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「池の鯉と恵み雨」:笠原 奈津美

 加奈子はイライラしていた。引っ越してきたばかりで仕事は山ほどあるのに、作業中のものを放り出して「お参り」なんて意味も無いものに時間を割くのは許しがたいことのように思えた。外は湿気でじめじめとしていて、今にも雨が降りそうな大気に包まれている。道の端は小さな水路の堀で囲まれており、傍を歩くと流れる水のざわついた音がした。「湧き水なんだって、すごいよね」と楽しそうに話す夫に、加奈子は眉をひそめた。この人はいつもそう。子どもみたいで計画性が無くて、いつも予定外のことをするんだわ。湿度の高い空気が水路からの水を含んで顔に張り付くようで、加奈子の苛立つ気持ちは募るばかりだ。
 石畳の参道には観光客と思われる中年の女性たちや、初老の夫婦が歩いており、中々にぎわっていた。落ち着いた雰囲気に、加奈子は初めて良い印象を持ったが、肝心の本堂に着くとその気持ちはすぐに塗り替えられた。寺院独特の厳かな雰囲気と裏腹に、大学生くらいの若い女たちが甲高い笑い声を上げ、賽銭箱の前ではしゃいでいたからだ。「ヤバイ!」「マジで!」と大きな声を出し、仲間内だけ聞こえるトーンでヒソヒソと話し、そしてクスクス笑う。加奈子はうんざりした目で彼女たちを睨んでいたが、夫はニコニコしながら見ていた。
「何がおかしいのよ?」
「いや、ほほえましいなぁって思ってさ」
 は?いったい何が?と質問を重ねる前に加奈子たちの順番になり、問いはいったんうやむやになった。夫が自分の財布から5円玉を2枚出しかけたが、受け取る前に加奈子は10円玉を素早く取り出し賽銭箱へ投げ入れた。夫がためらいがちに財布をしまう様子が感じ取れ、また加奈子は嫌な気持ちになった。
何よ、私だってお金くらい持って来てるわよ。さて、お参りって何を考えればいいのかしら「キャハハハ」やっぱり引っ越しの挨拶ってとこかな「やーだアハハハ!」ええと越してきたのでこれから宜しくお願い「本当に叶ったらどうしよう~!」ああ煩い!煩い!
 加奈子は振り返り、再び若い女共を睨みつけようとしたが、彼女たちはもう背を向け、別のお堂の方へ行ってしまっていた。自分の時間を奪われた被害者意識と憎悪が加奈子の中に滾り、行き場を求めて隣の夫に向き直ったが、彼は女子大生の騒ぎ声も、妻の苛立ちも一切気に留めず、ただひたすらお堂に手を合わせ祈っていた。拍子抜けした加奈子は夫をその場に残し、石畳の道へ大股で引き返した。
「待って加奈子、そっちじゃないよ!」
 10歩ほど進んだところで、ようやく夫が戻ってきた。加奈子は待ってましたと言わんばかりに、心配そうな顔の夫に怒りを突き刺す。
「どっちが正解だって言うのよ!私はおなかがすいたの!疲れたの!」
「ごめんね。ほらお店はあっちだから、引っ越してきたし、そば食べよう。ここの深大寺そばって結構有名なんだよ」
 道を間違えたことを指摘されたことが癪で、「こっちにも店あるじゃない馬鹿ね!」と叫び、加奈子は夫と反対方向へずんずんと歩いた。夫は小走りでついてきた。犬じゃあるまいし、そんなにあっさり引き下がらないでよ。私が悪者みたいじゃない。
 がむしゃらに進んだ先で、ピンクやハートの着いた可愛らしいランドセルの一団と出くわし、加奈子は立ち止まった。何故こんな観光スポットに小学生がいるのか、とその一団を凝視すると、夫が後ろから答えを出した。
「小学校が近いんだってね。こんなところ通学路になるなんて羨ましいよなー」
 俺もあんな派手なランドセル欲しかった、などと言い、ぼんやりと夫が笑う。小学生たちはお堂の傍にあるピンクに塗られたハート形の絵馬を見て、キャッキャと騒いでいる。「あたし○○くんのこと好きなんだー!△△ちゃんは□□くんね!○○くんのこと、とっちゃダメだよ!」と話している小学生女子は、もう女の顔をしていて、加奈子はあっけにとられた。こんなバカな女が量産されるから、女は馬鹿だと思われるのだ、と訳のわからぬ悔しさがこみ上げた。
「加奈子?」
「うるさい!」
 違う。女だからダメなのではなく、女だから今の会話をするのだ。○○くんをとっちゃダメ、と言われていたのは私。勉強はできたけど、いつも人気者の仲間には入れなかった。ピンクやリボンも妹の方が似合うから、身に着けてこなかった。絵馬なんか書いたことない。ましてや恋愛成就なんて祈ったこともない。友達とあんな風にくすくす笑っただろうか。真面目だけが取り柄だったから、浮ついたことが悪いことのように思っていなかっただろうか。私の青春には恋も自信もなかったのか。
 苛立ちのあまり情緒不安定になっている自分が許せず、加奈子は俯いた。湿気はますます体にまとわりつき、イライラを増長させる。後ろにいる夫の存在がどうしても意識に残り、このまま走って一人、どこか遠くへ逃げることができたらどんなに幸せだろうと思った。近づく夫の足音より先に、雨粒がぽつんと加奈子の頭に触れた。
「雨降ってきちゃったか!加奈子、あのお店に入ろう」
 夫の指さした方向へ進みたくなくて、加奈子は元来た道へ踵を返した。ふらふらを前を歩く加奈子に、夫は何も言わず着ていた半袖シャツのアウターを脱いで、頭上へ傘のように広げる。加奈子は下を向いて黙り、されるがままにしていた。自分が情けなかった。
 雨脚が少し強くなってきた。夫は加奈子の手をそっと掴み、池の傍にある瓦屋根の店へ招き入れた。土産物屋のように商品が置いてあったが、その先には飲食店らしい座席が置かれている。「お、そば屋だった。ラッキー」と言う夫がこだわりの無い人に思え、加奈子の不安定な気持ちに拍車をかけた。
私、本当にこの人でよかったのかしら。会社の同期で、告白されるまま付き合って、その流れで結婚。本当にこの人で正解なの?一緒に食事したり出かけたり、楽しい時も確かにあった。でも私はちゃんと、恋愛をしたかしら。いい大学を出て入ったいい会社も、「妻」だからもう、重要なポストにつくことだってきっと難しい。これでよかったの?私の人生、これでいいの?私は、どうすればよかったの?
 夫が「すいませーん」と声をかけると、ほどなくして割烹着姿の店員が二人を店の奥へ案内する。通された席は、お座敷というよりは趣味の良い定食屋のような雰囲気をしており、土壁や濃い茶色の木の机は、田舎の家を思い出させた。靴を脱いで平たい座布団に座ると、加奈子の気持ちは少し落ち着いた。席は池が一望できる大きな窓ガラスに面しており、薄曇りの空からの光が入るのか明るく開けている。水とおしぼりが来る間、加奈子は窓の外に広がる風景を眺めた。
新緑を茂らせた細い木の枝が包み込むように池の周りを囲み、その様が非常に美しく心を和ませる。大きな池の中には先ほどの水路にいた鯉が群れを作って泳いでいる。よく見ると鯉は、ただ何となく泳ぐのではなく、先を泳ぐ鴨を追いかけて泳いでいることに気が付いた。鴨は首まで深い緑色で、上品な茶と白の羽を纏っている。一途に美しい鴨を追いかける鯉の群れという構図を、窓を隔てているからか、今は落ち着いて見ることができた。
先ほど嫌な気持ちになった雨は、水面に波紋を刻んでいく。池はその全てを受け入れ、浄化させていくように感じられた。池の向こうに、色とりどりの紫陽花に囲まれた小さな祠がある。遠い目的地のようにその祠を見つめると、加奈子はなぜか叫びだしたいような衝動に駆られた。私はあの池の中で泳ぐ鯉だ。それなのに池の外の遠い祠ばかり見つめて、泳ぎ方がおかしくなってしまっていた。鴨を追いかけない鯉もいるけれど、泳いでいない鯉は一匹もいない。私は池の中にいることを忘れていたのだ。雨も鴨も鯉も包み込んでいる優しい池が、私のいる場所で、私の世界だというのに。
「あなた」
「うん、どうしたの?注文どうしようねぇ。やっぱり天ざるかな。野草天セットなんてのもあるね」
 この人の、優しいところが好きだ。何でもこうあるべきと考えてしまう私より、「このくらいでもいいじゃない」と、もっと広い価値観で語り掛けてくれる、この人が好きだ。穏やかで朗らかな性格にいつも癒されて、愛嬌のある笑顔を私に向けてくれる人。暖かい家庭で育ったからなのかしら。そういえばお義母さんもちょっと天然で可愛らしい方だったわ。私には無いものをたくさん持ったこの人と、ずっと一緒に生きていける。そんな当たり前の大切なことを、私は忘れてしまっていた。
 情けなさに、思わず涙が出た。プライドも苛立ちもすべて洗い流されてしまった加奈子が呆然と泣く様子を見て、夫は「ちょっと何泣いてるの~」と苦笑いし、自分のおしぼりを手渡すと、彼女は素直に受け取った。
「ごめんなさい」
「なんで謝るの。別に怒ってないよ。でもそしたら俺、上天ざる食べてもいい?」
 いたずらっ子のように笑う夫につられ、加奈子も小さく微笑んだ。そして涙をぬぐい、赤い鼻をすすりながら改めてメニューを見ると、今度は困ったような顔になる。
「今度はどうしたの?」
「あなた、おそばって大丈夫かしらね」
「大丈夫だよ。加奈子がアレルギーじゃない限りは影響しないらしいから。むしろ栄養豊富で、体に良いみたいだよ」
 結局2人で頼んだ上天ざるは、舟形のざるに盛り付けられていた。宝を運んできてくれるみたいで縁起がいいね、と夫は言う。食べながら、加奈子はお参りをやり直したいと申し出た。当たり前にある幸せに毎日恋をして生きていきたい、と祈りたい。池の中にぽつぽつと浮かぶ雨の波紋が、何だか笑っているように思えた。「雨降ってるから、今度は3人でのんびり来ようか」と言って、夫がまた微笑んだ。

笠原 奈津美(東京都江戸川区/30歳/女性/会社員)