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「生え初むる」著者:奥田誠

まどろみから醒めるにつれ、里子はやっと自分を眠りから引き戻したものの正体を聞いた。階下から響いたポトリという音に反応したに違いない。今も鮮やかに耳奥に響いているようだ。それは実家の郵便受けに投入された新聞の音だ。その残響に追いすがるように遠ざかってゆくバイクの音。傍らで小さな寝息を立てる娘奈菜の寝顔を眺めながら、里子ははるかに過ぎていった日を思い出していた。
 春とはいえ、まだ肌寒い朝だった。同じクラスにいながら、二人がまともに言葉を交わしたのは、その朝が初めてだった。
「知らなかった」
「そりゃそうだろうね、ふつ~の高校生ははまだ起きちゃいない時間だから」
「いつから?」
「もう三年になるかな、この辺りは二週間くらい前から。担当してた人が卒業しちゃったんでね。オレもここがキミのうちだなんて知らなかったよ」
 早朝の薄闇の中で賢二の半分泣いているような目が笑った。
「大変な仕事ね」
「毎朝早いし、そうそう休むってわけにもいかないし、結構辛いとこもあるけど、ま、慣れだな。さすがにどしゃ降りや雪の日は泣いちゃうけどね」
「尊敬する!」
「よせよ。それにバイクとばしてるときって結構気持ちいいし。さて、じゃ、行くね。まだまだこれからなんだ」
「あ、引き止めてゴメン!気をつけてね」
「うん、分かってるよ」
 ひらりとバイクにまたがると背中越しに手をひらひら振りながら賢二は角を曲がっていった。荷台にはまだたっぷり新聞の束が残っていた。バスケ部の大会が近いので始めた早朝ジョギングだった。思い立ったときは少し億劫だったが、その日から心ときめく楽しみに変わった。
 賢二は、性格は控えめ、成績もやや控えめで、女子なら誰でも振り返るスイーツみたいなマスクってわけでもないし、およそクラスで目立つ男子生徒というわけではなかった。だが、里子にとっては、特別だった。文芸部が季節ごとに発刊している冊子で見かけた彼の詩に心揺さぶられる思いをしたからだ。端正な言葉選び、穏便な構成かと思えば大胆な飛躍、随所に散りばめられたにイメージの苛烈な衝突、普通ではない才能を感じていた。だが、席も遠くあまり交わる機会がなかったので、これまでほとんど言葉を交わすことがなかったのだ。
里子の思いはどうあれ、毎朝戸口の陰にいて、待ってましたとばかりに「おはよう!」というわけにもいかなかったので、大概の朝は、ジョギングの身支度を整えた後、ベッドに横たわって、胸を熱くしながらその音に耳をそばだてるということになった。そんな朝がつづいたお陰か、その年の女子バスケ部は里子の活躍もあって都の大会でブロック準々決勝まで進出することができた。2回戦で敗れた前年に比べれば大健闘だった。
 あの朝以来、二人は教室内でも時々言葉を交わすようになった。特別なにかを話すというわけではなかったが、遠くから口の形だけでも賢二から「おはよう」と告げられただけで里子は一日嬉しかった。新緑の時季になったある日、賢二からデートに誘われた。デートの誘いといても、賢二からただ「今度の日曜日ちょっとつき合ってくれないか」と男友だちでも誘うかのような軽いノリで声をかけられただけだったのだが。
 電車とバスを乗り継いで向かったのは深大寺だった。里子にとって深大寺は、家族で初詣に行ったり、休日に植物園とセットで出かけたりする馴染のお寺だった。山門をくぐると目の前に真っ白な雪のような花を満開にさせたナンジャモンジャがそそり立っていた。賢二は真っ直ぐそれに向かった。
「これなんだ。一度は来たいと思ってたんでね、今日つき合ってもらった」
 賢二は草田男の句碑の前で笑った。
「有名な句ね」
「俳句なんて詳しいことは知らないけど、この人の代表句だって話だ」
「若い父親の気持ちをそのまま詠んだ句ね」
 賢二は胸ポケットから一枚の写真を取り出して、裏返した。そこに万年室で書かれていたのがその句だった。
「死んだオヤジが書いたって」
 里子は手渡された写真に写っている母子に見入った。
「あなたとあなたのお母さんね」
 幸せそうに微笑む母親に抱かれた賢二がかすかに笑っているように見えた。
〝萬緑の中や吾子の歯生え初むる〟
 そのままの写真だった。賢二は死んだオヤジと言った。彼が母子家庭育ちだということはうすうす知らなかったわけではないが、あらためて本人の口からそのことを聞かされて、里子の脳裏を早朝の町をバイクを走らせて回る賢二の姿がありありと浮かんだ。
「ご病気だったの?」
「う~ん、突然だったみたいだ。クモ膜下ってやつでね。その写真を撮って三か月もしないうちだったって」
「なんて・・・言っていいのか」
「なに言ってるんだ、もう十年以上も前のことだぜ」
「でも・・・」
「それなりに苦労してるかもしれないけど、母親も元気に働いているし、うちはいたって呑気で明るいよ」
「それ聞いて、なんか安心した」
「苦労話聞かせるためにこんなとこつき合ってもらったりなんかしないさ」
 賢二がまた半分泣いているような笑顔を見せた。
「だから言ったろ、一度ここに来てみたかっただけだって」
「お父さんの気持ちが分かった?」
「まだそんな年じゃないし、分かるわけないさ」
「そりゃそうね」
「おっ、笑ったな。大げさに考えなくっていいのにさ」
「お父さん、俳句がお好きだったの?」
「さあね、詩みたいなものを書いてたっていう話は聞いているけど。ま、俳句だって詩には違いないし」
「あなたの詩はお父さん譲りなんだ」
「どうなんだろうね」
「エラそうなこと言えないけど、才能あると思うわ」
「でもさ、ある詩人が言ってたんだけど、詩って、世界からの贈り物なんだって。受け取る意志がある者のもとへその器の形に合った詩が降りて来るんだってさ」
「へ~、面白い言い方ね。なんかなるほどって感じ」
「だから、オレは受け取ったプレゼントをみんなに配って回ってるだけさ。もちろん、良い詩だって褒めてもらうのは素直に嬉しいんだけどね」
 また賢二が照れたように半分泣いているような笑顔を浮かべた。それが、賢二との最初で最後のデートになった。その後一月もしないうちに賢二が学校に来なくなった。担任の口から告げられたのは、事情があって急に引っ越して行ったということだけだった。借金取りから逃げていったという噂もあったが本当のことは分からずじまいだった。ぽっかりと心に空洞を抱えたままその後の高校生活を終え、里子は京都の大学に進み、そこで出会った孝彦と十年後に結婚した。孝彦はそのまま大学に残り、歴史学の研究をつづけている。今回は、学界で上京する孝彦にくっついてやっと授かった初孫を両親に見せるための里帰りだった。
 身支度を整えて階段を下り、奥の台所でせわしなくしている母親の恭子に声をかけた。
「お母さん、じゃあ、出かけるわね」
「深大寺でデートだって?」
「うん、孝彦さんと奈菜に見せたいものがあって」
「奈菜はまだ小さいんだからくれぐれも気をつけてね」
「分かってる」
 平日とはいえ、境内は参詣する人波でにぎわっていた。あの日と同じように里子は真っ直ぐナンジャモンジャに向かった。季節も同じころで、ナンジャモンジャは真っ白な花を咲かせてそこに立っていた。草田男の句碑も変わらずにそこにあった。刻まれた句をしみじみと読み返しているとまた昔日の光景が鮮やかに甦った。そのときふと気づいた。あれほど心震わせた賢二の詩の一字一句思い出せないということに。懸命に思い出そうとしても無駄だった。それはもうはるか忘却のかなたへと消え去っていた。そういう十数年を里子は生きてきたのだ。里子は、自分のその薄情が悲しくそして恨めしかった。
「萬緑の中や吾子の歯生え初むる。なるほど、これか、里子がボクに見せたかったものは」
振り返ると、孝彦がいつもの半分泣いているような笑顔でそこに立っていた。その瞬間、里子はなぜ自分がこの人と一緒に生きてゆく気になったのかを初めて知った気がした。なんで今まで気づかなかっただろうか。奈菜の頬を軽くつっついて孝彦が言った。
「ほら、奈菜、ちょっと笑ってみせてくれないかな」
それに応えるように奈菜がその小さな口元を綻ばせた。忽然と里子の人生から消えていった賢二、その器に今でも詩は舞い降りてきているだろうか。それはふいに里子の脳裏に甦った。〝きみの瞳から海が溢れるとき ぼくはその一瞬全世界を後悔する”ポトリという音を一つ残してバイクは走り去っていった。

奥田 誠(東京都杉並区/69歳/男性/無職)

   - 第12回応募作品