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「打ち上げ花火」著者:川内由美子

「麻理恵、ちょっと。」帰宅するなり父が呼ぶ。嫌な予感がする。
 「遅くなっちゃったから、悪いけど駅前の餃子にしたよ。はい、ビール。」と、急いでコンビニで買ってきた缶ビールと枝豆を出す。
 「麻理恵、いくつになった。」これだ、やっぱり。
 「パパ、こないだ私の誕生日に三十八本のバラをくれたじゃない、まだぼけないでね。」わかりきっているのに歳を聞くいつものパターン。
 「誰かいい人はいないの。」「いませんよ、パパだって私がいなくなったら困るでしょ。」一瞬何か言おうとして、それきり父は黙ってしまった。いつもはもっとくどくどと聞いてくるのに、ちょっと拍子抜けしてしまう。
 「せっかく焼き立て買ってきたから、早く食べよう。」と言うのは、この話はこれでおしまいという私からの合図。

少し前、私は園外保育で園児達を連れて深大寺にオオムラサキを見に行った。オオムラサキは日本の国蝶であり、深大寺の境内では、雑木林の保全を唱える地元団体によって人工的に飼育されていて、子供達に間近にその羽化したての美しい姿を見せることができる。だが、その時、私は父を見てしまったのだ。
 樹齢百年といわれている金木犀の大木の下で、美しい女性と一緒だった。多分四十代、丁度私と父の中間くらいの歳に見えた。淡い水色の着物で高島礼子のような美人、二人はとても親密な様子だった。父は楽しそうに、熱心に何か話をしていた。勿論私の方には目もくれず、女性を見ていた。私はその時生まれて初めて父の中に男を意識した。しばらくして園児達を連れて境内を出ようとすると、二人の姿は既になかった。
バス停に向かう途中の蕎麦屋のレジの向こう側にその女性がいた。女将なのだろうか。父の姿はなかった。
私は、その女性が気になって仕方なかった。その時の父の様子も、私の知っている父とは違った。他人であれば、少し歳の差のある熟年の恋人達と見ただろう。気がつけば、確かに父はその年代にしてはなかなかおしゃれだし、スタイルも悪くはない。私はその見知らぬ美人と父のことが頭から離れず、どうしてもその蕎麦屋を訪ねてみたくなった。
幼稚園といえど夏季保育だのプールだの色々あってなかなか時間が作れなかったが、ついに八月のある日、深大寺に行くことができた。バスを降り、蝉しぐれの中をまっすぐあの蕎麦屋に向かった。丁度二時少し前、客も疎らになっていた。そしてあの女性は、いた。
 「いらっしゃいませ、お一人さまですか。さあさ、どうぞどうぞ。」不意をつかれ思わず店の奥に通されてしまう。どうも客は私だけのようだ。「丁度お昼の部が終わるところだったんですよ、お客様も私ラッキーでした。」その言葉のあまりの正直さに思わず笑ってしまった。手早くおしぼりとコップを持ってくる。どうもこの時間は店の方も彼女一人のようだ。
十五分後、結局私は食べる気もなかった今日のおすすめを食べながら、店の中庭の池を眺めていた。彼女も手持ち無沙汰な様子だった。コップの水を足しにきたので、「ありがとうございます。あの、失礼ですけど、女将さんですか。」と聞くと、待ってましたとばかりに「あら、私は女将じゃないんですよ。」と、始まった。聞けば彼女はこの店の女将の姪で、訳あってバツイチ、ここで店の手伝いをしながら近い将来サンフランシスコに居酒屋を開く計画なのだそうだ。「毎日このお店が終わってから英会話に通い、着付も習って、着物も古着屋さんでたくさん仕入れて、もう準備はかなり進んでいるんですけど、いよいよあちらに行って物件を探すことになってきたら、急に色々心配になってきてしまって。あら、ごめんなさい。初めての方にこんなに長々と自分のことをおしゃべりしてしまって。でも、失礼ですけど、お客様は何だか初めてお目にかかったような気がしないんです。」どきっとしたが、全く他意はないようである。私はどう返したらいいのか決めかねていた。「お客様は深大寺さんへはよくいらっしゃるのですか。」「今日は勤めている幼稚園の遠足の下見で。」とっさに答えて後悔した。そのような下見の時は大抵二人以上である。少なくともうちの園ではそうだ。しかし彼女は気に留める様子もなく、「あら、幼稚園の先生なんですね。私は子供がいないから、子供達と一緒にいられるってちょっと羨ましいです、勿論大変なお仕事ですよね。お客様は失礼ですけれど…」私はもう聞かれ慣れているので、「まだ独身です。」と答える。「あら、でもこんなに美しい方だし、幼稚園の先生だったらお話はいくらでもあるでしょうね。ご自分さえその気になればあっという間にご結婚ね。」初対面の他愛もない会話のはずが、彼女は今朝も私が考えていたことを言い当てた。
 このような会話の展開を余計なお世話と気を悪くする人もあるだろう。けれど、この女性には何か魅力がある。少々おしゃべりだが悪気が全く感じられない。自分が美人だということをわかっているのかいないのか、少しも気取ったところがない。私よりだいぶ年上なのに無邪気で一途に夢を実現させようとしている。アメリカの話をする時のキラキラした表情は、かわいいと言えるくらいだ。言葉遣いも物腰も私には好もしく思え、父のために何だかほっとした。あの時、二人はアメリカの夢を話していたのだろうか。
 「あの、お客様は…。」話が更に私のことに及んできそうになったので「ご馳走さまでした、お蕎麦も美味しかったし、お話しして楽しかったです。」とそそくさと会計を済ませ、不作法と言えるほど急いで店を出てしまった。

 そんなことも知らず父は私の目の前で餃子を食べている。折しも調布の花火大会が始まったらしく、打ち上げ花火の音が次々と聞こえてきた。テーブルの向こう側のベランダのガラスが明るくなっている。
 「ママは、ここに越してベランダから花火が見えた時、本当に喜んだね、やっぱり七階は違うって。あの時もう、結構病気は進んでいたのに、すごく楽しそうだった。」私は遺影をベランダに持ち出し花火の方に向けた。父は黙って私の横に立っていた。その時、急に私の中で幾つかの扉が開き、光と風が入ってきた。私は今まで父と一緒にいることで、義務を果たしている気になっていた。確かに十五年前に母が亡くなった時は、私の存在も大きかっただろう。しかし弟が結婚し、いつの間にか、この父との暮らしに慣れ、それが当たり前で快適になってきてはいないだろうか。実は父のためでなく、自分が選択しているのではないか。そう思うと、逆に父は私のために、私が家を出るまでは、第二の人生に踏み出すことを躊躇していたのかもしれない。退職はしたが父はまだ十分に若く、何かまた仕事をしたいと思っていることは間違いない。海外での経験も豊富な父にとっては、彼女の夢は自分の夢であるのかもしれない。あの時の二人の親密で熱心な様子、彼女に向けられた父の優しい表情、店で交わした彼女との会話がよみがえってくる。不思議と嫌悪や嫉妬は湧いてくることなく、父の気持ちを思うと胸がいっぱいになってくる。
私とて人並みに恋愛はしてきた。勿論父は知らないが、妻子ある人と泥沼にはまりかけたこともある。しかし、私にはこの家を出る、現状を変えるという勇気がなかったのだ。
 実はこの数ヶ月、私と結婚したいという男性と付き合っている。私より五歳年上、バツイチで子供が一人、少しもイケメンでなくむしろ見かけに関しては残念な方かもしれない。だが、一流の会社に勤めていて、収入も安定している。何より、私を必要としていてくれる。なんとなくうやむやなまま付き合っているが、私も自分がもはや売れ筋でないことはわかっているし、子供を産むならそろそろ潮時だ。このままでは遅かれ早かれ、今問題になっている「兄弟リスク」になり、弟や弟のお嫁さんの厄介者だ。そう思うと俄かにその年上の彼が愛おしく思えてきた。
 「パパ、私、付き合っている人がいるの。」花火の音で父に聞こえたかどうかわからなかった。しばらくして「それはよかったなあ。どんな人なんだ。」と。私も父も花火の方を向いたままなので、どんな表情なのかはわからない。「私より五歳年上、全然素敵じゃない、三菱物産に勤めていて、離婚して四歳の男の子と暮らしてる。」 
 父と私は、長い間黙って花火を見ていた。「その子は大丈夫なの。」父が沈黙を破った。「いい子だよ、私のことは好きみたい。」「そうか。」また沈黙。「今度連れて来るから。」
 花火はナイアガラに変わった。「パパ、私、知ってるよ。」「?」「深大寺のひと。」私は父の方に向いた。花火の反射の中で明らかに父は度を失っていた。私のために、父は自分の恋を封じてきたということが今、私にはっきりとわかった。「パパ、私のことなら大丈夫。子供じゃないんだから自分で自分の幸せを作るよ。パパはあの素敵なひとが大事なんでしょう。ママもわかってくれると思う。チャンスは逃しちゃだめだよ。」
ナイアガラが終わった。父の瞳の中にすうっと花火が上がって弾け、たちまちそれが潤んでいくように見えた。

川内 由美子(東京都)

   - 第12回応募作品