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「渦のこころ」著者:下彩芽

「先週発生した台風2号の影響で、夕方から雨が降り始めるでしょう。」
誰も見ていないテレビは、淡々と雲の動きを伝えている。テレビの横に飾ってある貝殻がちりばめられた写真立ては、僕が小学4年生のときに図画工作の授業で作ったものだ。
「人はそれぞれ何かを信じて生きている。誰かにとってそれはイエス・キリストで、またほかの誰かにとっては、それは孔子かもしれない。遼太も、何か自分の信じるものを守るために、生きてみろ。」写真立ての写真を入れ替えながら、先月あたりに父さんが僕に言った言葉だ。僕はいきなり渡されたその言葉があまりピンと来なくて、適当な返事で済ませた。父さんはとても思慮深く寡黙な人で、道徳の教科書に書いてあるような言葉を、よく僕にくれた。嫌いではなかった。

先週、父さんの不倫が発覚した。発覚したというよりは、父さんが僕と母さんに当然告白したのだ。父さんはその日に、僕と母さんを置いて家を出た。母さんは、泣いていた。僕はアイスクリームを片手に、甘い絶望を味わっていた。

雲が太陽を隠す。世界が雲の影に覆われるこの瞬間が、好きだった。自分も宇宙の一部なんだと感じられる瞬間だった。夏休みも半分が過ぎ、部活は先週から休んでいた。何もすることがなくて、僕はぼーっと本棚のアルバムに手を伸ばした。小さいころの写真。ほとんどの出来事を覚えてなかったけど、母さんの字で書き添えられているコメントで無理やり記憶を手繰り寄せてみる。ふと思い立って、幼いころ父さんが一度だけ連れて行ってくれたらしい深大寺に足を運ぶことにした。感傷に浸りたいとかじゃなく、ただ何となく行こうと思ったのは、おそらく深大寺の写真がすごく涼しそうだったからだろう。調べると、ここから電車とバスで四十五分ほどの距離だった。
コンタクトを入れる。ゴミが入ったらしく、痛い。涙でにじんだ水晶体を通した景色は、木々の深緑とその輪郭の濃いグレーとが混ざりあって、マーブル模様に見えた。ぎゅっと目をつぶって涙を逃がしてやる。ぬるい酸素を目いっぱい取り込む。微妙な熱がサンダルの裏でもぞもぞと動いた。
ウォークマンを聞きながら移動すると、時間が短く感じられる。これが相対性理論ってやつなのだろうか。そんなことを考えながらバスを降りて、土産屋と門前の蕎麦屋を過ぎ、山門をくぐる。懐かしさはなかった。砂利を鳴らしながら奥まると、一人で笑う女の子の横顔が目に入った。深大寺の蓮に話しかけている。まるで僕でない他の誰かに操られているかのように、いつのまにか僕は彼女のすぐ右側に立っていた。ふっと息を吸い込む。

「誰と話しているの?」
「蓮よ。見ればわかるでしょ。すごくきれいよね。」
透き通った声が響いた。骨のカルシウムが彼女の声と共鳴して、血液にきゅっと溶けてしまったのだろうか。僕は急に背が小さくなったような気がした。アリが一匹、ハスの葉の上をせわしなく歩いていた。
「殺人罪はあるのに殺アリ罪がないのはどうして?」
心底不思議でたまらないといった感じで、彼女は蓮を見つめたまま言った。
「台風や地震が人を殺しても罰を受けないでしょ?それと同じじゃないかな。」
「じゃあアリにとって私たちって天災みたいなものなのね。」
「そうだね。」
「なら私台風や地震が憎いから、アリを殺さない。私が台風なら、人を避けるわ。生まれ変わったら台風になって、仲間にこう言うわ。私たちのせいで人間が死ぬの。だから,島や大陸は避けましょう、って。台風の社会の中で政治家になって、そんな法律を作るわ。」
「人間の世界で政治家になってアリを踏んではいけないっていう法律は作らないのかい?」
「それは、難しいわ。」
僕は笑った。「うん、僕もそう思う。」
彼女はよく髪をいじっていた。シャンプーが香ると、それは透明のきれいな空気に溶けて、僕の骨をじわじわと溶かす。
「でも、私はアリを殺さない。」
彼女は静かに言った。蝉が遠慮なく鳴き始めた。
「上陸する前に温帯低気圧になるような優しい台風があったら、それは私の生まれ変わりよ。」
「君は本当にやさしいんだね。」
「そう?ありがとう。でもあなたが指のささくれを剥くのは許せないわ。変なところで短気なのよ。」
「ごめん、もうしないよ。」
「あなたは悩んでる。どうして?」
「わからない。僕も知りたいよ。どうしてだと思う?」
「好きなことを、してないからよ。好きなことしてたら、時間も忘れて、打ち込んでしまうはずよ。」
「ずっと好きなことをするなんてできないよ。雨が降れば野球はできない。」
「そうねえ。私は悩むってことがしたくてもできない。頭のどこを使えばいいのかわからないもの。」
「でもさ、ボールをつかむとき、僕らは体のどこを使えばいいのか、教わらずとも知ってるよ。」僕は手をグーパーさせた。
「違うわ。親に教わったのよ。そうよ、あなたは親に悩み方を教わったのよ。」
「うーん、そんな記憶ないけどなぁ。」
「人は親の影響を少なからず受けるわ。きっとそうよ、絶対。」
「強引だなぁ。」僕は笑った。
「悩んでも何も変わらないのよ。運命は既に決まっているんだもの。その中で、選択していくことしかできない。もちろん、その選択のために考えることは必要だけど、それは悩むこととは別物よ。」

僕らは寺の周りを歩いた。彼女はうつむきながら歩く。リズムよくアリをよけて歩く彼女を、周りの人が少し迷惑そうによけていった。僕は心の中で彼らに言った。あなたたちの中の誰よりも彼女はあなたたちのこと考えていますよ。強引な台風から人々を守ってくれるんですよ。あなたたちは一体誰を、何から、守っていますか?
 寺の裏側に動物の慰霊塔があった。僕ら人間を動物と区別するものは感情だろうか。いや、犬に感情がないなんて誰が言える。アリに感情がないなんて誰がわかる。こういう哲学めいた問答癖は、よく考えてみれば確かに父さん譲りのものだった。念力の有無とか、親子の定義とか、とにかくいろんな議論をした。あの時間が一番好きだった。思い出さないようにと閉じ込めていた記憶が、ぶわっとあふれ出した。許すとか、許さないとかじゃないんだ。僕が過去に選ばなかった選択肢への不毛な熱望を自覚するのが苦しいんだ。それを後悔だと認めるのが、怖いんだ。もう父さんは戻ってこない。涙が、あふれた。
父さんは、あの決断のために、どれだけ考えたのだろうか。あらかじめ決められている運命の中で、僕たちに許されているわずかな選択の権利を、父さんは、自分のために、行使したに過ぎない。涙がただこぼれていった。彼女が僕の手をそっと握った。
父さんが僕らを捨ててまで守りたかったもの。それがなんだったのかも、今となっては知るすべもない。知る必要もないし、できれば知りたくない。探ろうとしても、きっと答えなんてなくて、ただ後にむなしさが残るだけ。だから僕は、バットの振り方を教えてもらったあのころの、優しくて柔らかな記憶がよみがえってくるのを中断しないように、石畳の溝にならって、ゆっくりゆっくり歩く。黙り込んで歩く僕の隣で、彼女は何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ僕に左手を預けて、アリを想っていた。僕は心地よい足音を右耳で聞きながら、ただこのまま二人で、深緑色の景色の一部でいたいと思った。もし僕の運命の予定帳に、彼女との再会が載っていないならば。僕はあらゆる選択の機会を、それを書きこむために行使しよう。そう考えたときに僕の心が感じたのは、恐怖を感じた時に動くのと同じところの痛みだった。
一生懸命蝉の羽を運ぶ一匹のアリから、優しく、その宝物を奪った。逆らうことなどできない。運命とはそういうもので、最初からすべて決められているんだ。おとなしく、受け入れてくれ。アリに向かって、自分の心に語りかける。ただ、そのあとの行動で、未来は変わる。考えて、選べ。
雨が鼻先で跳ねた。台風が、やってくる。

下 彩芽(東京都八王子市/22歳/女性/学生)