「隠し色」著者:池川瑶
ほおずきの橙色と朱色。深大寺の木々の葉の緑。晴天の青。木漏れ日の黄金色。色彩がちりばめられた情景の中にいながら、芽衣子はこのあとのことを考えると悲しいほど憂鬱になりひどい不安と緊張で吐き気さえしていた。二〇〇九年に始まった深大寺鬼燈まつりに芽衣子は慶介と何度か訪れ、境内や参道の店からあふれるように陳列されている鮮やかなほおずきや、お寺や商店や地元の人々の手作り感が漂う温かみのある祭りの雰囲気を気に入っていた。なのに、今年は歩いているうちに体調が悪くなってきてしまった。それは猛暑のせいではなく、このあと母と会うことが原因に違いないと芽衣子はため息をついた。
家事も育児も面倒がり、母はまるで家庭的ではなかった。「あんた」と呼ばれることも、すぐに平手打ちされることも、煙草の匂いや黄ばんだ歯も母の何もかもが芽衣子は嫌だった。。母が競馬やパチンコにのめりこんで生活費を使い込むようになり、芽衣子が十歳のときに両親は離婚した。両親の喧嘩を見なくて済むのだと思うと寂しさより安堵を覚えた。
そんな母だったが、たったひとつ良い思い出がある。当時、両親と芽衣子の三人で住んでいた団地の家には狭いベランダがあり、そこに母がほおずきの鉢を置いていた。ほおずきを眺めているときだけ母は穏やかだった。普段は冷淡な母が「芽衣子のほっぺは、ほおずきみたいな色だねぇ」と芽衣子を愛でるような眼差しを向けてきたのだった。
先月、芽衣子の二十八歳の誕生日に、恋人であり会社の先輩である慶介からプロポーズされた。慶介を愛している芽衣子はその場で「私も慶介さんと結婚したい」と涙ぐんで返答し、その数日後に慶介は芽衣子の父へ挨拶に訪れた。「今年の十月に入籍し挙式を挙げさせて頂きたいです」と慶介が伝えると、父は「芽衣子をよろしく」と目頭を押さえた。
芽衣子は挙式に母を呼ぶ気はなかったが、慶介は挨拶をしたいと繰り返した。慶介に母を会わせることはたまらなく怖かった。芽衣子は父と相談して母と慶介を会わせることを決めた。両親が離婚後、母とは二、三度会っただけだった。何年かぶりに連絡すると、母が三鷹市に住んでいることを知った。連絡した理由を告げると母は日時を指定し、場所は近所ならどこでもいいと言った。それを慶介に伝えると、「その日はちょうど深大寺鬼燈まつりの日だから、祭りを見物してからお母さんに会いに行こう」と提案してきた。深大寺が母のアパートと調布市に住む慶介のマンションの中間地点でもあり、深大寺通りの喫茶店で会うことにした。会う日が近づくにつれ芽衣子は気が沈んだ。慶介に母との不仲は伝えてあるが、母がどういう人間かは伝えられないままだった。
「ちょっと早いけど待ち合わせの喫茶店に行くか。遅れてお母さんを待たせたら大変だ」
ひととおり祭りの催し物を見終えると慶介は腕時計を見た。芽衣子は平静さを顔に貼り付け慶介に手をとられるまま深大寺通りを武蔵境通りへ向かって歩いたが、喫茶店に着いたときには額からあぶら汗が吹き出していた。否応なしに母との過去が戻って目眩がした。
「ごめんなさい。トイレに行ってくるから先に座ってて」
慶介にそう告げると返事も聞かずに喫茶店の化粧室に駆け込んだ。洗面台の蛇口をひねりハンカチを濡らして何度も額をぬぐった。なんとか激しい動悸が治まったのはトイレにこもってしばらく経ってからだった。ようやく化粧室を出て店内を見回し、慶介の姿を見つけた途端、芽衣子は目を見張った。慶介が言い争いをしている。温和な慶介が声を荒げる姿など職場でも家でも見たことがない。店員らしき男性が間に入って事をおさめようとしている。何事が起きたのか芽衣子が慌てて近づこうとしたまさにそのとき、足が止まって凍り付いた。慶介と喧嘩をしている相手は、母だった。悪夢のような光景が信じられずにいると、離れたところで呆然と立ち尽くす芽衣子に慶介が気づいた。
「あっ、芽衣子。このオバサン、俺が隣に座って、ちょっと咳き込んじゃっただけで、煙草を吸って何が悪いって、いきなり俺に水をかけてきたんだよ。頭おかしいよ」
慶介は芽衣子の母を指さした。母は芽衣子と目が合うとそれまでの罵声を急に止めた。芽衣子は咄嗟の反応で母から目を逸らした。その瞬間、母は何も言わずにテーブルの伝票を乱暴につかむとその場から離れ会計を済ませて足早に店を出て行った。「あんな野蛮な人間、初めてだよ。芽衣子のお母さんが来る前で良かった」と慶介は怒りを露わにし、大きく深呼吸してから座った。芽衣子は唇を固く閉じて慶介の向かい側に力なく座った。
「どうしたの?さっきから辛そうだけど大丈夫?」
尋ねてきた慶介の声が遠くに聞こえるようだった。「うん、ごめんね」としか言えないでいると、芽衣子の鞄の中で携帯電話が振動し始めた。母からだった。
「今日の顔合わせは中止。水をかけた相手があんたの婚約者とはね。こっちもビックリよ。結婚式には行かないから安心して。じゃ、幸せにね」
芽衣子が一言も発する間もないうちに電話は切れ、力を振り絞って慶介に伝えた。
「ごめんね、今の電話、お母さんから。急に調子が悪くなって今日は来られなくなったって。本当にごめんなさいって。慶介さん、気を使ってくれたのに、ごめんね」
「いや、謝らなくていいよ。それより、芽衣子の体調が心配だから今日はもう帰ろう」
慶介は立ち上がり会計を済ませに行った。そのとき、母が座っていた椅子にビニール袋が置き忘れてあることに芽衣子はふと気づいた。取り上げて中をのぞいてみると、ほおずきの形をしたお守りが二つ入っていた。芽衣子の脳裏に一瞬ある思いがよぎったが、それを打ち消して店員にビニール袋を預けた。
帰り道、深大寺通りを三鷹通りへ向かって歩きながら芽衣子は激しく葛藤した。母のことを隠すのは彼に対して失礼ではないか。自分の母がどういう人間かを知ってもらったうえで結婚を考えてもらったほうがいいはずだ。それに、自分を産んでくれた母を恥ずべき存在だと隠すのも子供じみている。打ち明けるなら今だ、今しかない。隠せば隠すほど言い出せなくなる。芽衣子は覚悟を決め、歩を止めた。
「慶介さん、実は」突然どうしたのかと慶介も立ち止まり、目を見開いて芽衣子を見守る。
「さっきの人が私のお母さんなの。喫茶店で慶介さんに水をかけた人が、お母さんなの」
慶介は首を傾げて今ひとつ芽衣子が言っていることが理解できない様子でいる。
「ごめんね、さっきは恥ずかしくて言い出せなくて・・・。他人のふりしちゃったけど、あれがお母さんなの。本当にごめんなさい。心からお詫びします」
夕暮れ時、深大寺通りは祭りの見物客に加え、蕎麦屋や甘味処を出入りする客でまだまだ賑わっている。だが、芽衣子の目や耳にはもはや何も入ってこない。次第に色彩が失われていく。正直に打ち明けて謝罪し、あとは慶介の判断を一心に待った。万が一、これで別れを言い渡されても自分が至らなかったのだと甘んじて現実を受け入れるしかない。別れが死ぬほど辛くても、立ち直れなくとも、もう自分にはどうにもできない。
「ありがとう」突然、予期しない慶介の言葉が聞こえ芽衣子は顔をあげた。
「打ち明けてくれて、ありがとな。かなり驚きだけど。そっか、あれが芽衣子のお母さんか。結構、強烈だな」と、慶介が頭を掻きながら必死に笑おうとしている。
「すぐ教えてくれたら良かったのに。俺もついカッとなっていろいろ失礼なこと言っちゃったな。ごめんな。俺が怒ったから、芽衣子は言い出せなかったんだろ」
芽衣子にとっては人生を賭けたまさに緊迫の数分間であったが、徐々に視界の色彩が戻り始めていくのを感じた。「許してくれるの?」と囁いた声は涙でかすれていた。
「許すも何も親子だって別個の人間だよ。うまく言えないけど、今まで知らなかった芽衣子の一面を知った気がする。今まで見たことのない芽衣子の色を知ったって感じかな」
「私の色?」
「うん。なんかさ、俺にとっての芽衣子は育ちも中身もちゃんとしてますって感じの色一色だったんだよ、ついさっきまでは。そういう芽衣子もしっかり者で可愛いけど、違う色も持ってるんだって知って、余計に好きになったよ」
崩壊しかけた幸福の断片が芽衣子の心の中で再び繋ぎ合わされていく思いがする。
「俺たち夫婦になって家族になるんだよ。芽衣子に悩みがあるなら、俺も一緒に考えるよ」
芽衣子はプロポーズをされたときよりもずっと強く、慶介以上に結婚したい人はいないと胸を高鳴らせた。ますます慶介への想いが深まった。
「あっ、芽衣子、今お母さんに電話してみて。もしまだこの近くにいるなら会いたいな」
芽衣子はひと呼吸ついてから母の携帯電話にかけ、思い切って気持ちを素直に伝えた。母は今、深大寺のほおずき市にいるとのことだった。
「ほおずきを見てあんたの子供のときのほっぺを思い出してた。ちょっとさっきの喫茶店に戻ってくるよ。あんたたちに買ったお守りを忘れちゃってさ。すぐ戻るから待ってて」
電話を終えて慶介に伝えると、「よし。三人でもう一度最初からやり直そう」と笑った。
辛かった色が慶介によって塗り替えられるのを芽衣子はこの上なく幸せに感じた。
池川瑶(東京都)