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「青木君の子」著者:花丸恵

 本当に、年は取りたくないものだ。
 近所のちょっとお高いスーパーで、冷凍餃子を買おうとしたら、冷凍庫のガラス扉に私と夫の姿が映り込んだ。地肌が透けた、夫のまだらな白髪頭を目にして溜息をつく。二ヶ月に一度、美容院でヘアカラーをする私の髪と、夫の頭髪を見比べる。なんだかぞっとするほど、年の差があるように見えた。
「晩飯は蕎麦にしよう。今日は俺が茹でるよ」
 恩着せがましく言いながら、夫が乾麺の袋を買い物カゴに入れた。パッケージには上品な筆文字で「深大寺そば」と書かれてある。自分から深大寺のことを持ち出すなんていい度胸してるじゃないの、そう思って睨みつけたが、夫はそれに気づきもしない。
 あとひと月で夫は定年を迎える。今は有休消化中で、退職日まで仕事に行くこともない。退職後の就職先も決まっているが、次の仕事が始まるまで羽を伸ばすと言い、夫はずっと家でテレビを見ている。でも一日中それでは飽きるらしく、私が買い物に出ようとすると、頼んでもいないのに、得意気な顔をしてついてくるようになった。どうやら夫は、一緒に買い物に行くことが、私へのサービスになると思っているらしい。文句を言うのも面倒なので黙っているが、正直、そんな夫の態度にうんざりしている。
 帰宅して、買った食材を冷蔵庫にしまっていると、夫が蕎麦の袋を手にしみじみ言った。
「なつかしいなぁ。随分前に二人で深大寺に行ったじゃないか」
 その一言に耳を疑う。確かに娘が生まれる前、私と夫は深大寺に行った。でも、夫婦で出かけたわけではない。
「蕎麦茹でるときになったら呼んでよ。俺、茹でるからさ」
 また恩着せがましく言うと、夫はリビングのソファーにどっかり座って、テレビをつけた。聞こえてくる大きな音に顔をしかめながら、私は晩ご飯の準備をする。夫は天ぷらを期待しているようだが、揚げ物をする気なんてさらさらない。
 あのとき、夫と女は深大寺の有名な蕎麦屋で天ざるセットを食べていた。私が店の外からこっそりそれを覗っていると、女が自分の穴子天を箸でつまみ、夫の皿に置くのが見えた。夫が穴子天に目がないのを、女はちゃんと知っていたのだ。
「そろそろ、お蕎麦を茹でてちょうだい」
 夫に声をかけつつ、私は青菜のおひたしとだし巻き玉子。茶碗蒸し用に買ってあったかまぼこを切ってテーブルに並べた。あとは頂き物のわさび漬けと残り物の筑前煮だ。年のせいか、たくさんおかずを並べても食べ切れなくなった。夫が天ぷらのない食卓に顔を曇らせたが、何も言わずに蕎麦の準備を始めた。
 あのとき、夫の浮気を教えてくれたのは部下の青木君だった。泥酔した上司を家まで送り届け、ベッドまで運んでくれた好青年だ。後から知ったことだが、青木君の母親も夫の酒癖女癖の悪さに苦労したらしい。だから余計に私を哀れに思ったのだろう。夫が高鼾をかいている隙に、いろいろな話を聞かせてくれた。
「僕で力になれることがあったら、遠慮なく言って下さい」
 帰り際に、青木君から電話番号が書かれたメモを渡された。その言葉に甘えて、私は遠慮なく彼を頼った。夫が出張だと言えば、本当に出張かどうか確かめたし、彼のほうも、夫が怪しい動きをすると、逐一私に報告してくれた。いつしか彼は、言葉の端々に私への好意を滲ませるようになり、私は私で、夫が不審な行動を起こすのを、秘かに望むようになった。
「おーい。ザルってどこにあるんだっけ?」
「流しの下の棚に重ねてあるでしょう?」
 声を張り上げたくなるのを、どうにかこらえる。もたもたしている夫を嗤うように、キッチンタイマーが鳴り出した。この人は本当に、夫婦で深大寺に行ったなどと思っているのだろうか。だとしたら、とんでもない記憶違いだ。
 あのとき、仕事から帰った夫が、明日、会社の皆で日帰り温泉へ行くと言い出した。怪しいと思って青木君に電話をすると、やっぱり真っ赤な嘘だった。翌日、出かける夫を見送ってから、近くに待機していた青木君の車に乗り込んだ。夫の車を見失わないように、目を皿にして後を追う。やっとのことで辿り着いた先は、人で賑わう深大寺だった。
 浮気の証拠を押さえようとカメラを向けるも、手が震えてうまく撮れない。代わりに青木君が頑張ってくれたが、顔がわかる写真を撮影するのは難しかった。
「やっぱり、ちょっと柔らかいかな」
 夫が蕎麦を啜りながら言う。一口食べて、蕎麦の香りはしたものの、茹ですぎたせいでコシがなくなっていた。
「そういえばあのときは、植物公園も見て回ったし、深大寺でおみくじも引いたなぁ」 
 茹で加減の失敗をごまかすように、夫は思い出話に水を向ける。深大寺も植物公園も朧気にしか記憶にないが、夫と女がおみくじを引いたときの光景だけは、今でもはっきり憶えている。二人はぴったり体を寄せ合い、互いが引いたおみくじを覗き込むように見ていた。夫が女の腰に手を回し、そのくびれを愉しむように撫でる。その露骨な仕草にぞっとして、私は咄嗟にその場から走り去った。
 気がつくと、青木君が私の手を強く握っていた。そのまま手を引かれて車に戻ると、彼の指が愛おしそうに私の涙を拭った。
「これから、僕の部屋に来ませんか」
 身を固くしたまま頷くと、青木君は車のキーを差し込んでエンジンをかけた。車が急くように動き出す。その振動に揺さぶられる度に、私はこれから夫と同じことをするのだという、絶望的な昂ぶりを感じていた。彼の様子を窺うと、夕陽に照らされた横顔が、思った以上に幼く見えた。あと少しで、隣にいる女を自由にできる。その興奮が、僅かに漏れる鼻息から伝わってくるようだった。募るものを抑えきれないほど彼は若い。その若さはきっと、上司の妻である年上の女を、簡単に持て余してしまうだろう。
 車窓の景色を眺めていると、見覚えのある駅が目に飛び込んできた。自宅の最寄り駅までの乗り継ぎが、調べたみたいにすんなり頭に浮かんでくる。私は無意識に「止めて」と声を上げていたらしい。青木君の驚いた顔を背に、私は助手席から外へと飛び出していた。体にまとわりつく昂ぶりを振り払うようにして駅まで駆け抜ける。私は息を切らしながら、閉まりかけた電車に飛び乗った。
「で? あのとき、深大寺のおみくじで何を引いたの?」
 蕎麦を啜る夫に訊いてみる。
 あの日、夫の帰宅は深夜になった。車だったので、お酒臭くはなかったが、夫の頭髪からは、安っぽいシャンプーの臭いがした。
 私の妊娠が発覚したのは、それから数日後のことだった。わざとらしく喜ぶ夫を眺めながら、私はお腹にいる子を、夫ではなく、青木君の子だと思い込むことにした。
 青木君は今頃、どうしているかしら――。
 そう思う度、煽情的な昂ぶりが体の中によみがえる。あのとき車を降りなければ、私はどうなっていただろう。そんな空想に身を委ねていると、あの日がまだ続いているような気がして、溶けたようにうっとりする。
「おみくじか? なんだったか憶えてないけど、俺はくじ運がいいからな。たぶん大吉だろう。お前は――」
 そう言いかけて、夫は急に黙り込む。その顔はみるみるうちに青くなった。
 娘が生まれ、役所に出生届を出したついでに、私は離婚届を持ち帰った。サインをし、出すつもりもないそれを、こっそり隠してしまい込む。戯れ事とわかっていても、そうせずにはいられなかった。でも夫にとっては、あのときの浮気なんて、記憶が曖昧になる程度の、取るに足らない出来事だったのだ。
 私は殊更、大きな声を上げた。
「ねぇ、私が引いたおみくじ、なんだったと思う」
 急に問われ、泡を食ったように「さ、さぁ」と答える夫に私は言う。
「貧乏くじ」
 今こそ夫の鼻先に、あの離婚届を突きつけてやろう。
 そんな勇ましい思いが頭をかすめたが、書いたあれをどこにやったか、すぐに思い出すことができなかった。
 本当に、年はとりたくないものだ。

花丸恵(埼玉県朝霞市/女性)