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「残り桜」著者:櫻千鶴乃

 五時を過ぎた境内は、人影もまばらだった。
茶屋も閉店しているのだから無理もないか、と佳苗は思った。日勤の終わりと同時にあたふたと飛び出し、境内にも入れないのではとドキドキしながら車を走らせてきたから、がらんとした空間に辿り着いたときはほっとすると同時に少し拍子抜けした。
 訪れる人が少ないお寺はどこか寂しい。桜の開花が2割程度なのもあるかな。でも十日後には満開どころか、もう葉桜かもしれないと佳苗は思った。その日は職員総出でグループホームの入所者をこの深大寺に花見に連れて来る。今日はその下見に来たのだ。
 本当は満開に合わせたいが、入所者の年齢を考慮すると遅くの方が寒さのリスクは避けられる。仕方ないかな。日没近い曇天の下、腕をさすりながら佳苗は境内を歩いていた。
 前方に高齢の二人連れが、肩を並べて歩いていた。ご夫婦だろう。
 思わず立ち止まり、佳苗は二人を目で追っていた。
 そろりそろりと歩を合わせる一対。ふと立ち止まり、杖のご主人の肩に奥様が自分のストールを掛けた。また、そろりそろり、一対の影となり歩みだし、ゆっくりゆっくり、山門へと向かっていった。
 ―共白髪。
 唐突にそんな言葉が浮かんだ。
 同時に、直弥の顔も。
 瞬間、涙が溢れそうになり、佳苗は慌てて踵を返した。

 駐車場に停めた車内でそっとスマホを開ける。フォトアプリを起動すると、直弥の笑顔が飛び出してきた。この前まで待ち受けにしていた写真。
 この笑顔を見るとしんどい時でも勇気とやる気が湧いてきたのに、今は涙しか出ない。
 車外に目をやる。沿道にも桜。
 ―此処、前に直弥と来たことあったなあ。サークルのイベントだったかな。確かまだ付き合う前だ。
 あの時は楽しかったなあ。おそば食べて、お団子食べて。無邪気におみくじ見せ合って。暫くして付き合い始めたんだっけ。
 大学を出てそれぞれ就職しても、二人の関係は終わることなく続いた。
 ずっと一緒だと思っていた。自分は直弥とずっと一緒に生きていくのだと、心のどこかで思っていた。
ずっと。共白髪となるまで。
 ―私は、何を間違えてしまったのかしら。
 互いに仕事が忙しくなっていた。社会人になって3年、正念場ではあった。予定が合わず時だけが過ぎてくことも多くなった。約束のドタキャンも何回かあった。
 やっと逢えても、近況=仕事の話ばかりに終始してしまう事もあった。
 何処でボタンを掛け違えてしまったのだろう、ギスギスした空気が二人の間に流れるようになった。一体感を感じなくなった。
 『私達このまま、ダメになっちゃうの?』メッセージアプリからそんな言葉を投げたときは、吐く息がまだ白かった。
 返事の来ないままどれだけ経ったろう。
 これっきり、なのかな。
 画面を消した。両の目から、大粒の涙がポロッと零れた。

 花見当日は数日来の花冷えも解消し、雨の心配も無かった。認知症の高齢者を連れての遠出だ、不安材料は少ない方が良い。思いのほか桜がもったのは嬉しい誤算だった。やっぱりみんな花見は喜ぶ。どことなく顔がほころび、ニコニコしている。
 下見のときとは打って変わって、参道は午前中から人で溢れ活気づいていた。普段静かな環境で暮らしている入所者さんが驚かないかと心配したが、皆が久々の遠出を楽しんでる様子に佳苗はほっとした。
 佳苗は茶屋通りでフミさんの車椅子を押していた。フミさんは足腰も、時折面会に来る娘さんの記憶もおぼつかなくなってきてるが、感情を荒立たせる事も少ない穏やかな人だ。衰えからか近頃は発語も少ないが、たまに見せる笑顔が可愛い。
 「フミさん、寒くないですか。人が多くてびっくりしてないですか。」
 佳苗は人にぶつからないよう気を配りながらゆっくり車椅子を押す。石畳に車椅子が揺れる。
 境内の方が静かで良いかな、と店の軒を抜け、車椅子を押しスロープを上がった。境内は砂利が引いてあるが車輪を取られることは無さそうだ。桜の樹が傍にあるのか、花びらがたえずひらひら舞っている。
 「本堂に行って、お参りしましょうか。」
フミさんに声をかけた。どこか遠くを見ているようなフミさんの表情。楽しめてるかな。少し心配になった。
 ゆっくり車椅子を進めていると、突然大きな鐘の音が響いた。
 ゴーン・・・。
 佳苗は驚いて左を見た。鐘楼だ。
こんな時間に鐘を突くとは知らなかった。
 ゴーン・・・。ゴーン・・・。
 お腹の底に沁み入るような大きな音。鐘突きを間近に見たことなど殆ど無いなあと佳苗は思った。車椅子も鐘楼の方に向け、暫く鐘の音に聞き入っていた。すると、
 「たもつさん・・・」
 小さな、しかしはっきりとした声がすぐそばから聞こえてきた。
「たもつさん・・・たもつさん・・・」
 佳苗は驚いてフミさんを覗きこんだ。涙声だ。
 『たもつさん』て?娘さんが「たまには思い出してくれるように」と居室の壁に貼った、亡きご主人の写真に添えられた名前では無い。お孫さんの名とも違う。
 フミさんはますます涙声になった。
「帰ってくるって言ったのに。必ず生きて帰ってくるって言ったのに。二年参りして約束したのに。帰ったら祝言上げようって約束したのに。」
 ぎくりとした。
「おどさんにも許し請うて、絶対一緒になろうって言っだのに。待っでたのに」
 聞いたことも無いフミさんの訛り。はっとした。これ、きっと、フミさんの昔の話だ。おそらくご主人と一緒になる前の。齢九十を超えたフミさんが娘時代に戻っている。鐘の音が呼びさましたのか。
 生きて帰ってこなかった『たもつさん』とは。佳苗は思いを馳せた。戦地にでも赴いたのだろうか。
「たもつさん…逢いたい…逢いたい…」
 何度も繰り返しながら、フミさんは俯きはらはらと涙を流す。風が吹き、花びらがはらはらとフミさんの肩に舞い落ちてくる。

 車中でも暫くフミさんは泣いていたが、疲れたのだろう、ホームに着くころには眠ってしまった。
 夕刻、退勤前、佳苗は恐る恐る部屋を訪れた。目は覚めたかな。まだ感情は揺れ動いたままだろうか。
 フミさんは静かに目を開け天井を見ていた。いつもの穏やかな顔だ。
 「桜、綺麗だったね。」
感極まって泣いたことなど覚えていない様子で佳苗に話しかける。佳苗は面食らい、同時に安堵もした。
 『たもつさん』とはどんな恋をしていたのだろう。聞いてみたくもあるが、また心が乱れても、と佳苗が思いあぐねていると、フミさんから思いもかけない言葉が飛び出した。
 「橘さん、好きな人いるの?」
 思わず答えに詰まった。居ますと言っていいのか、居ましたと言うべきか。
 フミさんは構わず続ける。
「大事な人がいるなら、手を離しちゃ駄目よ。この人、と思った相手からは、決して離れちゃ駄目よ。」
佳苗の反応を気にすることなくフミさんは一方的に続ける。
「大事な人の手は、離しちゃいけないのよ。」
 何度も繰り返す、同じ言葉を。認知症ゆえの言動だろうが、佳苗には、様々な記憶が消えつつあるフミさんからの、強烈なメッセージであるよう受け取れた。鐘楼の前での出来事など忘れたような顔で、それでもフミさんは昔の恋を、心の底で重く引き摺っている。叶わなかった思いは、胸の奥で今でも燻り続けている。
 ―あなたは、そうなっちゃ駄目よ―
 そんな声が聞こえた気がした。

 運転席に座ったまま佳苗は暫く微動だにしなかった。やがて、そっとスマホを開いた。アプリを起動し、あれ以来触れてない直弥の名前をタッチする。トーク画面が開いた。
『今日入所者さんたちを花見に連れてったの。深大寺、まだ桜残っていたよ。
全て散ってしまう前に、もう一度直弥と見に行きたい。』
ひと息に書いた。そして、一寸考え、
『すぐには難しいようなら、葉桜、見に行くのでもいいよ。』
そう付け足し、大きく深呼吸して、送信を押した。
 そのままスマホを額に付け、ハンドルに体を預けたまま、祈るように目を瞑った。
 どのくらい時が経ったか。バイブが振動し、びくっと跳ね起きた。画面を点ける。
メッセージが表示された。『直弥さんがスタンプを送信しました』
 佳苗は急いでスワイプし、画面を確かめた。

 満開の桜の画が飛びこんできた。

櫻 千鶴乃(東京都八王子市/52歳/女性/会社員)