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「時間が知ってるらしいこと」著者:大塚史郎

 男性社員の首元からネクタイが外れる季節になっていた。三多摩の信用金庫に就職して二年目、そこそこ遠くまで来たものだとわたしは思う。
同期の男に「そばが食べたい」と言われ、「食べれば」と返したのは、つい昨日の金曜である。けっきょく休日に吉祥寺なんかで落ち合っているのは、わたしがまだ弱っているからに違いなかった。
「なんか最近、元気なさげだったからさ」
 男はしたり顔で距離をつめてくる。ダンガリーシャツにチノパンの組み合わせは、可もなく不可もない。
「そういうの、ちょっと怖いんだけど」
「知らない仲でもないしね」
「かなり怖いんだけど」
 軽口をきいてやると、男の薄い唇から並びのよい歯が覗いた。わたしは半年ぶりに履いたニューバランスのスニーカーを踵ごと鳴らしていた。
「カジュアルなジーパン、似合うんだね。いつも制服しか見てないからさ」
 ロールアップしたくるぶしに無遠慮な視線を浴びつつ、それはそれでまんざら悪い気もしない。
「わたし、褒められて伸びる子なんだよね」
「よく知ってる」
マルイ前の停留所から目的地の深大寺まで、三十分以上もバスに揺られるらしかった。
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 その日は夕方五時すぎから、シャッターの閉じられた店内で大がかりな清掃が始まった。勤務先の信用金庫では、一ヶ月に一度、清掃会社によるオフィスクリーニングが入ることになっていた。五名ほどの作業員が一時間程度で床のワックスがけまでしてくれる。仕事が終わらないわたしは一旦デスクを離れ、その様子をロビー脇から眺めるのが常だった。
「今日も仕事終わんないんだ?」
「俺のほうは課長待ちってだけなんだけど」
そうやって冴えない同期の男を見つけ、油を売るのも月例行事になっていた。
「そうそう、今日の新聞見た?」
 わたしはスライドロック式の新聞ラックから日経でない一紙を抜き、ぱらぱらとめくっていく。男はお客様用の長椅子に中腰で凭れ、それでも小柄な私を見下ろす格好になった。
「この新聞の人生相談の欄、好きなんだけどさ。今日はけっこうつまんない回答だった」
 わたしから渡されるその紙面を、男は面倒くさそうにただ睨む。
――二十代の女子。妻子ある上司と不倫。どうしたらいいでしょう……。
――心を傷つけてまで道ならぬ恋をする価値はありません。今がどれだけつらくても、時間が解決してくれます。などなど、など。
「つまんないっていうのは、正論すぎるってこと?」
 男の目線が高い天井を浮遊してから下りてくる。「俺は恋愛マスターじゃないからさ」
「知ってる」
「彼女もいないしさ」
「欲しいと思わないんだよね?」
「実はモテないだけなんだけどね」
「知ってる」
 男が「おまえねえ」と顎を突き出して笑う。
 わたしは形だけ口角を上げ、ラックにかかった他の四紙を人差し指でなぞった。
「課長がさっきからこっち見てるよ。おバカな女子に日経の記事を解説してました、とか言っといて」
「できる女は違うわ」なんておどける、男の無防備さが少しだけ羨ましくなる。休日を控えた金曜の夜は、いつもいつも憂鬱になった。
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 高地の空気をうやうやしく吸い込み、目線を緑の背景から恋人でない男に戻した。右も左もわからないのは男も同じらしく、二人して「ふうん」と漏らしては目線を動かしていた。門前に連なるそば屋を物色していると、四つ五つ年老いたようにも感じられた。
「ねえ、実はそんなに食べたいわけでもないんでしょ?」
 男の横顔に差す陽光は薄い。
「まあ、俺にもいろいろあるわけよ」
「会社辞めたいなあ、とか?」
 そのまま正面を向かないでくれればいいのにと、わたしは思う。
「そっちには敵わない」
 男がわざとらしく伸びをして笑う。今さらわたしを手招きし、手近なそば屋へ逃げるように入るのだった。
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 楽しいのは付き合い始めの三ヶ月ぐらいだった。一回り歳の離れた課長に仕事の相談をするうち、入社半年後にはそういう関係になっていた。同世代の男には見いだせない包容力を、例えば左腕に巻かれたロレックスなんかから感じてしまうわたしは、ただただ視野の狭い子どもだったのだと思う。
「たいていのことは時間が解決してくれるから」
彼は口癖のようにそう言って笑った。
「わたしたちのことも?」という言葉は、何度も喉の奥に飲み込んだ。代わりに「わたしのこと好き?」などとぶつけ、頷かれるなりその不毛さに我ながら嫌気がさした。
 平日のランダムな一日をラブホテルで落ち合うだけのつながりは、わたしを徐々に確実に疲弊させた。
「きみを大事に思う気持ちに嘘はないんだ。順番がおかしくなっているだけで――」
既婚者の優しさが負い目によるものであることも、今ではわかりすぎるぐらいよくわかる。
「わたしが死んだら、わたしの父と母にちゃんと謝ってくださいね」
金曜の夜、家族のもとへ帰る男を見送るときほど、苦しくなることはなかった。
結局一年も続かなかった。あるいは、一年近くも続いてしまったというべきか。
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「考えごと中?」
 同期の男に尋ねられ、首を横に二度振った。
二人して足元の砂利を踏み、境内奥の本堂へと辿った。賽銭箱の前に並び立ち、わたしは先に手を合わす。祈りの言葉を持たぬまま薄目を開け、右隣で固まる優男を三秒待った。
「少し歩こうか」
「さっきから歩いてる」
 空がやけに高かった。後方へ下がるなり、二百円のおみくじを引き、どっちつかずの「小吉」ともらう。その紙を陽光にかざすと、目がいかようにもやられそうだった。
「もっと歩こうか」
 わたしは口の両端を伸ばし、「もういいかな」などとにやつく。「ねえ、わたしに話したいこと、あるんじゃないの?」
山門を抜けたところで、どこへ向かうわけでもない。スニーカーを履いてきて、本当によかったと思う。
「俺が会社辞めたいってこと以外で?」
 悪戯っぽく笑う横顔には、一切の皺がない。
「ないならないで、いいんだけど」
「ないことは、なくもない」
「どっちよ」と返すわたしに、「ほんとな」と応じる男が顎を上げた。
 奥行きのない通りでは、いくつもの人の輪が重なりながら離れていく。
「意外と人口密度、高いよね。落ち着いた感じで、ゆっくり話したかったんだけど」
「何それ? わたし、口説かれるの?」
 男がはじめて正面を向いて笑った。
「俺、知ってるんだ」 
茶屋の店先からはみ出た長椅子へとわたしを促し、男はそんなふうに話し始めた。
「俺なんかの耳にも入ってきてたから。やっぱり、そっちも大変なんだろうなとかさ。このまま知らないフリしてんのも、優しさなんだろうけど」
 これだから若い男はだめだと思う。せめて、もう少し日を暮れさせればいいものを。
「ずっと、知らないふりしててくれる?」
「そういうわけにもいかない」
 男が足を組み替えて笑った。視線を水平にずらすと、白髪の夫婦が揃って饅頭を頬張るのが見えた。
「もう一回りして、違う店でもう一回そば食べない?」
わたしは「食べれば」と戻し、一拍置いて「おごり?」と添える。男が中腰になるまでは、やけに早かった。
「ねえ、たいていのことって、時間が解決してくれると思う?」
 わたしは伸びた前髪を親指と薬指でつまむ。我ながらつまらないことを聞いていると思いながら。
「この前の新聞に載ってた人生相談だろ。ただ、あの相談者って、実は俺なんだぜ」
「何それ?」
「悩めるОLのフリして、わざわざ手紙書いたの。けっこう、すごくない?」
「あんた、バカなの?」
 男は立ち上げた前髪を人差し指のみで払う。
「バカじゃなきゃ、カノジョでもない女をこんなトコまで誘わない」
 わたしは立ち上がるなり、眉間に皺が寄る程度の力を込めた。
「嘘だよ、嘘。全部、冗談」と男。ダンガリーシャツの袖を今さら捲り、チノパンの前ポケットに親指だけ引っかけている。
「おそば、おごりだっけ?」
戻せるだけ戻してみる。振り仰いだ太陽が、さっきより傾いた気がしないでもない。
「知らないふり、しなくてよければ」
男の顔をつかの間、のっぺらぼうにしたかった。そうしてスマホで「深大寺□そば」とでも検索し、時間を少しだけ稼ぎたかった。
「わたし、褒められなくても伸びる子だから」
今日ぐらいは先送りしてもいいと思った。

大塚 史郎(東京都練馬区/45歳/男性/会社員)

   - 第12回応募作品