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「境界線の周辺」著者: 藤井友理子

芝生広場の真ん中で、背の高い穂先が揺れている。
「巨大化したススキみたいね」
「季節が違うだろ」
さほど興奮する様子のない航平を無視して何枚か写真を撮る。全体像を一つ。それから、穂先部分にズームアップしたもの。大人の背を悠々と超えたパンパスグラスは、薄い雲の幾つか浮かんだ空へ、それぞれの茎を伸ばしている。歓声に振り返ると、一人の少女が駆け寄ってくるところだった。隣に並んだ彼女は遥か頭上を見上げ、後方の両親へ叫ぶ。
「でっかいススキ」
少女を見下ろした航平がニヤリと笑った。
「千紘の発想は五歳児並だな」
「その意地悪な言い方、相変わらずだね」
既に歩き出している彼の後を追いかけながら、カメラを鞄に入れる。笑みを浮かべたままの口元から、返事はない。
「彼女にも、そんな言い方してたの」
「旦那にも、そういう言い方してるの」
鞄のファスナーが何かに引っかかり、軋んだ音を立てる。
「まだ、旦那じゃないよ」
先ほどの少女が、二人の前を駆け抜けて行った。向かった先に無数のシャボン玉が浮いている。大学生だろうか、数人の男女が仕掛けているらしい。神代植物公園の中はゴールデンウィークの賑やかさと和やかさに満ちていた。
「千紘も混ざってくるか」
「いい加減にして」
航平の肩にかかったトートバッグを小突くとぶら下がった革のキーホルダーがユラユラと揺れた。大学を卒業したのだって五年も前のことだ。子どもじゃないし、若くもない。
「そんな態度ばかりだから、振られるのよ」
「あ、それは反則」
流れてきたシャボン玉が一つ、航平の耳元を通り過ぎて行く。
「まだ傷が癒えてないのに、俺」
「知ってる。それにしても、頑張ったね」
目の前に再び流れてきたシャボン玉を指でつつくと、小さな飛沫が飛び散った。
「八年も付き合うなんて、なかなかできることじゃないよ」
「結婚こそなかなかできることじゃないよ」
足首まであるスカートの裾がもたつき、危うく踏んづけそうになる。
「恋には縁がないなんて騒いでた千紘が」
大学生の頃は、同期の航平に恋愛相談ばかりしていた。名古屋の大学へ通う恋人と中距離恋愛を続ける彼の発言が当時は新鮮だったし、心にしみた。
道が分かれているところに来て、航平の足が止まる。
「どうする?バラ園に戻ってもいいけど」
こちらの顔を覗き込む航平に首を振り、反対方向に歩を進めた。
「早いなあ、満足するのが」
「だいたい雰囲気はわかったし」
ゆったりとした声を振り切るように、ズンズンと歩き続ける。
「来たことなかったもんなあ。地元なのに」
「だから、行こうって話になったんでしょ」
あの時も。付け加えて振り向くと、目をそらす航平の姿があった。
「覚えてたのか」
「当たり前でしょ」
さっきまで憎まれ口を叩いていた同期は、トートバッグの中をゴソゴソと探る。
「言わないから忘れてるのかと思った」
「言ったら来なかったでしょう」
そして特に何かを取り出すわけでもなく、またバッグを肩にかけ直す。
―それなら神代植物公園のバラフェスタにしよう。お互い地元なのに行ったことがないんだから―たったそれだけの約束を取りつけるのに、とてつもない苦労を要した、大学四年時のゴールデンウィーク前。現在の職場から内定通知を受け取るのと引き換えに、彼氏から別れを告げられたばかりだった。就職活動で会えないことを都合よく思っているフシがあったから、他に女がいたのかもしれない。出会いがないから誰かを紹介しろという頼みを航平は曖昧に笑って受け流していた。
「誰も紹介できないなら、キミが遊んでよ」名古屋の彼女と会えていないことは、なんとなく聞いていた。サークルだバイトだと忙しさを理由にしばらく東京へ戻るつもりがないらしいことも。
「大学時代から線引きがしっかりし過ぎてたね、航平は」
広場を抜けた自然林の中を行く人々は、間隔をあけながら、皆同じ方向を目指している。木々の向こうからわずかに陽が射していた。
「わかった、遠出は誘わない」
箱根、高尾山、ドライブ、テーマパーク……そのいずれもなんだかんだと理由をつけて断る相手に提示した最後の選択肢は、深大寺だった。
「地元でちょっと遊ぶだけ」
当時は航平の実家も調布にあった。
「あの時は、千紘が踏み越えようとしてきたからだろ」
「それにしても、深大寺すら断る?」
俺と行く場所じゃないと航平は笑ったのだ。
「あそこ、縁結びだろ」
それならと隣の神代植物公園を提示してようやく約束を取り付けた際には、正直ぐったりしていた。それでも高まる気持ちを抑えられなかったことは、今も否定しない。
土の道を踏みしめながら、航平が尋ねる。
「旦那のとこへ行くのは、来月だっけ」
「そう。今は準備で大忙し」
風が通ると少し肌寒い。半袖の腕をさすっていると航平の視線がこちらをとらえていた。
「ダイエットした?やつれたみたいだけど」
「またそういうことを平気で言う」
できるだけ明るく響くように気をつけて、鞄から取り出した麻のシャツを握りしめる。
「まあ、でも、痩せたのは事実。先月買ったこのスカートも急に緩くなっちゃって」
「頑張り過ぎるからなあ。千紘は」
言葉が心にしみないように、羽織ったシャツをぴたりと合わせる。
「だって。せっかく、ご利益をつかんだんだもの」
また航平が、視線をそらす。
「誰かさんがドタキャンしたからねえ」
彼女の予定が変わり、東京へ戻って来れることになった。正直に理由を話せるのが航平らしさだったし、二人の関係だった。
「しょうがないから一人自転車こいで、勢いでお参りして、手を合わせて」
「いい縁がありますように、ってか」
「結局別れるなら来ちゃえばよかったのに」
「わかってたら行ってたかもな」
この林を過ぎたら、植物公園が終わることを彼は知っているのだろうか。
「ね、航平」
腕を引っ張る。湿っているのは航平の肌だろうか、自分の掌だろうか。
「今から行ってみようか」
係の人に再入場可のスタンプを押してもらい、門をくぐり抜ければ、深大寺の敷地だ。
「航平にもご利益あるかもよ」
大勢の参拝客に紛れて、かき消されることのないよう強く念じた。航平との縁を結ぶチャンスをください。叶う機会は訪れなかった。卒業するまでも、してからも。今さら別れるなんてそれこそ反則だ。航平も、ご利益も。
「やめとくよ。新婚さんのオーラで充分」
道の先に係の人の姿が見えた。
「戻ろうか」
引き返す航平は先へ先へと行ってしまう。スカートの裾を踏んづけそうになりながら、その背中へ小さくつぶやく。
「まだ、新婚じゃないよ」
振り向いた航平は、曖昧に笑う。
「知ってるよ」
木々の葉音に混ざって、遠くから少女の歓声がしていた。
梅園に続く階段を降りると、人影はまばらになる。気配こそあれど、生い茂る木々に隠されて姿はほとんど見えない。少しひらけたところに佇む東屋で腰を下ろすと、どこからかウグイスの声が聴こえた。追いかけるように口笛の音がする。鳴き真似が、一つ、二つ、三つ。
「一人、やけに上手いのがいるな」
「地元のコかね」
航平がニヤリと笑う。
「ではここで、地元のコのお手並み拝見」
唇をすぼめて息を出すと調子外れの鳴き声が小さく響いた。吹き出した航平を軽く睨む。
「そういう自分はどうなのよ」
「俺はもう地元の人間じゃないし」
二人の間に置かれたトートバックを叩くと、気の抜けた音がした。
「そうやってすぐ航平は」
言葉が続かないのに気づいた航平が顔を覗き込んでくる。勝負から降りるんだから。そう言おうとしたのに、言えなかった。航平の気持ちを探るようなことばかりして。大事な局面では祈るばかりで。勝負から逃げたのは誰だったか。
「航平」
正面を見つめたまま声をかける。
「ありがとね」
返事はない。
「感謝してる」
ウグイスの声と、追いかける口笛。
「知ってる」
航平の声に迷いがないことを確かめてから、そうっと口笛を吹く。音程が外れているものの、マシな鳴き声になっている気がする。また一つ、今度は少し自信を持って。季節外れの梅園に幾つかの音色が響いていた。

藤井友理子(神奈川県)

   - 第12回応募作品