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「紫陽花の時」著者: 宮田彩子

 JR中央線の駅で創と待ち合わせをした。
「よ、万季、久しぶり」
 改札から出てきた創の眼はどこか落ち着きがない。でも、そんな事には気が付かないふりをして、私は創の腕を取り、深大寺行きのバス停に向かった。
 二人用の座席が空いていたので座るとバスが発車した。
 濡れて鮮やかな木々の緑がだんだんと車窓に広がってくる。空は梅雨空で曖昧な薄鼠色だ。
「この前深大寺来たの、いつだったかな」
 私が言うと、創はぼそっと、
「二年前くらいかな。万季が部署移動する前
だっただろ」
 と言った。その言葉がちくりと私の胸を刺した。

 深大寺に来たのは、数年前、大学時代のサークル仲間とが最初だった。縁結びにご利益があるというので遊びのノリで女子達が男子達を連れてきたのだ。街中で遊ぶ事が多い私達には、自然に包まれた境内や参道というのが逆に新鮮で、お参りをして、焼き物体験をしたり、名物の蕎麦を食べたりした。でもほんの、レクリエーションの気持ちだったけれど、確かにご利益はあったのだ。ここに来た事がきっかけで「仲間」ではなく、創と私の二人だけの時間が始まったのだから。昼食後、隣接する神代植物公園にも寄ろうという事になった。小さなお堂の裏手から、公園に向かう石段で、話に夢中になっていた私は、みっともなくつまずいて、膝に怪我をしてしまった。何となく雰囲気をしらけさせてしまうわ、脚の痛みは増すわで、私は、悪いけど先帰るね、と言った。その時、俺も帰るわ、と付き添ってくれたのが創だった。
 今にして思えば、あの時、囃し立てる様に見送ってくれた仲間のうち、希美だけが笑っていなかった様にも思う。

 白い障子窓がまぶしい本堂の前までやってきた。隣の創に用意してきた小銭を渡し、私は先に御賽銭を投げ、強く手を合わせ、そして祈った。しばらくして眼を開け横を向くと、創は既に体を直して私が終るのを待っていた。「随分長く手を合わせてたね。何祈ってたの」「秘密」
 私は再び創の腕をとって本堂を離れた。創の腕のぬくもり、声、横顔。休日に会う時はいつもどこか寝ぐせではねている髪。それらが当たり前のように、いつまでも自分の所有物のようにそこにあると錯覚していた私。

 先週、私の勤めている会社の後輩の結婚式があった。幸せそうな花嫁の笑顔を見ながら、私は自分がウエディングドレスを着て、タキシード姿の創が横に座る姿を想像していた。

 参道に戻り、蕎麦屋で昼食にした後、寺の敷地に隣接した植物園に向かった。
「結婚、て、どうかな」
 途中の坂道で私は思い切って言ってみた。創の脚が少し行って止まった。
「そのことなんだけど、さ」
 創が何か言葉にしたそうなのを迷っているようだったので、
「希美の、事?」
 私は言わないで済めば言いたくなかった言葉を出してみた。
 そう、サークル仲間だった田中君から聞いた。仕事先でたまたま会って。新宿で創と希美が腕組んで歩いてるとこ見たけど、俺勘違いしてた、付き合ってるの君だと思ってたから、って。いつ頃?って聞いたら、丁度私の方が営業から商品企画部に変って慣れるのに忙しく、会う回数が減ってるかなと思っていた時期だった。遅くなっても会社帰りに会う、という事はなくなっていた。前から希望していた企画の仕事だったので、会ってもつい自分の話ばかりしていたかもしれない。その間に希美と会う様になったのだろうか。創との関係を予約した席のように考えていた私が悪かったのだろうか。
「希美って……何?」
「希美と付き合ってるんじゃないの?」
 創はあっけにとられたような顔をした。田中君に聞いた話をすると、
「ああ、新宿で?万季が休日出勤とかで会えなかった時かな?買い物があってぶらついてたら彼女にたまたま会って。今日は一人だっって言ったら付き合ってあげるとかで」
 希美はずっと付き合ってもいいと思っているかもしれない。
「嫉妬してくれてたんだったら嬉しいけど、そういう事じゃなくて」

 坂道の脇に紫陽花が揺れている。
「ベトナム」
 ベトナム?急に思いもしなかった課題を渡されたようでとまどった。
「海外転勤。あっちでうちの仕事の設備施工担当するんだ」
「そんな、いつ決まったの」
「少し前」
「何ですぐ言ってくれなかったの?メールだっていいのに」
「まあ、さ、結構おっきな話じゃないかと思って。俺達にとって」

 入場券を買って、神代植物公園に入り、雑木林の中の道を歩き始めた。さらさらとした高い木々がうっすらと光を遮り、あたりに湿り気を与えている。
「いつまであっちに行ってるの?」
「分からない」
 創がメールを迷っている間、私は希美との事を疑っていたのだ。ひどい話だ。

 大学卒業後、創は建設会社、私はメーカーの総合職として就職した。就職後しばらくは会えば社内研修の話や、職場にこんな変わった人がいる、といった話で盛り上がった。少しずつ自分や自分達の関係が変化していく事にまだ気づかずに。まるで資格試験か何かに合格した後のように。

 就職して二、三年は毎週のように休日には会っていたと思う。私は中央線沿線にある実家住まいだったので、都内のどこかに出るか、創のアパートかで。それがそのうち創も私も会社で任される仕事が多くなり、忙しくなってきた。会うのが二週間に一回になり、三週間に一回になる事もあった。それぞれの新しい人間関係も増えていった。

「いつあっちへいくの?」
「あと半月」
 創は言った。
「一緒に行くの無理かな?遠距離かな?」
 
希美ならすぐにも支度をはじめるかな?私は、どうだろう。ベトナム、ベトナム、フォ―とか生春巻きとか「ミス・サイゴン」……ベトナム戦争?ああ、思いつかない、そんな事じゃない。さっき、自分から結婚の話なんかしたばかりなのに、何でだろう。
「万季がそういう事考えてるなら、先に入籍だけするとか。いつ戻ってくるか分からないし。一緒に行くってのは……無理かな」
 一緒に行くっていう事は、私が仕事を止めなきゃならない、っていう事だ。いや、創なら遠距離結婚でも我慢してくれるだろうか?

 雑木林を抜けると空を遮る屋根がなくなり急に明るくなる。バラ園を見下ろすテラスの椅子に座った。
「俺、海外とかでさ仕事、やってみたかったんだよね」
「わかってるよ。ずっと付き合ってるんだから」
 愚痴をきいてもらうのは創より私の方がずっと多かった。創に、まあまあそれはさ、なんて言われて諭されると何だかふーっと落ち着いて、励まされたような気になって、また会社にいけたりしたっけ。それで仕事ってものが面白くなってきたのかも。
 でも逆に創の生きがい、だとか夢、だとかを私はほんとにわかってたんだろうか?

 目の前には愛の歌を合唱するかのようなバラ園が広がっている。何ですぐに「一緒に行くよ!」とか「後からすぐ行くよ!」とか言えないんだろう。私が今、創にしてあげられることって何だろう。
「そんな、マジにならなくていいよ。ネットでフェイスタイムとかさ、話せるし」
 私が黙りこくってしまったので、創が顔をのぞき込んできた。
「別れよ」
「え?何、急に」
「一緒に行かれないから」
「だからそれは」
 また黙り込んでしまった私を見て、創もまた黙った。そのまましばらく時間が流れた。

 帰りは雑木林の中の紫陽花が群生する場所を通った。いつまでもこんな場所で創と歩いていられたら。

 昔転んだ石の階段をおり、深沙堂の前まで来た。引き裂かれた恋仲の二人の願いを聞きその仲を取り持ったという伝説の深沙大王だが、何かの写真で見たその姿は憤怒の形相で恐ろしいほどだった。お堂の前に立ち、二人で手を合わせた。今度は創の方が長く手を合わせていた。
「何祈ってたの?」
「俺達、それぞれの、新しい道」

宮田彩子(千葉県八千代市/女性/家事従事)

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