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「紫陽花の季節に」著者:右城薫理

「ひとつひとつが小さなブーケみたい」
彼女の優菜が無邪気に笑った。梅雨入りしたばかりの紫陽花は、どれもがまだ蕾を残している。優菜は初めて訪れる深大寺に一喜一憂し、僕の手を引くようにして進んでいく。
一通り散策が終わった僕たちは、昼食をとることにした。日差しは夏のように強くなく、開け放たれた店内には、気持ち良い風が吹きわたっている。優菜はメニューを開くと、眉根を寄せて、どれにしようかと悩み始めた。ふと過去が、僕の記憶が、僕の目の前に迫ってきた。

「健太郎、どれにするか決めたか」
父は必ず、弟の修也ではなく僕に先に聞いた。僕はメニューを眺めながら、
「天ぷらそばにする」と言うと、修也が「僕も」とうれしそうに声を上げる。
「あの、すみません。水をもう一つもらえますか」
三人分の水を運んできた店員に父が言う。店員がすぐにもう一つのコップを運んできて、テーブルに置くのを見届けてから父が注文する。
「天ぷらそば二つと、温かいとろろそばと、ざるそばを一つ」
「ご注文は四つですね」
店員の確認に父は丁寧に返事をする。
「父さん、僕もし天ぷらそば全部食べられたら、ざるそばも少しちょうだいね」
修也が言うと、父は嬉しそうな顔をした。
「修也もたくさん食べられるようになったもんな。健太郎もうかうかしていると修也に越されるぞ」
「修也、口ばっかりだもん。去年だってそう言って、自分の蕎麦も残したじゃないか」
僕がからかうように言うと、修也は口を膨らませた。
「去年は蕎麦を食べる前に、団子を食べちゃったからだけど、今年は大丈夫。だって今、お腹ペコペコだもん」
そして、「ああ、お腹すいた」とテーブルにおでこをつけた。
「ママ、お蕎麦好きだったよね」
そのままの姿勢で修也がぽつりと言う。
「深大寺のお蕎麦が一番好きだって言ってたよね。それに、お蕎麦を味わうのはシンプルなざるそばが一番だっていつも言ってたよ」
僕もつい口に出して言ってしまう。父は俯きながら僕たちに箸を配った。僕は箸を見つめて思い出す。もっと僕たちが小さい頃、うまく箸を割れなくて、ふたりとも同じように片側だけ大きくなってしまった箸を見て、母が大笑いした姿を。その笑い声がよみがえる。
隣の席では家族連れが食べている。その母親の明るい声が僕たちの耳にも否応なしに届いた。そんな時、どうしても僕たちは無口になってしまう。でも、僕は弟の修也が寂しくならないように、そして、父は僕と修也が寂しくならないように、元気な声で話し始める。
蕎麦が運ばれてきた。四人掛けの席の空いた部分にざるそばを置く。追加で運ばれた水もそこに並べる。僕たちはその時だけ、しんみりとする。ほんの少し前まで、その空いた席に座っていた人のことを想って。父の合図で「いただきます」を同時に言うと、そこだけ僕たちしかいないような世界にして食べ始めた。
父と母の初デートは深大寺だった。僕が生まれ、修也が生まれて家族が増えてからも、父と母の記念日に僕たちは深大寺に行った。毎年六月、紫陽花が咲き始める頃の家族の楽しいイベントとして。
母の病気が分かった時、そして闘病中の時も僕たちは記念日を忘れなかった。ただ、最後の記念日だけは写真を撮らなかった。母があまりにも辛そうに見えたからだ。
母が亡くなっても、僕たちは深大寺へ行った。そして母の分の蕎麦を注文して、母の分は三人で分け合って食べた。
僕たちが深大寺に行かなくなったのは、いつからだったろう。父が忘れるはずがないことを考えると、きっかけは僕だったのかもしれなし、修也だったかもしれない。僕たち兄弟が少しずつ成年に近づくにつれ、儀式的になってしまったことに気づいた父が、忘れた振りをしたのかもしれない。

「どれにしようか悩んじゃって。どれも食べてみたいけど、でも」
メニューから顔を上げた優菜が、そう言って指で示したのは、ざるそばだった。
「やっぱりお蕎麦を味わうのなら、シンプルなざるそばがいいのかなって」
優菜は驚く僕に向かって微笑んだ。

蕎麦を食べた僕たちは再びぶらぶらと散歩をした。小道脇に流れる水路に、風に吹かれて舞い降りてきた葉がひとつ流されていく。石にぶつかりながら、時には左右に大きく揺られながら。
僕はつい立ち止まって、その不安定に流れていく葉を見つめた。この葉はどこへ行くのだろう。その先を見届けたい気持ちと、そうでない気持ちが錯綜する。
「行け、がんばれ、追いつけ」
優菜が声を送るものを眺めると、小さな葉が真っすぐに水路を流れていくのに気づいた。まるでその応援が届いているかのように、さっきまで僕が見つめていた葉の方へと小さな葉は迷いなく進んでいく。
小さな葉が、先に流れていた葉に追いついた。すると、二つの葉は、まるで重なり合うようにしてゆっくりと流れていった。
「残念、あの大きな葉を追い越そうと思ったのに。一緒になって流れて行っちゃったね」
真っすぐな瞳で僕を見つめる。そう、優菜は何かあると沈みがちな僕に、明るい声やしぐさで僕を踏みとどまらせる。今日も僕の様子がいつもと違うことに彼女は気づいているのかもしれない。でも、何も言わずにさりげなく気遣いながら、僕に寄り添っていてくれる。
「こんなに風の音を感じるのは久しぶりかも」
優菜の声に導かれるように、僕は顔を上げる。さほど風は強く感じないのに、葉が風を受ける音がまるでさざ波のように、耳にそして僕の心に響き渡る。
「これから父の所に寄ってもいいかな。日曜日はきっと家にいると思うから」
僕は慎重に、でもしっかりと彼女の目を見つめながら言った。
「よかったらだけど、一緒に行ってくれないかな。その、父が一人で暮らしている家に。父さんに優菜を紹介したいんだ」
彼女は目を大きく見開くと、ゆっくりと頷いた。

いつの頃だったか修也が父に問いかけたことがあった。深大寺からの帰り道、父を真ん中にして、三人で手をつなぎながら歩いていた時に。
「パパはママのこと好き?」
「ああ、好きだよ。そして好きの気持ちのまんま、ママは遠くへ行っちゃった。だからね、パパはずっとママに恋をしたまんまなんだ」
父が泣いた姿を一度だけ見た。母の葬式の時だけ。それから一度も父の涙は見ていない。
二人並んで深大寺通りまで歩いたところで、僕は振り返った。あの頃の僕たち家族が、まだこの場所にとどまっているような気がした。僕と父と弟の、そして元気だった母の笑い声が、この深大寺に記憶されている。母を亡くした僕たちに必要だったあの時間をこの深大寺が与えてくれた。あの時の僕たちの思いを、今でもこの場所は、忘れずに包みこんでくれている気がする。
僕の手には、今、別の手が握られている。そっと力を籠めると、彼女の柔らかい手が僕の手を握り返してきた。
深大寺は忘れずにいてくれるのだろう。そう、きっと、今日という日も。

右城 薫理(東京都調布市/44歳/女性/家事従事)

   - 第13回応募作品