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「秋桜の絵の中に」著者: コカネサン

見知らぬアドレスからのメール、またしつこい迷惑メールかと思われたでしょうが、詐欺とか勧誘の類いではないのでご安心ください。私は北海道に住む三十代の女性です。電話やメールをする相手が全くいないという訳ではないのですが、そうした日々つながっている人とは違う誰かと話をしてみたい、そんなふざけた思いからあてずっぽうのアドレスにメールしました。直接話したり逢ったりしたいと思っている訳ではないので、連絡先などを聞くつもりもありませんし、ご迷惑ならばどうかすぐに削除ください。でももしも馬鹿げた大人の戯れに少し付き合ってもいいと思われるなら、返信いただけたらと思います。

そうは言っても、もちろん最初は新手の迷惑メールだと思った。そうじゃないにしても、危ない奴が多い昨今、女性が自分から素性のわからない相手に連絡を取るなんて、この人も相当危ない人かもしれないと思いつつ、それにしては何となく誠実な印象を受けたので、自分を特定する情報を伝えなければいいか、と軽い気持ちでメールを返した。そんな風にして僕らの不思議な「文通」が始まった。
僕は自分のことはほとんど伝えなかったが、彼女は普通に自分のことを書いてきた。仕事は美術館の学芸員をしていて、花とミスチルとミステリーが好きで、虫とセロリと人混みが大嫌い。二年程前にノラ猫の里親になり、猫の「すもも」と暮らしている。
もちろん名前や住所を書いている訳ではないが、「どこの誰だかわからない相手にそんな個人情報を教えたら危ないですよ」と送ると、彼女は「相手がどんな人か、少しやりとりをすればわかりますから」と返してきた。
「悪い奴かもしれないのに」と返信したものの、そういう風に信用されると、きちんとせねばと思ってしまうのも計算づくなのか。
僕らは、好きなテレビやお昼に食べたものなどたわいない話もしたし、環境問題や海外の紛争についてなど真面目な話もした。最初は興味半分だったが、同年代の独身同士で話も合い、見知らぬ相手ゆえ何も気にせず思ったことを言えるのが楽しくて、いつしか僕は彼女からのメールを心待ちにしていた。
彼女は東京に友人がいて何度か来たことがあると言い、どこに来たのか聞いてみると、偶然にも馴染みのある深大寺と近くの植物公園の名を挙げた。嬉しくて僕は「実は学生の頃はその辺りに住んでいて、神代植物公園は特別な思い出のある場所なんですよ」とメールしていた。
「初めて自分のことを教えてくれましたね、うれしいです。それはどんな思い出なんですか?」
そう聞かれて、今までずっと心の奥にしまい込み、でもずっと引っかかっていた記憶が蘇ってきた。
大学二年の秋、僕はその植物公園でアルバイトをした。簡単な園内作業の仕事だったが、その頃いつも秋桜の前に座って絵を描いている女の子がいた。特別美人でもないが真剣な眼差しに惹かれるものがあり、僕はいつもその娘を横目で気にしながら作業をしていた。ある時何気なく後ろを通りながら絵を覗き込むと、赤やピンクに咲き誇る秋桜の中に僕の姿が描かれていた。絵のモチーフとしてピッタリだっただけなのだろうが、嬉しくて僕は思わず「これ僕ですか?」と声をかけた。それがきっかけで由貴と話すようになり、いつしか僕らは付き合うようになった。
由貴は都内にある美大の二年生で、偶然にも僕のゼミの女の子と高校の友達だった。僕らは卒業前までの二年間付き合ったが、由貴はいつもびっくりするようなことをした。
ドライブ中に道で轢かれた猫を見つけると、「埋めてあげよう」となきがらをダンボールに入れて車で山まで運び、酔っ払いに女の子が絡まれているのを見たら、「やめなさい」と買い物してきたばかりの卵を相手に投げた。そうした由貴の行動にハラハラさせられることは度々で、その後の処理はいつも僕の仕事だった。そして一段落した後に由貴が晴れやかな表情でVサインをし、僕が苦笑いしながら右手を挙げて敬礼を返すのが、僕らの「アイシテル」のサインだった。
曲がったことを嫌い、子供のような素直さを持った由貴を、本当に僕は大好きだった。でもそんな彼女を僕は裏切った。
四年生になって、由貴は早々に大手の出版社への就職が内定していたが、僕はなかなか就職が決まらなかった。大企業や業種にこだわる僕に、由貴はもっと広い視野を持つように助言したが、僕は聞き入れず、小さな諍いが絶えなくなっていった。そんな時、街で知り合った女の子と仲良くなり、僕はその娘に逃げ場を求めてしまった。
出逢ってちょうど二年経った秋、僕は由貴に電話で理由も告げず別れたいと言った。由貴はちゃんと会って話したいと言い、二人が出逢った秋桜の前で会う約束をしたが、約束の日に僕はそこへ行かなかった。それっきりお互い連絡をせぬまま、結局僕は卒業間際に希望とは違う小さな食品メーカーに就職した。
身勝手に別れた最低最悪な自分。ずっと胸の奥に押し込んでいた記憶だったが、文字に打ち出すと言葉が溢れてきて、僕は会ったこともない彼女に全てを打ち明けていた。
「どうしてそんなことをしたんですか?」
彼女の問いに自分でもうまく説明出来ない。由貴を嫌いだった訳じゃない。ただ由貴の純粋さは時に僕の不実さに光を当て、一緒にいて苦しくなることがあった。自分勝手な言い訳だけど、由貴に見合う人になりたいとの気持ちと実際の不甲斐ない自分とを受け入れられず、彼女から逃げ出したのかもしれない。
「そうですよね、自分でも理由なんかわからず、意味がないってわかっててもやってしまうことってあるから」
そう返してもらって、僕は自分の気持ちが少し整理出来た気がしたけれど、そのやりとりを最後に彼女からメールは来なくなった。

僕は胸にぽっかりと穴が開き、まるで失恋でもしたかのような喪失感でいっぱいだった。僕のひどい行為に呆れてしまったのか、気付かぬ内に何か気に障ることを言ってしまったのか。でも僕らは恋人でも何でもないので、問い詰めることも出来ない。
そうして一ヶ月が過ぎた頃、電車の中で偶然懐かしい人に会った。ゼミ仲間で由貴の友達の佐奈だった。
彼女と会うのも十数年ぶりで、せっかくだからと二人でコーヒーショップに入った。ひとしきり近況報告した後、この間のメール以来ずっと気になっていた由貴について聞いてみた。すると思いもしない答えが返ってきた。
「実は由貴、先月亡くなったの。彼女、大学を卒業してずっとデザイン系の雑誌の編集をやってたんだけど、数年前に大病して仕事も辞めたのよ。大手術をしてしばらく静養してたけど、何とか仕事を復帰できるまでに回復してね。せっかく生き延びた命だから好きなことをしたいって、狭き門らしいけど募集のあった北海道の美術館に就職したの。年に何回か会うくらいだったけど、すっごく元気になってて、自分の絵もまた描くようになって良かったって思ってた。でも一年程前に病気が再発して、半年くらいずっと寝たきり生活だったの。そして先月急に容態が悪くなって」
あまりにも予想外の話に僕は言葉を失った。
美術館、北海道、先月から連絡が途絶えた、これだけ一致して偶然ってことはない。思えば、彼女の話で由貴に共通する部分はたくさんあったし、僕はずっとアドレスを変えてなかったから、メールが来たって何ら不思議ではない。

次の日曜日、僕は一人神代植物公園に来ていた。ちょうど由貴と出逢い別れたのと同じ季節で、園内は秋の花が咲き乱れ、僕はかつて由貴が座っていた場所に腰を下ろすと、一面に広がる秋桜をぼんやりと眺めていた。
由貴はどうして僕にメールしてきたんだろう。僕のことをずっと許せずにいたのか、それとも気まぐれにちょっと連絡してみようと思っただけなのか。
由貴の真意はわからない。でも、とにかくちゃんと心を込めて謝らなくちゃ。そしてまっすぐに精一杯生きたことを心から敬い、たくさんの輝く時間をくれたことへの感謝を伝えなくちゃ。僕は由貴へ最後のメールを打った。あの時の気持ちを、そして今の気持ちを。
スマホのボタンを押すと、ザーっという音と共に画面に送信の表示が出る。そしてすぐに、今度はメールの着信音が鳴った。
届かないとわかっていたので、配送エラーの通知が来ると思っていた。でも画面を見ると、送信者には、何度もやりとりをした彼女のアドレスが出ていた。
(え、まさか?)
急に胸が高鳴り、慌ててメールを開いた。
タイトルも本文も何もなく、画像が貼り付けてあるだけのメール。画像は一枚の絵だった。出逢った時に彼女が描いていたのと同じ、色とりどりの秋桜。でも、その真ん中に描かれていたのは、あの時の僕ではなく、少し年を重ねた僕と彼女の二人だった。
やっぱり由貴だったんだね。
絵の中の僕らが、恋人同士なのか、夫婦なのか、ただ再会しただけなのかはわからない。でも由貴が思っていたことは少しわかった気がするよ。
アドレスがまだあって、来たメールに自動返信されただけなのだろうが、知らなければびっくりするさ。最後まで驚かされてばかりだ。
秋桜を揺らす風に吹かれながら、Vサインしている絵の中の由貴に、僕は最後の敬礼を返した。

コカネサン(神奈川県厚木市/50歳/男性/公務員)