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「朴訥な君に会いたかった」著者:堂本 京亮

この瞬間が、なんとなく幸せだった。
五円玉が財布にないと慌て、諦めて十円玉を投げ入れ、手を合わせる。本堂に相対して、君と二人、頭を傾げる。そう、この瞬間が。

7分の運転間隔を遅延で上塗りした中央線が、ようやく到着した。オレンジの車体がホームに熱風を運ぶ。君がそっと顔をそむけると、長い髪が頬を何度も跳ね返った。
「ねえ、今日って涼しいんじゃなかったの」君は鬱陶しそうに眉根を寄せる。そう文句を言いつつも、白いワンピースにサンダルといういで立ちは、ちゃっかりと夏の装いだ。
「まあまあ」と雑になだめ車内に入ると、思いの外冷房が効いており、弱冷房車でもそれなりに涼しかった。
平日の午後だからか、さほど混んではいない。一つだけ空席を見つけた君は僕に目で合図をし、にやりと笑って座った。抜け目ないな、と思いながら僕は真ん前のつり革を掴む。
 「いつもつきあってくれてありがとね」
 君は嬉しそうに足を揺らす。ワンピースの裾がすねに擦れて、少しくすぐったい。「別にいいよ」と、照れくささとむず痒さを我慢して答えた。正面に君がいると気持ちまでこそばゆくて、君の座席の下にそっと置かれたコーヒーの空き缶に目をやった。
君は深大寺に通っていて、いつもふらっと僕を誘う。けれど、その理由は未だに教えてくれない。いや、教えてはくれるのだけれど、曖昧に「まあ、厄年だからね」と言われてしまうと、僕はそれ以上踏み込めなくなる。そういう訳で、いつも何もわからないまま授業後に君に付き添っているのだ。
三鷹駅に着いてドアが開くと、吹き込んでくる熱気に逆行してホームに降りた。改札を出た後はロータリーを奥に降りて、古風な公衆電話が並ぶ商店街を真っ直ぐに進んでいく。
深大寺までバスを使わずに歩こう、と最初に提案したのは僕だった。商店街の地図にはないくらい遠いし、優に一時間はかかる。けれど僕は、もっと君とゆっくり話をしたいと思ったのだ。正面だと喋りにくくても、横なら少し喋りやすいだろうし。
「ほら、このお店! これわたし!」
商店街の中盤に来ると、君はいつも自分と名前が同じ店をみつけ、ひとりはしゃぐ。
「このお店、いっつも人いないよな」
僕は笑っておどける。本音を言えば、横の電柱にある変なステッカーの方が気になってしまうのだけれど。
君は、大学に入って初めての恋人だった。2ヶ月前、なんとなく入った管弦楽部で意気投合したのだ。僕は君の伸びやかな明るさに惹かれたけれど、君が何故僕の告白を受け入れてくれたのかはわからない。僕のどこを気に入ってくれたのかも、わからない。僕は、君をよく知らないのだ。だから、こうしてゆっくり喋りたかった。
「そういえばね、きのう弟が彼女を家に連れてきたの! それでさ……」
君の横を車が通り、乱暴な音が君の話をかき消した。そこで初めて、君が僕の右側、つまり車道側を歩いていることに気が付いた。僕はしゃがみ、靴紐を結ぶふりをして、しれっと車道側に回る。端的に言って、猿芝居だ。
しかし今度は、君が日向に出てしまったことに気付く。まだ初夏とはいえ、この街の日差しは強い。
どうすればよいのだろう。君の手を繋いで寄せれば、ぎりぎり日陰におさまるだろうか。そう思い、左手を出すか迷っているところで、ふと我に返った。
僕は、君をどう大切にしていいかもわからないのだ。「大切にしなければならない」ということだけは分かっていて、分かっているだけにどうすればよいのか分からない。
中途半端な高さで止まったままの左手をふっと見る。父さんから貰った、卒業祝いの腕時計。これを買ってもらった時も、大切にしなければと怯えてしまい、なかなか腕につけられなかったっけ。
こんな僕を、君はどう思っているのだろう。弟の彼女がいかにいい子か、嬉しそうに話す君を見る。君のその横顔に、素顔は見えない。
あと5分以内に手を繋ごう。少し不安になりそう決意したそばから、ベルを鳴らした自転車が僕達の間をすり抜けていった。左手を、そっと元の高さに戻した。
商店街が切れると広い道に出て、錆びた安全第一のアルミ看板が並んでいた。蝉がさわさわと遠慮がちに鳴く中、後ろからバスが僕らを追い抜いていく。
「ああ、バスうーー」
君はおどけて手を伸ばした。僕も、「バスうー」と合わせる。少しだけ、徒歩を選んだことに罪悪感を覚える。けれど、ここまで来たら文明の利器に頼るわけにはいかない。標識や電柱に、深大寺という文字がちょっとずつ増えてきたところだった。バス停には、日除け、もとい雨除けからはみ出た人が炎暑にぐったりとしていた。
 そこを通り過ぎようとしたところだった。君が斜め後ろを振り返って止まった。僕も急ブレーキをかけ、その方向に目をやる。どうやら、バス停にいた外国人に話しかけられたようだ。金髪に青い目、ごつごつした腕。昨日BSのドラマで観たまんまの外国人だ。どう考えてもここは日本なのに、英語で話しかけてきているみたいだった。道を聞かれたのだろう、という事くらいは僕にも分かる。君は流ちょうに、身振りを交えて話していた。
君は優秀だ。どこを向いても優秀だ。僕とは違う遠い世界に、それこそ桃源に生きているような気がしてくる。
「ごめんごめん!」
君がこっちを向いた。話が終わったみたいだ。どうやら彼は、バス停の人たちが英語を話せず、困っていたらしい。手当たり次第に話しかけたのだろう。
「いやあ、やっぱ私って外国人っぽい見た目なのかなあ。へへへ」
君は優秀なうえに、明るく愛想がいい。僕はそこが好きだけど、愛想が良い人はみんなに愛想が良いわけで、結果的に僕がやきもきすることも多い。そんな悩ましいジレンマに、ふと頭がいった。
神代植物公園に入ると、鼻腔に染みる草の匂いが、だんだんと強くなっていく。この時間帯の光は独特のオレンジを帯び、背中にまでじんわりと汗をかかせた。君は、リュックを赤子のように前に抱える。よほど背中が暑いのだろう。
「あ、自販機! お茶のむのむーー」
疲弊を補うように口数が多くなっていた君が、自動販売機を見つけて真っ先に走っていった。僕も追いつくと、人待ち顔をした自動販売機に五百円玉を流し込み、サイダーのボタンを押した。
喉への心地よい刺激を味わったあと、何気なく缶を見る。賞味期限が、ちょうど1年後だった。1年後、僕と君は何をしているのだろう。こうした拍子に、言い知れぬ不安を覚えてしまう。君を見ると、お茶を飲み干すのどがすっとして美しい。また遠さを感じた。
ふたたび歩き出すと、水の落ちる音が聞こえてきた。ようやく、目的地についたようだ。木の門をくぐり奥へ進む。踏みしめる砂利の音も、どこか疲労を帯びていた。
 それは、ゆくりなく訪れた。
 「私ね」
ずんずんと前を歩いていた君が、本堂の前で踵を返し、振り向いた。ザ、と砂利がこすれる。
「来年の夏からイギリスに留学するの」
遠くで、子供の声がする。
「ここって縁結びのお寺じゃない?だから、向こうでも素敵なご縁がありますように、って、何度も何度もお願いしてるの。やっぱり不安だから」
子供の声が止む。静かだ。
「言えなくてごめんね。もし言ったら、君が来てくれなくなっちゃうかなって思ったから」
 風が吹く。どこからか、風鈴のガラスの音が聞こえる。
 「僕はぜんぜんいいよ。留学なんてすごいね、頑張ってな」
 「よかった、ありがとう! 君は優しいね」
違う。そう言うしかなかっただけだ。この模範解答が言えない人間に、僕はなりたかったのに。
わかっていた。どういう形であれ、いつか君が遠くへ行ってしまうこと。あとは時間が僕らを引き離すこと。ネジ回しを持って、時計をばらばらにして、針も文字盤もとってしまっても、時間はどこにも消えてくれない。僕を前に時間は、儚くも強大だ。もしくは、時間を前に僕は、儚くも脆弱だ。
いつだって君はそうだった。いつだって、君は懸命に遠くを見ていた。
そんな君が、僕は好きだ。けど時々、その遠さに不安になる。
どうせなら、もっと無愛想で、内向的で、朴訥な君に会いたかった。そしたら、もっと苦しまなくてよかったかもしれない。そんな的外れなわがままが、頭を離れない。
本堂にたどり着くと、お賽銭を投げて手を合わせ、少しだけ横を見る。君は、薄く目を開いて一心に拝んでいる。
それを見て、ふと思う。
ここでお参りをしている時は、君も僕と同じ場所を見ているのだな。僕と同じ場所を見る瞬間だって、あるのだな。
なんてことはない。それだけだ。それだけが、何となく僕を安心させた。
このとてつもない僥倖を、刹那的な平穏を、抱きしめていこうと思った。

堂本 京亮(東京都国立市/20歳/男性/学生)

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