「確率論」著者:西澤巧
「降水確率50パーセントって、往生際が悪いと思わない?」
はじまったぞ、理屈くんの独り言が。こうなるとこの人は、途中で口を挟もうがどうしようが、意も介さずに話を進めていく。さすがに私も学習した。ここはダンマリだ。
「51パーセントならまだ納得いくんだよ。『降るか降らないか分からないけど、私は降る方に賭けます』っていう、気象予報士の覚悟が伝わるからさ。でも、50パーセントってのは、『傘を持ってくか持ってかないかは、テレビの前の皆さんの判断に委ねます』ってことでしょ。それってただの職務放棄じゃない?」
“気象予報士の覚悟”って何だよと思いつつ、とりあえず愛想笑いを返しておく。
この、理屈くんこと主任との営業先回りの道中、アポイント先からキャンセルの連絡が入った。「担当の芦田が寝坊しまして」。正直に言わなくてもいいのにと、連絡をくれた相手の愚直さに逆に誠意を覚えつつ、時間調整のために立ち寄った深大寺で、雨に祟られた。ちなみに、私も主任も、傘は持っていかないという判断を下した結果だ。
主任のスピーチはまだ続いてる。とりあえず借りた蕎麦屋の軒先だけど、雨足は強まるばかりで、この場を離れる見通しはつかない。ふと店内に目をやると、女将と思しき人と目が合った。顔は笑ってるけど、目は笑ってないぞ。バツが悪くなった私の視線に、主任が気づいてくれるわけがない。
「ちょ、ちょ、ちょ、主任。ちょっと早いけどお昼にしません? 何だか、営業の私たちが、営業妨害しちゃってますよ」
「ん? あぁ、じゃあ食べちゃうか」
「いらっしゃい!」暖簾をくぐると、店内に大きな声が響き渡る。女将の本当の笑顔を横目で見つつ、入口近くの席に腰を下ろした。
座ってから、今日は朝から水分しか口にしていないことを思い出し、段々お腹が空いてきた。この後のことを考えると、いつ次の食事にありつけるか分からないから、ここはガッツリいっとこう。天ぷら食べたいな、と思ってると、
「俺、天ざるにしよ、お前は?」
いけしゃあしゃあとお前呼ばわりしてこられたことにカチンときながらも、悔しいかなこの人とは色んな選択が悉くリンクする。意地を張ってもしょうがないので、
「私もそれで」と、本当の笑顔の持ち主にお願いした。
ひと段落ついたが、“お前”に対するムカムカは収まらない。たまにはこっちから攻めてみようと、私の中の些少な反発心に火がついた。
「主任って、理屈っぽいって言われません? 意外と奥さんに逃げられた理由もそれだったりして」
図星。人の耳ってこんなに急に赤くなるんだっていうくらい、分かりやすく動揺するこの姿、とても営業向きとは思えない。
「あれは、俺の方から出てったの! 事実を捻じ曲げるな、事実を」
主任が3LDKのマンションを持て余し、Lのみで生活が成立しているという話は、同期の飯尾くんから聞いている。この前、主任宅で麻雀をした時に抱いた感想との事。
なんで出てった人が、別れる前と同じとこに住んでんの? 事実を捻じ曲げてるのはどっちじゃ、というツッコミは心中に留めておいた。
「お前、そういうズケズケしたとこ直さないと、いつまで経ってもオトコできないよ」耳の赤が朱になった頃、主任が反撃してきた。
「私は理想が高いんです」
「理想ってなんだよ。年収とかルックスか?」
「・・・価値観の合う人です」
これはわたしの偽らざる本音だ。これまで、片手で事足り、且つ親指と小指と薬指がいらないくらいしか男性と付き合ったことはないが、そのいずれも結局のところ、相手との嗜好の不一致に私が違和感を膨らませてしまったのが長続きしなかった原因だ。それも極めて些細な違い。絶叫マシンが好きか嫌いかとか、洋画よりも邦画を観たいとか、ワインよりも日本酒だとか。
「価値観って、またベタだな」と、底意地の悪そうな笑顔でこっちを見てる主任が続けざまに何か言いかけたところで、
「お待ちどうさま」
傷を舐め合う不毛な会話を遮るようにテーブルに天ざるが二つ並べられた。
「美味そう」と早々に箸を取った主任は、海老天に手を伸ばした。恥ずかしながら私も同じく海老天から。一口だけ食べたら籠に戻す。ふと見ると、主任の海老天もしっぽから先が10センチほど残されてる。目の前の私には目もくれず、次の一手とばかりに箸を蕎麦にのばしているところを見ると、主任にとって海老天半分残しは無意識の行動なのだろう。しかし、私がこういう食べ方をするのにはちゃんとした意味がある。
「好きな物は先に食べる派? 最後まで取っておく派?」そんなものに派閥があるとは思えないが、私はそのどちらにも所属しない無派閥だ。だって、最初に美味しい物で口を満たしてから、最後に美味しい物で締めれば、楽しみは2倍ではないか。
まさかとは思いつつ、恐る恐る聞いてみた。
「あのぉ、主任。なんで海老を半分だけ残すんですか?」
「ん? 特に理由はないけど」
やっぱり、と思ったら、
「まぁ、しいて言えば、好きな物はすぐ食べたいけど、全部食べたらおしまいじゃん。でも、好きな物を取っておけば、最後に余韻が楽しめる、ってとこかな」
ビンゴ。まさかこんな近くに同じ考えの持ち主が存在していたとは。二十余年生きてきて、はじめての体験だ。「価値観が合うってこういうことじゃないの?」という声が私の中から聞こえてくる。発しているのは天使か悪魔か分からないけど。
囁きを振り払うように頭を振ると、私たちの他にお客さんもいないからか、一つおいた卓に座っていた女将がこっちを見てニヤニヤしている。
「何か?」
「何かって、あんた達の痴話喧嘩が面白くて」
「痴話喧嘩じゃありません!」
「なんでもいいけどさ、今あんたが思ってること、当ててあげようか」
「えっ」
「『価値観が合うってこういうこと?』でしょ」
この女将、いや、このオバさん、何を言いだすんだ。反論しようとしたけど、水中の酸素が足りない金魚のように口がパクパクしてしまい、言葉が出ない。
「頼むものも一緒。食べ方も一緒。オマケに顔色も一緒じゃない」とオバさんがケラケラ笑ってる。
さっきから一言も発さない主任を見ると、また耳が赤くなってる。オバさんの無責任な発言に何を動揺してるんですか、と問いかけたが、いや、ちょっと待てよ。女将の指摘どおり、私も頬が火照ってるじゃないか。どうやら二人揃って営業には不向きらしい。
そこから先は二人とも無言。せっかくの海老天の味もよく分からなかった。蕎麦湯の優しい味わいは多少心を落ち着けてくれたけど、動揺を収めるほどの効用は無いようだ。
「ありがとう。また来てね」
会計を済ませた後の女将の能天気な言葉に、内心「二度と来るか」と毒づきながら店を出ると、雨はすっかり上がってる。次の訪問先に向かうには多少早すぎるけど、特にすることもなく、「深大寺入口」のバス停に向かう。
その途中、先を歩いていた主任が、こちらを向くこともなく「なぁ」と問いかけてきた。耳の色は、真っ赤だ。
「俺とお前が付き合う確率ってどれくらいだ?」
爆弾発言当事者の歩くスピードは、心なしか早まった気がする。
歩みを止めることのない背中を追いかけながら私は答えた。
「さぁ、50パーセントってとこじゃないですか?」
西澤 巧(東京都八王子市/44歳/男性)