「時間を守らない彼女と僕の話」著者: 春風米ぞう
水曜日は陽子へ電話をする。
夕方定時近く、会社のデスクで受話器を取り、彼女の会社へ電話してデートの約束。
一九八〇年代後半のバブル時代、会社の電話はかけ放題。妻帯者は、仕事が終わると自分のデスクの電話から、自宅へ「帰るコール」をする。独身者はそれに憧れていた。
国鉄がJRになった年の四月、六本木でベトナム料理を食べようと約束して、午後六時半に銀座のソニービル前で待ち合わせをした。
僕はいつも、約束の五分前には着くようにするけれど、彼女は必ず遅刻する。それも一時間の遅刻は当たり前。当たり前なら僕も遅刻すればよいし、そもそも約束の時間をもっと遅らせればよいのだけれど、電話では確かに「六時半ね」と確認するのに、陽子は遅刻する。
ある時は、三十分待ったところでやって来て、
「ちょっと用事があるから、あと三十分待っていてね」
と走ってどこかへ行ってしまう。何のための約束なのだろうか。
社会人として、時間を守るのは最低限のルールである。それを守れない人間は社員として失格である。会議に遅れる後輩がいれば、理由は何であれ叱責した。
仕事でも遊びでも、僕はいつも時間を守ることを大切にしていた。でも、彼女は違う。彼女の会社はルーズなのだろうか。でも、時間は守らないけれど、待ち合わせ場所には必ず来るから、僕は一時間でも二時間でも待った。
待っている間、何を話そうか、あの話を教えてあげよう、この事件も報告しよう、と考えているうちに一時間くらいはすぐに過ぎる。だから、待つのはどうってことはない。
時間の約束なんて、来てくれるという事実に比べればどうでも良いのだ。待ち合わせる約束をしたのであって、時間を約束したのではない、と思えばよろしい。それに、待たないのなら帰るしかないけれど、僕は帰りたくないのだ。
漸く彼女が来ると、タクシーを拾って六本木へ。
彼女はいつも違う服でおしゃれだった。島根出身で、地元では雪と雨が多いから、おしゃれはしない、靴はいつも長靴、と言うけれど本当だろうか。
僕はいつも同じスーツ。紺のストライプのダブル。
「そのスーツ、似合うね。いつも思っていたよ」
と彼女が云う。
繁華街には夜遅くまで開いている花屋がある。お店のママや女の子にプレゼントするのに都合が良いのだろう。その日、ほろ酔いになった彼女が、
「バラの花を買って」と僕に言った。
赤いバラを三千円分、花束にしてもらい、彼女に渡すと嬉しそうに左腕に抱え、右腕を僕の左腕に組んできた。バラの花が好きだなんて知らなかった。
翌月のデートは、
「バラを見に行きましょう」と誘った。土曜日の午前十一時、新宿駅京王線地下の改札で待ち合わせ、という約束で。
当日、僕は五分前に着き、彼女は十二時十五分に来た。もうそれはどうでも良い。京王線に乗って調布駅で降り、タクシーで十五分。神代植物公園に着いた。
バラ園という場所に初めて来たけれど、こんなにきれいだとは思わなかった。それに、バラは赤だけでなく、ピンクも黄色もあり、赤いバラにも、種類がたくさんあることを知った。ここには三百種類五千株のバラがあるらしい。きれいに区画された花壇にそれぞれ違う色のバラが咲いている。
きれいなバラにはトゲがあるのだから、大好きな陽子が時間を守らないのも問題ない、と考えながら歩いた。陽子はにおいを嗅いで、
赤いバラは赤い匂い、黄色いバラは黄色い匂いがするのよ、
と言う。バラに囲まれた彼女は、飲み屋にいる時よりきれいに見えた。いつもは夜の街ばかりで、青空の下で陽子を見るのは久しぶりだ。
公園の南へ出ると、深大寺へつながる道がある。お蕎麦屋さん、飲み屋さんが並び、きれいな側溝に、きれいな水が流れている。
一軒、気になったお店があったので入り、熱燗を頼む。陽子は熱燗が好き、とても熱いのを好む。うーんと熱くしてください、と注文する。
あちち、と言いながらお銚子を差しつ差されつするのが至福の時間である。
肴は虹鱒のお刺身を注文。川魚を生で食べるのは初めてだけれど、陽子はお気に召さないようだ。彼女はボリュームのあるものが好き。アジフライとかメンチカツで酒を飲む女である。
ずいぶんと酔っ払ってから、タクシーを呼んだ。車の中で、僕に寄りかかった陽子が、
「わたし、結婚するかもしれない。親の都合で」とつぶやいた。彼女は山陰の分限者のお嬢様である。
僕は黙っていた。なんと言ったら良いのかわからない。嘘かもしれないし。
駅に着くまでの数分で、いろいろな事を考えた。僕は庶民の出で、学歴もたいしたことない、給料も彼女の家のレベルで見たら貧乏人の類だろうし、何か人より秀でたものもない。きっと、彼女の親が選んだ相手と比べたら、ずいぶん見劣りがするのだろうな。そもそも、今までの僕らはなんだったのだろうか、恋人同士ではなかったのだろうか。まあ、そんな話をしたこともないし、結婚しようと思ったこともなかった。陽子が好きだけれど。
電車では席に坐ることができたので、陽子はまた、僕にもたれて眠っていた。新宿で乗り換え山手線に乗り、恵比寿が近づいたので彼女の肩をゆすった。陽子は眼を覚まして、「はーい」と言って立ち上がり、
「ひとりで帰れるからいいよ」
と電車から降りた。
僕は坐ったままでいた。「送るよ」と云おうかどうか迷っているうちに電車のドアが閉まった。なぜ、すぐに席を立って言葉に出さなかったのだろうか。送りたかったのに。もう少し話をしたかったのに。
それからしばらくは、陽子には電話をしなかった。仕事が忙しいからもあるけれど、なんとなく電話する気持ちになれない水曜日が続いた。
当時のサラリーマンは残業するのが当たり前、仕事がたくさんあった。休日出勤も頻繁で、残業すればするだけ時間外手当が支給されるから、僕が勤めていた三流企業でも収入は多かった。
お給料が高いから、遊びもやりたいことが出きる。時々の休みの前日は、退社後同僚と新幹線に乗り京都へ行く。適当な店を見つけて痛飲し、ホテルに泊まって翌日帰る。都内で飲むのとは違った酒のうまさがあって楽しい時間だと感じていた。陽子ともいつか一緒に行きたかったけれど、僕らはまだ泊まりのデートをする仲ではなかった。
新しい年になり、春を前にして僕は人生を変えようと考え始めていた。そのうちに僕は会社を辞め、社会人入試を受けて合格し、大学へ通うことになった。ようやく勉強したい気持ちになったのだ。僕は何かを求めていて、それは彼女ではなかったのかもしれない。陽子よりも必要なものがあったのかもしれない。
勉強は楽しかった。勉強するだけで生きていけるなら最高だろうな、と思っていた。
それから二年後、陽子から封書が届いた。結婚披露宴の招待状である。
返信ハガキの欠席に○をつけ、「末永いご多幸をお祈りします。」と書いて投函した。
思い出すことはたくさんあるけれど、陽子と写真を撮ったことが無いと気がついた。いつも遅刻するから時間に追われたデートばかりで、写真を撮る余裕なんてなかった。唯一、たっぷり時間があった、あの神代植物園の美しいバラと一緒に撮ればよかったなんて、今更思う。その写真があっても仕方のないことだけれど、陽子はあのバラ園の景色をおぼえているだろうか。
そして、陽子は自分の結婚式に遅刻しないだろうか。
それがとても気になる。
春風米ぞう(栃木県下野市/55歳/男性/自営業)