覚悟はずっとしていて、何度もイメージしていた。心から祝福しているように見える笑顔を練習した。
 その彼氏がそのまま夫になったというのは、私にとってはほんの少し幸運なことだったのかもしれない。彼女の不幸を喜ぶような人間にならなくて済んだのだから。
「……綾子、ごめんね」
 好きになってしまったことも、あなたの幸福を心から喜べないことも。
 ぽろりとこぼれてしまった謝罪に、綾子は不思議そうに目を瞬いた。
「え、なに、疲れちゃった? どっかで休む?」
「ううん、大丈夫。バス停行こう。……でもやっぱりちょっと疲れてるかも。手繋いでもらっていい?」
「いいよ、バス停まで引っ張ってあげる」
 右手を差し出すと、やわらかな左手で握られた。ひやりと硬い異物が当たって、心が冷えていくのを感じる。それが目的であえて右手を出したのだが、歩き始めながら少し後悔した。
 深大寺で記念に引いたおみくじでは、二人とも凶だった。嘘か本当か、深大寺のおみくじは三割が凶だとは聞くが、それにしても二人ともとは。綾子は楽しそうに大笑いしていて、私も笑うふりをしたけれど、本当はまったく笑えない気持ちだった。
 彼女はもうじき、結婚する。ずっと好きだった人が自分とは違う人間と結婚するのだから、私の運勢は凶に決まっている。そして、親友だと思っている相手に、心から祝福を受けられない彼女の運勢も。ごめんなさい、ともう一度心の中で謝る。
 私の恋心は、死ぬまで隠し通すと決めていた。だから、できるだけ早く死にたかった。……あまり早死にすると綾子が悲しみに暮れてしまうから、そこそこ生きたうえで。
 ――『私の運勢は凶に決まっている』だとか、『できるだけ早く死にたい』とか。自分でも痛いな、とは思う。悲劇のヒロインぶって、馬鹿みたい。愚かしい。でもいいじゃないか、とも思う。私はそれくらい、綾子のことがずっと好きだった。こんな気持ち、誰にも、死ぬまで言わないんだから。いいじゃないか。
「ねえ、綾子。結婚おめでとう」
「なぁに、急に。何回目? ありがとう」
 けらりと、綾子はおかしそうに笑った。
「翼の友人代表スピーチ、期待してるからね」
「……うん、期待しておいて」
「大好きな親友綾子、ってどこかに入れてくれると嬉しい。絶対泣くから」
「ふふ、何それ、綾子がそれ指定するの? いいけど、私も、泣いちゃうかもなぁ」
「いいよいいよ、二人で泣いちゃおう」
「……そうだね」
 繋いだままの手に、ぎゅうと力を入れる。
 本当に、泣いてしまうだろうな。今ですらもう、気を張らないと涙がにじんできそうだった。小さく、深く呼吸をして、泣きそうな感覚をやり過ごす。大丈夫。絶対、誰にもこの感情を気づかせることなく、大好きだと伝えられるから。
 私はあなたの親友だ。これまでも、これからも。この恋心を知るのは私だけでいい。あなたにずっと笑っていてほしいと、そう心から願えることだけが、私の誇りなのだ。

潮崎せんり(東京都八王子市)