「不意打ち」著者:氷野真澄
斉田こずえはベンチの下で足をぶらぶらさせる。隣に座る父が腕時計を見た。真冬の風がぴゅっと吹いて、こずえはダウンの上から両腕を抱く。
つまんない――こずえは心の中で呟く。今日は日曜日で小学校はお休み。友だちと遊びたかったのに、父にここ――どこだかわからないお寺へ連れてこられた。しかもさっきから、ベンチで何かを待たされている。
せめてママも一緒なら――こずえは暗い気持ちになる。昨夜、父と母がまた喧嘩した。ここ最近特に多い。せっかく仲直りのチャンスかもしれないのに、父は今日、母を家に置いてきた。
まだ三時前なのに、辺りはもう暗くなりかけている。見上げれば、ねずみ色の空がどこまでも乗っかっている。
「ねえ、パパ。つまんない」
こずえが焦れて言うと、
「もう少しだけ待って。必ず、来るから」
父はそう答えたきり、組んだ指の上に顎を乗せた。
しかたなく、こずえは石畳の参道を行く人たちを眺める。両親と姉弟の四人家族が、はしゃぎながら通り過ぎていった。
あ、これ――こずえはびびっときた。これで全部解決する!
父がまた腕時計を見た。その横顔に声をかけようとした時、変な圧力みたいなものを感じる。
すぐ目の前に女性が立っていた。三十代後半くらい。パーマのかかったセミロング。美人というよりは、かわいい顔立ち。かなりゆったりした黒いコートを着ている。
ついじっと見ていると、女性と目が合う。女性は父に目を移し、またこずえを見て、はっと表情を変える。
不意に父が立ち上がった。
「葉子」
父が真剣な目つきで女性を見つめると、それに引っ張られたみたいに、女性も父を見つめ返した。ちょっとの間、二人は固まったままになる。
なにか嫌な感じがする。こずえは父に目で合図するが、気づいてもらえない。
女性がふっと目をそらした。同時に父が一歩、踏み出す。弾かれたように、こずえも立ち上がる。女性とまた目が合った。
突然、女性が膝を折った。しゃがみ込み、顔を手で覆う。ふるえる肩を、風が冷たく撫でる。その光景を見る、父の苦しげな顔。女性の泣く声が指の隙間からもれる。
「――めんなさい」
そして何かを言う声も。でも父は動かない。見ているだけ。とうとうこずえが女性に寄り、そばでしゃがんだ。
「ごめん、なさい」
ごめんなさい。女性は何度もそう口にしている。よくわからないけど、胸が切なくなる。
「おねえさん」
呼びかけると、女性が顔から手を離し、こずえを見た。
「よくわかんないけど、元気だして」
女性は鼻を啜りながら、「ありがとう」と白い息を吐いた。そして父に顔を向ける。
「娘の、こずえだ」
「こずえ、ちゃん」
かすれ声で、でもとても大切そうに、女性は発音した。
やがて女性はゆっくりと立ち上がり、
「幹夫さん。すこしだけこずえ――ちゃんと、二人きりにしてくれない」
父にそう頼んだ。すこし迷ってから、
「わかった。俺はここで待っている」
低い声で、父は承諾した。
参道沿いの茶店に入り、女性は甘酒をふたつ注文した。道に面した席に並んで座る。知らない人とふたり、変な気分がする。甘酒をひとくち飲むと、ほんわりした甘さで身体があったかくなった。
「おいしい」
「深大寺はおそばが有名だけど、冬は甘酒もいいでしょ」
「深大寺って、ここのこと?」
こずえが尋ねると、女性はびっくりしたように口に手を当てた。
「やだ、知らないの? ここは門前町だけど、ちょっと先を上ったところが深大寺っていうお寺。千年以上の歴史があるのよ」
「千年。すごい」
「いろんな御利益があるの。後でお参りしましょう」
「御利益って」
「厄除けとか、縁結びとか。それこそ昔は何度も」
女性はそこで言葉を切り、甘酒を口にした。
「こずえちゃんって、いま小学」
「五年生」
「そっかあ。もうそんなに」
そこでまた、女性は口を閉ざす。
「ねえ。お姉さんって、パパとどういう関係。お友だち?」
女性はしばらく曖昧にほほえんでいたが、
「こずえちゃん。いま、幸せ?」
逆にそう訊いてきた。
「幸せ、だよ。どうして」
女性はほほえみをひっこめて、「そう」とだけ言った。深く息を吐くみたいに。幸せなように、もしくは不幸なように。
「でもほんとは、それだけじゃないの」
「どういうこと」
「わたしのパパ、わたしがまだ赤ちゃんくらいの時に離婚したの。それから今のママと再婚した。だからママとわたしは血が繋がっていない」
「……」
「最近パパとママ、喧嘩ばっかりしてる。なんとかしたいのに、どうにもできない。わたし、ママの本当の子だったらよかったのに」
うつむいたこずえの肩に、そっと手が置かれた。
「えらいね」
「え」
「血の繋がりより大切なもの、こずえちゃんもう持ってる」
女性はそして、ちょっとぎこちなく笑った。
「ありがとう。こずえ、ちゃん」
こずえが何も言えずにいると、女性は立ち上がった。
「行きましょう。こずえちゃんのパパ、だいぶ待たせちゃった」
戻る途中で、
「こずえ」
名前を呼ばれた。父だった。たしかベンチで待っているはずだったのに。
「どうしたの、パパ」
「いや。べつに」
なんだか気まずそうにしている。
「――ねえ。折角だし、お参りしましょう」
女性が明るく言って歩き出す。すると父が、こずえの右手を取った。ちょっと恥ずかしいけど、父に手を引かれて歩く。
階段を上って大きな門をくぐると、そこが深大寺の境内だった。
「なつかしい。前おみくじで凶ひいちゃったことある」
「これは常香楼っていって、煙を体に入れると悪いところが良くなるんだ」
そんな会話をしながら歩いていると、左手がぽっと温かくなった。女性がこずえの手を握っている。左右に手を引かれ、寒いはずなのに頬が火照った。これってまるで本当の――。
でもそれも一時。本堂につくと、手はぱらりと離れた。でっかいお賽銭箱がある。奮発して百円を投げ、手を合わせる。目を閉じてお祈りする。願いはすぐに思いついた。
神様。どうか、きょう――。
ぴゅっと風が吹いた。合わせた指先がつんと冷たくなる。
「ほら見て」
女性の言葉に振り向くと、暗くぼけた境内に白い斑点ができている。
「雪か」
父が呟く。参拝者も途切れ、三人で雪の深大寺を独占する。
「それにしても、こずえちゃんは不意打ちだったなあ」
やがて女性がそんなことを言った。
「でも私からも一つ、あるの」
女性がコートの前をはだけた。ボーダー柄のセーターの、お腹の辺りがぽっこりしている。
「それは」
「ええ」
こずえにだってわかる。女性は新たな命を授かっている。
「相手は」
「はい。再婚、しました」
ふう――父がふかく、ふかく息を吐いた。
「おめでとう」
父は女性を見ず、独り言みたいに言った。
どんどん夜が近づく。しんしんと雪は降る。
「変わらない」
おもむろに女性が呟く。
「昔もこんなふうに雪、降ったよね。深大寺は変わらない。何も」
「ああ」
「それなのに私たち、どうしてこうなっちゃったのかな」
父は何も言わない。雪の降る音だけが、聞こえないのに聞こえてくる。
「そうだ、願い事」
こずえは本堂に振り向きかけ、もっとふさわしい場所を発見する。
「わたし弟妹ほしい」
大人の男女が、不意を打たれたようにはっと顔を見合わせる。こずえは女性のお腹のカーブに語りかける。
「ハロー、赤ちゃん。元気で生まれてね」
氷野真澄(埼玉県所沢市/40歳/男性/会社員)