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「最後の願い」著者: 島崎比呂

気づいたら、深沙大王堂の軒下にいた。流れてくる風の匂いと芽吹き始めた木々の様子から新緑の季節だと分かった。暫くその場でやって来る人間達を眺めていたら、奇妙な既視感に囚われた。あたしも目の前の彼女達と同じように、この堂の神様に向かって、何かを願ったことがあるような気がした。そう、とても必死に。
じっと見ていたからか、彼女達があたしに気づき、「おいで」と手を差し出し、甘い声を出した。撫でられたかったけれど、触れてもらいたいのは、もっと別の誰か、彼女達ではないと思い、あたしは動かなかった。胸の辺りがざわざわしていた。もっと別の誰か、って誰だろう。何だか、とても大事なことを忘れている気がする。
すると「にゃー」と灯籠の陰から白猫が現れた。彼女達の気がそっちの人懐こい猫に移る。「可愛い」と、彼女達は白猫を撫で、写真を取り、一通り戯れると満足げに去っていった。一方で、白猫は自分の役目を終えたかのような泰然とした態度で耳の後ろを掻き、伸びをし、そしてあたしの方を見た。
「思い出したか」 白猫があたしに向かって言った。水色の瞳の中の黒目を線にし、睨むようにあたしを見て。「お前もこの前まで人間だったのだぞ。さっきの女達のように若くて無邪気で、ある意味、純粋な」
ざざっと風が吹き、新緑のもみじの隙間から零れ落ちるように陽の光が揺れた。
「いいか憶えておけ。深沙大王様がお前の望みを叶えたのは気紛れだ。神様というものは一様にして、そういう方なのだ。だからお前はやるべき事をやったら、早々に消えなければならない。でなければ、お前を受け入れたその猫も、お前と共にただの猫じゃなくなる」
あたしは改めて自分の体を見た。足袋を履いたように足の先だけが白く、全身は柔らかなキジトラ色の毛。その瞬間、もみじの隙間で揺れていた光が弾け、生きていた頃の、人間だった頃の記憶が走馬灯のようにくるくると回りながら脳裏を流れていった。
ああ、お前か、とあたしは我に返り、キジトラ猫に言った。いつもあたしとあいつの間をうろちょろしていた蕎麦屋の看板猫のタビ。お前が体を貸してくれたんだね、と。
あたしは軒下から出て、深沙大王堂の前に立った。白猫の姿はもうない。
幼い頃からここに来ては何かを願っていた。テストで百点取れますように、明日の運動会で白組が勝ちますように、など些細なことから切実なことまで色々と。それは我が家の習慣だったし、あいつの家でも同じだった。だから難しい病だと分かった時、あたしの家族は毎日ここに来て、あたしのことを祈ってくれた。どうか病を治してください、連れていかないでください、どうか、どうか、と。あいつも同じだった。懸命に、胸が痛くなるほど切実に、あたしのことを祈り、願ってくれた。そんな傍らで、あたしは自分のことではなく、あいつのことを願った。あいつの未来、あいつの幸せを―――
あたしは深沙大王堂に頭を下げ、駆け出した。タビの体は跳ねるよう軽く、風のように早い。木々の間を縫うように走り、茶屋や蕎麦屋の塀を超えていく。
あたしとあいつは深大寺の中にある蕎麦屋の子供だった。二軒並んだ蕎麦屋は商売敵だったけれど仲が良く、あたしとあいつは姉弟のように育ち、互いの家族に愛され、この悠久の趣と水と緑の美しい自然に囲まれ、伸び伸びと育った幸せな子供だった。
そんなあたしとあいつが幼馴染以上の関係になったのは十六歳の時だ。相談した訳でもないのに同じ高校に進学し、腐れ縁だと憎まれ口を叩き合っていた傍らで、あいつを好きだという同級生が現れた。確かに、高校生になったあいつは、あたしの身長を優に超え、長年やってきた剣道の鍛錬もあり、精悍さと爽やかさを併せ持つ見栄えのいい少年になっていた。当然付き合うと思っていた。あいつに告白した子は男子から人気のある可愛い子だったから。そしてあたしは気づいてしまった。あいつが好きだという自分の気持ちに。それは絶望感に近く、あたしは激しく落ち込んだ。心地よかったあいつとの関係ももう終わり、元には戻れない。けれど、あいつはその子の告白を断った。子供の頃からずっと好きな奴がいるから、ごめん、と言って。
深大寺の西にある墓地に行くと、薫風と共に香の香りが流れてきた。真新しい墓石の前に行くと、いつものように線香の代わりにお香が焚いてあった。ペパーミントの香りがするこのお香はアロマ専門店に売っていて、あたしが好んで使っていた物だった。あいつの姿はなかったけれど、あいつはさっきまでここにいた。学校も部活もあるのに、もうすぐ高校最後の大会だというのに、それが終わったら大学受験だってあるのに。悲しみから抜け出せず、毎日ふらりとここに来てしまう、あいつが悲しい―――
あたしは踵を返し、また走った。ツツジの柵を潜り、たんぽぽの綿毛を散らしながら。緑の濃いに匂いに、鼻の奥がつんとし涙が滲みそうになった。あいつとお互いの気持ちを確認し合ったのも、そしてさよならを告げたのも、新緑のこの季節だった。
思った通り、あいつはなんじゃもんじゃの木の下にいた。置き去りにされた子供のような顔で、木の下の階段に座っていた。あの日のように、淡い雪が積もったような白い花をつけ、木は黄金色の夕陽を受けて、ふわふわと揺れていた。夕暮れの誰もいない境内の階段に並んで座り、あいつと初めてのキスをした日と同じように。「これでもうただの幼馴染じゃないな」とあの日、あいつは照れ臭そうに笑ったけれど、そのはにかんだ笑顔が茫漠な暗い海に飲み込まれてしまったように遠い。
烏が鳴き、なんじゃもんじゃの木から飛び立った。風が通り抜け、木が揺れても、あいつはぼんやりと俯いたままだった。心がぽっかりと抜け落ちた人形みたいに。
「恒輝……」
声にならない声で、あいつの名を呟いていた。けれど、口から出たのは「にゃー……」というタビの震えるような鳴き声で、それを聞いた恒輝が驚いたように顔を上げた。
「タビ……」
あたしは恒輝に歩み寄った。足を前に運ぶたびに胸が詰まったように苦しくなり、涙が溢れ出そうになる。もう一年が経とうとしている。そんなに悲しんでばかりいないで。恒輝に向かって言うが、口から出たのはタビの「にゃー、にゃー」という鳴き声で、あたしはもどかしさから恒輝の膝に前脚をかけ、恒輝を見上げた。
「タビ……、お前何処に行ってたんだよ。ずっと姿が見えないから心配してたんだぞ」
恒輝があたしの頭や頬を撫でながら言った。
「お前まで…いなくなるなよ……」
恒輝……
海の底を思わせる暗く悲しい恒輝の瞳に、思わず涙が零れた。
「タビ……?」
あたしは涙を拭い、恒輝の膝の上に乗った。更によじ登るようにして首を伸ばし、くんくんと恒輝の顔に鼻を近づけた。猫の愛情表現でもある鼻キスに、恒輝はいつものように顔を近づけて応え、そんな恒輝の唇に、あたしはキスをした。あの日のように――― 
ざざぁっ……、と風が通り抜け、新緑の木立が揺れた。なんじゃもんじゃの白い花が風に吹かれ、くるくると回りながら舞い散る。ゆっくりと唇を離すと、恒輝が放心したような顔であたしを見つめていた。
「タビ……お前……」
大きく見開かれた瞳に一枚の水の膜が張り、ふるふると震えていた。そして喉の奥から絞り出したような掠れた声で、「美琴……」と、あたしの名を言った。その瞬間、恒輝の瞳を覆っていた水の膜が破れ、涙の粒となって零れ落ちた。恒輝はタビであるあたしを抱きあげ、あたしを見つめ、
「お前…美琴だろ……」 泣きながら言った。
「恒輝……」 
けれど口から出るのはタビの鳴き声、それでも構わずあたしは叫ぶように言った。もう元気になって。いつまでも悲しんでないで。そう、病だと分かった時から、あたしの心、あたしの願いは、変わらない。恒輝の幸せな未来。大好きだから、大切な人だから、幸せになって欲しい―――
「ごめんな……」 やがて恒輝があたしを見て言った。「心配で堪らなくなって、来てくれたんだろう」 そして僅かに微笑み、意志ある声で言った。「ありがとう」
見ると、暗い海の底のようだった恒輝の瞳が涙で洗い流され、未来を照らすように澄んでいた。安堵と共に、あたしの意識がタビから離れた。タビが「にゃー」と鳴き、恒輝がタビを抱きしめた。あたしはその様子を、町を赤く染める夕焼け空にゆらゆらと溶けながら、見つめていた。

島崎比呂(神奈川県横浜市/45歳/女性/会社員)