「森を抜けて、彼に」著者:小山みどり
今日、彼は私の部屋でこれまでと同じ様子で、一時間にも満たない短い時間を過ごした。この数か月間がまるで嘘のように、とても静かで穏やかな時間だった。彼は私の言葉に優しく微笑み、時に相槌をうち、いくつかの他愛もない話題を口にした。
本当に、この時間がこれからもずっと続くかのようだった。
今までと違うことといえば、珈琲に一切ミルクを入れなかったことと、玄関を出る時に、「またね」と言うかわりのキスをしなかったことだ。
ドアが閉まる寸前、「最後くらい送らせてよ」と言った私に、「そうだね」と彼はやっぱり穏やかな笑顔を私に向けて言った。
一年で一番昼間が長いこの時期、空はまだかすかな昼の青を残していた。最寄りである『調布市総合体育館前』のバス停に向かう間、私たちは無言だった。何を話せばいいのか、話すべきなのか。もう二人の共通の言葉を失ってしまっていた。
バス停の前で私たちは並んで、静かにバスを待つ。何度か彼は小さく咳払いをした。「風邪?」と聞くと、彼はうつむき、「ちょっと埃っぽいね」とまるで照れたように小さな声で言った。
『つつじヶ丘駅』行きのバスは間もなくやってきた。バスは当たり前に私たちの目の前に停車しドアが開いた。彼は短く、「じゃあ」と言って乗り込んでいった。私は小さくうなずいただけだった。
他に乗客がいないガラガラのバスの一番後ろに座った彼は、もう私のほうを見ることもなく、ただただまっすぐに正面を見据えていた。ドアが閉まる。バスが走り出す。私は彼の後姿を見送った。
言い争う毎日の中で、それでも前向きにと二人で決めた結論だった。お互い納得した別れだった。もう、あんな風にお互い傷つけあうのは嫌だった。積み重なる小さな嘘、心に赤い筋をひくナイフような鋭い言葉、憎しみに満ちた瞳…それまで見たことのないお互いを見せ合い、これ以上相手に絶望するのは嫌だった。
今ならまだ、きれいな思い出を残して離れられる、そう思った。だから別れることを選択した。まだ少しでも好きだという感情が残っているうちに。思い出までもが穢れてしまわないうちに。
バスが遠ざかるにつれ、暮れかけた淡い闇の中に光がにじみテールランプがぼやけていく。二人で過ごした時間も同じように、いつか私の中でぼやけて、あいまいになって、そしてその形すら思い出せないくらいになっていくのだろう。
嫌だ。
突然胸の中に強い思いが沸き上がってきた。そんなの、嫌だ。
彼との思い出が消えてしまうなんて嫌だ。絶対に嫌だ。
胸の奥で、ざわざわと何がが生き物のようにうごめき出す。鼓動が早くなり、後頭部が焼けるようにじりじりとしてくる。
追いかけなくちゃ。
このまま彼を行かせてはいけない。これで終わりにしちゃいけない。だって…だって、まだ彼をなくしたくない。
別れ話をしているこの数か月、心の奥底に意図的に沈めていた感情がぼこっ、と浮かんであらわになる。
追いかけなくちゃ。でも、どうやって?
バスはもうほとんど見えなくなっている。気持ちばかりがあせって、キョロキョロあたりを見回す。深大寺へ続く道のフェンスにかかった”深大寺まで五百メートル”と書かれた看板が目に入った。
突然思い出した。『つつじヶ丘駅』行きのバスは、『深大寺植物公園』を回り、『深大寺』を経由してから『つつじヶ丘駅』に向かう。しかも『深大寺』で時間調整のため、数分止まることもあったはず。この森を抜けて『深大寺』のバス停まで走れば、追いつくことができるかもしれない。
深大寺へと向かう道を見通す。暮れていく空を揺らすように、深大寺の森があやしくザワザワと音をたてていた。
途中のバス停で人がたくさん乗ってくれたら、途中の信号にバスが捕まったら、そうやって深大寺到着までに時間がかかれば…
深大寺に祀られているのは縁結びの神様だと聞いたことがある。私達が別れるのは、神様がのぞんだことなのだろうか。私は深大寺に向かって駆け出した。神様と、勝負だ。
人気のまったくない薄暗い道に、私のヒールの音だけが響く。よりによってヒール靴…彼が最後に見る私の姿が、スニーカーやカジュアルなサンダルなんて嫌だったのだ。ほんの少しでもきれいだったと、かわいかったと思ってもらいたかったのだ。
深大寺の森が、私を嘲っているかのようにざざーっ、ざざーっと大きく揺れる。間に合うわけがないだろう、往生際が悪い奴だ、一度手を放したくせに…
ヒールの靴は着地するごとにグラグラと揺れる。走りにくいことこのうえない。いつ足をくじいてしまうかわからない。
私は立ち止まり、そしてヒールを脱いで、バトンのように持って再び走り出した。足の裏を怪我するかもしれない。でもそんなことを恐れていたら、神様との勝負になんて絶対勝てっこない。
少し走っただけなのに息が苦しい。のどの奥がヒリヒリと痛くなり、脚がどんどん重くなる。森の木々がさらに嗤う。あきらめなよ、間に合うわけがないじゃないか…
長い坂道を転びそうになりながも駆け下りて、門前に出た。昼間なら蕎麦屋などに並ぶ人々でにぎわっているが、店はひとつも開いておらず、参拝客も見当たらない。昼間の喧騒が嘘のように通りは静まり、眠りにつこうとしていた。自分の呼吸の音がやたらと大きく聞こえる。あと少し、あと少し。お願い間に合って…
角を曲がった時、止まっているバスがついに見えた。間に合う、そう思ったが、重くなった脚は思うように前に出ない。
もうそこまでというところで、バスのドアが閉まった。止まって!そう叫びたかったが、声はでなかった。
バスが動き出す。一番後ろの席に座った彼の、彫像のように動かない横顔が見える。行かないで、お願い、行かないで…
声にはならなかった。ありったけの思いを込めて心の中で叫ぶ。神様、お願い、バスを止めて。
通り過ぎるバスの中で、突然、彼がこちらを見た。私に気づいて表情が変わった。一瞬の間。そして、運転手さんに向かって何か叫んだ。
バスが止まる。ドアが開いて、彼が駆け下りてきた。もう動けずに立ち尽くす私のもとに驚いた顔で駆けてくる。その後で、バスはゆっくり遠ざかっていった。
言わなきゃ、そう思ったが、息が上がって話せない。ぜいぜいと粗い息をしている私を、彼は何も言わずに黙って見ていた。
どれだけの時間がたっただろう、彼が空を見上げて大きく息を一つ吐いた。そして細かく瞬きをしながら言った。
「足、大丈夫?」
予想していなかった言葉をかけられて、すぐには理解ができなかった。何も返せないでいると、
「怪我したんじゃないの?足の裏」
再び言われて、私は足の裏を見てみた。いつの間にか何かを踏みつけたのだろう、ところどころ血が出ていた。それを見て初めて、足の裏が痛むことに気がついた。
彼が苦笑いをする。
「なんで無茶するんだよ。せっかくのきれいな足が傷だらけじゃないか」
だって、あなたをなくしたくなかった、そう言いたかった。呼吸はさっきより苦しくなかったけれど、それでもやっぱり言葉は出なかった。
「ほら」
彼が背中を向けた。何のことかわからずにぼんやりしていると、彼がこちらを見ずに続けた。
「おぶされよ。そんな足じゃ家まで歩けないだろ」
彼の言葉をどう解釈していいのかわからずにいると、早く、と彼が促す。私は彼の背中に身体をあずけた。
首筋から嗅ぎなれた彼の匂いがする。彼の体温を感じて、途端に涙がボロボロとあふれてきた。
「とりあえず足の怪我、手当しないと」
彼は歩き出す、さっき後にした私の家に向かって。
彼はそれから何も話さなかった。私も彼の背中で何も言わずに彼を身体で感じていた。
さっきあんなに怖く感じた深大寺の森のざわめく声が、今はなぜか優しく聞こえる。
「…鼻水、背中についちゃうよ」
やっと絞り出した私の言葉に、彼はぶっきらぼうに答える。
「鼻水ぐらい、いくらでもつけろよ」
さっきよりも大股で、彼は歩き続ける。さらにあふれてくる涙を隠すように、私は彼の背中に顔をうずめた。
足の手当てが終わったら、とりあえず、もう一度珈琲を入れよう。今度は彼の好みで、ミルクをたっぷり入れて。
話は、それからにしよう。
小山みどり(東京都世田谷区/44歳/女性/会社員)