「啜れ」著者:槙乃ゆう
『託生(たくみ)は来ないで』
嘘をつかなければいけないことも、あると知ったのは十一歳の時だった。
“なつき、みんな集まったよ!お店に行くね!”スマホが光る。綾(あや)からのメッセージだ。
小五の新学期。教室のそこかしこに桜の香りがふんわり残っているような、新学期。隣の席になったのは、小柄な男子だった。私の後ろの席には、綾。そして託生の後ろには、克(かつ)哉(や)ことかっちゃん。そんな四人班。私たちはたちまち気が合った。
たまに、託生は給食ではなく、お弁当を持ってくることもあった。
「蕎麦アレルギーなんだ」
「じゃあ、うちのお蕎麦、食べれないんだ」
託生の言葉に私は何気なく返していた。楽しい1年間になると、思い込んでいた。
小学校を出てしばらく歩くと、小さな蕎麦畑がある。小学校で使用している畑だ。その日は校外学習で、蕎麦の花の観察をテーマに、班ごとに発表することになっていた。
六月の蕎麦畑は、花盛りだ。白く小さな蕎麦の花がふんわりと咲いている。けれど臭い。かわいい花なのに、臭い。
託生は校外学習のときは、念のためにマスクを付けている。
「たくみいいなー。俺もマスクしてー」
ほかの班の男子がにやにやしながら話しかけてきた。なんだかはしゃいでいる。
「それ外してみろよ。超うんこくせーから」
「つけとけって、親から言われてるから」託生はさらっとかわしている。
「蕎麦ってうんこでできてるんじゃね?」
「あ、じゃあお前ん家、うんこ売ってるの?」
自分に話をふられていると、当初理解できていなかった。でも、うんこ、うんこ蕎麦屋と囃し立てられて、私の家のことを言われているって分かって耳まで熱くなった。
「ちょっと、やめなよ!」綾が怒るが、相手は却ってわぁっと笑う。
「蕎麦がうんこなら、じゃあお前らはうんこ食ってるわけ?俺、蕎麦食ったことないから分かんないけど」
ふざけていた男子は、託生の言葉に唾を飛ばしながら言い返してきた
「蕎麦食えねえから、お前チビなんだよ!」
「ああ!?」
「たっく、落ち着けって!」
相手の襟元をつかんで殴りかかろうとする託生を、かっちゃんが押さえつける。綾は先生を呼びに走る。私は動けない。
託生のお母さんが学校に来たのは、次の日のことだった。
アレルギーの子がいるのに、蕎麦の実習なんて不平等。あの子を死なせるつもりですか。急きょ自習になった五時間目。先生は別室で、託生のお母さんの相手をしている。でも、どんどんその声が大きくなって聞こえてくるから、みんな託生のほうを見ている。
託生のおかーさんやべー。ささやき声が聞こえるなか、当の託生はぶすっとしている。
「課題、今日、なつきん家でやろうよ。たっく、なつきん家わかる?」
あの子を死なせるつもりですか。一言が離れない。ざわざわして気持ち悪い。
チャイムが鳴った。副担任の先生が、代わりに帰りの時間を担当した。
「店の裏口から、そのまま入ってきていいよ」
託生に説明しながら下駄箱に行くと、託生のお母さんがいた。金切り声をあげていた人とは思えないほど、打って変わって落ち着いているように見えた。
「お蕎麦屋さんの子?」
ひとしきり訴えて、疲れ切った声。会話が聞こえていたのか。私ははい、と答える。
「一回家帰ってから、行こうかと思って」
託生の言葉に、託生のお母さんは何か言いたげに口を開いて、でも目を伏せる。お母さん、お買いものがあるから、先に帰っているわね。そう残して、学校をあとにした。
否定の言葉は一切ない。それなのに。
「なつき、今日は何時に……」
「託生は来ないで」
託生の口元がこわばった。
「やっぱり、来ないで」泣くつもりはなかった。それなのに二度目の拒否をつむいだ途端、涙がこぼれていた。
私は靴を履いて、走る。目を開いて、これ以上泣くもんかと食いしばって、学校を出た。
「たっくは?」かっちゃんが聞く。
「今日は来れないみたい」
ふうん、とかっちゃんは課題に戻った。綾は黙々と蕎麦の花を清書している。すると裏口のドアが開く音がした。あれ?かっちゃんが声をあげる。そこには託生が、いた。
「来ちゃだめって言ったじゃん!」
私の怒鳴り声を、託生は淡々と受け止める。
「みんなと、一緒のことがしたいだけだよ」
託生は言った。それだけ?ふざけんな。マスクもしないで!私はひゅうっと息を漏らす。
お蕎麦屋さん家になんて、生まれなければよかった。蕎麦なんて、なければよかった。
なんで、神様はこの世の中に、みんなが食べられないものを作ったんだろう。不平等。そう、不平等だ。託生も、私たちと同じものを食べたいだけなのに。託生は何も悪くない。
「どうしたの?」
お店のほうから誰かの声が聞こえる。バタバタと走ってくる音がする。死んじゃう。託生が死んじゃう。わあわあと泣く私の周りに大人たちが駆け寄ってくる。お腹の周りが苦しくなって、酸っぱいものが込み上げてくる。早く大人になりたい。背中の、大きな手のひらの温もりを感じながら思った。早く大人になりたい。託生の笑顔を守りたい。
山葵を擦る。つんと甘く痺れる香りが立つ。今思えばお店に来たくらいで、症状が起きるわけがない。しかしそのあと、託生は新しい治療法を試すことになった。遠くの病院で。
「治したいって思ったんだ」
だからお父さんに頼んで、転校させてもらうことにした。夏休み明けの中途半端な時期の、さようならの日。最後の下校前に、託生は私たちに教えてくれた。
「なつき、俺よりも苦しそうで。泣いてゲロ吐いてさ。それを見ていたら治さなきゃ、ってか治したいって思った」
綾が泣いている。かっちゃんは、チャリ飛ばして会いに行くからって息巻いている。
「俺、頑張るから」
連絡が来なくなる時期もあった。でも気付けば、メールやSNSでつながっていた。縁が切れることはなかった。……こうして。
「なつきー、お待たせ!」
綾とかっちゃんがのれんをくぐる。そして、あのころよりも、ぐんと落ち着いた声。
「俺、ちゃんと、なつきん家入るの初めて」
私だって、ちゃんと、”お客様”の前に蕎麦を出すのは初めてだ。今日が、初めてだ。
蕎麦が茹で上がる。あれから十五年。ねえ、託生。
私、美味しい蕎麦を作れるように頑張ったんだよ。託生が治療を頑張っていたから。
おまちどうさまと、まずは一人前を出すと、かっちゃんも綾も、託生を見た。
「やっぱ、ここの蕎麦を一度も食べたことがない人から、だよねー」
託生は笑った。ぱきんと箸を割る。
「じゃあ、お先に」
託生が、蕎麦を食べている。ちゃんと、食べている。
「美味っ」
その一言が聞きたくて。だから。もっと食べて。もっと。ほおばって。
店内に、十五年をすする音がした。
槙乃ゆう(埼玉県越谷市/32歳/女性/会社員)