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「夕焼けの先へ」著者:真坂きみか

40歳を過ぎたら人生も黄昏時だなんて言ったのは誰だったろう。仕事が休みの日には、児童養護施設でボランティア活動を続けている公佳は今年39歳だ。
この施設には、約40名の子ども達が暮らしている。4歳のあきらもその一人だ。公佳と気が合い、一緒に散歩に行くこともある。いつものように施設で過ごしていた10月のある日、あきらの担当のワーカーから今日はあきらの父親が面会に来ると話があった。あきらが施設に来てから初めてのことだ。
公佳は良かったと思うと同時に、少し不安にもなった。人は子どもと過ごすことで親になっていくものだと感じているからだ。まして、父親であれば、なおさらだろう。ここにいる子たちの中には、保護者よりも、公佳との方が長い時間を過ごしている子どもも多い。あきらもそんな一人だ。
あきらがここに来たのは2歳のときだった。父親が連れてきたと聞いている。あきらの記憶は曖昧だろう。昼食前に、あきらが園長先生に呼ばれた。多摩動物園に行くと言っていた。秋の動物園というのは、なかなかいい選択だ。久しぶりに過ごす、親子の時間のぎこちなさを動物たちが解消してくれるだろう。
公佳は最近、子どもを持つというについて考えている。実際、妊娠、出産のリミットも近づいていると思う。友人たちの中には、もう中学生の子どもを持つ者もいる。3人の子持ちもいる。キャリアを積み重ねている大学時代の友人は、卵子凍結に踏み切ったと言う。公佳自身は、血のつながりということにあまりこだわりはない。里親や、特別養子縁組というのも選択肢に一つとして十分に検討の余地があると思っている。
結婚する前から、それも恋人のいない今の段階では、気の早い話かもしれないが、不妊治療の身体的金銭的負担は、知識として十分にある。この年齢で、結婚となった場合には、子どもについての価値観のずれは、お互いを深く傷つけてしまうことになりかねない。
施設からの帰り道、公佳はあきらのことを考えていた。あきらと過ごした時間、笑顔、泣き顔、小さな手、そして父親のこと。あきらの人生、そしてあきらとの別れについて。
気持ちを切り替えようと、自宅近くの、深大寺を久しぶりに参拝してみることにした。境内を行きかう人々と会釈を交わしながら、本堂を参拝し、深沙堂へも回ってみた。かつては、もっと暗かった印象だが、ずいぶんと明るくなっていた。パンフレットには縁結びのパワースポットと紹介されていた。
歩いているうちに、気持ちも穏やかになってきた。あきらの幸せを祈ることが自分にできるせめてものことだろう。場の力というものを信じずにはいられない。 もう少し歩きたかったので、植物園まで足を伸ばした。多種多様な植物たちが、それぞれの美しさ、逞しさで、公佳を迎えた。芽吹く時期も花咲く時期も異なりながら、それぞれが美しい植物の存在は、公佳を励ました。ただひたすら生きているものの生命力なのだろう。おそらく、あきらも動物園で楽しい時間を過ごしているに違いない。
次の休日の午後、公佳は、再び深大寺を訪れた。
植物園をゆっくりと回ると、この間は気が付かなかったが、小さな植物の一株一株まで丁寧に配置されていることがわかった。どの植物にも適した生育環境があるのだろう。
太陽が傾いてきたころ、深大寺側の門を出ると、
「きみちゃん!」
という声がした。紅葉に彩られた道の先であきらが手を振っていた。反対側の手は、大きな手に繋がれている。大きな手は、あきらの父親だ。生成りのボタンダウンシャツの袖をまくり、ノータックのチノパン、帆布製のメッセンジャーバックを下げている。長めの髪は白髪も交じっているが、見苦しくなく整えられている。あきらの人懐っこい目元は父親譲りらしい。そっくりだ。公佳は会釈をした。
「あきらが、お世話になっています。」
近づいてきたその人は言った。
「あきらの父の西山博です。」
そう言った後、
「とはいっても、父といえるようなことも果たせていないのですが。」
と公佳にだけ聞こえるように言った。それは卑下するような言い方ではなく、父親としてあきらを育てていく用意が整いつつあるというような誠意が感じられた。
「真鍋公佳です。ボランティアで、子どもたちと遊ばせてもらっています。」
「あきらから何度も聞いています。ご挨拶をしたいと思っていました。」
優しい目元と同様の、穏やかな口調で話した。公佳は不安が消えていくのを感じていた。
西山は、彼女が気付く前から、公佳を見ていた。カシュクールのシャツにブルーグレーのジーンズ、動きやすそうな紺のスニーカーが彼女の快活さを物語っていた。近くで見ると、ショートヘアにピンクサファイアのピアスがよく似合っている。
「こうして自然の中にいることが好きなんです。何か目に見えない、大きな力に励まされるんですね、きっと。」
そう話す公佳の黒目は、芯の強さを感じさせた。
「本当に気持ちがいいところだ。まあ、僕の場合は、前回が動物園だったので、今回は植物園にしたというわけなのですが。」
そう言って、あきらを見つめ、思い出したように、
「ああ、そうだ。もしお時間があるようでしたら、お茶でもいかがですか。来る途中で、鬼太郎茶屋というお店を見かけたのですが。」
それを聞いてあきらが飛び跳ねた。
公佳も西山も笑い出し、そのまま一緒に歩き出した。
公佳は、西山があきらに接するときの自然な態度、穏やかな物腰に惹かれはじめていた。自然とあきらを真ん中にして手をつないだ。間接的に西山とも手をつないでいることになるなと、思い、彼を見ると、彼もまた公佳を見ていた。
西山は自分が面倒を見ることができなかった、この子の幼い時期に彼女が寄り添ってくれたことに感謝していた。愛情を注いでくれたことが、あきらを見ていてよくわかる。
あきらは、3人で歩くことが楽しくてたまらないというように、飛び跳ねながら歩いている。どちらからともなく、足が深沙堂の方へ向いていた。
そういえば、以前、お散歩であきらと一緒にここに来たことがあった。と、公佳は思った。あきらとの縁を取り持ってくれたのは、深沙大王様だったのか。
公佳は、並んで参拝している西山とあきらの後姿を見ていた。参拝を終えた彼が振り返って公佳を見た。二人の視線が交錯した。
お守りを売っているというので行ってみると、縁結びのお守りしか置いてなかった。西山も公佳も苦笑した。
「あきら、ここは、縁結びのお守り売り場だね。お勉強とか、風邪を引かないとか、他にもお守りの種類はあるんだけど、ここには売ってないみたいだ。」
「縁結びって何?」
「そうだな、大好きな人とずっと一緒にいられますようにっていうことかな。」
「じゃあ、それがいい。今、そうやってお願いしたから。お父さんも、きみちゃんも一緒に縁結びのお守りにしようよ。」
と、真剣だ。幼いながら、大好きな人とずっと一緒にいるということの難しさをこの子はもう知っているのだ。公佳は、
「そうだね、ずっと一緒にいられますようにって私もお願いしたよ。」
そう言って、お守りを一つ買った。西山も、
「そうだな、あきら。」
とあきらに微笑み、さりげなく目頭を押さえ、あきらの分と自分の分のお守りを買った。
公佳は、二人の様子を見つめていた。西山がその視線に気づいて、照れたように微笑んだ。そして小さく頷いたように見えた。
公佳は、あきらの方へ手を伸ばした。満面の笑みのあきらと手をつなぎ、西山を見上げると、彼も微笑んであきらと手をつないだ。
「夕焼けだね。」
そう、きっと明日はいい天気だ。3人は、前を向いて歩きだした。

真坂きみか(東京都八王子市/女性)