「恋しい」著者:夏狩玲
「これがヒナゲシですね。夏目漱石はこの花の別名、虞美人草という題名の小説を書いたのです」
淡いうぐいす色シャツにベージュのジャケットを着た高年齢の男性が、言った。初めて来た神代植物公園のガイドツアーに参加したあと行く当てもなかった私が、そのまま参加者だった彼と牡丹園脇の散策路を歩いていた時のことだった。
「夏目漱石にお詳しいんですか」
彼は長年夏目漱石の研究をしていた元大学教授だと言った。
「道端に生えている虞美人草と、きちんと手入れされたものとは違いがあるのだろうか」
思考しながら柔らかく皺の寄った頬を片手で撫で上げた。私はその長く細い指の美しさに惹きつけられた。揃えられた爪の一つ一つに白い三日月が浮かんでいるのが見える。
「夏目漱石のどういうところがお好きなんですか」
四月末の眩しい太陽を背にした私がそう言うと、彼は目を細めてこちらを見た。
「お嬢さんはお好きですか」
「お嬢さんだなんて、私、もういい歳なんです」
顔が赤らんだのを感じたけれど、悪い気はしなかった。
「もうすぐ八十に手が届く年齢のものにすれば、三十も四十も下の女性は皆さんお嬢さんです。お若い方はいい。未来がずうっと広がっているのだから」
「私、五十四歳なんです」
言ってからそこまで正直に言わなくても良かったと悔やんだ。
「うん、そうですか。素晴らしいじゃないですか。きっとお子様が二人ばかりいらっしゃって、そろそろ独立されて、ほっと一息つかれる頃だ」
「ええ」
軽くうなずいたけれど、実際はそんな人生でなかった。農芸高校を卒業後ホームセンターに就職した。それからずっと園芸部門で働いてきた。もともと体の弱かった父が他界して、長く一緒に暮らしてきた母も三年前に亡くなり、一人になった。あと数年で仕事も定年になる。その先の暮らしがまったく想像できなかった。
たとえば十年先、私は一体どうしているのだろう。
「僕は独り者で、夏目漱石研究一筋です。気がつけば家庭から遠い世界で生きてきました。最近、本を読み終わって、誰かに感想を伝えたくても誰もいないことに気がついて、寂しい、と感じることが増えました」
彼は憧れの人を見るような表情で、ヒナゲシの薄い花びらを見つめていた。
「亡くなった父の本棚に夏目漱石全集がありました」
私がそう言うと、彼はほうっと緩やかにたるんだ頬を動かして、
「これですね」と魔法のようにポケットから橙色をした布表紙の本を取り出した。
「あら」
「僕はいつも必ず一冊持ち歩いているのです」
差し出された本をめくってみた。ページは枯れた芝生のように変色し、古い紙の匂いがした。所々には丁寧な字で書き込みがされている。
「なんだか難しそう。古い漢字がいっぱいで、私にはきっと読めませんね」
本を返した時、手が少しだけ触れた。本と同じだけ年齢を重ねて乾いた手だった。
「興味がおありでしたら、ひとつ、朗読して差し上げましょうか。今日お会いした記念に」
彼は恥ずかしそうに視線を外して言った。
「よろしいんですか。私は無教養なものですから、本なんて高校を卒業して以来ほとんど読んだこともなかったのですけれど」
「漱石は難しくないんですよ。もし、ご迷惑でなければぜひ聞いてください」
私たちは座れるところを求めて満開の時期を迎えている牡丹園の中に入っていった。そして中央に配置されているベンチのひとつに並んで腰をかけた。
「今日持ってきたのは漱石の初期の作品で、海外からも評価の高い『夢十夜』というものです。これは、漱石の見た夢を十夜分書いたと言われています。本当に見たのかどうかはわかりません。夢は起きると忘れてしまうものですし」
そう説明するとページをめくり、黙読している。
薔薇の本格的な開花まではまだ早く、園内は閑散としていたが、牡丹園では、子どもの頭ほどもある鮮やかな花々が、演奏を待つ観客のように私たちの前に立ち並んでいた。
彼はゆっくりと内容を吟味したあと朗読を始めた。
声は低く抑揚は穏やかで、ヴァイオリンの弦がこすれる音のように私の体の内部を震わせた。
軽く目を閉じて聞いていると、まぶたの裏に「もう死にます」と言う髪の長い女が寝ているのが見えた。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差した女がやがて死ぬと、男が真珠貝で穴を掘り、女を入れ、星の破片の落ちたのを土の上に乗せる。
その時、朗読するのと同じ声が「これは隕石でしょう? そんなに簡単に隕石は落ちてこないだろうけれど」と言うのを聞いた。彼の声に間違いはないのだけれど、私たちの世界を天上から覗き込んでいる誰かの声のように聞こえた。
日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか。
私は目を閉じたまま、黙ってうなずいた。
百年待っていてください、百年、私の墓の傍に坐って待っていてください、きっと逢いに来ますから。
風が藤の花の匂いを運んできた。蜂が蜜を探して飛ぶ羽音が聞こえる。鳩がどこかで胸を膨らませて鳴いている。風が私の肌を優しくさすった。
「百年はもうきていたんだなとこの時初めて気がついた」
その言葉を最後に朗読の声は消えていった。私は意識を取り戻した人のように、目を開けて周りを見回した。横に座った彼の肌の底には、温かい血の色が差していた。
「これは、すごい作品ですね。どう解釈していいのか」彼は、深くため息をついた。そうしてゆっくりと閉じた目に、五本の指を綺麗に揃えて押し当て、しばらく瞑想した。
私はその姿をじっと見た。彼が手を頬にずらすと薄い皮膚が動いて深い皺を作った。父が生きていたらこんな風かしらと思って、その皮膚を触ってみたくなった。きちんと撫でつけられた白い髪は、明るい陽射しに照らされてキラキラと光った。大きい耳はそのままアリの巣が作れそうなくらい深く、柔らかな産毛に覆われた穴を持っていた。
唐突に私は「先生、私が死んでも待っていてくれますか?」と聞いた。
深い思考の海に潜っていた彼は、一瞬きょとんとした目で私の顔を見た。形よく理知的な鼻がひくひく動いた。そしていたずらっぽい顔になって、
「百年待ってください」と私の言葉をつないだ。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていてください。きっと逢いに来ますから」
先ほどの朗読と同じ台詞で返し、満足したように霞がかった明るい色の瞳で私を見た。
「漱石は決して自分の本当の心を見せなかったのです。そうして研究者たちは必至に彼の心を探し続けているのです」
彼と別れたあと、連絡先を交換しなかったことに気がついた。また逢いたいという気持ちが恋なのか、よくわからなくて本棚から橙色の漱石全集を引き出し、一冊ずつ読んでいくことにした。黙読で、頭に響く声は、いつも彼の声だった。
そのあと幾度も植物園を訪れた。牡丹の花はすっかりなくなり、代わりに芍薬の花が咲き始め、薔薇が旬を迎えて園内は大勢の人であふれた。やがて真夏の太陽のしたに、百日紅と萩の花が咲いた。金木犀がいい香りをはなち、秋の薔薇が満開になっても、彼の姿を見つけることはできなかった。
ホームセンターを定年退職すると、神代植物公園のボランティアガイドに立候補した。
ある牡丹の季節、「これはヒナゲシの花ですね。夏目漱石は、この花の別名、虞美人草という題名の小説を書いたのです」と来園者に説明した時、やっと私は「ああ、十年経ったのだ」と気がついた。
声が聞こえた気がして振り向くと、牡丹の花がひとつ、足元に崩れ落ちた音だった。
夏狩 玲(東京都三鷹市/53歳/女性/自営業)