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「達磨に願いを」著者:田岡洋祐

「はじめまして、齋藤満彦といいます。5歳です」
君のように礼儀正しいガキは苦手だよ、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、皓史は鬼灯のアーチに彩られた山門に佇む、年の割に聡明そうな少年に手を差し伸べた。
「塚本皓史です。お母さんに心配かけんのは良うないで」
 無言で身を起こし、こちらを睨みつけてくる。背負ったリュックは大きく膨らんでいた。
「お母さんがいけないんだ。僕はお父さんとも、今のおうちともバイバイしたくない。…大阪になんて行きたくない」
 皓史の頬に何かが当たった。梅雨の夕方、曇天が支えてきた重みを押しとどめきれなくなったように、地面に水滴が撥ね始める。境内の森から漂う、濃い緑の匂いが鼻を突いた。

参道のそば屋は軒並み営業を終えており、皓史は満彦の手を引いたまま、山門をやや下ったところにあるバス停で雨をしのぐことにする。
「お母さんが寝てる間に、こっそり新幹線から逃げたらしいな」
「……なんで」
「電話があった。お母さん、京都過ぎるまで爆睡してたらしいぞ。疲れてたんと違うか」
「違う。なんで僕のいるところがわかったんだろう」
「東京、離れたくなかったんやろ? それなら、思い出がある場所におるんちゃうかって」
 とはいえ、送られてきた写真の少年を、指定された通りの場所で見つけて、皓史は舌を巻いていた。母の慧眼と、恐らく品川か新横浜から、電車とバスを乗り継いでこの場所に戻ってきた、少年の賢しさの両方に。周囲の大人に尋ねながら切符を買ったのだろうが、不審な迷子として通報されているかもしれない。
「だるま市。お父さんとお母さんと、毎年三人で行ってたんやって?」
 両親の休みが合わず、家族旅行もままならないが、年に一度、家の近くにある深大寺の祭りには、満彦が生まれてから家族そろって出かけることになっていたという。
「なんで」
「さっきからそればっかりやな」
「だったらなんで知らないおじさんが来るの。お父さんでもお母さんでもなくて」
「…自分がお母さん置いてきたんやろ」
「だったら、お父さんに来てほしかった」
「…そうやな。知らんおっさんで、ごめんな」
 実際には、もっと悪いかもしれんけど。心に浮かんだ続きの言葉は、口に出さなかった。

「久しぶり、元気? 実は、子供が生まれました。めっちゃかわいいで! 世界を照らす笑顔やわ。私もこっちにおるから、いつか会いに来て。写真送るな(^^♪」
東京で就職して5年ほど経った休日。皓史は、キッチンでの洗い物を中断し、一人掛けのソファへと身を沈めた。学生が住むような狭苦しい1Kの、雑然とした棚の上に佇む達磨人形を見上げるが、片方の目が白いせいか、「目が合った」という感じがしない。簡単な返事を送り、続けて届いた文面にどう対応したものか、皓史は少し迷った。

 「毎年、もらった達磨さんに、目を描いてもらってお寺に返すんだ。でも」
リュックの容積のほとんどを占めていたのは、片方にしか瞳のない達磨人形だった。市で買った新しい達磨には、「阿」の文字を、寺に納める古い達磨には、「吽」の文字を瞳に描く。前者は物事の始まりを、後者は成就を表す意味があると、皓史は知っていた。
「今年のだるま市のすぐ後、お父さんは家に帰ってこなくなって…」
 それも電話で聞いた。彼の不倫が発覚したらしいが、満彦にはまだ理解できないだろう。
「僕のことが嫌いになったんだ。動画をこっそり一日一時間以上見たり、夜更かししてたこと、バレてたんだ。でも、悪いことしたらちゃんと謝らないと」
 随分いい子に育ってるな。間の抜けた感想を抱きながら、皓史は言った。
「なら、お父さんが来てくれるんを待つか? 救急車が来る方が先やと思うけど」
空腹を見透かされたことに一瞬目を伏せて、しかし満彦は気丈に言い返してくる。
「お父さんは絶対に帰ってくる! 勝手に遠くへ行こうとしているお母さんはひどい!」
 片目の達磨を抱きしめるようにして満彦が叫ぶ。いよいよ本降りになってきた雨の中で、何台目かのバスを見送る。運転手が皓史たちを待つ時間は、徐々に短くなっていた。
「本当は、お父さんもお母さんも、僕に生まれてきてほしくなかったんだ。そっちに住ませてほしい、って大阪のおばあちゃんに電話してる時、お母さんは僕が一緒にいることを謝ってた。みんな、僕が邪魔なんだ。そんなところで暮らしたくない。…関西弁も、嫌い」
皓史はポケットからスマートフォンを取り出した。メールをスクロールし始め、目的の文章までに5年を遡る必要があることに思い至り、祐実の名前で検索をかけ、満彦に示す。
「君が生まれた時に、僕に送ってきたメールや」
 食い入るように、満彦は画面を見つめている。読めない漢字もあるだろうが、文意は伝わるだろう。そういえば、令和の幼児は顔文字を理解できるのだろうか。

 専門学校に通いながら、書店でアルバイトをしていた安田祐実と、浪人時代に偶然再会し、小学生以来の懐かしさにやり取りを交わすようになった。その後、より勉強に力を入れられたのは、合格して祐実に格好を付けたかったからという理由もある。無事合格した後は、交互に誘うような形で、たまの余暇を共に過ごした。古くからの友人を集めることもあれば、二人で静かにそれぞれの試験勉強をすることもあった。
 祐実が専門学校を卒業する年の春、仲の良かったメンバーと東京旅行に行った。テーマパークや食べ歩きなど観光コースを巡り、最後に立ち寄ったのが深大寺のだるま市だった。
「こんな遠くにまで来て、達磨なんて買わんでも…」
「願いが叶ったら返しに来んねんで? 頑張れる気がするやろ。コージのも私が選んだる」
こちらを振り向きもせず、真剣な目で達磨を選ぶ祐実に押されるように、皓史も一体を購めた。大阪に帰り、友人たちと別れ、二人になってから皓史は胸中の想いを祐実に告げた。片目の達磨は、俯く祐実の記憶と共に、今も皓史の家に佇んでいる。

「毎年だるま市に行ってたんやろ? どんな願い事をしてたの」
「家族みんなが、一年仲良く暮らせますように…」
 達磨は無言で、父親の不在を雄弁に語り続ける。下を向く満彦に、皓史は言った。
「お母さんが、だるま市に行くようになったんは、最初の願い事を叶えてくれたからやで」
 言って、満彦の誕生報告に続いて届いたメールを見せる。「やっと達磨を返せる!」そういえば、学生時代に将来の夢を語り合うような宴席でも、彼女は「子供がほしい」と話していたなと、皓史は今さら思い出した。
「君が生まれてくることを、お母さんはずっと願ってた。嘘じゃないで」
「じゃあ、僕の願い事もいつか叶うの?」
 信じていれば、いつか。その希望を肯定することは、ひどく残酷なことに思えた。
「大事なんは、叶っても叶わなくても、ちゃんと終わらせることやと思う」
 ひょい、と満彦の手から達磨を取り上げる。瞬間、大切なものを奪われた悲しみと怒りに加えて、ほんの少し安堵の表情が浮かんだのを、皓史は見逃さなかった。
「僕も返しそびれてる達磨があってな。ついでに納めといたるわ」
「…おじさんの願いも、叶わなかったの」
 答える代わりに、皓史は心中で謝った。自分こそ、満彦の誕生を祝えなかった、ただ一人の人間だったと。祐実に想いを告げた時も、結婚を報告されたときでさえ捨てきれなかった想いを、君が壊したと思っていた。その時、スマートフォンが震えた。

 バス停を出て見上げた山門の前に、ずぶ濡れになった祐実の姿があった。
「悪いことをした時は、どうするんやった?」
 一瞬の逡巡の後、雨の中を、満彦は弾かれたように走り出す。祐実がそれに気づいた。彼女は息子だけを見ている。皓史の姿を、これまでも、これからも移さない瞳。
「何回失恋させたら気が済むねん」
 だが、来年の三月までなら、この気持ちを抱えて生きるのも悪くないか、と思った。

田岡洋祐(東京都板橋区/40歳/男性/会社員)